スペイン人によるアレキパの町の創設は、Garci Manuel de Carbajalによって、Chili川の谷において、1540年8月15日に実施された。アレキパの町の創設は、海岸の町であるVilla Hermosaの再配置(移転)の一環であったため、創設時において、アレキパは既に市議会を有していた。「Villa Hermosa」の名前は、「Villa Hermosa de Arequipa」としてその一部が残された。カール5世と、スペイン王は、1541年9月22日にアレキパの町に「市」の称号を与えた。町の移転は、新しい町の創設のための政治的な権力者として選定されたGarci Manuel de Carbajalにより主導された。町で実施された最初の公的な建設作業には、主教会、市役所、Chili川の橋、Nuestra Señora de Gracia修道院があった。
スペインによる町の創設から3世紀以上の間、町の人口のほとんどはスペイン系の住民であったため、スペインの影響が大きかった。アレキパと、ペルーの他の地域とを区別する一つの側面として、「フィデリズモ(fidelismo)」と呼ばれる現象である、町の明確かつ公的なスペイン王室への誓約があった。最も顕著な援護者には、Francisco de Paula Quiroz、Mariano de Rivero、Nicolás Fernández、José Miguel de Lastarriaなどがいた。結果として、スペイン王室は1805年の勅許より、アレキパに「忠誠である(Faithful)」という称号を与えた。更に、他のペルーの都市との距離が離れていたため、アレキパは、自由主義(libertarian)の影響をそれほど大きく受けなかった。(Pumacahuaにより指揮されたもののような)これらの自由主義の動向や、独立派の軍隊がアレキパに入ったにもかかわらず、アレキパは、地域の政治力の闘争があったことから、アヤクーチョの戦い(1824年)まで依然としてスペインの支配下にあった。
1835年、General Orbegoso大統領は、1835年1月13日の大統領令により、政府をリマからアレキパに移転した。その一方、リマではFelipe Santiago Salaverry将軍が、自身を共和国の最高責任者(Supreme Chief)として、Orbegosoが首都にいないため、国はリーダー不在であるということを議論した。
その後、Orbegosoは、当時のボリビア大統領Andrés de Santa Cruzから、Felipe Santiago Salaverryの要求に対抗するための支援を得ようとした。1836年2月4日にアレキパ近郊のUchumayoで戦闘が勃発し、Salaverryは敗北し、3日後にはSocabayaで、アンドレス・デ・サンタ・クルスが敗北した。しかし、1836年2月18日、Salaverryらはアレキパの中央広場で撃たれた。
ペルー・ボリビア連合への参加の拒否を表明した後、チリ政府が遠征隊を送り、1837年10月12日に遠征隊がアレキパに到着した。
戦闘を回避するための交渉により、1837年11月17日にアレキパ近郊の小さな町Paucarpataにおいて、平和条約への署名が行われた。その後の数年間、街は反乱やその後の軍隊による占拠の舞台となったが、1857年6月29日の Paucarpataの戦いにおいて、Miguel de San Románにより率いられた軍が、Manuel Ignacio de Vivancoの軍に対して勝利したことにより終結した。アレキパが、農産物や羊毛製品を中心とした(時として農家から搾取をする手法による)ビジネスや交易の中心地として有名になったのはだいたいこの頃であった。
太平洋戦争の間のリマの占領後、Lizardo Montero大統領が、1882年8月31日にアレキパに到着し、アレキパがペルーの首都であることを宣言した。更にMonteroは、1883年4月22日、独立の建物群(Independence College)の場所に、国会を創設した。彼は地域の軍隊からの軍事的な支援と、経済的な上流層や南部の農業地域からの分配金や税収からの巨額の財政的な支援も当てにしていた。しかし、1883年10月25日の民衆の蜂起が、Montero大統領政権を転覆させ、大統領はなんとかラパスに逃亡した。その後、チリの軍隊が、市当局の支援を受けて、10月29日年にアレキパを占拠し、占拠は1884年8月まで続いた。