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難波頼経 - Wikipedia

難波なんばよりゆきけい

平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代じだい初期しょき貴族きぞく難波なんばよりゆき輔の長男ちょうなんしたがえよん刑部おさかべきょう難波なんば3だい難波なんばよりゆききょう難波なんばけいちょう-長貞ながさだちょうじょう園城寺おんじょうじ大僧正だいそうじょうだい阿闍梨あじゃりじゅうしんいん)、よりゆきへん園城寺おんじょうじ

難波なんば よりゆきけい(なんば よりつね)は、平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきにかけての貴族きぞく藤原ふじわらよりゆきけいともばれる。藤原ふじわらきた難波なんば刑部おさかべきょう難波なんばよりゆき長男ちょうなん官位かんいしたがえよん刑部おさかべきょう難波なんば3だい

 
難波なんば よりゆきけい
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき - 鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき
生誕せいたん しょう
死没しぼつ たてたもつ4ねん1217ねん)12月
官位かんい したがえよん刑部おさかべきょう
主君しゅくん ろくじょう天皇てんのう高倉天皇たかくらてんのう安徳天皇あんとくてんのう後鳥羽ごとば天皇てんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらきた難波なんば
父母ちちはは ちち難波なんばよりゆきははしょう
兄弟きょうだい よりゆきけいけんくもきょうみこと藤原ふじわらけいしつ
つま 正室せいしつみなもとあらわみやびむすめ
宗長そうちょう飛鳥井あすかい雅経まさつねよりゆききょうけいちょう良平りょうへい輔長けいごういむうみ
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経歴けいれき

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じんやすからうけたまわ年間ねんかんにかけて、壱岐いきこく豊後ぶんごこく国司こくしとなる。豊後ぶんごまもる在任ざいにんにおいては、知行ちぎょうこくおもであったちちよりゆき輔のいのちけて同国どうこく下向げこうし、在地ざいち豪族ごうぞく統制とうせいたる。寿ことぶきひさし2ねん1183ねん)に平家ひらか都落みやこおちすると、豊後ぶんご国人くにびと緒方おがたおもんみさかえらにたいして院宣いんぜんしたが平家へいけ追討ついとうするよう指示しじ。これをおもんみさかえはん平家へいけ活動かつどう活発かっぱつさせ、ついにその勢力せいりょく大宰府だざいふから駆逐くちくするにいたっている。

平家ひらか滅亡めつぼう源義経みなもとのよしつね有力ゆうりょく同盟どうめいしゃとなり、おもんみさかえ豊後ぶんご国人くにびと勢力せいりょく義経よしつねかたむための活動かつどう邁進まいしんおもんみさかえ宇佐うさ神宮じんぐうちしたつみ軽減けいげんされたのも、かれ義経よしつね工作こうさくによるものとわれる。同時どうじ高階たかしなやすしけいこう白河しらかわいん近臣きんしん勢力せいりょくともむすび、義経よしつね追討ついとう鎌倉かまくら幕府ばくふ対抗たいこうする。

こうしたよりゆきけい姿勢しせい幕府ばくふによる追及ついきゅうまぬかれず、文治ぶんじ元年がんねん1185ねん)12月、任官にんかんあいだもない刑部おさかべきょうかいかんされたうえ安房あわこく流罪るざいとなる。翌年よくねん3がつ一旦いったん赦免しゃめんされて帰京ききょうするが、なおも義経よしつね支援しえん姿勢しせいあらためなかったため、文治ぶんじ5ねん1189ねん)3がつ再度さいど伊豆いずこくへと配流はいるされている(なお、長男ちょうなん宗長そうちょう同時どうじかいかんされている)。

かんれき

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長男ちょうなん宗長そうちょう子孫しそん難波なんば次男じなん雅経まさつね子孫しそん飛鳥井あすかいとして後世こうせいつづき、蹴鞠けまり和歌わかみちにおいておもきをなしている。

関連かんれん作品さくひん

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テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

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先代せんだい
難波なんばよりゆき
難波なんば当主とうしゅ
3だい
次代じだい
難波なんば宗長そうちょう