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おのみち文学ぶんがくかん

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文学公園
文学ぶんがく公園こうえん
文学公園と尾道水道
文学ぶんがく公園こうえん尾道おのみち水道すいどう

おのみち文学ぶんがくかん(おのみちぶんがくのやかた)は、広島ひろしまけん尾道おのみち千光寺せんこうじさん中腹ちゅうふくにあった尾道おのみち市立しりつ文学ぶんがくかん。「文学ぶんがく記念きねんしつ」、「中村なかむら憲吉けんきち旧居きゅうきょ」、「志賀しが直哉なおや旧居きゅうきょ」とその建物たてもの南側みなみがわ記念きねんがたつ「尾道おのみち文学ぶんがく公園こうえん」の4つの施設しせつからなっていた。 現在げんざい尾道おのみち文学ぶんがく公園こうえんとなっている。

概要がいよう[編集へんしゅう]

尾道おのみち旧来きゅうらいより港町みなとちょう商業しょうぎょう工業こうぎょう都市としとしてさかえ、ざいをなしたものや文人ぶんじん墨客ぼっかく市街地しがいちきた風光ふうこう明媚めいびなこの場所ばしょきょかまえることもあった。

はそのなかひとつである志賀しが直哉なおや旧居きゅうきょり、その南側みなみがわに「文学ぶんがく公園こうえん」を整備せいびし、「文学ぶんがく記念きねんしつ」として公開こうかいした。そのときははやし芙美子ふみこ資料しりょう展示てんじ書斎しょさい再現さいげん大林おおばやし宣彦のぶひこ尾道おのみちロケ写真しゃしんなどを展示てんじしていた。志賀しが旧居きゅうきょなのに志賀しが以外いがい資料しりょう展示てんじされていたことに、一部いちぶから批判ひはんもされたようである。その、「中村なかむら憲吉けんきち旧居きゅうきょ」も同様どうよう整備せいびされた。

1998ねん尾道おのみち市制しせい100周年しゅうねんよく1999ねん西にし瀬戸せと自動車じどうしゃどう(しまなみ海道かいどう開通かいつうに、「まちごと芸術げいじゅつ文化ぶんかかん構想こうそう事業じぎょう推進すいしんされた。はその事業じぎょうひとつとして、それまで混在こんざいしていた資料しりょうさい整理せいりし、文学ぶんがく記念きねんしつ本来ほんらいの「志賀しが直哉なおや旧居きゅうきょ」として志賀しがのみの資料しりょうしつとし、さらに尾道おのみちゆかりの作家さっか発掘はっくつ伝承でんしょう作業さぎょうおこな福井ふくいていあらたな文学ぶんがく記念きねんしつとして公開こうかいした。 それら4つの施設しせつひとつにまとめ、1999ねん3がつに「おのみち文学ぶんがくかん」としてさい開館かいかんした。

展示てんじされている資料しりょうほかに、日本にっぽんひゃくけいにもえらばれているこのから絶景ぜっけいたのしむことができる。周辺しゅうへんには映画えいがロケとく大林おおばやし尾道おのみちさんさく)が点在てんざいしている。

文学ぶんがく記念きねんしつ[編集へんしゅう]

文学ぶんがく記念きねんしつ

東土堂ひがしつちどうまち13-28(北緯ほくい3424ふん33びょう 東経とうけい13311ふん57びょう / 北緯ほくい34.40917 東経とうけい133.19917 / 34.40917; 133.19917)。

元々もともと地元じもと企業きぎょう役員やくいん福井ふくいてい庭付にわつきの木造もくぞう平屋ひらやけん、桟瓦葺かわらぶき数寄屋造すきやづくりの建物たてもので、ひがしとう西にしとう茶室ちゃしつからなり、いくつかの部屋へやでは当初とうしょから茶会ちゃかいができるように設計せっけいされている。1912ねん大正たいしょう元年がんねん)にひがしとう、1927ねん昭和しょうわ2ねん)に西にしとう、1928ねん昭和しょうわ3ねん)に茶室ちゃしつぞう改築かいちくおこな現在げんざいかたちとなった。福井ふくい希望きぼうにより、1998ねん建物たてものならびに庭園ていえん整備せいびし、文学ぶんがく記念きねんしつとして公開こうかいした。

尾道おのみちゆかりの作家さっかであるはやし芙美子ふみこ高垣たかがきひとみ横山よこやま美智子みちこ行友ゆきとも李風りふう歌人かじんである中村なかむら憲吉けんきち山下やました陸奥むつ麻生あそうろう愛用あいようひん書簡しょかん直筆じきひつ原稿げんこうとう展示てんじしている。とくに、はやし芙美子ふみこについては東京とうきょういえにあった書斎しょさい再現さいげんされている。中村なかむら憲吉けんきち遺作いさく展示てんじしている。

ちなみにこの建物たてものは、映画えいが太陽たいようかない」(1976ねん飯塚いいづか二郎じろう)「あの、なつ」(1998ねん大林おおばやし宣彦のぶひこ)のロケでもある。

2004ねん9がつ10日とおかきゅう福井ふくい住宅じゅうたく尾道おのみち文学ぶんがく記念きねんしつおも茶室ちゃしつ土蔵どぞうとして、くに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい登録とうろくされた。

志賀しが直哉なおや旧居きゅうきょ[編集へんしゅう]

志賀しが直哉なおや旧居きゅうきょ暗夜あんや行路こうろ石碑せきひ

東土堂ひがしつちどうまち8-28(北緯ほくい3424ふん31びょう 東経とうけい13311ふん57びょう / 北緯ほくい34.40861 東経とうけい133.19917 / 34.40861; 133.19917)。

志賀しが直哉なおやは1912ねん大正たいしょう元年がんねん)11月、白樺しらかんばのありかたへの疑問ぎもんちちとの不和ふわから東京とうきょうはなれ、友人ゆうじんがほめていたというこの移住いじゅう。6じょう3じょうの2部屋へや土間どま台所だいどころだけの平屋ひらやさんけんとうわり長屋ながやで、ここで代表だいひょうさく暗夜あんや行路こうろ構想こうそう起稿きこうした。ちなみに、だんをとるためにガス会社かいしゃからストーブをりていたが、そのガス使用しようりょう尾道おのみちちゅうで2番目ばんめであったという。その1914ねん大正たいしょう3ねんちゅうごろまで在住ざいじゅうした。

おのみち文学ぶんがくかんとして整備せいびされるまえは、ここが文学ぶんがく記念きねんしつとしてはやし芙美子ふみこ書斎しょさい資料しりょう大林おおばやし宣彦のぶひこ尾道おのみちロケ写真しゃしんなどを展示てんじしていた。のちにはやしのものはあたらしい文学ぶんがく記念きねんしつうつ大林おおばやしのものはなくなって、現在げんざいでは志賀しがのみの資料しりょう展示てんじしている。

いちけん写真しゃしん手前てまえにあたる)とけん受付うけつけおよび展示てんじじょうさんけん志賀しがんだ当時とうじ部屋へや様子ようす再現さいげんされている。南側みなみがわ縁側えんがわから景色けしきたのしめる。

文学ぶんがく公園こうえんはこのすぐ南側みなみがわにあり、文学ぶんがくかん整備せいびされた経緯けいい記載きさいされた記念きねんなどがたっている。

中村なかむら憲吉けんきち旧居きゅうきょ[編集へんしゅう]

中村なかむら憲吉けんきち旧居きゅうきょ

東土堂ひがしつちどうまち15-10(北緯ほくい3424ふん36びょう 東経とうけい13311ふん57びょう / 北緯ほくい34.41000 東経とうけい133.19917 / 34.41000; 133.19917)。

中村なかむら憲吉けんきちは1933ねん昭和しょうわ8ねん)12月25にち病気びょうき療養りょうようのためにこのおとずれ、1934ねん昭和しょうわ9ねん)5がつ5にちくなった。斎藤さいとう茂吉しげよしをはじめとするおおくの文人ぶんじんたちが見舞みまいにおとずれたといわれている。

ここでは施設しせつちがい、はな建物たてもののみ見学けんがくできる。中村なかむら資料しりょうなどは文学ぶんがく記念きねんしつほう展示てんじされている。ちなみに、施設しせつからすこはなれたところにある。

まえには文学ぶんがくち、そこから「文学ぶんがくのこみち」へとつづいている。

閉鎖へいさ[編集へんしゅう]

  • 近年きんねん入場にゅうじょうしゃすう減少げんしょうで、文学ぶんがく記念きねんしつ志賀しが直哉なおや旧居きゅうきょが2020ねん3がつまつ閉館へいかん市議会しぎかい議決ぎけつて、所有しょゆうしゃ返還へんかん中村なかむら旧居きゅうきょ公園こうえんつづ活用かつようする[1]

交通こうつう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 尾道おのみち文化ぶんか施設しせつ閉鎖へいさ解体かいたい方針ほうしん相次あいつ収集しゅうしゅう史料しりょうえぬ活用かつようビジョン(中国ちゅうごく新聞しんぶん.2020-02-27) - ウェイバックマシン(2020ねん11月4にちアーカイブぶん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]