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アヨーディヤー

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アヨーディヤから転送てんそう
アヨーディヤーの風景ふうけい

アヨーディヤーヒンディー: अयोध्या, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Ayodhyā, 英語えいご: Ayodhya, アヨーデャーとも)はインド古都ことウッタル・プラデーシュしゅう北部ほくぶファイザーバードけん英語えいごばん位置いちし、7 km西にしファイザーバードまちがある。アヨーディヤとも表記ひょうきされるが、現地げんち名称めいしょうでは最後さいご音節おんせつちょう母音ぼいんである。

アヨーディヤーのは「難攻不落なんこうふらく都城みやこのじょう」を意味いみし、古代こだいコーサラこく初期しょき首都しゅととされ、叙事詩じょじしラーマーヤナ』の主人公しゅじんこうラーマ王子おうじ故郷こきょうとしてもられる。

歴史れきし[編集へんしゅう]

アワド地方ちほう位置いち

古代こだいにはサーケータというでもられ、ヒンドゥーきょうではインドのななつのせいなるまち筆頭ひっとうとされてきた。

このまち中心ちゅうしんとした地域ちいきはかつて、アヨーディヤーのをとって「アワド」という歴史れきしてき名称めいしょうばれ、古来こらいより数々かずかず王朝おうちょうがこのりょうしてえた。

13世紀せいきデリー・スルターンあさ成立せいりつしたのちも、アワドは重要じゅうよう地域ちいきとされ、一時いちじデリーから独立どくりつしたジャウンプル・スルターンあさ成立せいりつした。

16世紀せいき以降いこう、この地域ちいきムガル帝国ていこく支配しはいにはいるとアワド太守たいしゅ設置せっちされ、18世紀せいき初頭しょとう帝国ていこく衰退すいたいすると、アワド太守たいしゅはこの地方ちほう政権せいけん樹立じゅりつした。

1992ねん12月6にちバーブリー・マスジドモスク)でヒンドゥーきょう強硬きょうこう扇動せんどうされた暴徒ぼうとによるバーブリー・マスジド倒壊とうかい事件じけん英語えいごばんこり、こののちインド各地かくちでヒンドゥー教徒きょうとイスラーム教徒きょうとあいだ宗派しゅうはあいだ暴動ぼうどう頻発ひんぱつ、イスラーム教徒きょうと中心ちゅうしんに2,000にん死亡しぼうする事態じたい発展はってんした[1]。2019ねん最高裁さいこうさい跡地あとちをヒンドゥー教徒きょうとがわわたし、イスラーム教徒きょうとがわには代替だいたい土地とちてる判断はんだんくだした[1]。この場所ばしょにはヒンドゥーきょう寺院じいんラーム寺院じいん英語えいごばんてられ、2024ねん1がつ22にちには全国ぜんこくてき厳戒げんかい態勢たいせいかれるなか落成らくせいしき挙行きょこうやく8,000にんまねかれ、首相しゅしょうナレンドラ・モディ出席しゅっせきした[2]

またタイ古都ことアユタヤさらにはインドネシア古都ことジョグジャカルタもアヨーディヤーの由来ゆらいする。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

座標ざひょう: 北緯ほくい2648ふん 東経とうけい8212ふん / 北緯ほくい26.80 東経とうけい82.20 / 26.80; 82.20