難波なんば 頼よりゆき経けい(なんば よりつね)は、平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきにかけての貴族きぞく。藤原ふじわら頼よりゆき経けいとも呼よばれる。藤原ふじわら北きた家か難波なんば家か、刑部おさかべ卿きょう・難波なんば頼よりゆき輔の長男ちょうなん。官位かんいは従したがえ四よん位い下か・刑部おさかべ卿きょう。難波なんば家か3代だい。
仁じん安やすから治ち承うけたまわ年間ねんかんにかけて、壱岐いき国こく・豊後ぶんご国こくの国司こくしとなる。豊後ぶんご守まもる在任ざいにん時じにおいては、知行ちぎょう国こく主おもであった父ちち・頼よりゆき輔の命いのちを受うけて同国どうこくに下向げこうし、在地ざいち豪族ごうぞくの統制とうせいに当あたる。寿ことぶき永ひさし2年ねん(1183年ねん)に平家ひらかが都落みやこおちすると、豊後ぶんご国人くにびと・緒方おがた惟おもんみ栄さかえらに対たいして院宣いんぜんに従したがい平家へいけを追討ついとうするよう指示しじ。これを受うけ惟おもんみ栄さかえは反はん平家へいけ活動かつどうを活発かっぱつ化かさせ、遂ついにその勢力せいりょくを大宰府だざいふから駆逐くちくするに至いたっている。
平家ひらか滅亡めつぼう後ごは源義経みなもとのよしつねの有力ゆうりょくな同盟どうめい者しゃとなり、惟おもんみ栄さかえら豊後ぶんご国人くにびとの勢力せいりょくを義経よしつね方かたに取とり込こむための活動かつどうに邁進まいしん。惟おもんみ栄さかえが宇佐うさ神宮じんぐうを焼やき討うちした罪つみを軽減けいげんされたのも、彼かれや義経よしつねの工作こうさくによるものと言いわれる。同時どうじに高階たかしな泰やすし経けいら後こう白河しらかわ院いん近臣きんしん勢力せいりょくとも結むすび、義経よしつね追討ついとうを打うち出だす鎌倉かまくら幕府ばくふに対抗たいこうする。
こうした頼よりゆき経けいの姿勢しせいは幕府ばくふによる追及ついきゅうを免まぬかれず、文治ぶんじ元年がんねん(1185年ねん)12月、任官にんかん後ご間あいだもない刑部おさかべ卿きょうを解かい官かんされた上うえで安房あわ国こくに流罪るざいとなる。翌年よくねん3月がつに一旦いったん赦免しゃめんされて帰京ききょうするが、なおも義経よしつね支援しえんの姿勢しせいを改あらためなかったため、文治ぶんじ5年ねん(1189年ねん)3月がつに再度さいど伊豆いず国こくへと配流はいるされている(なお、長男ちょうなんの宗長そうちょうも同時どうじに解かい官かんされている)。
長男ちょうなん・宗長そうちょうの子孫しそんは難波なんば家か、次男じなん・雅経まさつねの子孫しそんは飛鳥井あすかい家かとして後世こうせいに続つづき、蹴鞠けまり・和歌わかの道みちにおいて重おもきをなしている。