アムル・イブン・アル=アース・モスク

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アムル・イブン・アル=アース・モスクのくち屋根やねかれているアラビア碑文ひぶんは、「アッラーフ・アクバル」(アッラーフ偉大いだいなり)とかれている。

アムル・イブン・アル=アース・モスクアラビア:جامع عمرو بن العاص)は、エジプトカイロきゅう市街しがいにあたるフスタート建設けんせつされたモスクである。642ねん建設けんせつされた。

概要がいよう[編集へんしゅう]

エジプトがひがしマ帝国まていこくからイスラーム世界せかい勢力せいりょく範囲はんいわったのは、だい2だい正統せいとうカリフであるウマル時代じだいである。アラビア半島はんとうイラクシリアエジプトイランとイスラーム勢力せいりょく勢力せいりょく範囲はんい拡大かくだいする過程かていにおいて、軍事ぐんじ都市としであるミスル建設けんせつされた。

その過程かていで、エジプトにおいては、642ねんに、将軍しょうぐんアムル・イブン・アル=アースがエジプトを征服せいふくした段階だんかいで、アレクサンドリアえて、ナイルがわ左岸さがんにフスタートを建設けんせつし、きたアフリカ支配しはい拠点きょてんとした。ミスルが建設けんせつされると同時どうじに、モスクが建設けんせつされた。アムル・イブン・アル=アースのモスクは、エジプトおよアフリカ大陸たいりくにおける最古さいこのモスクである。

歴史れきし[編集へんしゅう]

モスクの内部ないぶ

アムル・イブン・アル=アースのモスクが建設けんせつされたのは、642ねんである。エジプトを攻撃こうげきするにたり、アムルは、ナイルがわ左岸さがんナイルデルタ南東なんとうにテントを設置せっちし、そこで宿営しゅくえいすることとなった。伝説でんせつがいいつたえることによると、エジプトにおける戦闘せんとう直前ちょくぜんに、アムルが宿営しゅくえいするテントに、ハト営巣えいそうし、そこでだきたまごした。戦後せんご、アムルはウマルから、エジプトにおいて、アレクサンドリアからそうとおくない場所ばしょあたらしい都市とし建設けんせつする命令めいれいけていた。アムルは、ハトが営巣えいそうしていたテントの場所ばしょせいなる場所ばしょであると宣言せんげんし、フスタートをそのテントがあった場所ばしょ建設けんせつした。アムルのモスクは、そのテントがあった場所ばしょである。

初期しょきのモスクのレイアウトは簡素かんそであり、29m×17mの長方形ちょうほうけいであり、椰子やしいしどろせいレンガなどで構成こうせいされ、屋根やね木材もくざいいた椰子やししつらえられた。メッカの方向ほうこうしめミフラーブ初期しょきには建設けんせつされておらず、そのわりに4ほんはしらがメッカの方角ほうがくしした。このモスクはアムルとその軍隊ぐんたいにおいて、十分じゅうぶんひろさであった。また、そのほかのイスラーム建築けんちく特色とくしょくであるミナレット建設けんせつされていない。

673ねんムアーウィヤ時代じだいには拡張かくちょう工事こうじ完了かんりょうした。これにより、モスクの面積めんせきは2ばい拡大かくだいされると同時どうじにモスクの四隅よすみそれぞれにミナレットが建設けんせつされた。このミナレットの完成かんせいにより、モスクのまわりにむムスリムはアザーンをくことが可能かのうとなった。698ねんには、モスクのさい拡張かくちょう実施じっしされ、面積めんせきはさらにばいとなった。711ねんには、凹面のかべがんがもうけられた。827ねんには、キブラ方向ほうこう平行へいこうするかたちで7ほんあたらしい通路つうろ建設けんせつされた。それぞれの通路つうろは、アーケードじょう建設けんせつされ、アーキトレーブ通路つうろ最後さいごはしらほどこされた。

9世紀せいき拡張かくちょうでは、アッバースあさカリフであるマアムーン指示しじによっておこなわれた。あらたに、モスクの南西なんせい方向ほうこう拡張かくちょう工事こうじ実施じっしされた、120m×112mに拡張かくちょうされ、現在げんざい面積めんせきとなると同時どうじに、また、現存げんそんするモスク南面なんめんかべ建設けんせつされたのもこのときである

ファーティマあさ時代じだいには、アムルのモスクは5つのミナレットをつモスクに姿すがたえていた。追加ついかされた1ほんのミナレットは、モスクのくち建設けんせつされていた。しかし、現在げんざいのモスクのミナレットは、ファーティマあさ時代じだいまでに建設けんせつされたミナレットではなく、1800ねん再建さいけんされたものである。また、ファーティマあさのカリフであるムスタンスィルぎんかべがんをもうけたが、サラーフッディーン時代じだいにこのかべがんは撤去てっきょされた。

1169ねん、フスタートとアムルのモスクは大火たいかによって破壊はかい経験けいけんする。この大火たいか指示しじは、当時とうじのエジプトの大臣だいじんであったシャワールによる。シャワールはフスタートを破壊はかいすることによって、十字軍じゅうじぐん占領せんりょう回避かいひすることを目的もくてきとしていた。その、エジプトはアイユーブあさ支配しはいはいり、1179ねん、アムルのモスクもサラーフッディーンのによって、再建さいけんされた。

14世紀せいきには、地震じしん再建さいけん工事こうじ実施じっしされた。また、1303ねん再建さいけん工事こうじにおいて、化粧けしょう漆喰しっくい細工ざいくほどこされたかべがんがモスクの外壁がいへきもうけられたが、現存げんそんしていない。18世紀せいきには、マムルークのリーダーであるムラード・ベイがモスクの破損はそんのために、一度いちどモスクをこわしたあとで、再建さいけん工事こうじおこなった。ムラード・ベイによる再建さいけん工事こうじは、1796ねんナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征えんせいおこな直前ちょくぜん完成かんせいしている。1875ねんには、ムハンマド・アリーあさによっての再建さいけん工事こうじ実施じっしされた。20世紀せいきはいってもえず修復しゅうふく工事こうじほどこされており、今日きょういたっている。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Behrens-Abouseif. Doris. 1989. Islamic Architecture in Cairo. Leiden: E. J. Brill.
  • Creswell, K.A.C. 1940. Early Muslim Architecture, vol. II. Oxford University Press. Reprinted by Hacker Art Books, New York, 1979.
  • Eyewitness Travel: Egypt. Dorlin Kindersley Limited, London. (2001, 2007). ISBN 978-0-75662-875-8 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

座標ざひょう: 北緯ほくい300ふん36.50びょう 東経とうけい3113ふん59.38びょう / 北緯ほくい30.0101389 東経とうけい31.2331611 / 30.0101389; 31.2331611