エンブレム
イスパノ・スイザ (Hispano-Suiza )はスペイン で創業 そうぎょう された国際 こくさい 企業 きぎょう で、スペインおよびフランス で高級 こうきゅう 自動車 じどうしゃ や航空 こうくう エンジン の設計 せっけい と生産 せいさん を手 て がけ、関連 かんれん して兵器 へいき も開発 かいはつ した。現在 げんざい はフランスのサフラングループ の傘下 さんか に入 はい っている。
“イスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)”とは「スペインとスイスの」という意味 いみ で、創設 そうせつ 時 じ の経営 けいえい 者 しゃ がスペイン人 じん 、チーフエンジニアがスイス人 じん であったことからの命名 めいめい である。
なお、スペイン語 ご およびフランス語 ふらんすご では語頭 ごとう の「H」を発音 はつおん しないため、"Hispano"は日本語 にほんご で“イスパノ”と発音 はつおん /表記 ひょうき されるのが原音 げんおん に忠実 ちゅうじつ であるが、英語 えいご での発音 はつおん に基 もと づいて“ヒスパノ”と発音 はつおん /表記 ひょうき されている例 れい も多 おお い。
1898年 ねん にスペイン軍 ぐん の砲兵 ほうへい 指揮 しき 官 かん であったエミリオ・デ・ラ・クアドラ(Emilio de la Cuadra )は、バルセロナ で電気 でんき 自動車 じどうしゃ 会社 かいしゃ の「ラ・クアドラ」を設立 せつりつ した。デ・ラ・クアドラはパリ の街 まち でスイス の技術 ぎじゅつ 者 しゃ マルク・ビルキヒト(Marc Birkigt)と出会 であ い、彼 かれ の才能 さいのう を買 か って雇用 こよう した。
1902年 ねん に会社 かいしゃ のオーナーはホセ・マリア・フェルナンデス・カストロに変 か わり、社名 しゃめい も「スペイン・スイス自動車 じどうしゃ 工場 こうじょう 」を意味 いみ する「ファブリカ・イスパノ・スイザ・デ・オートモービル (Fábrica Hispano-Suiza de Automóviles )」となったが、翌年 よくねん に倒産 とうさん した。
1904年 ねん 、再 ふたた びカストロの下 した で「ラ・イスパノ・スイザ・ファブリカ・デ・オートモービル (La Hispano-Suiza de Automóviles Fábrica )」 が再建 さいけん され、翌年 よくねん に4台 だい のエンジンが販売 はんばい された。再建 さいけん した会社 かいしゃ は乗用車 じょうようしゃ 、トラックを大量 たいりょう 生産 せいさん し、この他 ほか に職人 しょくにん による手作業 てさぎょう でレーシングカー や高級 こうきゅう 車 しゃ を少数 しょうすう 製造 せいぞう した。カストロは高級 こうきゅう 車 しゃ の市場 いちば はスペインよりもフランスの方 ほう が非常 ひじょう に大 おお きいことを確認 かくにん し、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 前 まえ の1911年 ねん にはフランスに現地 げんち 法人 ほうじん として「Hispano France 」を設立 せつりつ 、パリ 郊外 こうがい のルヴァロワ=ペレ (Levallois-Perret)に工場 こうじょう を建設 けんせつ した。1914年 ねん には、ボワ=コロンブ (Bois-Colombes)へより大 おお きな工場 こうじょう を建設 けんせつ して移転 いてん し、「イスパノ・スイザ」の名 な で販売 はんばい を始 はじ めた。
イスパノ・スイザは高級 こうきゅう 車 しゃ ブランドとして大 おお きな成功 せいこう を収 おさ めたほか、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん により航空機 こうくうき の需要 じゅよう が激増 げきぞう したため、航空 こうくう エンジンの製造 せいぞう 会社 かいしゃ としても成功 せいこう した。イスパノ・スイザではチーフエンジニアのビルキヒトに加 くわ えて同 おな じくスイス人 じん の航空 こうくう エンジニア、ルイ・マシュジェ(Louis Massuger)を迎 むか え入 い れ、従来 じゅうらい は鋼鉄 こうてつ の削 けず り出 だ しでブロックごとに製造 せいぞう した部品 ぶひん をボルト留 と めすることで組 く み立 た てられていた航空 こうくう エンジンを、鋳造 ちゅうぞう したアルミニウム で一体 いったい 成形 せいけい したものにスチールプレスで製造 せいぞう した部品 ぶひん を組 く み合 あ わせることで大幅 おおはば に軽量 けいりょう 化 か することに成功 せいこう し、構造 こうぞう が単純 たんじゅん で軽量 けいりょう 、かつ耐久 たいきゅう 性 せい の高 たか いものを生産 せいさん することが可能 かのう になった。これにより、イスパノ・スイザ社 しゃ は一躍 いちやく 航空 こうくう 用 よう エンジンの最大手 さいおおて に登 のぼ ることになる。航空 こうくう 用 よう エンジンの開発 かいはつ で培 つちか われた技術 ぎじゅつ はエンジンを始 はじ めとした自動車 じどうしゃ 部品 ぶひん にも応用 おうよう され、イスパノ・スイザの所得 しょとく した特許 とっきょ はロールスロイスを始 はじ めとして欧米 おうべい 各国 かっこく の自動車 じどうしゃ ・航空機 こうくうき 関連 かんれん 会社 かいしゃ に採用 さいよう され、莫大 ばくだい な利益 りえき をもたらすことになった。
1930年代 ねんだい にはスイス のエリコン 社 しゃ と互 たが いの特許 とっきょ を交換 こうかん する形 かたち で航空 こうくう 機関 きかん 砲 ほう の技術 ぎじゅつ を入手 にゅうしゅ し、自社 じしゃ のエンジンと組 く み合 あ わせた“モーターカノン ”(エンジンを機関 きかん 砲 ほう の銃 じゅう 架 か として利用 りよう する方式 ほうしき )を発明 はつめい 、このために開発 かいはつ したものを発展 はってん させたイスパノ・スイザ HS.404 機関 きかん 砲 ほう はフランスの他 た アメリカやイギリスでも生産 せいさん され、世界 せかい 各国 かっこく で用 もち いられる国際 こくさい 的 てき ベストセラーとなった。
以後 いご 、イスパノ・スイザは主 おも にスペインでトラックなどの実用 じつよう 自動車 じどうしゃ を、フランスで高級 こうきゅう 車 しゃ と航空 こうくう 用 よう エンジン、そして航空 こうくう 機関 きかん 砲 ほう を製造 せいぞう し、いずれも欧州 おうしゅう の業界 ぎょうかい で最大手 さいおおて の位置 いち に立 た っていた。第 だい 二 に 共和 きょうわ 政 せい を経 へ てスペイン内戦 ないせん 後 こう はスペインの代表 だいひょう 的 てき な自動車 じどうしゃ メーカーとなる。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に際 さい し、スペインは直接 ちょくせつ の戦火 せんか を受 う けなかったため、会社 かいしゃ 自体 じたい は大 おお きな損害 そんがい を受 う けなかったが、開戦 かいせん 前 まえ にフランスが工業 こうぎょう の再編 さいへん と国有 こくゆう 化 か の推進 すいしん を図 はか ったため、1937年 ねん にはフランスの工場 こうじょう を半 なか ば強制 きょうせい 的 てき に買収 ばいしゅう されてしまい、Hispano Franceは「LaSociétéd'exploitation desmatériels 」と改名 かいめい された。更 さら にその後 ご のドイツによる占領 せんりょう で事業 じぎょう 展開 てんかい に大 おお きな影響 えいきょう を受 う けることになった。
スペイン自体 じたい はドイツの友好国 ゆうこうこく ながら消極 しょうきょく 的 てき 中立 ちゅうりつ の立場 たちば を取 と って枢軸 すうじく 国 こく には参加 さんか しなかった(ただし、参戦 さんせん と取 と られない範囲 はんい ではドイツに協力 きょうりょく していた)ため、連合 れんごう 国 こく の侵攻 しんこう や進駐 しんちゅう を受 う けることはなかったが、中立 ちゅうりつ 国 こく として戦時 せんじ 景気 けいき の恩恵 おんけい に預 あず かることもなく、ドイツの友好国 ゆうこうこく であったことの責任 せきにん を問 と われて戦後 せんご しばらく国連 こくれん には加盟 かめい できず、ファシズム国家 こっか として国際 こくさい 貿易 ぼうえき の制限 せいげん を課 か せられたため、スペインの経済 けいざい 、とくに工業 こうぎょう は大 おお きく衰退 すいたい した。これはイスパノ・スイザの経営 けいえい に深刻 しんこく な影響 えいきょう を与 あた えたうえ、戦後 せんご は戦災 せんさい による欧州 おうしゅう 地域 ちいき 全体 ぜんたい の景気 けいき の落 お ち込 こ みによって高級 こうきゅう 車 しゃ の市場 いちば が冷 ひ え込 こ み、戦時 せんじ 大量 たいりょう 生産 せいさん されたアメリカ製 せい のトラックが格安 かくやす で放出 ほうしゅつ されたため、自動車 じどうしゃ 製造 せいぞう 会社 かいしゃ としての市場 いちば を失 うしな うことになった。自動車 じどうしゃ 事業 じぎょう は継続 けいぞく の危機 きき に陥 おちい り、バルセロナの工場 こうじょう は第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の1946年 ねん まで操業 そうぎょう されたものの、同年 どうねん に自動車 じどうしゃ 事業 じぎょう はENASA 社 しゃ に売却 ばいきゃく された。
航空 こうくう 用 よう エンジンの製造 せいぞう 会社 かいしゃ としても、戦後 せんご のジェット化 か の流 なが れに取 と り残 のこ され、“航空 こうくう 用 よう エンジンの代表 だいひょう 的 てき メーカー”の地位 ちい から転落 てんらく した。1940年代 ねんだい 後半 こうはん から1950年代 ねんだい にかけ、事実 じじつ 上 じょう の接収 せっしゅう から復活 ふっかつ したフランスの工場 こうじょう を中心 ちゅうしん に航空 こうくう 業界 ぎょうかい への再 さい 参入 さんにゅう が図 はか られ、その後 ご も航空 こうくう エンジンと機関 きかん 砲 ほう を中心 ちゅうしん に操業 そうぎょう を続 つづ けたが、航空 こうくう 事業 じぎょう 部 ぶ が1968年 ねん にフランスのスネクマ (現在 げんざい のサフラン )によって買収 ばいしゅう されてイスパノ・スイザの社名 しゃめい は消滅 しょうめつ し、以後 いご はスネクマの一部 いちぶ として現在 げんざい に至 いた る。
なお、スペインにはタタ・イスパノ という自動車 じどうしゃ 車体 しゃたい 製造 せいぞう 会社 かいしゃ (バス 車体 しゃたい メーカー )が存在 そんざい するが、これはイタリア資本 しほん で創業 そうぎょう された自動車 じどうしゃ メーカーが1980年代 ねんだい にイスパノ・カロセーラS.A.Lという社名 しゃめい になり、2005年 ねん にインドのタタ・モーターズ によって子会社 こがいしゃ 化 か されたもので、“イスパノ”の名 な も元々 もともと の「スペインの」という意味 いみ で共通 きょうつう しているだけで、会社 かいしゃ の歴史 れきし や資本 しほん 関係 かんけい に関連 かんれん はない。
この
節 ふし の
加筆 かひつ が
望 のぞ まれています。
(2018年 ねん 12月 )
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(2018年 ねん 12月 )
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(2018年 ねん 12月 )
1912 イスパノ・スイザ Alfonso XIII (Spain)
1929 イスパノ・スイザ T49(スペイン)
1934 イスパノ・スイザ H6B Million-Guiet Dual-Cowl Phæton(フランス)
イスパノ・スイザ J12(フランス)
イスパノ・スイザ K6(フランス)
1936 イスパノ・スイザ Pourtout(フランス)
スペイン生 う まれの画家 がか パブロ・ピカソ はイスパノ・スイザの愛好 あいこう 者 しゃ であった。自身 じしん が所有 しょゆう していたH6Bを私用 しよう で運転 うんてん しクラッシュさせた運転 うんてん 手 しゅ には「このクルマ以外 いがい に乗 の るつもりはない。だから運転 うんてん 手 しゅ も今日 きょう で必要 ひつよう がなくなった」と事実 じじつ 上 じょう の解雇 かいこ をい渡 いわた した[要 よう 出典 しゅってん ] 。
また日本 にっぽん では華族 かぞく の鍋島 なべしま 直 ただし 泰 やすし がボディのない状態 じょうたい で日本 にっぽん に輸入 ゆにゅう したK6を日本人 にっぽんじん 職人 しょくにん の手 て で架 か 装 そう を行 おこな い、その後 ご 1981年 ねん に死亡 しぼう するまで生涯 しょうがい 乗 の り続 つづ けていた。現在 げんざい この個体 こたい はトヨタ博物館 はくぶつかん で展示 てんじ されている[1] [2] 。
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