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ルンガおき航空こうくうせん

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2023ねん7がつ23にち (日)にち 13:18; 240b:12:181:bc00:2578:8337:f605:8f75 (会話かいわ) によるはん (→‎「セ」作戦さくせん(ルンガおき航空こうくうせん)日時にちじ個人こじん設定せってい設定せっていならUTC

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ルンガおき航空こうくうせん
1943ねん2がつ時点じてんでのソロモン諸島しょとうにおける日米にちべい航空こうくう拠点きょてん

戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそう/だい東亜とうあ戦争せんそう
年月日ねんがっぴ:1943ねん6がつ16にち
場所ばしょ:ガダルカナルとうルンガ泊地はくち
結果けっか連合れんごうぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
くさ鹿しかにんいち中将ちゅうじょう マーク・ミッチャー少将しょうしょう
戦力せんりょく
だいじゅういち航空こうくう艦隊かんたい94 ソロモン航空こうくう部隊ぶたい英語えいごばん104
損害そんがい
かんばく13戦闘せんとう15損失そんしつ 戦闘せんとう6損失そんしつ輸送ゆそうせん1せき擱座かくざ、LST1せき大破たいは
ソロモン諸島しょとうたたか

ルンガおき航空こうくうせん(ルンガおきこうくうせん)とは、1943ねん6がつ16にち日本にっぽん海軍かいぐんガダルカナルとうのルンガみさき付近ふきん連合れんごうぐん輸送ゆそうせんだんたいしてった航空こうくうせんである。ソロモン諸島しょとう方面ほうめんにおけるてき航空機こうくうき撃滅げきめつ目指めざしたろくさん作戦さくせん一環いっかんとして「ソ」作戦さくせんつづ「セ」作戦さくせんとして実施じっしされ、大本営だいほんえい発表はっぴょうにルンガおき航空こうくうせん名称めいしょうけられた。開戦かいせん以来いらい日本にっぽん海軍かいぐん航空機こうくうきのみの攻撃こうげきでも海戦かいせん呼称こしょうしていたが、ほん戦闘せんとうはじめて航空こうくうせんという名称めいしょう採用さいようされた[1]連合れんごうぐん航空機こうくうき艦船かんせんおおきな損害そんがいあたえることができずに、自軍じぐん航空こうくう戦力せんりょく消耗しょうもうした

背景はいけい[編集へんしゅう]

だいいち基地きち航空こうくう部隊ぶたい[ちゅう 1]は5がつ上旬じょうじゅん内地ないち再建さいけんラバウルにさい進出しんしゅつしただい空襲くうしゅう部隊ぶたい[ちゅう 2]ラバウル進出しんしゅつをもって態勢たいせいなおし、ガダルカナルとう東部とうぶニューギニア方面ほうめんへの積極せっきょくてき作戦さくせん企図きとしたが、天候てんこう不良ふりょうなどもあり5がつちゅう昼間ひるま進攻しんこうはわずか4かいかぞえるのみで、期待きたいしていた成果せいかをあげることができていなかった[2]

一方いっぽう、2がつ21にちラッセル諸島しょとう占領せんりょうしたべいぐんは、ニュージョージア侵攻しんこうただちに飛行場ひこうじょう設置せっち作業さぎょうにとりかかり[3]、3月にはいってようやくそのこと察知さっちした日本にっぽん海軍かいぐんは3がつ6にちから同地どうち飛行場ひこうじょう攻撃こうげき開始かいししたが、増強ぞうきょうされる連合れんごうぐん航空こうくう部隊ぶたい連日れんじつのように南東なんとう方面ほうめん日本にっぽんぐん拠点きょてん空襲くうしゅうしており、最前線さいぜんせんムンダは5がつちゅうだけでのべ516空襲くうしゅうけており、同様どうようコロンバンガラ島がらとうには367サラモアには444来襲らいしゅうかぞえ、中部ちゅうぶソロモンをめぐ航空こうくうせん劣勢れっせいまぬかれない状況じょうきょうだった[4]。また、いち〇〇しきしきかんからの偵察ていさつ情報じょうほう無線むせん傍受ぼうじゅによる諜報ちょうほう活動かつどう結果けっか、5がつ中旬ちゅうじゅん以降いこう、ガダルカナルとう東部とうぶニューギニア方面ほうめん敵艦てきかんせん行動こうどう活発かっぱつしていることがわかった。このような状況じょうきょうだいいち基地きち航空こうくう部隊ぶたいは、ソロモン方面ほうめん防備ぼうび強化きょうか時間じかんかせぐため、ごう作戦さくせんのようなだい規模きぼ航空こうくう作戦さくせん実施じっし必要ひつようせい痛感つうかんしたが、空母くうぼ搭載とうさい飛行機ひこうきたい再編さいへんちゅう[5]方面ほうめん投入とうにゅう予定よてい[6]だったため参加さんかのぞめず、たいのみで決行けっこうする意思いしかためた[4]

ろくさん作戦さくせん[編集へんしゅう]

南東なんとう方面ほうめん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんくさ鹿しかにんいち、1943ねんごろ

6がつ上旬じょうじゅん南東なんとう方面ほうめん艦隊かんたい司令しれい司令しれい部員ぶいんだいじゅういち航空こうくう艦隊かんたい兼任けんにん)はガダルカナルとう方面ほうめん敵艦てきかんせん攻撃こうげきろくさん作戦さくせん)を重点じゅうてんとする以下いか予定よていひょう立案りつあんした[7]

  • 6月1にち ろくいち作戦さくせんレカタ英語えいごばん輸送ゆそう警戒けいかい
  • 6月5にち ろく作戦さくせん(レカタ輸送ゆそう警戒けいかい
  • 6月5にち~16にち ろくさん作戦さくせん(ガダルカナルとう敵艦てきかんせん攻撃こうげき
  • 6月8にち ろくよん作戦さくせんななそらからななそらへの洋上ようじょう哨戒しょうかい交代こうたい
  • 6月11にち ろく作戦さくせんスルミ輸送ゆそう警戒けいかい
  • 6月13にち以降いこう ろくろく作戦さくせんエスピリッツサントとうまたカントンとう夜間やかん攻撃こうげき

このろくさん作戦さくせん内容ないよう以下いかのようであったと推測すいそくされる[8]

  • 目的もくてき ガダルカナルとう方面ほうめんてき航空機こうくうきおよび艦船かんせん撃滅げきめつ
  • 参加さんか部隊ぶたい だいだいろく空襲くうしゅう部隊ぶたい[ちゅう 3]所属しょぞく戦闘せんとうたいかんばくたいおよびりく偵隊。
  • 戦闘せんとうたいのみによる事前じぜん航空こうくう撃滅げきめつせん(ソ作戦さくせん呼称こしょう) ラッセル諸島しょとう方面ほうめん進攻しんこうし、てき湧出ゆうしゅつしてこれを撃滅げきめつ一部いちぶれいせんてき飛行場ひこうじょう爆撃ばくげき
  • せんばく連合れんごうによる敵艦てきかんせん攻撃こうげきならびにてき撃滅げきめつ(セ作戦さくせん呼称こしょう) ソ作戦さくせん終了しゅうりょう実施じっし
  • 適地てきち偵察ていさつ りく偵隊は事前じぜんてきじょうおよび天候てんこうならびに爾後じご戦果せんか偵察ていさつ実施じっし
  • 使用しよう基地きち
    • だい空襲くうしゅう部隊ぶたい れい戦隊せんたい ブカりく偵隊 ブイン
    • だいろく空襲くうしゅう部隊ぶたい ブイン
  • 実施じっし時期じき ソ作戦さくせん 6月7にち開始かいし、セ作戦さくせん 特例とくれいにより実施じっし

作戦さくせん参加さんか部隊ぶたいと6がつ上旬じょうじゅん時点じてん稼働かどうすう[9]

だいいち作戦さくせんでは、一部いちぶれいせんに30キロばくだん携行けいこうさせ、それによって地上ちじょう撃破げきはしようというあたらしいこころみがあった。これはよんそら司令しれい杉本すぎもとうしまもる大佐たいさ発案はつあんであったが、られる戦果せんかして被害ひがいおおきいことが判明はんめいして中止ちゅうしされた[10]

経過けいか[編集へんしゅう]

ソロモン諸島しょとう上空じょうくうれいせんがた、1943ねんごろ

だいいち「ソ」作戦さくせん[編集へんしゅう]

6月6にちあさいちいちそらいち〇〇しき司令しれい偵察ていさつがツラギこう、ルンガ泊地はくち写真しゃしん偵察ていさつ実施じっし大型おおがた輸送ゆそうせんいちせきどう中型ちゅうがたさんせき同小どうしょうがた10せきなどをほうじ、翌朝よくあさ同様どうようにブインを発進はっしんしたいち〇〇しき偵がラッセル諸島しょとう方面ほうめん天候てんこう偵察ていさつ実施じっし天候てんこう良好りょうこうほうじた[11]だいいち基地きち航空こうくう部隊ぶたい指揮しきかんは6がつ6にちろくさん作戦さくせん予定よていどおり7にちから開始かいしするむね発令はつれいいちそられい戦隊せんたい40がブカに、〇四空零戦隊32がブインにそれぞれ進出しんしゅつ、すでにブインで作戦さくせんちゅうであったはちそられい戦隊せんたい合流ごうりゅうした[9]

ブインはこの前日ぜんじつ戦闘せんとうやく40かんばくやく18B-171による昼間ひるま空襲くうしゅうがあった。これにたいし、日本にっぽん海軍かいぐんベララベラとう見張みはしょからの警報けいほうもとづきはちそられいせん21きゅうさんはちそられいかん9発進はっしんれいせん3帰還きかんとなり、海上かいじょうトラックのかみ徳丸とくまる沈没ちんぼつした[9]

攻撃こうげきたい編成へんせい以下いかとお[12]

  • だいいち突撃とつげきたい はちそら れいせん21
  • だい突撃とつげきたい よんそら れいせん24
  • だいさん突撃とつげきたい いちそら れいせん36
F4F-4戦闘せんとう、ガダルカナルとうヘンダーソン飛行場ひこうじょう、1942ねん

6月7にち645ふん攻撃こうげきたいだいさん突撃とつげきたいがブカを発進はっしん[13]、そのブインを発進はっしんしただいいちだい突撃とつげきたいうち8ばくそう)と715ふん合同ごうどうけい81れいせんがガダルカナルとう方面ほうめんかった。攻撃こうげきたいは815ふんごろ、ガトカエとう付近ふきんでF4F戦闘せんとう8遭遇そうぐう交戦こうせん[14]、その845ふん、ラッセル諸島しょとう上空じょうくう突入とつにゅう邀撃ようげきしてきたP-38P-39F4FF4Uなどすうじゅう戦闘せんとうはげしい空戦くうせんおこない、一部いちぶはラッセル諸島しょとうてき飛行場ひこうじょう爆撃ばくげきした[15]攻撃こうげきたいはその一部いちぶがムンダで給油きゅうゆし、1030ふん~1340ふんまでに発進はっしん基地きち帰投きとうした[16]

だいいち基地きち航空こうくう部隊ぶたい指揮しきかんはこのよる戦闘せんとうがいほうをもって、てき戦闘せんとう41撃墜げきつい報告ほうこくした。またこの攻撃こうげきよんそらに3いちそらに6れいせん帰還きかんとなった。さらに所見しょけんとして、空中くうちゅう連絡れんらく指揮しきじょう優秀ゆうしゅう無線むせんそなえ、戦闘せんとうようばくだん投下とうか性能せいのう低下ていかしょうじさせるため改善かいぜん必要ひつようがあるとのことだった[16]連合れんごうぐんはこの110戦闘せんとうをもって迎撃げいげきうち7うしなった[17]

よく8にち、ラバウルでだいいち作戦さくせんかんする研究けんきゅうかいひらかれた。席上せきじょう参加さんか部隊ぶたいからおおくの意見いけんたがおもなものは以下いかとおりであった[18]

  • 一人ひとり指揮しきかん掌握しょうあく最大さいだいすうについて、従来じゅうらいは27~36とされていたが、27たい(54程度ていど掌握しょうあく可能かのうであり、昨日きのう作戦さくせん程度ていどすうでもさん編隊へんたい81事前じぜんわせを十分じゅうぶん実施じっししていれば、指揮しきかん一人ひとりでも作戦さくせん可能かのうである。
  • たい大型おおがた戦闘せんとうではいち小隊しょうたい4編成へんせいたい小型こがたたいしてはそれ以上いじょう編成へんせいとすること有利ゆうりである。いかなる場合ばあいでも4最小さいしょう限度げんどで、これ以上いじょう分離ぶんりすることは被害ひがい防止ぼうしてんからも不可ふかである。

よんそらは5がつ以降いこうほとんどの作戦さくせんいち小隊しょうたい4編成へんせい使用しようしており、5月にさい進出しんしゅつしてきたいちそら従来じゅうらいからのいち小隊しょうたい3編成へんせいをとってだいいち作戦さくせんのぞんだ結果けっか被害ひがいおおく、この結果けっかかく部隊ぶたいいち小隊しょうたい4編成へんせいとして急速きゅうそく訓練くんれんすることとなった。

だい「ソ」作戦さくせん[編集へんしゅう]

VMF-124所属しょぞくのF4U戦闘せんとう、ガダルカナル、1943ねん2がつ

6月11にちいちそられい戦隊せんたい34がブカに、〇四空零戦隊24およびいちいちそらいち〇〇しき偵1がブインに進出しんしゅつよく12にち予定よていどおだい作戦さくせん実施じっしされた[19]。この前回ぜんかい同様どうよう天候てんこう偵察ていさつしきかん偵によって早朝そうちょう実施じっしされ[20]、ラッセル諸島しょとう方面ほうめん天候てんこう良好りょうこうとの報告ほうこくもとづき、いちそられいせん32よんそらどう24はちそらどう21合計ごうけい77れいせんが650ふんブイン上空じょうくう合同ごうどう進撃しんげき開始かいしした。830ふんごろラッセル諸島しょとう上空じょうくうたっし、やく30ふんほど邀撃ようげきがった連合れんごうぐん戦闘せんとうやく70空戦くうせんまじえ、およそ11前後ぜんこうかくたい発進はっしん基地きち帰投きとうした[21]だいいち基地きち航空こうくう部隊ぶたい指揮しきかんはこの夕方ゆうがただい作戦さくせん結果けっか戦闘せんとう速報そくほうをもって報告ほうこく戦果せんかとしててき戦闘せんとう32撃墜げきつい被害ひがいとして帰還きかん6不時着ふじちゃく1とした。また、その所見しょけんなかで、てき戦闘せんとう戦意せんい前回ぜんかい比較ひかくして消極しょうきょくてきであり、もっぱら自軍じぐん追撃ついげきせん様相ようそうであったこと、またてき戦闘せんとうとの空戦くうせんちゅう、ラッセル諸島しょとう飛行場ひこうじょうから飛行機ひこうき発進はっしんおもわれる砂塵さじんみとめたことなどをあげている[19]。このような航空こうくう作戦さくせん実施じっししたにもかかわらず、攻撃こうげきたい帰投きとういち〇〇しき偵によって実施じっしされた戦果せんか確認かくにんにおいて、ガとうだいいち飛行場ひこうじょう小型こがたやく50どうだい飛行場ひこうじょう小型こがたやく100大型おおがたやく50どうだいさん飛行場ひこうじょう小型こがたやく50みとめ、そのにラッセル諸島しょとう、ルンガ泊地はくち、ツラギこうなどに大小だいしょう輸送ゆそうせん18せき駆逐くちくかん7せきみとめた[22]。なおこの連合れんごうぐんがわ実際じっさい被害ひがい戦闘せんとう6喪失そうしつであり、二人ふたりのぞいたすべての搭乗とうじょういん救出きゅうしゅつされている [23]

「セ」作戦さくせん(ルンガおき航空こうくうせん[編集へんしゅう]

ガダルカナルとうヘンダーソン飛行場ひこうじょう、1943ねん4がつ11にち

6月13にちだいいち基地きち航空こうくう部隊ぶたいだいいちだい作戦さくせんによっててき航空こうくう部隊ぶたいたい十分じゅうぶん戦果せんかをあげたと判断はんだん、16にちにセ作戦さくせん実施じっしするむね命令めいれいした。実施じっしにあたり、ろくよん作戦さくせんによって洋上ようじょう哨戒しょうかい交代こうたいしたななそらりくおさむが13にち~15にちにかけてガダルカナルとう夜間やかん爆撃ばくげきし「セ」作戦さくせん協力きょうりょくした。またセ作戦さくせん参加さんか部隊ぶたいは、ソ作戦さくせん同様どうよう前日ぜんじつの15にちちゅうにブイン、ブカりょう基地きち進出しんしゅつ攻撃こうげき準備じゅんびととのえた[24]

16にち早朝そうちょう、ブインからいち〇〇しき偵1発進はっしん、6からやく10分間ふんかんとう方面ほうめん事前じぜん偵察ていさつ実施じっし、ラッセル諸島しょとう、ルンガ泊地はくち、ツラギこうなどに大小だいしょう輸送ゆそうせん20せき以上いじょう、その駆逐くちくかん1せき大発だいはつ多数たすう発見はっけん報告ほうこくをした[25]。またガとう付近ふきん天候てんこうもまれに好天こうてんであった。攻撃こうげきたいだいいち基地きち航空こうくう部隊ぶたい指揮しきかんの「セ作戦さくせん成功せいこうス」の激励げきれいでん見送みおくられ、10にこれまでと同様どうようにブイン上空じょうくう合同ごうどうし、目標もくひょうかって進撃しんげきした。攻撃こうげきたい編成へんせい以下いかとお[24]

  • 援護えんごれい戦隊せんたい いちそら 30よんそら 24はちそら 16
  • かんばくたい    はちそら 24
P-38戦闘せんとう画像がぞうはGがた

攻撃こうげきたいはガとう南西方みなみにしかたから進入しんにゅう、1145ふん、P-38戦闘せんとう8遭遇そうぐうしこれを撃退げきたい、その12ごろにルンガ泊地はくち突入とつにゅうした。かんばくたいは125ふん泊地はくち艦船かんせんぐんたいして攻撃こうげき開始かいし援護えんご戦闘せんとうたい泊地はくち突入とつにゅう同時どうじてき戦闘せんとうやく100空戦くうせんとなった。攻撃こうげきたいは1230ふんごろまでにかくたいごとに戦場せんじょう離脱りだつ、15までには帰着きちゃくした[26]

だいいち基地きち航空こうくう部隊ぶたい指揮しきかんはこのよる戦闘せんとう速報そくほうでこの戦果せんかおよび被害ひがい報告ほうこくした。

  • ばくげき戦果せんかかく250キロばくだん1、60キロばくだん2を携行けいこう
    • ブイン帰着きちゃくよんそらはちそら)の報告ほうこく 輸送ゆそうせん中型ちゅうがた)1せき轟沈ごうちん大型おおがた4せき中型ちゅうがた1せき小型こがた1せき命中めいちゅうだんあり
    • ブカ帰着きちゃくいちそら)の報告ほうこく ルンガみさき西側にしがわ艦船かんせんのみ確認かくにん 全滅ぜんめつ輸送ゆそうせん大型おおがた1せき中型ちゅうがた3せき撃沈げきちん駆逐くちくかん1せき轟沈ごうちん
  • 撃墜げきつい 4
  • 被害ひがい かんばく13 戦闘せんとう14(そのさらに1追加ついか帰還きかん
海岸かいがん往生おうじょうしたLST-340、テニアンとう、1944ねん

上記じょうきのようにおおきな戦果せんかほうじられたものの、その被害ひがいおおく、とくかんばくたい損失そんしつ出撃しゅつげきしたうちの54パーセントが帰還きかんとなった。これはごう作戦さくせんどきの16パーセントにくら非常ひじょうたか数字すうじであった。

さらに報告ほうこくされた連合れんごうこく被害ひがい実態じったいとはおおきくことなり、実際じっさいはソロモン航空こうくう部隊ぶたい対空たいくう砲火ほうかをすりけた日本にっぽんかんばくたい輸送ゆそうかんセレノ英語えいごばん」に2はつ直撃ちょくげきだんあたえたものの、タグボートのたすけをりてルンガみさきげられたことによって沈没ちんぼつはまぬがれ[27]、そのパーヴィスわんまでふたた曳航えいこうされたのち、修理しゅうりのためサンフランシスコへ帰投きとうした[28]。 さらに、揚陸ようりくかんLST-340英語えいごばん」も直撃ちょくげきだんによって火災かさい発生はっせいしたが、のLSTの協力きょうりょくもあり日暮ひぐれには鎮火ちんか成功せいこうしている[27]。この戦闘せんとう6うしなわれた[29]

いち〇〇しき司令しれい偵察ていさつがた

作戦さくせん終了しゅうりょう直後ちょくごの17にちあさいちいちそらいち〇〇しき偵による戦果せんか確認かくにんおこなわれた。前日ぜんじつ攻撃こうげきたいから相当そうとう戦果せんか報告ほうこくがあったにもかかわらず、当日とうじつのガダルカナルとう周辺しゅうへん海域かいいきには依然いぜんとしてだい中小ちゅうしょうわせて20せき程度ていど輸送ゆそうせん存在そんざいみとめた[30]

戦果せんか[編集へんしゅう]

だいいち「ソ」作戦さくせん(6がつ7にち
  • 日本にっぽん戦果せんか報告ほうこく
撃墜げきつい41うち確実かくじつ8
  • 日本にっぽん損失そんしつ
帰還きかん:れいせん9
大破たいは:れいせん5
だい「ソ」作戦さくせん(6がつ12にち
  • 日本にっぽん戦果せんか報告ほうこく
撃墜げきつい33うち確実かくじつ8
  • 日本にっぽん損失そんしつ
帰還きかん:れいせん6
大破たいは:れいせん1
「セ」作戦さくせん(ルンガおき航空こうくうせん)(6がつ16にち
  • 日本にっぽん戦果せんか報告ほうこく
轟沈ごうちん:輸送ゆそうせん大型おおがた1せき中型ちゅうがた4せき駆逐くちくかん1せき
撃墜げきつい32うち確実かくじつ5
  • 日本にっぽん損失そんしつ
帰還きかん:れいせん15艦上かんじょう爆撃ばくげき13
大破たいは:れいせん3
  • 連合れんごうこく戦果せんか報告ほうこく
かんばく32撃墜げきつい戦闘せんとう45撃墜げきつい
  • 連合れんごうこく損失そんしつ
戦闘せんとう6損失そんしつ輸送ゆそうせん1せき擱座かくざ、LST1せき大破たいは

「セ」作戦さくせん大本営だいほんえい発表はっぴょうは6がつ18にちおこなわれ、ルンガおきにおいて大型おおがた輸送ゆそうせん4、中型ちゅうがた輸送ゆそうせん2、小型こがた輸送ゆそうせん1、駆逐くちくかん1を撃沈げきちん大型おおがた輸送ゆそうせん1せきちゅうやぶ飛行機ひこうき34以上いじょう撃墜げきついほうじ、ほん戦闘せんとうを「ルンガおき航空こうくうせん」と呼称こしょうすると発表はっぴょうした[24]連合れんごうぐんがわ戦果せんか判定はんていにも誤認ごにんがあり、6月16にち日本にっぽん海軍かいぐん攻撃こうげきたいし、かんばく32戦闘せんとう45撃墜げきつい発表はっぴょうしていた[31]

影響えいきょう[編集へんしゅう]

ソロモン航空こうくう部隊ぶたいのP-40戦闘せんとう画像がぞうはFがた

だいいち基地きち航空こうくう部隊ぶたい指揮しきかんは16にちよる、セ作戦さくせん終結しゅうけつ発令はつれいした。また、作戦さくせん終了しゅうりょうラバウルで「セ」作戦さくせんかんする研究けんきゅうかい開催かいさいされ、参加さんか部隊ぶたいからおおくの所見しょけん発表はっぴょうがあった[32]

  • てきP-39、P-40戦闘せんとう性能せいのう向上こうじょうしているようにみとめられる。また、編隊へんたい戦法せんぽうがますます巧妙こうみょうになっておりこの対策たいさく必要ひつよう
  • 今回こんかい援護えんご兵力へいりょくきゅうきゅうしきかんばくによるガとう昼間ひるま強襲きょうしゅう無理むりでありY-20(銀河ぎんがまたはじゅうろくためしかんおさむ流星りゅうせい必要ひつよう。またかんばくよん中隊ちゅうたい今回こんかいいち中隊ちゅうたい6よん中隊ちゅうたい編成へんせい)にたいしてはちょく戦闘せんとう144~164必要ひつようである。
  • ソロモン方面ほうめん作戦さくせんもっと苦労くろうしているのは飛行場ひこうじょう不足ふそくであり[ちゅう 4]今回こんかい同様どうよう。ブイン山麓さんろく適地てきちがあるので至急しきゅう調査ちょうさ必要ひつようがある。
  • かんばくたい攻撃こうげきにあたっては、まずゆうげきたいてき牽制けんせいし、その邀撃ようげき着陸ちゃくりく見計みはからって突入とつにゅうすることが適当てきとうである。

現地げんち部隊ぶたいおおきな戦果せんか報告ほうこくしたが、実質じっしつてき打撃だげきはほとんどあたえておらず、かえっておおきな損耗そんこうけてしまった。とくかんばくたい戦力せんりょく喪失そうしつしてしまったこと、戦闘せんとうたい主要しゅよう幹部かんぶおお戦死せんしするなど、今後こんご作戦さくせん遂行すいこうおおきな影響えいきょうあたえてしまった。その結果けっか補充ほじゅう不足ふそく練度れんど急速きゅうそく低下ていかきたし、20日はつかからはじまる連合れんごうぐんによるニュージョージアとうたいする事前じぜん航空こうくう作戦さくせんたいして積極せっきょくてき攻勢こうせいをかけることもできず、6月30にち連合れんごうぐんレンドバとう上陸じょうりくさいしても有効ゆうこう反撃はんげきあたえること出来できなかった[33]。ルンガおき航空こうくうせん損失そんしつだい〇四海軍航空隊の士官しかん航空こうくう搭乗とうじょういん皆無かいむとなった[34]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ だい基地きち航空こうくう部隊ぶたい新編しんぺんともなだいじゅういち航空こうくう艦隊かんたい所属しょぞく部隊ぶたい基幹きかんとする航空こうくう部隊ぶたいが5月18にちをもって改称かいしょう#戦史せんし96、p145
  2. ^ いちそらななそらから構成こうせいされる。#戦史せんし96、p144~p145
  3. ^ だいじゅうろく航空こうくう戦隊せんたい基幹きかんとする部隊ぶたい。このころ所属しょぞく部隊ぶたいよんそらはちそらななそらなど。#戦史せんし96、p78
  4. ^ ほん作戦さくせんいちそらブカよんそらはちそらブインかれて展開てんかいしていた。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 奥宮おくのみや正武まさたけ『ラバウル海軍かいぐん航空こうくうたい学研がっけんM文庫ぶんこ284-285ぺーじ
  2. ^ #戦史せんし96、p176
  3. ^ #Morison、p100
  4. ^ a b #戦史せんし96、p176~p177
  5. ^ だいいち航空こうくう戦隊せんたいはいごう作戦さくせん内地ないち戦力せんりょく回復かいふくちゅうであった。#戦史せんし96、p127
  6. ^ だい航空こうくう戦隊せんたいトラックにあり、情勢じょうせい急変きゅうへん予想よそうされるマーシャル諸島しょとう方面ほうめん投入とうにゅうする予定よていとなっていた。#戦史せんし62、p346 ~p347
  7. ^ #戦史せんし96、p177
  8. ^ #戦史せんし96、p177~p178
  9. ^ a b c #戦史せんし96、p178
  10. ^ 奥宮おくのみや正武まさたけ『ラバウル海軍かいぐん航空こうくうたい学研がっけんM文庫ぶんこ283-284ぺーじ
  11. ^ #いちいちそらaだい47、48画像がぞう
  12. ^ #戦史せんし96、p178~p179
  13. ^ #いちそら、Ref.C08051658400、昭和しょうわ17ねん11月~昭和しょうわ18ねん7がつ 251そら 飛行機ひこうきたい戦闘せんとう行動こうどう調書ちょうしょ だい23、24画像がぞう
  14. ^ #はちそらだい21画像がぞう
  15. ^ #よんそらだい16、17画像がぞう
  16. ^ a b #戦史せんし96、p179
  17. ^ #Morison、p139
  18. ^ #戦史せんし96、p180
  19. ^ a b #戦史せんし96、p181
  20. ^ #いちいちそらbだい6画像がぞう
  21. ^ #いちそらだい32、33画像がぞう#よんそらだい23、24画像がぞう#はちそらだい33、34画像がぞう
  22. ^ #いちいちそらbだい7、8画像がぞう
  23. ^ World War II Resources-NAVY DEPARTMENT COMMUNIQUES N. D. COMMUNIQUÉ NO. 404, JUNE 8, 1943”. US Government. 2012ねん8がつ20日はつか閲覧えつらん
  24. ^ a b c #戦史せんし96、p182
  25. ^ #いちいちそらbだい11~14画像がぞう
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  28. ^ DICTIONARY of American Naval Fighting Ships-Celeno”. NAVAL HISTORICAL CENTER. 2012ねん8がつ20日はつか閲覧えつらん
  29. ^ World War II Resources-NAVY DEPARTMENT COMMUNIQUES N. D. COMMUNIQUÉ NO. 418, JUNE 19, 1943”. US Government. 2012ねん8がつ20日はつか閲覧えつらん
  30. ^ #いちいちbだい15、16画像がぞう
  31. ^ World War II Resources,N. D. COMMUNIQUÉ NO. 418, JUNE 19, 1943
  32. ^ #戦史せんし96、p184
  33. ^ #戦史せんし96、p184~p185
  34. ^ 奥宮おくのみや正武まさたけ『ラバウル海軍かいぐん航空こうくうたい学研がっけんM文庫ぶんこ285ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • アジア歴史れきし資料しりょうセンター(公式こうしき防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ
    • Ref.C08051644400『昭和しょうわ18ねん4がつ昭和しょうわ18ねん7がつ 151そら 飛行機ひこうきたい戦闘せんとう行動こうどう調書ちょうしょ(1)』。 
    • Ref.C08051644500『昭和しょうわ18ねん4がつ昭和しょうわ18ねん7がつ 151そら 飛行機ひこうきたい戦闘せんとう行動こうどう調書ちょうしょ(2)』。 
    • Ref.C08051648500『昭和しょうわ18ねん11月~昭和しょうわ18ねん12月 201そら 飛行機ひこうきたい戦闘せんとう行動こうどう調書ちょうしょ(1)』。 
    • Ref.C08051656500『昭和しょうわ18ねん10がつ昭和しょうわ18ねん11月 204そら 飛行機ひこうきたい戦闘せんとう行動こうどう調書ちょうしょ(3)』。 
    • Ref.C08051686200『昭和しょうわ18ねん7がつ昭和しょうわ19ねん2がつ 582そら 飛行機ひこうきたい戦闘せんとう行動こうどう調書ちょうしょ(4)』。 
  • 防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ戦史せんししつへん戦史せんし叢書そうしょ96 南東なんとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん(3)ガとう撤収てっしゅうあさくも新聞しんぶんしゃ、1976ねん
  • Morison, Samuel Eliot (1950). History of United States Naval Operations in World War II VOLUME 6 "Breaking the Bismarcks Barrier". Annapolis, Maryland, USA: Naval Institute Press. ISBN 978-1591145523 べい公刊こうかん戦史せんし
  • World War II Resources” (英語えいご). 2012ねん8がつ20日はつか閲覧えつらん
  • Naval History and Heritage Command” (英語えいご). 2012ねん8がつ20日はつか閲覧えつらん