(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ウィリアム・S・バロウズ - Wikipedia コンテンツにスキップ

ウィリアム・S・バロウズ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウィリアム・バロウズから転送てんそう
ウィリアム・S・バロウズ
William S. Burroughs
69さい誕生たんじょういわうバロウズ(1983ねん
ペンネーム William Lee
誕生たんじょう William Seward Burroughs II
1914ねん2がつ5にち
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
ミズーリしゅうセントルイス
死没しぼつ (1997-08-02) 1997ねん8がつ2にち(83さいぼつ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
カンザスしゅうローレンス
職業しょくぎょう 作家さっか
言語げんご 英語えいご
国籍こくせき アメリカ
最終さいしゅう学歴がくれき ハーバード大学だいがく
ジャンル ポストモダン文学ぶんがく風刺ふうし
文学ぶんがく活動かつどう ビート・ジェネレーション
署名しょめい
テンプレートを表示ひょうじ
バロウズとデビッド・ウッダード、1997ねんごろ[1]:142–146

ウィリアム・シュワード・バロウズせいWilliam Seward Burroughs II1914ねん2がつ5にち - 1997ねん8がつ2にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく小説しょうせつ1950年代ねんだいビート・ジェネレーション代表だいひょうする作家さっか一人ひとりである。

来歴らいれき

[編集へんしゅう]

バロウズは1960年代ねんだいには、J・G・バラードらによってニュー・ウェーブSFほし評価ひょうかされた。そのも、パフォーマンス・アーティストローリー・アンダーソンや、ロックミュージシャンのカート・コバーンニルヴァーナ)らがかれ心酔しんすいしている。私生活しせいかつでは、つまのジョーン(1923–51)を射殺しゃさつするなどの事件じけんこしている[2]

1914ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくミズーリしゅうセントルイスまれる。ニューヨークしゅうまれの祖父そふウィリアム・シュワード・バロウズ1せいキー入力にゅうりょくしき歯車はぐるましき加算かさん安定あんてい駆動くどうする油圧ゆあつ装置そうち発明はつめいした発明はつめいで、バロース加算かさんしゃ[3]設立せつりつしたことでられる。しかしかれは43さい早世そうせいし、のこされた息子むすこたちは遺産いさん管理人かんりにんのアドバイスにしたがい、相続そうぞくした株式かぶしき特許とっきょすべてを売却ばいきゃくしてしまう。

バロウズのちちモーティマー(1885–1965)はガラス工場こうじょう経営けいえいする中小ちゅうしょう企業きぎょうおもだった。その息子むすこであるバロウズはアメリカ中西部ちゅうせいぶ退屈たいくつ少年しょうねん時代じだいおくった。高校こうこう時代じだい魚釣さかなつ狩猟しゅりょうハイキングこのみ、そしてなによりもほんをよくんだ。学校がっこうにはまった馴染なじめなかった。その名門めいもんであるハーバード大学だいがく入学にゅうがくする。えい文学ぶんがく専攻せんこうし、T・S・エリオット研究けんきゅうした。もっとも、えい文学ぶんがく専攻せんこうしたのは、たんにそれ以外いがい興味きょうみてる学科がっかがなかったからというだけの消極しょうきょくてき理由りゆうによるものだった。また、学業がくぎょうにあまり熱心ねっしんでなかったバロウズがハーバード大学だいがく入学にゅうがくしたのは、母親ははおやローラ(1888–1970)の期待きたいこたえるためだったともわれる。在学ざいがくちゅうにイリノイしゅう売春ばいしゅん宿やど利用りようしたり、ニューヨークのハーレムやグリニッジ・ヴィレッジのLGBTコミュニティで、同性愛どうせいあい人々ひとびと交流こうりゅうしたりといった経験けいけんをした。1936ねんに、本人ほんにんいわくまずい成績せいせき大学だいがく卒業そつぎょうしてから、毎月まいつきることになった信託しんたく財産ざいさん仕送しおく)のおかげで、バロウズ自身じしん当初とうしょはたら必要ひつようなにもなかったと明言めいげんしている。しかし徐々じょじょにかさむ麻薬まやくだい工面くめんするために、はじめてはたら必要ひつようせまられた。

当時とうじ世界せかい恐慌きょうこう直中ただなかで、ド大どだいそつという学歴がくれきやくにたず、ヨーロッパへと旅行りょこう出掛でかける。旅先たびさきではウィーン学校がっこう入学にゅうがくした。そこでったユダヤじん女性じょせいイルゼ・クラッパー(Ilse Klapper)との偽装ぎそう結婚けっこんによって彼女かのじょのアメリカ(ニューヨーク)への国外こくがい逃亡とうぼう手助てだすけをしている。時勢じせい徐々じょじょに、しかし確実かくじつ度目どめ世界せかい大戦たいせんへとかいつつあり、ナチスとそのはんユダヤ主義しゅぎ不穏ふおんかげ急速きゅうそくひろがりとともせまってていた時代じだいである。バロウズも、肝心かんじん学校がっこうには結局けっきょく6ヶ月かげつあいだしかかようことがなかった。しかしながら、医学いがくへの興味きょうみ関心かんしんうしなわれることがなく、生涯しょうがいわた趣味しゅみとしてまなつづけた。また、ウィーンの医学いがくこうでの出会であいからはじまったイルゼとは9ねん離婚りこんしたが、友情ゆうじょう自体じたいなが持続じぞくさせた。

帰国きこくシカゴアルフレッド・コージブスキー一般いっぱん意味いみろんのセミナーを受講じゅこうし、また柔術じゅうじゅつまなんでもいたという。いでコロンビア大学ころんびあだいがく大学院だいがくいん心理しんりがく人類じんるいがく講義こうぎを2年間ねんかんけ、そのまま母校ぼこうのハーバード大学だいがく大学院だいがくいん人類じんるいがく講義こうぎをさらに2年間ねんかんけた。またこのあいだに3ねんほど、真剣しんけん精神せいしん分析ぶんせき治療ちりょうけ、最終さいしゅうてきかれ抑圧よくあつ不安ふあんから解放かいほうされ、自分じぶん自分じぶんきたいようにきられるようになる(あるいはすくいと解放かいほうる)ことに成功せいこうする。ちなみにこの治療ちりょうたった精神せいしん分析ぶんせきは、最後さいごまでバロウズの「性的せいてき指向しこう」(かれ同性愛どうせいあいしゃあるいはりょう性愛せいあいしゃであった)を執拗しつよう問題もんだいし、「治療ちりょう」のこころみをあきらめることがなかったが(当時とうじ同性愛どうせいあい治療ちりょう可能かのう精神せいしん疾患しっかん一種いっしゅだとかんがえられていた)、バロウズはそれをかいすることなく治療ちりょうえた。

その場所ばしょ転々てんてんとしながら仕送しおくりにたよりながら生活せいかつする。ニューヨークにんでいたときビート世代せだい詩人しじんアレン・ギンズバーグや、作家さっかジャック・ケルアックらとうことになる。バロウズはジョーン・フォルマー・アダムズと、ギンズバーグ、その最初さいしょつまエディー・パーカーと共同きょうどう生活せいかつをしていたことがある。バロウズとフォルマーは、一時いちじニューオーリンズに居住きょじゅうした[4]のちにフォルマーとのあいだでは離婚りこん問題もんだい課題かだいとなっていた。かれ1949ねんからメキシコシティんだが、フォルマーを射殺しゃさつする事件じけんこし、刑事けいじ責任せきにん追及ついきゅうされることとなった。この事件じけんかんするかれ説明せつめいは、てんさんてんしている。フォルマーはまだ28さいだった。1953ねんにデビューさくジャンキー英語えいごばん』(Junkie: Confessions of an Unredeemed Drug Addict)を発表はっぴょうする。しかしながらアメリカの文学ぶんがくかいにおける反響はんきょう皆無かいむで、一時いちじ作家さっかとしてきていくことをあきらめた。1953ねんモロッコタンジール移住いじゅうし、同時どうじに15ねん以上いじょうひたったドラッグ決別けつべつする姿勢しせいはじめる。1959ねん、ギンズバーグらの熱心ねっしんすすめと手助てだすけにより、めた文章ぶんしょうもと構成こうせいした小説しょうせつはだかのランチ』を発表はっぴょうする。その内容ないよう猥褻わいせつなものであり、アメリカ政府せいふから発禁はっきん処分しょぶんけるはめになる。しかしこのことがかえって話題わだいとなり、実験じっけん小説しょうせつゆうとしてまつげられた。

いちはドラッグから完全かんぜんあしあらっていた(後年こうねんには禁煙きんえんにも挑戦ちょうせんし、成功せいこうさせた)バロウズだが、65さい1979ねん)になってふたたヘロイン依存いぞんしょうおちいってしまう(これにはかれもと感心かんしんしかねる “おくもの” を持参じさんしてくる熱心ねっしんなファンの影響えいきょうがあったともわれている)。このため、1997ねんに83さいくなったときにはメサドンによる維持いじ療法りょうほうけていた。

友人ゆうじんブライオン・ガイシンとともに、文章ぶんしょうをバラバラにきざんでランダムつなげる「カットアップ」という実験じっけんてき手法しゅほう発明はつめいしゃであり、この手法しゅほう駆使くしした作品さくひんなんさく発表はっぴょうしているが、1980年代ねんだいはいってからはストーリーせい重視じゅうししたスタイルに移行いこうしている。『はだかのランチ』は、1992ねんカナダ映画えいが監督かんとくデヴィッド・クローネンバーグにより映画えいがされた。ただ、作品さくひん原作げんさく忠実ちゅうじつになぞったような性格せいかくのものではなく、あくまでバロウズの作品さくひんもとに、クローネンバーグによってあらたにさい構成こうせいされた、オリジナル作品さくひんというべき内容ないようになっている。

1960年代ねんだい1970年代ねんだい以降いこう、バロウズの作品さくひんSFさかいでも注目ちゅうもくされ、J・G・バラードジュディス・メリルはバロウズ作品さくひんを「理想りそうてきなSF」とんだ。山野やまの浩一こういちがセレクションした「サンリオSF文庫ぶんこ」にも作品さくひん収録しゅうろくされている。また安田やすだひとし大野おおのまんらが結成けっせいした「関西かんさい海外かいがいSF研究けんきゅうかい(KSFA)」というファングループは、バロウズの作品さくひんから名前なまえをとって、『ノヴァ・エクスプレス』という同人どうじん発行はっこうしていた。

フィリップ・K・ディック作品さくひんアンドロイドは電気でんきひつじゆめるか?』が映画えいがされるさい関係かんけいしゃがたまたまにとったバロウズの著作ちょさくブレードランナー』の語感ごかんかったので、映画えいが題名だいめいは『ブレードランナー』となった(内容ないようまった無関係むかんけい)。

おも著作ちょさく

[編集へんしゅう]

小説しょうせつおよび長編ちょうへん

[編集へんしゅう]

たん編集へんしゅう

[編集へんしゅう]

共著きょうちょ

[編集へんしゅう]

ディスコグラフィ

[編集へんしゅう]
  • 『ザ・プリースト ゼイ・コールド・ヒム』 the "Priest" they called him
バロウズのだいファンだったニルヴァーナカート・コバーンとの共演きょうえん作品さくひん


フィルモグラフィ

[編集へんしゅう]

出演しゅつえん劇映画げきえいが

[編集へんしゅう]

出演しゅつえん(ドキュメンタリー映画えいが

[編集へんしゅう]
DVD
Video

関連かんれん映画えいが

[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 山形やまがたひろしせいたかがバロウズほん』(大村おおむら書店しょてん・2003ねん2がつ) - 日本にっぽんでバロウズほん翻訳ほんやくをほぼすべて手掛てがけてきた訳者やくしゃ山形やまがたひろしせいによるバロウズ研究けんきゅう決定けっていばん構想こうそう10ねん執筆しっぴつ4ねん、450ぺーじ大著たいちょ現在げんざい絶版ぜっぱんだが、全文ぜんぶんPDF無料むりょう公開こうかいされている(山形やまがた著作ちょさくけん保有ほゆう部分ぶぶんについては、全体ぜんたい部分ぶぶんわずクリエイティブ・コモンズ・ライセンスとして自由じゆう複製ふくせい改変かいへんさい配布はいふ可能かのう)。

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ Chandarlapaty、R。、"Woodard and Renewed Intellectual Possibilities"、Seeing the Beat Generation (Jefferson、NC: McFarland & Company、2019)、pp。142–146
  2. ^ Grauerholz, James (December 9, 2003). “The death of Joan Vollmer-Burroughs: What really happened?”. lawrence.com. American Studies Department, University of Kansas. 28 July 2008閲覧えつらん
  3. ^ 1986ねんに、バロースしゃスペリーしゃ買収ばいしゅうし、世界せかいだい2コンピュータ企業きぎょうユニシスしゃとなった
  4. ^ Joan Vollmer”. Women of the Beat.org (2005ねん8がつ22にち). 2007ねん9がつ27にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。 Template:Cite webしエラー:引数ひきすう accessdate必須ひっすです。
  5. ^ ジャック・ケルアックとの共著きょうちょ
  6. ^ アレン・ギンズバーグとの共著きょうちょ

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]