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ジャック・ケルアック

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャック・ケルアック
Jack Kerouac
ジャック・ケルアック(1956ねん
誕生たんじょう Jean-Louis Lebris de Kérouac
(Jean Louis Kerouac)
1922ねん3月12にち
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
マサチューセッツしゅうローウェル
死没しぼつ (1969-10-21) 1969ねん10月21にち(47さいぼつ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
フロリダしゅうセントピーターズバーグ
職業しょくぎょう 小説しょうせつ詩人しじん
国籍こくせき アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
活動かつどう期間きかん 1940年代ねんだい中頃なかごろ - 1969ねん
ジャンル ビート文学ぶんがく
文学ぶんがく活動かつどう ビート・ジェネレーション
代表だいひょうさく路上ろじょう』(1957ねん
デビューさくThe Town and the City』(1950ねん
ウィキポータル 文学ぶんがく
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ジャック・ケルアックJack Kerouac1922ねん3月12にち - 1969ねん10月21にち)は、アメリカ小説しょうせつ詩人しじんで、ビートニク(ビート・ジェネレーション)を代表だいひょうする作家さっか一人ひとり。『路上ろじょう』(『オン・ザ・ロード』)、『孤独こどく旅人たびびと』などの著作ちょさくられる。大半たいはんは、コロンビア大学ころんびあだいがく中退ちゅうたいして以来いらいのアメリカ放浪ほうろう遍歴へんれき生活せいかつをそのまま下敷したじきにしたもの。出生しゅっしょう名前なまえジャン=ルイ・ルブリ・ド・ケルアックJean-Louis Lebris de Kérouac)ともわれる。

来歴らいれき[編集へんしゅう]

ケルアックは1922ねんマサチューセッツしゅうローウェルの、フランスけいカナダじん移民いみん家庭かていまれた。フランス西部せいぶブルターニュにルーツをつ、ケベック出身しゅっしんしゃ家庭かていであった[1]フランスけいカナダじんのコミュニティで幼少ようしょうごし、6さい小学校しょうがっこうはいるまで英語えいご使つかうことがなかった。ケルアックが4さいころあにジェラールがリウマチねつにより9さいくなった。ジェラールはケルアックが最初さいしょ影響えいきょうけた人物じんぶつとされ、小説しょうせつVisions of Gerard』にケルアックにかんするはなしおさめられている。

ローウェル高校こうこう進学しんがくフットボールに熱中ねっちゅうする。フットボールの推薦すいせんコロンビア大学ころんびあだいがく進学しんがくするが入学にゅうがくまもなくおこなわれた試合しあい負傷ふしょうしフットボールをあきらめる。だい世界せかい大戦たいせんなか船員せんいんとして世界中せかいじゅう航海こうかいし、戦後せんご親友しんゆうであった作家さっかウィリアム・バロウズや、ニール・キャサディアレン・ギンズバーグらとともにアメリカちゅう放浪ほうろうしてまわった。これらの経験けいけんから、ケルアックの著作ちょさく大半たいはん誕生たんじょうしたといえる。だい1長篇ちょうへん『ザ・タウン・アンド・ザ・シティ』(1950ねん)を発表はっぴょうつぎさく発表はっぴょうされるまでの7年間ねんかん様々さまざましょく従事じゅうじする。

1951ねんに3週間しゅうかんげたというケルアックの代表だいひょうさく路上ろじょう』(1957)[2](『オン・ザ・ロード』)は、ヒッピーなどのあいだおおくの愛読あいどくしゃ信奉しんぽうしゃみ、一気いっきにアメリカのカウンターカルチャー代表だいひょうとなった。パリ・レヴュー・インタヴューで「『路上ろじょう』(『オン・ザ・ロード』)で「即興そっきょう」スタイルを使つかおうとおもったきっかけはなんですか、との質問しつもんに、ケルアック自身じしんは「即興そっきょうスタイルのアイディアは、ニール・キャサディがくれた手紙てがみだ。おれはやつのスタイルでひらめいたんだ。『オン・ザ・ロード』はやつからアイディアをもらったんだなんてうと、西海岸にしかいがん不良ふりょうどもには嘘八百うそはっぴゃくこえるだろうけど」とかたっている[3]また、タイプ用紙ようし交換こうかんによって集中しゅうちゅうさまたげられるのをきらったかれは、巻物まきもののように、タイプ用紙ようしひとつにつなわせてもちいた。この有名ゆうめい逸話いつわは、こうした背景はいけいによる。この『路上ろじょう』という作品さくひん発表はっぴょうされるや、ビートジェネレーションとわれるかれらのあいだでは「ビートぞくおう」「ヒッピーのちち」とばれるようになった。「路上ろじょう」はロックバンド、ドアーズジム・モリソン[4]、グレイトフル・デッド、パティ・スミス、ボブ・ディランらのミュージシャンたちにも影響えいきょうあたえた。ただ、ケルアック自身じしんはビート・ジェネレーションの代表だいひょうしゃとしてつね攻撃こうげきけており、「わたしはビートの王者おうじゃだが、ビートニクではない」ともかたっていたという。ケルアックは元々もともと大人おとなしい性格せいかくにもかかわらず、『路上ろじょう』のアグレッシブな登場とうじょう人物じんぶつ、ディーン・モリアーティとかさわされたことによるギャップがおおきかった(実際じっさいのディーンのモデルはキャサディであった)。皮肉ひにくにもこのおもいがけない成功せいこうによりケルアックの生活せいかつみだれ、アルコール依存いぞんしょうなどにより徐々じょじょ健康けんこうがいしていった。

路上ろじょう』『地下街ちかがいひとびと』(1958ねん)『ぜんヒッピーたち』(1958ねん)の成功せいこう後押あとおしされ、ケルアックは1969ねん他界たかいするまでの10年間ねんかん自伝じでんてき要素ようそをふんだんにんだ小説しょうせつ発表はっぴょうした。なかでも『ドクター・サックス』(1959ねん)『マギー・キャシディ』(1959ねん)『ジェラールの幻想げんそう』(1963ねん)などはすでに1951ねんから1957ねんあいだかれていたものだったという。

やがてビートニクの友人ゆうじんたちとの親交しんこう途絶とだえ、ギンズバーグのような反戦はんせん活動かつどうもできなかったケルアックはおもて舞台ぶたいからとおざかっていった。さけをあおりながらベトナム戦争せんそうがるヒッピーに悪態あくたいをつくなど孤独こどく日々ひびらしたかれは、1969ねんフロリダしゅうセントピーターズバーグにおいて47さいくなり、ギンズバークら生前せいぜん友人ゆうじん見送みおくられて故郷こきょうローウェルの墓地ぼち埋葬まいそうされた。

1960年代ねんだいのケルアックは傍目はためには不遇ふぐうであったが、「ドゥルーズでん」というの、初期しょき作品さくひんふくめた壮大そうだい自叙伝じじょでん完成かんせいさせることを構想こうそうしていた。遺作いさくは『ドゥルーズの虚栄きょえい』(1968ねん)であった。

ちなみに『路上ろじょう』においては頻繁ひんぱんくるま運転うんてんするシーンがてくるものの、ケルアックは1956ねんまでくるま運転うんてん方法ほうほうまなんだことがなく、また生涯しょうがい運転うんてん免許めんきょ取得しゅとくすることはなかったという。

はだかのランチ』のバロウズ、『える』のギンスバーグ、ゲーリー・スナイダーなどとの交友こうゆう関係かんけい有名ゆうめいだった。かれらは自分じぶんたちを「ビート・ジェネレーション」とび、その作品さくひん言動げんどうヒッピー文化ぶんか思想しそうてき基盤きばんとなった。ただ、ケルアック自身じしん保守ほしゅてきなカトリックの家庭かていそだち、ヒッピーがきらいではん共産きょうさん主義しゅぎはんユダヤであり、ベトナム戦争せんそうにも賛成さんせい立場たちばだった[5][6]

1999ねん公開こうかい記録きろく映画えいが『ビートニク』では、かれらのわか姿すがたることができる。ケルアックのまれたまちローウェルにケルアックを記念きねんする公園こうえんが1988ねんつくられた。この公園こうえんは1990ねん建築けんちく協会きょうかいからアーバンデザインしょう受賞じゅしょうしている。

著作ちょさく[編集へんしゅう]

評伝ひょうでん[編集へんしゅう]

  • イヴ・ビュアン『ケルアック』(井上いのうえ大輔だいすけやく祥伝社しょうでんしゃ「ガリマールしん評伝ひょうでんシリーズ世界せかい傑物けつぶつ」、2010)

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ genealogie.org”. 2012ねん2がつ22にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2022ねん4がつ6にち閲覧えつらん
  2. ^ ボブ・ディランも、この作品さくひん影響えいきょうけたという
  3. ^ 青山あおやま みなみ へんやく『パリ・レヴュー・インタヴューⅠ 作家さっかはどうやって小説しょうせつくのか,じっくりいてみよう!』岩波書店いわなみしょてん、2015ねん11月27にち、100-101ぺーじISBN 9784000230599 
  4. ^ 「ハートにをつけて」「タッチ・ミー」などがヒットした
  5. ^ フェイリャー・オブ・ジャック・ケルアック 2022ねん4がつ6にち閲覧えつらん
  6. ^ 作家さっかジョン・スタインベックや、もと野球やきゅう選手せんしゅジャッキー・ロビンソンらもベトナム戦争せんそう賛成さんせい立場たちばだった

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]