ルンガ沖 おき 航空 こうくう 戦 せん (ルンガおきこうくうせん)とは、1943年 ねん 6月 がつ 16日 にち に日本 にっぽん 海軍 かいぐん がガダルカナル島 とう のルンガ岬 みさき 付近 ふきん で連合 れんごう 軍 ぐん の輸送 ゆそう 船 せん 団 だん に対 たい して行 い った航空 こうくう 戦 せん である。ソロモン諸島 しょとう 方面 ほうめん における敵 てき 航空機 こうくうき の撃滅 げきめつ を目指 めざ した六 ろく 〇三 さん 作戦 さくせん の一環 いっかん として「ソ」作戦 さくせん に続 つづ く「セ」作戦 さくせん として実施 じっし され、大本営 だいほんえい 発表 はっぴょう 時 じ にルンガ沖 おき 航空 こうくう 戦 せん の名称 めいしょう が付 つ けられた。開戦 かいせん 以来 いらい 、日本 にっぽん 海軍 かいぐん は航空機 こうくうき のみの攻撃 こうげき でも海戦 かいせん と呼称 こしょう していたが、本 ほん 戦闘 せんとう で初 はじ めて航空 こうくう 戦 せん という名称 めいしょう が採用 さいよう された[1] 。連合 れんごう 軍 ぐん の航空機 こうくうき 、艦船 かんせん に大 おお きな損害 そんがい を与 あた えることができずに、自軍 じぐん の航空 こうくう 戦力 せんりょく を消耗 しょうもう した 。
第 だい 一 いち 基地 きち 航空 こうくう 部隊 ぶたい [注 ちゅう 1] は5月 がつ 上旬 じょうじゅん 、内地 ないち で再建 さいけん 後 ご ラバウルに再 さい 進出 しんしゅつ した第 だい 五 ご 空襲 くうしゅう 部隊 ぶたい [注 ちゅう 2] のラバウル 進出 しんしゅつ をもって態勢 たいせい を立 た て直 なお し、ガダルカナル島 とう 、東部 とうぶ ニューギニア 方面 ほうめん への積極 せっきょく 的 てき 作戦 さくせん を企図 きと したが、天候 てんこう 不良 ふりょう などもあり5月 がつ 中 ちゅう の昼間 ひるま 進攻 しんこう はわずか4回 かい を数 かぞ えるのみで、期待 きたい していた成果 せいか をあげることができていなかった[2] 。
一方 いっぽう 、2月 がつ 21日 にち にラッセル諸島 しょとう を占領 せんりょう した米 べい 軍 ぐん は、ニュージョージア侵攻 しんこう へ向 む け直 ただ ちに飛行場 ひこうじょう の設置 せっち 作業 さぎょう にとりかかり[3] 、3月に入 はい ってようやくその事 こと を察知 さっち した日本 にっぽん 海軍 かいぐん は3月 がつ 6日 にち から同地 どうち の飛行場 ひこうじょう 攻撃 こうげき を開始 かいし したが、日 ひ に日 ひ に増強 ぞうきょう される連合 れんごう 軍 ぐん 航空 こうくう 部隊 ぶたい は連日 れんじつ のように南東 なんとう 方面 ほうめん の日本 にっぽん 軍 ぐん 拠点 きょてん を空襲 くうしゅう しており、最前線 さいぜんせん のムンダ は5月 がつ 中 ちゅう だけでのべ516機 き の空襲 くうしゅう を受 う けており、同様 どうよう にコロンバンガラ島 がらとう には367機 き 、サラモア には444機 き の来襲 らいしゅう 機 き を数 かぞ え、中部 ちゅうぶ ソロモンを巡 めぐ る航空 こうくう 戦 せん は劣勢 れっせい を免 まぬか れない状況 じょうきょう だった[4] 。また、一 いち 〇〇式 しき 司 し 偵 や二 に 式 しき 艦 かん 偵 からの偵察 ていさつ 情報 じょうほう 、無線 むせん 傍受 ぼうじゅ による諜報 ちょうほう 活動 かつどう の結果 けっか 、5月 がつ 中旬 ちゅうじゅん 以降 いこう 、ガダルカナル島 とう 、東部 とうぶ ニューギニア方面 ほうめん の敵艦 てきかん 船 せん の行動 こうどう が活発 かっぱつ 化 か している事 こと がわかった。このような状況 じょうきょう を見 み た第 だい 一 いち 基地 きち 航空 こうくう 部隊 ぶたい は、ソロモン方面 ほうめん の防備 ぼうび 強化 きょうか の時間 じかん を稼 かせ ぐため、い号 ごう 作戦 さくせん のような大 だい 規模 きぼ な航空 こうくう 作戦 さくせん の実施 じっし の必要 ひつよう 性 せい を痛感 つうかん したが、空母 くうぼ 搭載 とうさい の飛行機 ひこうき 隊 たい は再編 さいへん 中 ちゅう [5] か他 た 方面 ほうめん へ投入 とうにゅう 予定 よてい [6] だった為 ため 参加 さんか は望 のぞ めず、自 じ 隊 たい のみで決行 けっこう する意思 いし を固 かた めた[4] 。
六 ろく 〇三 さん 作戦 さくせん [ 編集 へんしゅう ]
南東 なんとう 方面 ほうめん 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん 草 くさ 鹿 しか 任 にん 一 いち 、1943年 ねん 頃 ごろ
6月 がつ 上旬 じょうじゅん 、南東 なんとう 方面 ほうめん 艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ (司令 しれい 部員 ぶいん は第 だい 十 じゅう 一 いち 航空 こうくう 艦隊 かんたい と兼任 けんにん )はガダルカナル島 とう 方面 ほうめん 敵艦 てきかん 船 せん 攻撃 こうげき (六 ろく 〇三 さん 作戦 さくせん )を重点 じゅうてん とする以下 いか の予定 よてい 表 ひょう を立案 りつあん した[7] 。
6月1日 にち 六 ろく 〇一 いち 作戦 さくせん (レカタ (英語 えいご 版 ばん ) 輸送 ゆそう 警戒 けいかい )
6月5日 にち 六 ろく 〇二 に 作戦 さくせん (レカタ輸送 ゆそう 警戒 けいかい )
6月5日 にち ~16日 にち 六 ろく 〇三 さん 作戦 さくせん (ガダルカナル島 とう 敵艦 てきかん 船 せん 攻撃 こうげき )
6月8日 にち 六 ろく 〇四 よん 作戦 さくせん (七 なな 〇五 ご 空 そら から七 なな 〇二 に 空 そら への洋上 ようじょう 哨戒 しょうかい 交代 こうたい )
6月11日 にち 六 ろく 〇五 ご 作戦 さくせん (スルミ 輸送 ゆそう 警戒 けいかい )
6月13日 にち 以降 いこう 六 ろく 〇六 ろく 作戦 さくせん (エスピリッツサント島 とう 又 また はカントン島 とう 夜間 やかん 攻撃 こうげき )
この六 ろく 〇三 さん 作戦 さくせん の内容 ないよう は以下 いか のようであったと推測 すいそく される[8] 。
目的 もくてき ガダルカナル島 とう 方面 ほうめん の敵 てき 航空機 こうくうき および艦船 かんせん の撃滅 げきめつ
参加 さんか 部隊 ぶたい 第 だい 五 ご 、第 だい 六 ろく 空襲 くうしゅう 部隊 ぶたい [注 ちゅう 3] 所属 しょぞく の戦闘 せんとう 機 き 隊 たい 、艦 かん 爆 ばく 隊 たい および陸 りく 偵隊。
戦闘 せんとう 機 き 隊 たい のみによる事前 じぜん 航空 こうくう 撃滅 げきめつ 戦 せん (ソ作戦 さくせん と呼称 こしょう ) ラッセル諸島 しょとう 方面 ほうめん へ進攻 しんこう し、敵 てき 機 き を湧出 ゆうしゅつ してこれを撃滅 げきめつ 、一部 いちぶ 零 れい 戦 せん は敵 てき 飛行場 ひこうじょう を爆撃 ばくげき 。
戦 せん 爆 ばく 連合 れんごう による敵艦 てきかん 船 せん 攻撃 こうげき ならびに敵 てき 機 き 撃滅 げきめつ (セ作戦 さくせん と呼称 こしょう ) ソ作戦 さくせん 終了 しゅうりょう 後 ご 機 き を見 み て実施 じっし 。
適地 てきち 偵察 ていさつ 陸 りく 偵隊は事前 じぜん の敵 てき 上 じょう および天候 てんこう ならびに爾後 じご の戦果 せんか 偵察 ていさつ を実施 じっし 。
使用 しよう 基地 きち
第 だい 五 ご 空襲 くうしゅう 部隊 ぶたい 零 れい 戦隊 せんたい ブカ 、陸 りく 偵隊 ブイン
第 だい 六 ろく 空襲 くうしゅう 部隊 ぶたい ブイン
実施 じっし 時期 じき ソ作戦 さくせん 6月7日 にち 開始 かいし 、セ作戦 さくせん 特例 とくれい により実施 じっし
作戦 さくせん 参加 さんか 部隊 ぶたい と6月 がつ 上旬 じょうじゅん 時点 じてん の稼働 かどう 機 き 数 すう [9]
第 だい 一 いち 次 じ ソ作戦 さくせん では、一部 いちぶ の零 れい 戦 せん に30キロ爆 ばく 弾 だん を携行 けいこう させ、それによって地上 ちじょう 機 き を撃破 げきは しようという新 あたら しい試 こころ みがあった。これは二 に 〇四 よん 空 そら 司令 しれい の杉本 すぎもと 丑 うし 衛 まもる 大佐 たいさ の発案 はつあん であったが、得 え られる戦果 せんか に比 ひ して被害 ひがい が大 おお きいことが判明 はんめい して中止 ちゅうし された[10] 。
ソロモン諸島 しょとう 上空 じょうくう を飛 と ぶ零 れい 戦 せん 二 に 二 に 型 がた 、1943年 ねん 頃 ごろ
第 だい 一 いち 次 じ 「ソ」作戦 さくせん [ 編集 へんしゅう ]
6月6日 にち 朝 あさ 、一 いち 五 ご 一 いち 空 そら の一 いち 〇〇式 しき 司令 しれい 部 ぶ 偵察 ていさつ 機 き がツラギ港 こう 、ルンガ泊地 はくち の写真 しゃしん 偵察 ていさつ を実施 じっし 、大型 おおがた 輸送 ゆそう 船 せん 一 いち 隻 せき 、同 どう 中型 ちゅうがた 三 さん 隻 せき 、同小 どうしょう 型 がた 10隻 せき などを報 ほう じ、翌朝 よくあさ も同様 どうよう にブインを発進 はっしん した一 いち 〇〇式 しき 司 し 偵がラッセル諸島 しょとう 方面 ほうめん の天候 てんこう 偵察 ていさつ を実施 じっし 、天候 てんこう 良好 りょうこう を報 ほう じた[11] 。第 だい 一 いち 基地 きち 航空 こうくう 部隊 ぶたい 指揮 しき 官 かん は6月 がつ 6日 にち 、六 ろく 〇三 さん 作戦 さくせん を予定 よてい 通 どお り7日 にち から開始 かいし する旨 むね を発令 はつれい 、二 に 五 ご 一 いち 空 そら 零 れい 戦隊 せんたい 40機 き がブカに、二 に 〇四空零戦隊32機 き がブインにそれぞれ進出 しんしゅつ 、すでにブインで作戦 さくせん 中 ちゅう であった五 ご 八 はち 二 に 空 そら 零 れい 戦隊 せんたい と合流 ごうりゅう した[9] 。
ブインはこの日 ひ の前日 ぜんじつ 、戦闘 せんとう 機 き 約 やく 40機 き 、艦 かん 爆 ばく 約 やく 18機 き 、B-17 1機 き による昼間 ひるま 空襲 くうしゅう があった。これに対 たい し、日本 にっぽん 海軍 かいぐん はベララベラ島 とう の見張 みは り所 しょ からの警報 けいほう に基 もと づき五 ご 八 はち 二 に 空 そら の零 れい 戦 せん 21機 き 、九 きゅう 三 さん 八 はち 空 そら の零 れい 観 かん 9機 き が発進 はっしん 、零 れい 戦 せん 3機 き が未 み 帰還 きかん となり、海上 かいじょう トラックの神 かみ 徳丸 とくまる が沈没 ちんぼつ した[9] 。
攻撃 こうげき 隊 たい は編成 へんせい は以下 いか の通 とお り[12] 。
第 だい 一 いち 突撃 とつげき 隊 たい 五 ご 八 はち 二 に 空 そら 零 れい 戦 せん 21機 き
第 だい 二 に 突撃 とつげき 隊 たい 二 に 〇四 よん 空 そら 零 れい 戦 せん 24機 き
第 だい 三 さん 突撃 とつげき 隊 たい 二 に 五 ご 一 いち 空 そら 零 れい 戦 せん 36機 き
F4F-4戦闘 せんとう 機 き 、ガダルカナル島 とう ヘンダーソン飛行場 ひこうじょう 、1942年 ねん
6月7日 にち 6時 じ 45分 ふん 、攻撃 こうげき 隊 たい は第 だい 三 さん 突撃 とつげき 隊 たい がブカを発進 はっしん [13] 、その後 ご ブインを発進 はっしん した第 だい 一 いち 、第 だい 二 に 突撃 とつげき 隊 たい (内 うち 8機 き は爆 ばく 装 そう )と7時 じ 15分 ふん に合同 ごうどう 、計 けい 81機 き の零 れい 戦 せん がガダルカナル島 とう 方面 ほうめん へ向 む かった。攻撃 こうげき 隊 たい は8時 じ 15分 ふん 頃 ごろ 、ガトカエ島 とう 付近 ふきん でF4F戦闘 せんとう 機 き 8機 き と遭遇 そうぐう し交戦 こうせん し[14] 、その後 ご 8時 じ 45分 ふん 、ラッセル諸島 しょとう 上空 じょうくう に突入 とつにゅう 、邀撃 ようげき してきたP-38 、P-39 、F4F 、F4U など数 すう 十 じゅう 機 き の戦闘 せんとう 機 き と激 はげ しい空戦 くうせん を行 おこ ない、一部 いちぶ はラッセル諸島 しょとう の敵 てき 飛行場 ひこうじょう を爆撃 ばくげき した[15] 。攻撃 こうげき 隊 たい はその後 ご 一部 いちぶ がムンダで給油 きゅうゆ し、10時 じ 30分 ふん ~13時 じ 40分 ふん までに発進 はっしん 基地 きち に帰投 きとう した[16] 。
第 だい 一 いち 基地 きち 航空 こうくう 部隊 ぶたい 指揮 しき 官 かん はこの日 ひ の夜 よる 、戦闘 せんとう 概 がい 報 ほう をもって、敵 てき 戦闘 せんとう 機 き 41機 き の撃墜 げきつい を報告 ほうこく した。またこの日 ひ の攻撃 こうげき で二 に 〇四 よん 空 そら に3機 き 、二 に 五 ご 一 いち 空 そら に6機 き の零 れい 戦 せん が未 み 帰還 きかん となった。さらに所見 しょけん として、空中 くうちゅう 連絡 れんらく 指揮 しき 上 じょう の優秀 ゆうしゅう な無線 むせん 機 き を備 そな え、戦闘 せんとう 機 き 用 よう の爆 ばく 弾 だん 投下 とうか 器 き は性能 せいのう 低下 ていか を生 しょう じさせるため改善 かいぜん の必要 ひつよう があるとのことだった[16] 。連合 れんごう 軍 ぐん はこの日 ひ 110機 き の戦闘 せんとう 機 き をもって迎撃 げいげき 、内 うち 7機 き を失 うしな った[17] 。
翌 よく 8日 にち 、ラバウルで第 だい 一 いち 時 じ ソ作戦 さくせん に関 かん する研究 けんきゅう 会 かい が開 ひら かれた。席上 せきじょう 、参加 さんか 部隊 ぶたい から多 おお くの意見 いけん が出 で たが主 おも なものは以下 いか の通 とお りであった[18] 。
一人 ひとり の指揮 しき 官 かん が掌握 しょうあく し得 え る最大 さいだい 機 き 数 すう について、従来 じゅうらい は27~36機 き とされていたが、27機 き 二 に 隊 たい (54機 き )程度 ていど は掌握 しょうあく 可能 かのう であり、昨日 きのう の作戦 さくせん 程度 ていど の機 き 数 すう でも三 さん 個 こ 編隊 へんたい 81機 き で事前 じぜん の打 う ち合 あ わせを十分 じゅうぶん に実施 じっし していれば、指揮 しき 官 かん は一人 ひとり でも作戦 さくせん 可能 かのう である。
対 たい 大型 おおがた 機 き の戦闘 せんとう では一 いち 個 こ 小隊 しょうたい 4機 き 編成 へんせい 、対 たい 小型 こがた 機 き に対 たい してはそれ以上 いじょう の編成 へんせい とする事 こと が有利 ゆうり である。いかなる場合 ばあい でも4機 き が最小 さいしょう 限度 げんど で、これ以上 いじょう 分離 ぶんり することは被害 ひがい 防止 ぼうし の点 てん からも不可 ふか である。
二 に 〇四 よん 空 そら は5月 がつ 以降 いこう ほとんどの作戦 さくせん に一 いち 個 こ 小隊 しょうたい 4機 き 編成 へんせい を使用 しよう しており、5月に再 さい 進出 しんしゅつ してきた二 に 五 ご 一 いち 空 そら は従来 じゅうらい からの一 いち 個 こ 小隊 しょうたい 3機 き 編成 へんせい をとって第 だい 一 いち 時 じ ソ作戦 さくせん に臨 のぞ んだ結果 けっか 被害 ひがい が多 おお く、この結果 けっか 各 かく 部隊 ぶたい は一 いち 個 こ 小隊 しょうたい 4機 き 編成 へんせい として急速 きゅうそく 訓練 くんれん することとなった。
第 だい 二 に 次 じ 「ソ」作戦 さくせん [ 編集 へんしゅう ]
VMF-124所属 しょぞく のF4U戦闘 せんとう 機 き 、ガダルカナル、1943年 ねん 2月 がつ
6月11日 にち 、二 に 五 ご 一 いち 空 そら 零 れい 戦隊 せんたい 34機 き がブカに、二 に 〇四空零戦隊24機 き および一 いち 五 ご 一 いち 空 そら 一 いち 〇〇式 しき 司 し 偵1機 き がブインに進出 しんしゅつ 、翌 よく 12日 にち 、予定 よてい 通 どお り第 だい 二 に 次 じ ソ作戦 さくせん が実施 じっし された[19] 。この日 ひ も前回 ぜんかい 同様 どうよう に天候 てんこう 偵察 ていさつ が二 に 式 しき 艦 かん 偵によって早朝 そうちょう に実施 じっし され[20] 、ラッセル諸島 しょとう 方面 ほうめん の天候 てんこう は良好 りょうこう との報告 ほうこく に基 もと づき、二 に 五 ご 一 いち 空 そら の零 れい 戦 せん 32機 き 、二 に 〇四 よん 空 そら が同 どう 24機 き 、五 ご 八 はち 二 に 空 そら が同 どう 21機 き の合計 ごうけい 77機 き の零 れい 戦 せん が6時 じ 50分 ふん ブイン上空 じょうくう で合同 ごうどう 、進撃 しんげき を開始 かいし した。8時 じ 30分 ふん ごろラッセル諸島 しょとう 上空 じょうくう に達 たっ し、約 やく 30分 ふん ほど邀撃 ようげき に上 あ がった連合 れんごう 軍 ぐん 戦闘 せんとう 機 き 約 やく 70機 き と空戦 くうせん を交 まじ え、およそ11時 じ 前後 ぜんこう に各 かく 隊 たい 発進 はっしん 基地 きち に帰投 きとう した[21] 。第 だい 一 いち 基地 きち 航空 こうくう 部隊 ぶたい 指揮 しき 官 かん はこの日 ひ の夕方 ゆうがた 、第 だい 二 に 次 じ ソ作戦 さくせん の結果 けっか を戦闘 せんとう 速報 そくほう をもって報告 ほうこく 、戦果 せんか として敵 てき 戦闘 せんとう 機 き 32機 き 撃墜 げきつい 、被害 ひがい として未 み 帰還 きかん 6機 き 、不時着 ふじちゃく 1機 き とした。また、その所見 しょけん の中 なか で、敵 てき 戦闘 せんとう 機 き の戦意 せんい が前回 ぜんかい と比較 ひかく して消極 しょうきょく 的 てき であり、もっぱら自軍 じぐん の追撃 ついげき 戦 せん の様相 ようそう であったこと、また敵 てき 戦闘 せんとう 機 き との空戦 くうせん 中 ちゅう 、ラッセル諸島 しょとう の飛行場 ひこうじょう から飛行機 ひこうき の発進 はっしん と思 おも われる砂塵 さじん を認 みと めたことなどをあげている[19] 。このような航空 こうくう 作戦 さくせん を実施 じっし したにもかかわらず、攻撃 こうげき 隊 たい 帰投 きとう 後 ご 、一 いち 〇〇式 しき 司 し 偵によって実施 じっし された戦果 せんか 確認 かくにん において、ガ島 とう 第 だい 一 いち 飛行場 ひこうじょう に小型 こがた 機 き 約 やく 50機 き 、同 どう 第 だい 二 に 飛行場 ひこうじょう に小型 こがた 機 き 約 やく 100機 き 、大型 おおがた 機 き 約 やく 50機 き 、同 どう 第 だい 三 さん 飛行場 ひこうじょう に小型 こがた 機 き 約 やく 50機 き を認 みと め、その他 た にラッセル諸島 しょとう 、ルンガ泊地 はくち 、ツラギ港 こう などに大小 だいしょう の輸送 ゆそう 船 せん 18隻 せき 、駆逐 くちく 艦 かん 7隻 せき を認 みと めた[22] 。なおこの日 ひ の連合 れんごう 軍 ぐん 側 がわ の実際 じっさい の被害 ひがい は戦闘 せんとう 機 き 6機 き 喪失 そうしつ であり、二人 ふたり を除 のぞ いた全 すべ ての搭乗 とうじょう 員 いん が救出 きゅうしゅつ されている
[23] 。
「セ」作戦 さくせん (ルンガ沖 おき 航空 こうくう 戦 せん ) [ 編集 へんしゅう ]
ガダルカナル島 とう ヘンダーソン飛行場 ひこうじょう 、1943年 ねん 4月 がつ 11日 にち
6月13日 にち 、第 だい 一 いち 基地 きち 航空 こうくう 部隊 ぶたい は第 だい 一 いち 次 じ 、第 だい 二 に 次 じ ソ作戦 さくせん によって敵 てき 航空 こうくう 部隊 ぶたい に対 たい し十分 じゅうぶん な戦果 せんか をあげたと判断 はんだん 、16日 にち にセ作戦 さくせん を実施 じっし する旨 むね を命令 めいれい した。実施 じっし にあたり、六 ろく 〇四 よん 作戦 さくせん によって洋上 ようじょう 哨戒 しょうかい を交代 こうたい した七 なな 〇五 ご 空 そら の陸 りく 攻 おさむ が13日 にち ~15日 にち にかけてガダルカナル島 とう を夜間 やかん 爆撃 ばくげき し「セ」作戦 さくせん に協力 きょうりょく した。またセ作戦 さくせん 参加 さんか 部隊 ぶたい は、ソ作戦 さくせん 時 じ と同様 どうよう に前日 ぜんじつ の15日 にち 中 ちゅう にブイン、ブカ両 りょう 基地 きち に進出 しんしゅつ し攻撃 こうげき 準備 じゅんび を整 ととの えた[24] 。
16日 にち 早朝 そうちょう 、ブインから一 いち 〇〇式 しき 司 し 偵1機 き が発進 はっしん 、6時 じ から約 やく 10分間 ふんかん ガ島 とう 方面 ほうめん の事前 じぜん 偵察 ていさつ を実施 じっし 、ラッセル諸島 しょとう 、ルンガ泊地 はくち 、ツラギ港 こう などに大小 だいしょう の輸送 ゆそう 船 せん 20隻 せき 以上 いじょう 、その他 た 駆逐 くちく 艦 かん 1隻 せき 、大発 だいはつ 多数 たすう 発見 はっけん の報告 ほうこく をした[25] 。またガ島 とう 付近 ふきん の天候 てんこう もまれに見 み る好天 こうてん であった。攻撃 こうげき 隊 たい は第 だい 一 いち 基地 きち 航空 こうくう 部隊 ぶたい 指揮 しき 官 かん の「セ作戦 さくせん ノ成功 せいこう ヲ期 き ス」の激励 げきれい 電 でん に見送 みおく られ、10時 じ にこれまでと同様 どうよう にブイン上空 じょうくう で合同 ごうどう し、目標 もくひょう に向 む かって進撃 しんげき した。攻撃 こうげき 隊 たい の編成 へんせい は以下 いか の通 とお り[24] 。
援護 えんご 零 れい 戦隊 せんたい 二 に 五 ご 一 いち 空 そら 30機 き 、二 に 〇四 よん 空 そら 24機 き 、五 ご 八 はち 二 に 空 そら 16機 き
艦 かん 爆 ばく 隊 たい 五 ご 八 はち 二 に 空 そら 24機 き
P-38戦闘 せんとう 機 き 、画像 がぞう はG型 がた
攻撃 こうげき 隊 たい はガ島 とう 南西方 みなみにしかた から進入 しんにゅう 、11時 じ 45分 ふん 、P-38戦闘 せんとう 機 き 8機 き と遭遇 そうぐう しこれを撃退 げきたい 、その後 ご 12時 じ 頃 ごろ にルンガ泊地 はくち に突入 とつにゅう した。艦 かん 爆 ばく 隊 たい は12時 じ 5分 ふん 泊地 はくち の艦船 かんせん 群 ぐん に対 たい して攻撃 こうげき を開始 かいし 、援護 えんご 戦闘 せんとう 機 き 隊 たい も泊地 はくち 突入 とつにゅう と同時 どうじ に敵 てき 戦闘 せんとう 機 き 約 やく 100機 き と空戦 くうせん となった。攻撃 こうげき 隊 たい は12時 じ 30分 ふん 頃 ごろ までに各 かく 隊 たい ごとに戦場 せんじょう を離脱 りだつ 、15時 じ までには帰着 きちゃく した[26] 。
第 だい 一 いち 基地 きち 航空 こうくう 部隊 ぶたい 指揮 しき 官 かん はこの日 ひ の夜 よる 、戦闘 せんとう 速報 そくほう でこの日 ひ の戦果 せんか および被害 ひがい を報告 ほうこく した。
爆 ばく 撃 げき 戦果 せんか (各 かく 機 き 250キロ爆 ばく 弾 だん 1、60キロ爆 ばく 弾 だん 2を携行 けいこう )
ブイン帰着 きちゃく 機 き (二 に 〇四 よん 空 そら 、五 ご 八 はち 二 に 空 そら )の報告 ほうこく 輸送 ゆそう 船 せん (中型 ちゅうがた )1隻 せき 轟沈 ごうちん 、大型 おおがた 4隻 せき 、中型 ちゅうがた 1隻 せき 、小型 こがた 1隻 せき に命中 めいちゅう 弾 だん あり
ブカ帰着 きちゃく 機 き (二 に 五 ご 一 いち 空 そら )の報告 ほうこく ルンガ岬 みさき 西側 にしがわ の艦船 かんせん のみ確認 かくにん 全滅 ぜんめつ (輸送 ゆそう 船 せん 大型 おおがた 1隻 せき 、中型 ちゅうがた 3隻 せき 撃沈 げきちん 、駆逐 くちく 艦 かん 1隻 せき 轟沈 ごうちん )
撃墜 げきつい 4機 き
被害 ひがい 艦 かん 爆 ばく 13機 き 戦闘 せんとう 機 き 14機 き (その後 ご さらに1機 き 追加 ついか )未 み 帰還 きかん
海岸 かいがん で立 た ち往生 おうじょう したLST-340、テニアン島 とう 、1944年 ねん
上記 じょうき のように大 おお きな戦果 せんか が報 ほう じられたものの、その被害 ひがい も多 おお く、特 とく に艦 かん 爆 ばく 隊 たい の損失 そんしつ は出撃 しゅつげき した内 うち の54パーセントが未 み 帰還 きかん となった。これはい号 ごう 作戦 さくせん 時 どき の16パーセントに比 くら べ非常 ひじょう に高 たか い数字 すうじ であった。
さらに報告 ほうこく された連合 れんごう 国 こく の被害 ひがい も実態 じったい とは大 おお きく異 こと なり、実際 じっさい はソロモン航空 こうくう 部隊 ぶたい と対空 たいくう 砲火 ほうか をすり抜 ぬ けた日本 にっぽん の艦 かん 爆 ばく 隊 たい は輸送 ゆそう 艦 かん 「セレノ (英語 えいご 版 ばん ) 」に2発 はつ の直撃 ちょくげき 弾 だん を与 あた えたものの、タグボートの助 たす けを借 か りてルンガ岬 みさき に引 ひ き上 あ げられたことによって沈没 ちんぼつ はまぬがれ[27] 、その後 ご パーヴィス湾 わん まで再 ふたた び曳航 えいこう されたのち、修理 しゅうり のためサンフランシスコへ帰投 きとう した[28] 。
さらに、揚陸 ようりく 艦 かん 「LST-340 (英語 えいご 版 ばん ) 」も直撃 ちょくげき 弾 だん によって火災 かさい が発生 はっせい したが、他 た のLSTの協力 きょうりょく もあり日暮 ひぐ れには鎮火 ちんか に成功 せいこう している[27] 。この他 た 戦闘 せんとう 機 き 6機 き が失 うしな われた[29] 。
一 いち 〇〇式 しき 司令 しれい 部 ぶ 偵察 ていさつ 機 き 二 に 型 がた
セ作戦 さくせん 終了 しゅうりょう 直後 ちょくご の17日 にち 朝 あさ 、一 いち 五 ご 一 いち 空 そら の一 いち 〇〇式 しき 司 し 偵による戦果 せんか 確認 かくにん が行 おこな われた。前日 ぜんじつ 、攻撃 こうげき 隊 たい から相当 そうとう の戦果 せんか 報告 ほうこく があったにもかかわらず、当日 とうじつ のガダルカナル島 とう 周辺 しゅうへん 海域 かいいき には依然 いぜん として大 だい 中小 ちゅうしょう 合 あ わせて20隻 せき 程度 ていど の輸送 ゆそう 船 せん の存在 そんざい を認 みと めた[30] 。
第 だい 一 いち 次 じ 「ソ」作戦 さくせん (6月 がつ 7日 にち )
撃墜 げきつい 41機 き (内 うち 不 ふ 確実 かくじつ 8機 き )
未 み 帰還 きかん :零 れい 戦 せん 9機 き
大破 たいは :零 れい 戦 せん 5機 き
第 だい 二 に 次 じ 「ソ」作戦 さくせん (6月 がつ 12日 にち )
撃墜 げきつい 33機 き (内 うち 不 ふ 確実 かくじつ 8機 き )
未 み 帰還 きかん :零 れい 戦 せん 6機 き
大破 たいは :零 れい 戦 せん 1機 き
「セ」作戦 さくせん (ルンガ沖 おき 航空 こうくう 戦 せん )(6月 がつ 16日 にち )
轟沈 ごうちん :輸送 ゆそう 船 せん 大型 おおがた 1隻 せき 、中型 ちゅうがた 4隻 せき 、駆逐 くちく 艦 かん 1隻 せき
撃墜 げきつい 32機 き (内 うち 不 ふ 確実 かくじつ 5機 き )
未 み 帰還 きかん :零 れい 戦 せん 15機 き 、艦上 かんじょう 爆撃 ばくげき 機 き 13機 き
大破 たいは :零 れい 戦 せん 3機 き
艦 かん 爆 ばく 32機 き 撃墜 げきつい 、戦闘 せんとう 機 き 45機 き 撃墜 げきつい
戦闘 せんとう 機 き 6機 き 損失 そんしつ 、輸送 ゆそう 船 せん 1隻 せき 擱座 かくざ 、LST1隻 せき 大破 たいは
「セ」作戦 さくせん の大本営 だいほんえい 発表 はっぴょう は6月 がつ 18日 にち に行 おこな われ、ルンガ沖 おき において大型 おおがた 輸送 ゆそう 船 せん 4、中型 ちゅうがた 輸送 ゆそう 船 せん 2、小型 こがた 輸送 ゆそう 船 せん 1、駆逐 くちく 艦 かん 1を撃沈 げきちん 、大型 おおがた 輸送 ゆそう 船 せん 1隻 せき 中 ちゅう 破 やぶ 、飛行機 ひこうき 34機 き 以上 いじょう 撃墜 げきつい と報 ほう じ、本 ほん 戦闘 せんとう を「ルンガ沖 おき 航空 こうくう 戦 せん 」と呼称 こしょう すると発表 はっぴょう した[24] 。連合 れんごう 軍 ぐん 側 がわ の戦果 せんか 判定 はんてい にも誤認 ごにん があり、6月16日 にち の日本 にっぽん 海軍 かいぐん の攻撃 こうげき に対 たい し、艦 かん 爆 ばく 32機 き 、戦闘 せんとう 機 き 45機 き を撃墜 げきつい と発表 はっぴょう していた[31] 。
ソロモン航空 こうくう 部隊 ぶたい のP-40戦闘 せんとう 機 き 、画像 がぞう はF型 がた
第 だい 一 いち 基地 きち 航空 こうくう 部隊 ぶたい 指揮 しき 官 かん は16日 にち 夜 よる 、セ作戦 さくせん の終結 しゅうけつ を発令 はつれい した。また、作戦 さくせん 終了 しゅうりょう 後 ご ラバウルで「セ」作戦 さくせん に関 かん する研究 けんきゅう 会 かい が開催 かいさい され、参加 さんか 部隊 ぶたい から多 おお くの所見 しょけん 発表 はっぴょう があった[32] 。
敵 てき P-39、P-40 戦闘 せんとう 機 き は性能 せいのう が向上 こうじょう しているように認 みと められる。また、編隊 へんたい 戦法 せんぽう がますます巧妙 こうみょう になっておりこの対策 たいさく が必要 ひつよう 。
今回 こんかい の援護 えんご 兵力 へいりょく で九 きゅう 九 きゅう 式 しき 艦 かん 爆 ばく によるガ島 とう 昼間 ひるま 強襲 きょうしゅう は無理 むり でありY-20(銀河 ぎんが ) または十 じゅう 六 ろく 試 ためし 艦 かん 攻 おさむ (流星 りゅうせい ) が必要 ひつよう 。また艦 かん 爆 ばく 四 よん 個 こ 中隊 ちゅうたい (今回 こんかい は一 いち 個 こ 中隊 ちゅうたい 6機 き の四 よん 個 こ 中隊 ちゅうたい 編成 へんせい )に対 たい しては直 ちょく 掩戦闘 せんとう 機 き 144機 き ~164機 き が必要 ひつよう である。
ソロモン方面 ほうめん 作戦 さくせん で最 もっと も苦労 くろう しているのは飛行場 ひこうじょう の不足 ふそく であり[注 ちゅう 4] 、今回 こんかい も同様 どうよう 。ブイン山麓 さんろく に適地 てきち があるので至急 しきゅう 調査 ちょうさ の必要 ひつよう がある。
艦 かん 爆 ばく 隊 たい の攻撃 こうげき にあたっては、まず遊 ゆう 撃 げき 隊 たい で敵 てき 機 き を牽制 けんせい し、その後 ご 邀撃 ようげき 機 き の着陸 ちゃくりく を見計 みはか らって突入 とつにゅう することが適当 てきとう である。
現地 げんち 部隊 ぶたい は大 おお きな戦果 せんか を報告 ほうこく したが、実質 じっしつ 的 てき な打撃 だげき はほとんど与 あた えておらず、却 かえ って大 おお きな損耗 そんこう を受 う けてしまった。特 とく に艦 かん 爆 ばく 隊 たい が戦力 せんりょく を喪失 そうしつ してしまったこと、戦闘 せんとう 機 き 隊 たい の主要 しゅよう 幹部 かんぶ が多 おお く戦死 せんし するなど、今後 こんご の作戦 さくせん 遂行 すいこう に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えてしまった。その結果 けっか 、補充 ほじゅう 機 き の不足 ふそく 、練度 れんど の急速 きゅうそく な低下 ていか を来 きた し、20日 はつか から始 はじ まる連合 れんごう 軍 ぐん によるニュージョージア島 とう に対 たい する事前 じぜん 航空 こうくう 作戦 さくせん に対 たい して積極 せっきょく 的 てき に攻勢 こうせい をかける事 こと もできず、6月30日 にち の連合 れんごう 軍 ぐん のレンドバ島 とう 上陸 じょうりく に際 さい しても有効 ゆうこう な反撃 はんげき を与 あた える事 こと が出来 でき なかった[33] 。ルンガ沖 おき 航空 こうくう 戦 せん の損失 そんしつ で第 だい 二 に 〇四海軍航空隊の士官 しかん の航空 こうくう 搭乗 とうじょう 員 いん は皆無 かいむ となった[34] 。
^ 第 だい 二 に 基地 きち 航空 こうくう 部隊 ぶたい の新編 しんぺん に伴 ともな い第 だい 十 じゅう 一 いち 航空 こうくう 艦隊 かんたい 所属 しょぞく 部隊 ぶたい を基幹 きかん とする航空 こうくう 部隊 ぶたい が5月18日 にち をもって改称 かいしょう 。#戦史 せんし 96 、p145
^ 、二 に 五 ご 一 いち 空 そら 、七 なな 〇二 に 空 そら から構成 こうせい される。#戦史 せんし 96 、p144~p145
^ 第 だい 二 に 十 じゅう 六 ろく 航空 こうくう 戦隊 せんたい を基幹 きかん とする部隊 ぶたい 。この頃 ころ の所属 しょぞく 部隊 ぶたい は二 に 〇四 よん 空 そら 、五 ご 八 はち 二 に 空 そら 、七 なな 〇五 ご 空 そら など。#戦史 せんし 96 、p78
^ 本 ほん 作戦 さくせん も二 に 五 ご 一 いち 空 そら はブカ 、二 に 〇四 よん 空 そら 、五 ご 八 はち 二 に 空 そら はブイン に分 わ かれて展開 てんかい していた。
^ 奥宮 おくのみや 正武 まさたけ 『ラバウル海軍 かいぐん 航空 こうくう 隊 たい 』学研 がっけん M文庫 ぶんこ 284-285頁 ぺーじ
^ #戦史 せんし 96 、p176
^ #Morison 、p100
^ a b #戦史 せんし 96 、p176~p177
^ 第 だい 一 いち 航空 こうくう 戦隊 せんたい はい号 ごう 作戦 さくせん 後 ご 、内地 ないち で戦力 せんりょく 回復 かいふく 中 ちゅう であった。#戦史 せんし 96 、p127
^ 第 だい 二 に 航空 こうくう 戦隊 せんたい はトラック にあり、情勢 じょうせい の急変 きゅうへん が予想 よそう されるマーシャル諸島 しょとう 方面 ほうめん へ投入 とうにゅう する予定 よてい となっていた。#戦史 せんし 62 、p346 ~p347
^ #戦史 せんし 96 、p177
^ #戦史 せんし 96 、p177~p178
^ a b c #戦史 せんし 96 、p178
^ 奥宮 おくのみや 正武 まさたけ 『ラバウル海軍 かいぐん 航空 こうくう 隊 たい 』学研 がっけん M文庫 ぶんこ 283-284頁 ぺーじ
^ #一 いち 五 ご 一 いち 空 そら a 、第 だい 47、48画像 がぞう 目 め
^ #戦史 せんし 96 、p178~p179
^ #二 に 五 ご 一 いち 空 そら 、Ref.C08051658400、昭和 しょうわ 17年 ねん 11月~昭和 しょうわ 18年 ねん 7月 がつ 251空 そら 飛行機 ひこうき 隊 たい 戦闘 せんとう 行動 こうどう 調書 ちょうしょ 第 だい 23、24画像 がぞう 目 め
^ #五 ご 八 はち 二 に 空 そら 、第 だい 21画像 がぞう 目 め
^ #二 に 〇四 よん 空 そら 、第 だい 16、17画像 がぞう 目 め
^ a b #戦史 せんし 96 、p179
^ #Morison 、p139
^ #戦史 せんし 96 、p180
^ a b #戦史 せんし 96 、p181
^ #一 いち 五 ご 一 いち 空 そら b 、第 だい 6画像 がぞう 目 め
^ #二 に 五 ご 一 いち 空 そら 、第 だい 32、33画像 がぞう 目 め 、#二 に 〇四 よん 空 そら 、第 だい 23、24画像 がぞう 目 め 。#五 ご 八 はち 二 に 空 そら 、第 だい 33、34画像 がぞう 目 め
^ #一 いち 五 ご 一 いち 空 そら b 、第 だい 7、8画像 がぞう 目 め
^ “World War II Resources-NAVY DEPARTMENT COMMUNIQUES N. D. COMMUNIQUÉ NO. 404, JUNE 8, 1943 ”. US Government. 2012年 ねん 8月 がつ 20日 はつか 閲覧 えつらん 。
^ a b c #戦史 せんし 96 、p182
^ #一 いち 五 ご 一 いち 空 そら b 、第 だい 11~14画像 がぞう 目 め
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^ “DICTIONARY of American Naval Fighting Ships-Celeno ”. NAVAL HISTORICAL CENTER. 2012年 ねん 8月 がつ 20日 はつか 閲覧 えつらん 。
^ “World War II Resources-NAVY DEPARTMENT COMMUNIQUES N. D. COMMUNIQUÉ NO. 418, JUNE 19, 1943 ”. US Government. 2012年 ねん 8月 がつ 20日 はつか 閲覧 えつらん 。
^ #一 いち 五 ご 一 いち b 、第 だい 15、16画像 がぞう 目 め
^ World War II Resources,N. D. COMMUNIQUÉ NO. 418, JUNE 19, 1943
^ #戦史 せんし 96 、p184
^ #戦史 せんし 96 、p184~p185
^ 奥宮 おくのみや 正武 まさたけ 『ラバウル海軍 かいぐん 航空 こうくう 隊 たい 』学研 がっけん M文庫 ぶんこ 285頁 ぺーじ
アジア歴史 れきし 資料 しりょう センター(公式 こうしき ) (防衛 ぼうえい 省 しょう 防衛 ぼうえい 研究所 けんきゅうじょ )
Ref.C08051644400『昭和 しょうわ 18年 ねん 4月 がつ ~昭和 しょうわ 18年 ねん 7月 がつ 151空 そら 飛行機 ひこうき 隊 たい 戦闘 せんとう 行動 こうどう 調書 ちょうしょ (1)』。
Ref.C08051644500『昭和 しょうわ 18年 ねん 4月 がつ ~昭和 しょうわ 18年 ねん 7月 がつ 151空 そら 飛行機 ひこうき 隊 たい 戦闘 せんとう 行動 こうどう 調書 ちょうしょ (2)』。
Ref.C08051648500『昭和 しょうわ 18年 ねん 11月~昭和 しょうわ 18年 ねん 12月 201空 そら 飛行機 ひこうき 隊 たい 戦闘 せんとう 行動 こうどう 調書 ちょうしょ (1)』。
Ref.C08051656500『昭和 しょうわ 18年 ねん 10月 がつ ~昭和 しょうわ 18年 ねん 11月 204空 そら 飛行機 ひこうき 隊 たい 戦闘 せんとう 行動 こうどう 調書 ちょうしょ (3)』。
Ref.C08051686200『昭和 しょうわ 18年 ねん 7月 がつ ~昭和 しょうわ 19年 ねん 2月 がつ 582空 そら 飛行機 ひこうき 隊 たい 戦闘 せんとう 行動 こうどう 調書 ちょうしょ (4)』。
防衛 ぼうえい 研究所 けんきゅうじょ 戦史 せんし 室 しつ 編 へん 『戦史 せんし 叢書 そうしょ 96 南東 なんとう 方面 ほうめん 海軍 かいぐん 作戦 さくせん (3)ガ島 とう 撤収 てっしゅう 後 ご 』朝 あさ 雲 くも 新聞 しんぶん 社 しゃ 、1976年 ねん
Morison, Samuel Eliot (1950). History of United States Naval Operations in World War II VOLUME 6 "Breaking the Bismarcks Barrier" . Annapolis, Maryland, USA: Naval Institute Press. ISBN 978-1591145523 (米 べい 公刊 こうかん 戦史 せんし )
“World War II Resources ” (英語 えいご ). 2012年 ねん 8月 がつ 20日 はつか 閲覧 えつらん 。
“Naval History and Heritage Command ” (英語 えいご ). 2012年 ねん 8月 がつ 20日 はつか 閲覧 えつらん 。