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イゴール・ビシュチャン

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イゴール・ビシュチャン
2021ねんのビシュチャン
名前なまえ
ラテン文字もじ Igor Bišćan
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき クロアチアの旗 クロアチア
生年月日せいねんがっぴ (1978-05-04) 1978ねん5月4にち(46さい
出身しゅっしん ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ザグレブ
身長しんちょう 190cm
体重たいじゅう 80kg
選手せんしゅ情報じょうほう
ポジション DH / CB
あし 右足みぎあし
ユース
クロアチアの旗 ディナモ・ザグレブ
クラブ1
とし クラブ 出場しゅつじょう (得点とくてん)
1995-2000 クロアチアの旗 ディナモ・ザグレブ 67 (11)
1995-1996 クロアチアの旗 サモボル (loan) 12 (1)
2000-2005 イングランドの旗 リヴァプール 72 (2)
2005-2007 ギリシャの旗 パナシナイコス 36 (3)
2008-2012 クロアチアの旗 ディナモ・ザグレブ 61 (1)
通算つうさん 248 (18)
代表だいひょうれき
1998  クロアチア U-20 2 (1)
1997-2000  クロアチア U-21 15 (1)
1999 クロアチアの旗 クロアチア B 1 (1)
1999-2001 クロアチアの旗 クロアチア 15 (1)
監督かんとくれき
2016-2017 クロアチアの旗 ルデシュ
2017-2018 スロベニアの旗 オリンピア・リュブリャナ
2018-2019 クロアチアの旗 リエカ
2019-2023  クロアチア U-21
2023 クロアチアの旗 ディナモ・ザグレブ
2023- サウジアラビアの旗 アル・シャバブ
1. 国内こくないリーグせんかぎる。2018ねん10がつ9にち現在げんざい
■テンプレート■ノート 解説かいせつ■サッカー選手せんしゅpj

イゴール・ビシュチャンIgor Bišćan, 1978ねん5月4にち - )は、ユーゴスラビアげんクロアチア)・ザグレブ出身しゅっしんもとサッカー選手せんしゅクロアチア代表だいひょう。ポジションは守備しゅびてきミッドフィルダーおよセンターバック

選手せんしゅ経歴けいれき[編集へんしゅう]

クラブ[編集へんしゅう]

初期しょき[編集へんしゅう]

ビシュチャンは、地元じもとNKディナモ・ザグレブ下部かぶ組織そしきどうチームのトップチームでデビューをかざって以降いこうUEFAチャンピオンズリーグUEFAカップなどの舞台ぶたい活躍かつやくせた。とくに1998-99, 1990-2000はリーグせんを2連覇れんぱし、チャンピオンズリーグでもチャンピオンズリーグ本選ほんせんに2進出しんしゅつ1998-99, グループA1999-2000, グループD)とクラブの黄金おうごん中心ちゅうしん選手せんしゅとして貢献こうけん。その活躍かつやくから国外こくがい複数ふくすうクラブから注目ちゅうもくあつめていった。

リヴァプール[編集へんしゅう]

ユヴェントスFCFCバルセロナアヤックス・アムステルダムACミラン欧州おうしゅう各国かっこくのクラブが関心かんしんせたが、最終さいしゅうてきに2000ねん12月8にち移籍いせききん550まんポンドでジェラール・ウリエ監督かんとくひきいるイングランド1リヴァプールFC契約けいやく[1]イプスウィッチ・タウンFCたたかえ(0-1敗北はいぼく)で71ふんクリスティアン・ツィーゲ交代こうたいはつ出場しゅつじょうかざり、1週間しゅうかんマンチェスター・ユナイテッドFCたたかえ(1-0勝利しょうり)では、オールド・トラッフォードで3290ふんわた無敗むはいというつよさをもつ相手あいてに、ビシュチャンは90ふんフル出場しゅつじょう勝利しょうり貢献こうけんした[2]。リヴァプールでの1は、途中とちゅう加入かにゅうしてからほどなくして守備しゅびてきMFとしてディトマー・ハマンわりすう試合しあい先発せんぱつ出場しゅつじょうたすというスタートをり、最終さいしゅうてきにハマンからポジションを奪取だっしゅすることは出来できなかったものの公式こうしきせんで21試合しあい先発せんぱつ15、途中とちゅう6)に出場しゅつじょうした。また、2001ねん1がつ14にちフットボールリーグカップクリスタル・パレスFCたたかえ(5-0勝利しょうり)で移籍いせきはつ得点とくてんげた[3]どうシーズンのクラブはUEFAカップ2000-01せいしたが、ディナモ・ザグレブ在籍ざいせきどう大会たいかい出場しゅつじょうしていたため、リヴァプールでの出場しゅつじょう禁止きんしされていた。

ビシュチャンは元々もともとセントラル・ミッドフィルダーとして加入かにゅうしたが、ウリエ監督かんとくしたではセンターバックとしての起用きようえていき、ときにはサイドハーフやサイドバックのポジションをまかされるようになっていく。定期ていきてき出場しゅつじょう機会きかいていた1とはことなり、構想こうそうがいとなった2からは2シーズンでリーグせん出場しゅつじょうわずか23試合しあいにとどまり、また、かず試合しあい先発せんぱつ起用きようされるだけで途中とちゅう出場しゅつじょうとしての出番でばんもなく、ベンチで合計ごうけい37試合しあいごした。2003-04シーズンになると、センターバックをつとめるステファヌ・アンショズジェイミー・キャラガー負傷ふしょう影響えいきょうから先発せんぱつつかみ、公式こうしきせん出場しゅつじょう39試合しあいちゅうで30試合しあい先発せんぱつフル出場しゅつじょうたした。しかし、シーズン終盤しゅうばんせんUEFAカップ2003-04オリンピック・マルセイユとのだい2せんで32ふんスティーヴ・マルレたいする行為こういから退場たいじょう処分しょぶんとなり、10にんたたかうことを余儀よぎなくされたクラブはビシュチャンがあたえたPKふくめ2失点しってん敗退はいたい決定けってい[4]。その地位ちいもどすのに苦労くろうすることとなった。

2004-05シーズンは、中央ちゅうおう中盤ちゅうばんもどUEFAチャンピオンズリーグ 2004-05バイエル・レバークーゼンたたかえ、ユヴェントスせんチェルシーFCせん特筆とくひつすべき活躍かつやく決勝けっしょう進出しんしゅつにおいて不可欠ふかけつ役割やくわりえんじた。決勝けっしょうACミランせんでの出番でばんおとずれなかったものの、優勝ゆうしょうカップをかかげた。どうシーズンでは公式こうしきせん35試合しあい2得点とくてんフラムFCせん[5]ボルトン・ワンダラーズFCせん[6])を記録きろくし、2005ねん5がつ15にちアストン・ヴィラFCせんがリヴァプールでの最後さいご試合しあいとなった。ビシュチャンは、全体ぜんたいてきれば期待きたいこたえることは出来できなかったが、最後さいごのシーズンでの活躍かつやくによりファンの記憶きおくきざまれた[7]

また、GOAL!にリヴァプールの選手せんしゅとしてカメオ出演しゅつえんしたさい最終さいしゅうせんニューカッスル・ユナイテッドFCせん出場しゅつじょうあたま得点とくてんげている。

パナシナイコス[編集へんしゅう]

2005ねん6がつ15にち、リヴァプールとの契約けいやく満了まんりょうともな自由じゆう移籍いせきギリシャ1パナシナイコスFC契約けいやく[8]在籍ざいせき2で36試合しあい3得点とくてん記録きろく。ファンとクラブ首脳しゅのうじん両方りょうほう納得なっとくさせることが出来でき[9]、シーズン終了しゅうりょう契約けいやく延長えんちょうされなかったため、2007ねん6がつ1にち契約けいやく満了まんりょうともな退団たいだん決定けっていした

ディナモ・ザグレブ復帰ふっき[編集へんしゅう]

自身じしん提示ていじするこう年俸ねんぽうのために、半年はんとしあいだ無所属むしょぞくだった。その古巣ふるすディナモ・ザグレブのディレクターであるズドラフコ・マミッチ(Zdravko Mamić)との数ヶ月すうかげつ交渉こうしょうすえ、2007ねん12月3にちに3ねん契約けいやく締結ていけつ[10]。ビシュチャンはパフォーマンスの出来できからファンの支持しじをあまいあつめていなかったが、ルカ・モドリッチトッテナム・ホットスパーFC移籍いせき主将しゅしょう就任しゅうにん。また、ディナモに復帰ふっきしてから国内こくないリーグせん国内こくないカップせんでそれぞれ2連覇れんぱ達成たっせいし、UEFAヨーロッパリーグのグループステージで2連続れんぞく出場しゅつじょうした。2011ねん8がつ31にち契約けいやくを2ねん延長えんちょうした[11]が、2012ねん4がつ退団たいだんした。

代表だいひょう[編集へんしゅう]

1999ねん6がつ5にちスコピエおこなわれたUEFA EURO 2000予選よせんマケドニアせんクロアチア代表だいひょうはつ出場しゅつじょう同月どうげつ16にちメキシコせんはつ得点とくてん記録きろく[12]。2001ねん9がつスコットランドせん最後さいご試合しあいとなり、代表だいひょう通算つうさんで15試合しあい1得点とくてん記録きろく。また、イエローカードを3提示ていじされた。

代表だいひょう引退いんたい正式せいしき表明ひょうめいしたわけではないが、2003ねん合宿がっしゅくって以降いこうクロアチアサッカー連盟れんめいから招集しょうしゅうされていない[13]

指導しどうしゃ経歴けいれき[編集へんしゅう]

現役げんえき引退いんたいの2016ねん国内こくない2リーグにあたるドルガHNL所属しょぞくしていたNKルデシュ監督かんとく抜擢ばってきされて指導しどうしゃキャリアをスタートさせた。

2018ねん10がつ9にちHNKリエカ監督かんとく就任しゅうにんした。リエカでは2018-19シーズンのクロアチア・カップにて決勝けっしょうNKディナモ・ザグレブを3-1でくだして2016-17シーズン以来いらいのカップせん優勝ゆうしょうをクラブにもたらしたが、2019ねん9がつ22にち解任かいにんされた。

2019ねん9がつからはU-21クロアチア代表だいひょう監督かんとく就任しゅうにんはつのメジャー大会たいかいとなったUEFA U-21欧州おうしゅう選手権せんしゅけん2021ではグループリーグこそ突破とっぱしたが、ベスト8でU-21スペイン代表だいひょうに1-2でやぶれた。

2023ねん4がつ6にち解任かいにんされたアンテ・チャチッチ英語えいごばん後任こうにんとして現役げんえき時代じだい古巣ふるすNKディナモ・ザグレブ監督かんとく就任しゅうにんした[14]。2023ねん8がつ21にちUEFAチャンピオンズリーグ予選よせん3回戦かいせんAEKアテネFC敗戦はいせん解任かいにん発表はっぴょうされた[15]

2023ねん10がつ18にちアル・シャバブ・リヤド監督かんとく就任しゅうにんした。

タイトル[編集へんしゅう]

クラブ[編集へんしゅう]

NKディナモ・ザグレブ
リヴァプールFC

監督かんとく[編集へんしゅう]

NKルデシュ
NKオリンピア・リュブリャナ
HNKリエカ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]