アジュ

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姓名せいめい アジュ
なま没年ぼつねん 1227ねん? - 1280ねん
ほんぬき出身しゅっしんとう モンゴル帝国ていこく
しょくかん たいみなみそうそう司令しれいかん
陣営じんえい所属しょぞくとう クビライ
家族かぞく一族いちぞく 祖父そふスブタイちちウリヤンカダイ

アジュまたはアチュモンゴル: ᠠᠵᠦAju現代げんだいモンゴル: Ажу жанжин 転写てんしゃ: Aju JanjinAjuAču)は、モンゴル帝国ていこく武将ぶしょう。『もと』での漢字かんじ表記ひょうきは「おもねうけら」。『しゅう』クビライ・カアンでは آجو Ājū/ آچو Āchū 、おなじく『あつまり』バアリン部族ぶぞくほか『しゅう系統けいとう系図けいず史料しりょうである『ぞく』『高貴こうき系譜けいふ記載きさいクビライ部将ぶしょう序列じょれつ一覧いちらんでは اوجو Ūjū と表記ひょうきされている。

概要がいよう[編集へんしゅう]

アジュの祖父そふであり、『よんいぬ』の一人ひとりである、名将めいしょうスブタイ

祖父そふチンギス・カンつかえ、「よんいぬ」(ドルベン・ノガス)の1人ひとりとして有名ゆうめい勇将ゆうしょうスブタイちちオゴデイ時代じだいからモンゴル帝国ていこく覇業はぎょう貢献こうけんしたウリヤンカダイである。アジュもちちともモンケ時代じだいからつかえて、ベトナム遠征えんせいなど各地かくち転戦てんせんして武功ぶこうげた。

だい4だい皇帝こうていモンケによるみなみそう遠征えんせいでは、ちちウリヤンカダイととも従軍じゅうぐんし、精鋭せいえいひきいて先鋒せんぽうぐんくわわった。だいこく征服せいふく雲南うんなんだい遠征えんせい)やひねあさ交趾)の降伏ごうぶくにも活躍かつやくし、モンケからそのこうしょうされて黄金おうごん300りょう下賜かしされた。1259ねんモンケ没後ぼつご後継こうけいしゃあらそではちちともクビライ支持しじした。かね蓮川はすかわでのクビライの即位そくい以後いご親衛しんえいぐんであるケシク宿衛しゅくえい)にとどまった。

1262ねん山東さんとう漢人かんど軍閥ぐんばつらんさいには、ジョチ・カサルいえ王族おうぞくカピチ司令しれいとするふみてんさわらが討伐とうばつぐんとして派遣はけんされたが、アジュは王族おうぞくバイジュ(はい)、テゲ(じょう哥)らのぐん従軍じゅうぐん討伐とうばつでも功績こうせきげた。同年どうねん9がつ兄弟きょうだいのココテイ(ココチュ)がくなったため、アジュはその地位ちいいで宿衛しゅくえい(ケシク)将軍しょうぐんからせい南都なんと元帥げんすいにんじられ、汴梁を根拠地こんきょちとして「みなみこうむかんぐん」をひきいた[1][2]。このころ宿やどしゅう回復かいふくしたほか、いたりもと元年がんねんはいって1264ねん9がつごろにはりょう地方ちほう計略けいりゃくつとめ、さらに名声めいせいげた。

1268ねんよりクビライによるみなみそうめがはじまるとじょう攻略こうりゃくそう司令しれいかんとしてじょう包囲ほうい攻撃こうげきする。てきしょうりょぶん徹底てってい抗戦こうせんくるしんだが、ふみてんさわとも投石とうせきによる攻撃こうげきなどでじょうささえじょうである樊城攻略こうりゃく大功たいこうげ、その結果けっかとして1273ねんにはついりょぶん煥を降伏ごうぶくさせた。

1274ねん以降いこうから「みなみそう攻略こうりゃく」では、丞相じょうしょうバヤンみなみそう遠征えんせいぐんそう司令しれいとなり、水軍すいぐん統括とうかつしていた参政さんせいエリク・カヤおもねさとかいきば)とともに遠征えんせいぐん指揮しきすることになった。1274ねん正月しょうがつにエリク・カヤからみなみそう遠征えんせい奏上そうじょうしているが、アジュもこれに遠征えんせい賛意さんいする上申じょうしんおこなっており、これをけて丞相じょうしょうバヤンをそう司令しれいとする遠征えんせい開始かいしされた。これにともない、同年どうねん4がつにはアジュもたいらあきら政事せいじとして丞相じょうしょうバヤンを補佐ほさすることとなる。アジュはりょぶん煥ととも先鋒せんぽうめいじられていることから、じょう平定へいていに5ねんもかかったために解任かいにんされたとつたわる。アジュはこの攻略こうりゃくせんでも手柄てがらげた。

あつまり』バアリン部族ぶぞくのバヤンのじょうによると、「スブタイ・バアトルの子孫しそんアジュ( اوجو Ūjū)がかれ(バヤン)とともに(クビライ)のノコルとなり、30トゥメン(まんにんたい)のモンゴルぐんと70トゥメンのヒタイ(ぐん)とともにみなみそう遠征えんせい(jang-i Nangiyās)に派遣はけんした」とあり、『ぞく』のクビライの部将ぶしょう序列じょれつ一覧いちらんでも「ウリヤンカト部族ぶぞく出身しゅっしんのスブタイ・バハードゥルの子孫しそんで、トゥメンのアミールであった。ナンギヤス(みなみそう地方ちほう征服せいふくのための30トゥメンのモンゴルぐん統率とうそつしゃとして、 سمكه بهادر Samaka Bahadur(サムカ・バアトル=ふみてんさわ)とともに任命にんめいされた」と説明せつめいされている。『あつまり』ではバヤンにくらべてアジュへの言及げんきゅうすくなく、かれ出身しゅっしん部族ぶぞくである『ウリヤンカト部族ぶぞく』には事績じせき記載きさいされていない[3]

1276ねん、モンケシリギトク・テムルらによってクビライへの叛乱はんらんこされると(シリギのらん)、アジュもみなみそう遠征えんせいぐん指揮しきかんとともに叛乱はんらん鎮圧ちんあつのため北西ほくせいかたのモンゴリア〜中央ちゅうおうアジア一帯いったい派遣はけんされた。その中央ちゅうおうもどることなく中央ちゅうおうアジア方面ほうめんにて死去しきょした[4]。アジュの死因しいん没年ぼつねんについて、『もと本紀ほんぎと『もとおもねうけらでんたがいに矛盾むじゅんする記述きじゅつがなされており、前者ぜんしゃ1280ねんいたりもと17ねん)にビシュバリクでくなったとするのにたいし、後者こうしゃ1286ねんいたりもと23ねん以降いこうにカラ・コジョでくなったとする。ほふよせは『こうむ兀児史記しき』において後者こうしゃの「いたりもと23ねん」が「いたりもと13ねん」の誤記ごきであるとすればりょうせつ矛盾むじゅんなくおさまるとろんじ、現在げんざいでは1280ねんぼつ享年きょうねん54さいせつひろれられている[5]死後しご、クビライより河南かなんおう地位ちい追贈ついぞうされた。『もとまきひゃくじゅうはち列伝れつでんがある。

ウリヤンカンスブタイ[編集へんしゅう]

アジュが参加さんかした戦争せんそう戦闘せんとう[編集へんしゅう]

当時とうじ勢力せいりょく。『モンゴル・みなみそう戦争せんそう』を参照さんしょうされたい。

参加さんかした戦争せんそう[編集へんしゅう]

参加さんかした戦闘せんとう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ もとまき5せい本紀ほんぎ2,「[ちゅうすべさんねんきゅうがつ]みずのととり元帥げんすい闊闊たいそつ於軍、以其けいおもねうけらだい、授虎はたみなみあたりこうむかんぐん
  2. ^ つつみ1992,36ぺーじ
  3. ^ 志茂しも2013,625ぺーじ
  4. ^ つつみ1992,37ぺーじ
  5. ^ つつみ1992,38ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 植松うえまつただしもとだい江南えな政事せいじ社会しゃかい研究けんきゅう汲古書院しょいん、1997ねん
  • 志茂しもせきさとし『モンゴル帝国ていこく研究けんきゅう 正篇せいへん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2013ねん
  • つつみ一昭かずあきもとだい華北かほくのモンゴルぐん団長だんちょう家系かけい」『りん』75ごう、1992ねん
  • つつみ一昭かずあき元朝がんちょう江南こうなんこうだい成立せいりつ」『東洋とうよう研究けんきゅうだい54かん4ごう、1996ねん
  • つつみ一昭かずあき大元おおもとウルスの江南こうなん駐屯ちゅうとんぐん」『大阪外国語大学おおさかがいこくごだいがく論集ろんしゅうだい19ごう、1998ねん
  • つつみ一昭かずあき大元おおもとウルス江南えな統治とうち首脳しゅのう家系かけい」『大阪外国語大学おおさかがいこくごだいがく論集ろんしゅうだい22ごう、2000ねん
  • 新元しんもとまき122列伝れつでん19
  • こうむ兀児史記しきまき91列伝れつでん73
  • くにあさめい臣事しんじりゃくまき2丞相じょうしょう河南かなんたけじょうおう