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アカルナニア

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アカルナニア

Ἀκαρνανία
古代こだいギリシア地方ちほう


うえ:ストラトス英語えいごばんゼウス・ストラティオス神殿しんでんあと
なか:メデオン英語えいごばん近郊きんこう古代こだい城塞じょうさいあと
した:ニコポリス英語えいごばん古代こだい劇場げきじょうあと
古代アカルナニアの地図
古代こだいアカルナニアの地図ちず
Country 古代こだいギリシア
位置いち 西にしギリシア
主要しゅよう都市とし ストラトス英語えいごばん
方言ほうげん ドーリス方言ほうげん英語えいごばん

アカルナニア古希こき: Ἀκαρνανία, Acarnāniā)は、 古代こだいギリシア中西部ちゅうせいぶ地方ちほうである。長音ちょうおんによりアカルナーニアーアカルナーニアとも表記ひょうきされる。アケロオスがわはさんだアイトリア地方ちほう西にし地域ちいきで、コリントスわん入口いりくちであるカリュドンわんきたイオニアかい沿岸えんがん位置いちしている。ちょうど現代げんだいエトリア=アカルナニアけん西部せいぶ地域ちいき相当そうとうする。古代こだい主要しゅよう都市としストラトス英語えいごばんギリシア神話しんわによるとアカルナニアという地名ちめいアルクマイオン息子むすこアカルナン由来ゆらいする[1][2]

地理ちり[編集へんしゅう]

アカルナニア地方ちほういわおお海岸かいがんせん海岸かいがんせんつづ細長ほそながけわしい山脈さんみゃくと、これらの山々やまやまとアケロオスがわあいだにある平野へいやの、3つの主要しゅよう地域ちいき構成こうせいされている。

古代こだいではアカルナニア地方ちほうはギリシアでもっと西にしにあるしゅうなされており、きたアンブラキアわん北東ほくとうはアンピロキア、西にしイオニアかいひがしはアイトリア地方ちほうかこまれ、やく4,070平方へいほうキロメートルの土地とちふくまれていた。古代こだいローマ支配しはいか、おそらくそのすこまえ時代じだいに、アケロオスがわはアカルナニア地方ちほうとアエトリア地方ちほう境界きょうかいとなった。しかしペロポネソス戦争せんそう時代じだいには、アカルナニア地方ちほう都市としオイニアダイ英語えいごばん領土りょうどかわ東部とうぶ地域ちいきひろがっていた。内陸ないりく標高ひょうこうひくもりやまおおわれ、山々やまやまあいだにはいくつかのみずうみおおくの肥沃ひよくたにがある。主要しゅよう河川かせんはアケロオスかわであり、その下流かりゅう部分ぶぶんはのちにパラケロイティスとばれる[3]肥沃ひよく広大こうだい平原へいげんながれている。19世紀せいきまでに平野へいや湿地しっちおおわれており、そのだい部分ぶぶんはアケロオスがわ沖積ちゅうせき堆積たいせきぶつ形成けいせいされたとおもわれる。くわえてかわがそのながれを頻繁ひんぱんえたために、アカルナニア地方ちほう南部なんぶ海岸かいがん古来こらいよりいくとなく変化へんかしてきた。アケロオスがわおも支流しりゅうはアナポスがわἌναπος)で、ストラトスのみなみ80スタディオンの場所ばしょ合流ごうりゅうした。

海岸かいがんにはいくつかのみさきがあり、これらのうち古代こだい著述ちょじゅつとくアクティウム(アクティオン)みさきと、西海岸にしかいがん都市としアスタコス英語えいごばんちいさなわん片側かたがわ形成けいせいするクリトテみさき(Κριθωτή)の名前なまえげている。内陸ないりくみずうみのうち唯一ゆいいつ言及げんきゅうされているのは、オイニアダイの領土りょうどにあるメリテΜελίτη, 現代げんだいトリホニダ)である。レウカスとうとアンブラキアわんあいだかたまたはしおみずうみがあり、ストラボンはこの場所ばしょをミュルトゥンティオン(Μυρτούντιον)とんだ[4]。アカルナニア地方ちほう大地だいち肥沃ひよくであったが、住民じゅうみんはあまり耕作こうさくしなかった。特産とくさんぶつについて古代こだい著述ちょじゅつはめったにれていないが、だいプリニウス鉄鉱てっこうせき[5]、アクティウムおき真珠しんじゅ採取さいしゅじょうについて言及げんきゅうしている[6]住民じゅうみん主要しゅよう財産ざいさんは、アケロオスがわしも流域りゅういきにあるゆたかな牧草ぼくそう放牧ほうぼくされたうしひつじれで構成こうせいされていた。

アカルナニア地方ちほう西海岸にしかいがんおきにはおおくのしまがある。これらのなかもっと重要じゅうようなのはアケロオスがわ河口かこうからきた海岸かいがん沿ってびるエキナデス諸島しょとう英語えいごばん、もともと本土ほんど一部いちぶ形成けいせいしていたが、その運河うんがによって本土ほんどからへだてられたレウカスとう、そしてアカルナニア地方ちほうとレウカスとうあいだにあるタピアイ諸島しょとうである。

歴史れきし[編集へんしゅう]

ペロポネソス戦争せんそう以前いぜん[編集へんしゅう]

アカルナニア地方ちほう地図ちず
コリントスの植民しょくみん都市としアナクトリオン貨幣かへい。コリントスとかかわりのふかペーガソスと、コリントしきかぶとをかぶった女神めがみアテナえがかれている。

アカルナニア地方ちほう名前なまえは、ふる時代じだいられていなかったようである。ぜん8世紀せいきごろホメロス頻繁ひんぱんにアイトリアじんについて言及げんきゅうしているが、イタケとうケパレニアとう対岸たいがんくにを「エペイロス」(Ἤπειρος)あるいは本土ほんどんでいるにぎない[7][注釈ちゅうしゃく 1]

この地方ちほうはもともとタポスじん(またはテレボエスじん)、レレゲスじん、クレテスじんんでいたとわれている。タポスじんおもにアカルナニア地方ちほう西海岸にしかいがんおき島々しまじま分布ぶんぷし、海賊かいぞく行為こうい生業せいぎょうとしていた[9]。レレゲスじんはより広範囲こうはんいひろがり、ある時代じだいにアイトリア、ロクリス、およびギリシアのほか地域ちいきをも占有せんゆうしていた。クレテスじんはもともとアイトリア地方ちほうんでいたが、神話しんわてきおうアイトロスとその追随ついずいしゃによってアイトリア地方ちほうから追放ついほうされたのち、アカルナニア地方ちほう定住ていじゅうしたとわれる[10][11]。アカルナニア地方ちほう名前なまえは、アケロオスがわ河口かこう定住ていじゅうしたアルゴス英雄えいゆうアルクマイオンの息子むすこアカルナンに由来ゆらいしている[1][2]。この伝承でんしょうはおそらくアルゴスじん植民しょくみん都市としはや時期じきにアカルナニア地方ちほう海岸かいがん建設けんせつされたことと関係かんけいがある。

ぜん7世紀せいき[12]コリントスアナクトリオンソリオンレウカスを、ケパレニアとうがアスタコスを建設けんせつすると、この地域ちいきにおけるギリシアの影響えいきょう顕著けんちょになり、アカルナニア地方ちほう元来がんらい住民じゅうみんはより内陸ないりくいやられた。そしてペロポネソス戦争せんそうときでさえ、かれらは無作法ぶさほう野蛮やばんじんであり、隣人りんじんとの継続けいぞくてき戦争せんそう従事じゅうじし、略奪りゃくだつ海賊かいぞく行為こういかえしていた[13]アリュゼイアコロンタ英語えいごばんリムナイア英語えいごばんメデオン英語えいごばん、オイニアダイ、パライロス英語えいごばんポイティアイ英語えいごばん、ストラトスといった都市としトゥキュディデスによって言及げんきゅうされている。後者こうしゃ都市としは、ぜん1世紀せいき後半こうはんまで維持いじされていた、アカルナニア地方ちほうしょ勢力せいりょくゆる連合体れんごうたい本拠地ほんきょちである。

古代こだいアカルナニアじん隣人りんじんバルバロイあるいはギリシア民族みんぞくであったアンブラキアわんのアグライアやアンピロキアと密接みっせつ関係かんけいにあったが、ギリシアじんであったため、ギリシアよんだい大会たいかいオリュムピア競技きょうぎさいピュティア競技きょうぎさいイストミア競技きょうぎさいネメア競技きょうぎさい)に参加さんかすることがみとめれていた。粗野そや山岳さんがくみん同様どうように、アカルナニアじん忠実ちゅうじつさと武勇ぶゆう賞賛しょうさんされていた。かれらは投石とうせき練達れんたつした、すぐれた軽装けいそう歩兵ほへい部隊ぶたい編成へんせいした。おおくの場合ばあい、アカルナニアじん村落そんらく分散ぶんさんしてみ、攻撃こうげきされると山中さんちゅう後退こうたいした。しかしストラボンによると、アリストテレス散逸さんいつした作品さくひんἈκαρνάνων Πολιτεία)のなかでアカルナニアじんアカルナニア同盟どうめい英語えいごばん団結だんけつしたと報告ほうこくしている。トゥキュディデスは、アンピロキア・アルゴス英語えいごばんからやく4.8 kmのところにある、紛争ふんそう解決かいけつのための司法しほう会議かいぎとしてアカルナニアじん要塞ようさいしたオルパイ英語えいごばんばれるおかについて言及げんきゅうしている[14]同盟どうめい会合かいごう通常つうじょう、アカルナニアの主要しゅよう都市としであるストラトスで開催かいさいされた[15][16]。しかし、ローマ時代じだいには同盟どうめい会合かいごうテュリオン英語えいごばんかレウカスのどちらかでおこなわれ、後者こうしゃ当時とうじ、アカルナニア地方ちほう主要しゅよう都市としとなっていた[17][18][19]

アンピロキアの一部いちぶがアカルナニアじんぞくしていた初期しょきころかれらはオルパイでおおやけ司法しほう会議かいぎ開催かいさいしていた。アカルナニア同盟どうめい詳細しょうさいはほとんどられていない。アクティウムの遺跡いせき発見はっけんされた碑文ひぶんから、議会ぎかい将軍しょうぐん総会そうかいがあり、それによって法令ほうれい可決かけつされたことがかっている。同盟どうめいのトップはストラテゴス(Στρατηγός, 将軍しょうぐん)であり、評議ひょうぎかいにはアカイア同盟どうめいアエトリア同盟どうめい同様どうよう重要じゅうよう人物じんぶつであったらしいグラマテウス(γραμματεύς, 書記しょき)がいた。アクティウムのアポロン神殿しんでん神官しんかんヒエラポロス(ἱεραπόλος)は高位こうい人物じんぶつであったらしく、アテナイ最高さいこうアルコンのように、ヒエラポロスかストラテゴスの名前なまえのどちらかが公式こうしき日付ひづけ採用さいようされた。

ペロポネソス戦争せんそうからマ帝国まていこく[編集へんしゅう]

古代こだいアカルナニアの貨幣かへいぜん300ねんからまえ167ねん女神めがみアテナとうしかくかわしんアケロオスがえがかれている。

アカルナニア地方ちほうイタリアへの海路かいろじょう戦略せんりゃくてき位置いちするため、おおくの戦争せんそうまれた。最良さいりょうみなとをすべてうばったコリントスの入植にゅうしょくしゃたいするにくしみは、当然とうぜん帰結きけつとして、アカルナニアじんをアテナイがわいやった。しかし後者こうしゃとの同盟どうめい直接ちょくせつ原因げんいんは、紀元前きげんぜん432ねんごろアンブラキアから入植にゅうしょくしたコリントスじんが、アンピロキアじんをアンピロキア・アルゴスから追放ついほうしたことによってしょうじた。アカルナニアじん追放ついほうされたアンピロキアじん支持しじし、後者こうしゃ回復かいふくるためにアテナイに援助えんじょもうた。アテナイじんはこれにおうじて、ポルミオン指揮しきのもと出兵しゅっぺいした。ポルミオンはアルゴスを占領せんりょうして、アンブラキアじん追放ついほう都市としをアンピロキアじんとアカルナニアじんもどした。ただちにアカルナニアじんとアテナイのあいだ同盟どうめい正式せいしき締結ていけつされた。同盟どうめい参加さんかしなかった都市としはオイニアダイとアスタコスだけであった。

アカルナニアじんはギリシア西部せいぶ地域ちいきにおけるアテナイの覇権はけん維持いじするのにおおいに貢献こうけんした。とくにアカルナニアじんまえ426ねんオルパイのたたか英語えいごばんにおいてデモステネス指揮しきでその存在そんざいかんせつけ、ペロポネソスじんとアンブラキアじんたいしてだい勝利しょうりした[20]。この戦役せんえきわりに、かれらはアテナイとの同盟どうめい関係かんけい継続けいぞくしていたが、アンブラキアと和平わへいむすんだ[21]紀元前きげんぜん391ねん、アカルナニアじんはアイトリア地方ちほう都市としカリュドン保持ほじしていたアカイアじん戦争せんそうした。後者こうしゃはアカルナニアじんつよされていたため、スパルタ救援きゅうえんもとめ、スパルタはアゲシラオス2せい指揮しきする軍隊ぐんたいをアカルナニアに派遣はけんした。後者こうしゃはアカルナニア地方ちほう略奪りゃくだつしたが、アゲシラオス2せい遠征えんせい長期ちょうきてき結果けっかともなわなかった[15]。アカルナニアの都市としはスパルタに降伏ごうぶくし、しばらくのあいだスパルタの同盟どうめいこくとなる一方いっぽうで、ぜん375ねんにアテナイのだい海上かいじょう同盟どうめい英語えいごばんくわわった。アカルナニアじんのちにスパルタとのたたかいでボイオティアひと支持しじし、カイロネイアのたたかではマケドニアおうピリッポス2せいたたかったアテナイを支持しじした。

アレクサンドロス大王だいおう死後しご時代じだいぜん314ねん、マケドニアおうカッサンドロス要請ようせいにより、アイトリア地方ちほうとの国境こっきょうちかくのアカルナニアの集落しゅうらく少数しょうすうのよりおおきな集落しゅうらくしゅうじゅうした。それでも、アイトリアじん国境こっきょうをめぐる紛争ふんそう頻発ひんぱつし、ぜん250ねんにアカルナニアの領土りょうどはアイトリアとエペイロスのあいだ分割ぶんかつされた。エペイロスおうたおれたのち、エペイロスりょうとなっていたアカルナニアの領土りょうど独立どくりつもどし、レウカスはこの地域ちいき首都しゅとになったが、アイトリアじんとの対立たいりつのこっていた。その結果けっか、アカルナニアじんはマケドニアのおうたちと緊密きんみつ団結だんけつし、有為転変ういてんぺんなかでも忠実ちゅうじつでありつづけた。ピリッポス5せいたいしても同様どうようであったかれらがローマ服従ふくじゅうしたのは、主要しゅよう都市としであるレウカスが占領せんりょうされ、キュノスケファライのたたかでピリッポス5せい敗北はいぼくしたのちのことであった[22]ぜん191ねんシリアアンティオコス3せいがギリシアに侵攻しんこうすると、アカルナニアじん同胞どうほうのムナシロコスに説得せっとくされて、アンティオコス3せい支持しじしたが、かれマグネシアのたたか敗北はいぼくし、ギリシアから追放ついほうされるとふたたびローマの支配しはいかれた[23]ぜん168ねんのマケドニアおうペルセウス敗北はいぼくルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスとローマの委員いいんによるギリシア情勢じょうせい解決かいけつにおいて、レウカスはアカルナニア地方ちほうから分離ぶんりされ[24]、テュリオンがしん首都しゅと任命にんめいされた。

ぜん1世紀せいき、アカルナニア地方ちほう海賊かいぞくとローマの内戦ないせんによっておおきくくるしんだ。ギリシアがローマのぞくしゅうとして縮小しゅくしょうされたとき、アカルナニア地方ちほうアカエアぞくしゅうあるいはエピロスぞくしゅう英語えいごばん併合へいごうされたかどうかはうたがわしいが、のちにエピロスの一部いちぶとして言及げんきゅうされている。そのまちのいくつかの住民じゅうみんは、アウグストゥスによってアクティウムの海戦かいせんのち建設けんせつされたニコポリス英語えいごばんうつされ、アカルナニア地方ちほうはニコポリスの支配しはいかれた。そしてアウグストゥスの時代じだいには、ストラボンによってない戦乱せんらんのために完全かんぜんつかててしまったと説明せつめいされた[7]

ひがしマ帝国まていこく以降いこう[編集へんしゅう]

ひがしマ帝国まていこく悪名あくめいたかい1204ねんだい4かい十字軍じゅうじぐん西側にしがわ勢力せいりょく攻撃こうげきされたとき、アカルナニア地方ちほうエピロス専制せんせいこうこくわたり、1348ねんにはセルビア帝国ていこく征服せいふくされた。その、1480ねんオスマン帝国ていこくちた。1832ねん以来いらいギリシャ一部いちぶとなっている。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ぜん239ねん、アカルナニアじんローマ援助えんじょもとめるためにおくった使節しせつだんにおいて、ローマじん祖先そせんであるトロイアたいする遠征えんせい参加さんかしなかったと嘆願たんがんしており、コノップ・サールウォール英語えいごばんべているように、おそらくホメロスの軍船ぐんせんひょうから名前なまえれていることをほこったのはかれらがはじめてだろう[8]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b トゥキュディデス、2かん102。
  2. ^ a b パウサニアス、8かん24・9。
  3. ^ ストラボン、10かん2・19。
  4. ^ ストラボン、10かん2・21。
  5. ^ プリニウス、36かん19。
  6. ^ プリニウス、9かん56。
  7. ^ a b ストラボン、10かん2・23。
  8. ^ Justin, 28.1; Connop Thirlwall, Hist. of Greece, vol. viii. pp. 119 - 120.
  9. ^ ストラボン、10かん2・20。
  10. ^ ストラボン、10かん3・2。
  11. ^ ストラボン、10かん3・6。
  12. ^ Nigel Wilson 2005, p.4.
  13. ^ トゥキュディデス、1かん5。
  14. ^ トゥキュディデス、3かん105。
  15. ^ a b クセノポン、4かん6。
  16. ^ トゥキュディデス、2かん80。
  17. ^ リウィウス、33かん16。
  18. ^ リウィウス、33かん17。
  19. ^ ポリュビオス、28かん5。
  20. ^ トゥキュディデス、3かん105以下いか
  21. ^ トゥキュディデス、3かん114。
  22. ^ リウィウス、33かん16-17。
  23. ^ リウィウス、36かん11-12。
  24. ^ リウィウス、45かん31。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • ストラボンギリシア・ローマ世界せかい地誌ちし飯尾いのおじんやく龍溪りゅうけいしょしゃ(1994ねん
  • パウサニアス『ギリシア飯尾いのおじんやく龍溪りゅうけいしょしゃ(1991ねん
  • Hornblower, Simon (1996). "Acarnania". The Oxford Classical Dictionary. Oxford: Oxford University Press. pp. 2–3.
  • Nigel Wilson (2005). Encyclopedia of Ancient Greece (Encyclopedias of the Middle Ages) 1st Edition. Routledge.
  • Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Acarnania" . Encyclopædia Britannica (英語えいご) (11th ed.). Cambridge University Press.
  •  この記事きじには現在げんざいパブリックドメインであるつぎ出版しゅっぱんぶつからのテキストがふくまれている: Smith, William, ed. (1854–1857). "Acarnania". Dictionary of Greek and Roman Geography. London: John Murray.