エリザベス・フライズ・ラミス・エレット (英 えい : Elizabeth Fries Lummis Ellet 、1818年 ねん 10月18日 にち - 1877年 ねん 6月3日 にち )は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく ニューヨーク州 しゅう 出身 しゅっしん の著作 ちょさく 家 か 、歴史 れきし 家 か 、詩人 しじん である。アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう に貢献 こうけん した女性 じょせい の生涯 しょうがい を記録 きろく した最初 さいしょ の作家 さっか である[1] 。
ニューヨーク州 しゅう でエリザベス・フライズ・ラミスとして生 う まれ、1835年 ねん に最初 さいしょ の著書 ちょしょ である『詩 し 、翻訳 ほんやく と原本 げんぽん 』を出版 しゅっぱん した。化学 かがく 者 しゃ のウィリアム・ヘンリー・エレットと結婚 けっこん し、夫妻 ふさい でサウスカロライナ州 しゅう に移転 いてん した。そこで幾 いく つかの著作 ちょさく を出版 しゅっぱん し、多 おお くの雑誌 ざっし に寄稿 きこう した。1845年 ねん 、ニューヨーク 市 し に戻 もど り、そこで文学 ぶんがく サロンと交 まじ わることになった。エドガー・アラン・ポー とフランシス・サージェント・オズグッド のスキャンダルに関 かか わり、後 のち にはルーファス・ウィルモット・グリスウォルド とのスキャンダルにも巻 ま き込 こ まれた。エレットの最 もっと も重要 じゅうよう な作品 さくひん である『アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう の女 おんな 達 たち 』を1845年 ねん に出版 しゅっぱん した。この3巻 かん からなる本 ほん はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 初期 しょき の愛国 あいこく 的 てき 女性 じょせい の生涯 しょうがい を描 えが いていた。エレットは1877年 ねん に死 し ぬ時 とき まで執筆 しっぴつ を続 つづ けた。
エリザベス・フライズ・ラミス(以下 いか 特 とく に断 ことわ りの無 な い限 かぎ りエリザベスと表記 ひょうき する)は、1818年 ねん 10月 がつ 18日 にち 、ニューヨーク州 しゅう ソーダスポイントで生 う まれた。母 はは はサラ・マクスウェル(1780年 ねん -1849年 ねん )であり[2] 、アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう で大尉 たいい だったジョン・マクスウェルの娘 むすめ だった。ジョン・マクスウェルは独立 どくりつ 戦争 せんそう の時 とき にニュージャージー のサセックス郡 ぐん で立 た ち上 あ げた第 だい 1中隊 ちゅうたい の中尉 ちゅうい であり、大尉 たいい に昇進 しょうしん し、ハンタードン郡 ぐん 民兵 みんぺい 隊 たい 第 だい 2連隊 れんたい に付加 ふか された[3] 。1777年 ねん 2月 がつ 7日 にち から1778年 ねん 4月 がつ 11日 にち に、大陸 たいりく 軍 ぐん スペンサー大佐 たいさ の連隊 れんたい でも大尉 たいい だった。後 のち にジョージ・ワシントン 将軍 しょうぐん の軍隊 ぐんたい に加 くわ わり、マクスウェル中隊 ちゅうたい と呼 よ ばれた100名 めい の志願 しがん 兵 へい 中隊 ちゅうたい を率 ひき いる大尉 たいい だった[4] 。
エリザベスの父 ちち はウィリアム・ニクソン・ラミス(1775年 ねん -1833年 ねん )であり、フィラデルフィア で著名 ちょめい な医師 いし ベンジャミン・ラッシュ 博士 はかせ の下 した で医学 いがく を学 まな んだ優 すぐ れた医師 いし だった[4] 。1800年代 ねんだい の初期 しょき 、ラミスはフィラデルフィアを離 はな れて、ニューヨーク州 しゅう ウェイン郡 ぐん のソーダスポイントで、パルトニー荘園 しょうえん を購入 こうにゅう した[5] 。エリザベスはカユガ郡 ぐん オーロラ村 むら にあったオーロラ女子 じょし 神学校 しんがっこう に入学 にゅうがく し、多 おお くの学科 がっか を学 まな んだが、中 なか でもフランス語 ふらんすご 、ドイツ語 ご 、イタリア語 ご をものした。エリザベスが最初 さいしょ に本 ほん を出版 しゅっぱん したのは、16歳 さい の時 とき に翻訳 ほんやく したイタリアの詩人 しじん シルビオ・ペリコの作品 さくひん 『メッシーナのユーフェミオ』だった[6] 。
1835年 ねん 、エリザベスは最初 さいしょ の著書 ちょしょ である『詩 し 、翻訳 ほんやく と原本 げんぽん 』を出版 しゅっぱん した。これにはヴェネツィア の歴史 れきし に基 もと づいた悲劇 ひげき 『テレサ・コンタリニ』が入 はい っており、この戯曲 ぎきょく はニューヨークなどの都市 とし で上演 じょうえん され、成功 せいこう した。この頃 ころ にニューヨーク州 しゅう 出身 しゅっしん の化学 かがく 者 しゃ ウィリアム・ヘンリー・エレット(1806年 ねん -1859年 ねん )と結婚 けっこん した[7] 。ウィリアムはニューヨーク市 し のコロンビア大学 ころんびあだいがく を卒業 そつぎょう し、ジシアン 化合 かごう 物 ぶつ に関 かん する論文 ろんぶん で金 きん メダルを得 え ていた。1836年 ねん 、ウィリアムがサウスカロライナ大学 だいがく で化学 かがく 、鉱物 こうぶつ 学 がく 、地質 ちしつ 学 がく の教授 きょうじゅ となり、夫妻 ふさい はサウスカロライナ州 しゅう コロンビア に移転 いてん した。綿 めん 火薬 かやく (ニトロセルロース )を生成 せいせい する新 あたら しく安価 あんか な方法 ほうほう を発明 はつめい し、そのことでサウスカロライナ州 しゅう から銀 ぎん 食器 しょっき 一 いち 組 くみ を贈 おく られた[8] 。
この時期 じき にエリザベスは著書 ちょしょ 数 すう 冊 さつ を発行 はっこう していた。1839年 ねん 、ドイツの詩人 しじん フリードリヒ・フォン・シラー に関 かん する評論 ひょうろん 『シラーの性格 せいかく 』を書 か き、シラーの多 おお くの詩 し の翻訳 ほんやく も含 ふく めた[9] 。また女性 じょせい 貴族 きぞく の生活 せいかつ 様式 ようしき の歴史 れきし である『シシリーのジョアンナの生活 せいかつ におけるシーン』や、1840年 ねん にはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく を旅 たび したときに観察 かんさつ した景色 けしき を生 い き生 い きと叙述 じょじゅつ した『国 くに についてのおしゃべり』も書 か いた[10] 。詩 し 、翻訳 ほんやく 、ヨーロッパ文学 ぶんがく に関 かん する随筆 ずいひつ などを書 か き続 つづ け、それを雑誌 ざっし 「アメリカン・マンスリー」、「ノースアメリカ・レビュー」、「サザン・リテラリー・メッセンジャー」、「サザン・クォーターリー・レビュー」などに寄稿 きこう した。幅広 はばひろ いジャンルで多 おお くの作品 さくひん を生 う んだ[11] 。
1845年 ねん 、エリザベスは夫 おっと を南部 なんぶ に残 のこ したままニューヨーク市 し に戻 もど り、そこでマーガレット・フラー 、アン・リンチ・ボッタ、エドガー・アラン・ポー 、ルーファス・ウィルモット・グリスウォルド 、アンナ・コーラ・モワット、フランシス・サージェント・オズグッド らと共 とも に文学 ぶんがく サロンで自分 じぶん の地位 ちい を再開 さいかい させた。
フランシス・サージェント・オズグッド 、1840年代 ねんだい 半 なか ばにオズグッドとエドガー・アラン・ポー のスキャンダルが起 お こり、エリザベスも巻 ま き込 こ まれた
この頃 ころ 、エリザベスはエドガー・アラン・ポーとフランシス・サージェント・オズグッドを巻 ま き込 こ んだスキャンダルに加 くわ わることになった。この二人 ふたり は既 すで に別々 べつべつ の既婚 きこん 者 しゃ だった。このスキャンダルとその結果 けっか の詳細 しょうさい に関 かん する証言 しょうげん は様々 さまざま である。当時 とうじ 、ポーは物語 ものがたり 詩 し 『大 だい 鴉 からす 』でその名声 めいせい が頂点 ちょうてん に達 たっ していたときだった。エリザベスやオズグッドをはじめ、文学 ぶんがく サロンの多 おお くの女性 じょせい が彼 かれ に手紙 てがみ を送 おく っていた。そのような手紙 てがみ の幾 いく つかは、気 き を引 ひ いたり好色 こうしょく なものであったりした可能 かのう 性 せい がある。エリザベスはポーと文学 ぶんがく 的 てき なことを論 ろん じて時間 じかん を過 す ごすこともあった。ポーの愛 あい を求 もと めてオズグッドと競 きそ い合 あ う気持 きも ちになっていた可能 かのう 性 せい もある[1] 。この頃 ころ のポーはオズグッドに宛 あ てた、また彼女 かのじょ に関 かん する詩 し を幾 いく つか書 か いており、その中 なか には『バレンタイン』が入 はい っていた[12] 。
エリザベスは、1846年 ねん 1月 がつ にポーの家 いえ を訪問 ほうもん したとき[13] 、ポーの妻 つま のバージニア から、オズグッドから来 き た手紙 てがみ を見 み せられたとされており、その後 ご オズグッドに二 に 人 にん の軽率 けいそつ さを指摘 してき して手紙 てがみ の返還 へんかん を求 もと めるよう忠告 ちゅうこく した[13] 。オズグッドのために、マーガレット・フラーとアン・リンチ・ボッタがポーにそれら手紙 てがみ を返還 へんかん するよう求 もと めた。ポーは彼女 かのじょ 達 たち の干渉 かんしょう に怒 いか り、エリザベスには「彼女 かのじょ 『自身 じしん の』手紙 てがみ の面倒 めんどう を見 み る」方 かた が良 よ いと示唆 しさ した[14] 。そのような手紙 てがみ の中 なか でドイツ語 ご で書 か かれたものが1通 つう あり、ポーに「今夜 こんや 彼女 かのじょ の住居 じゅうきょ でそれを求 もと める」よう求 もと めたものがあり、その言葉 ことば は誘惑 ゆうわく を意味 いみ したと考 かんが えられるが、ポーはそれを無視 むし したか、あるいはその意味 いみ を理解 りかい できなかった[15] 。その後 ご ポーはエリザベスからの手紙 てがみ を纏 まと め、それを彼女 かのじょ の家 いえ に残 のこ した[13] 。彼女 かのじょ の手紙 てがみ が返還 へんかん されたにも拘 かか わらず、エリザベスは自分 じぶん の弟 おとうと に「私 わたし の手紙 てがみ を要求 ようきゅう する」よう求 もと めた[14] 。弟 おとうと のウィリアム・ラミス大佐 たいさ は、ポーが既 すで に手紙 てがみ を返還 へんかん したとは信 しん ぜず、彼 かれ を殺 ころ すと脅 おど した。ポーは自己 じこ 防衛 ぼうえい のためにトマス・ダン・イングリッシュに拳銃 けんじゅう を要請 ようせい した。イングリッシュはエリザベスがポーに手紙 てがみ を送 おく ったとは考 かんが えてもいなかった[13] 。
オズグッドの夫 おっと 、サミュエル・スティルマン・オズグッドは、エリザベスが公式 こうしき に謝 あやま らなければ訴訟 そしょう を起 お こすと脅 おど した。エリザベスはオズグッドに宛 あ てた手紙 てがみ で、「ポー夫人 ふじん が私 わたし に見 み せた手紙 てがみ は、ポー自身 じしん が創作 そうさく した『偽物 にせもの に違 ちが いない』」と言 い って前言 ぜんげん を取 と り消 け した[16] 。彼女 かのじょ は全 すべ ての責任 せきにん をポーに押 お しつけ、この出来事 できごと はポーが、「抑制 よくせい を欠 か き、狂気 きょうき に憑 つ かれて行動 こうどう しがちである」からだと示唆 しさ した[17] 。ポーの気 き が狂 くる っているという噂 うわさ は、エリザベスやその他 た ポーの敵 てき によって広 ひろ められ、最後 さいご は新聞 しんぶん にまで掲載 けいさい された[18] 。オズグッドが夫 おっと の元 もと に戻 もど った後 のち 、このスキャンダルも消 き えて行 い った[17] 。しかし、病気 びょうき だったポーの妻 つま バージニアはこのスキャンダルの影響 えいきょう を深 ふか く受 う けた。おそらくエリザベスのものと考 かんが えられる匿名 とくめい の手紙 てがみ を受 う け取 と り、それには1845年 ねん 7月 がつ には既 すで に彼女 かのじょ の夫 おっと が無分別 むふんべつ な行動 こうどう をしていたと書 か かれていた。バージニアはその死 し の床 ゆか で、「E夫人 ふじん は私 わたし を殺 ころ した者 もの だった」と言 い った[19] 。それから何 なん 年 ねん も後 のち にポーは、「E夫人 ふじん は私 わたし に嫌悪 けんお 感 かん を持 も たせたのであり、今日 きょう に至 いた っても『匿名 とくめい の』迫害 はくがい を止 と めようとはしていないので、彼女 かのじょ を軽蔑 けいべつ する」と記 しる していた[20] 。ポーが短編 たんぺん の『跳 と び蛙 かえる 』を書 か いたのは、エリザベス達 たち に対 たい する文学 ぶんがく による報復 ほうふく だったと、考 かんが えられている[21] 。
『アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう の女 おんな 達 たち 』[ 編集 へんしゅう ]
『アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう の女 おんな 達 たち 』1856年版 ねんばん の表紙 ひょうし
1846年 ねん 頃 ごろ 、エリザベスは歴史 れきし に関 かん する大作 たいさく に取 と り掛 か かった。それはアメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう に捧 ささ げられ、積極 せっきょく 的 てき に関 かか わった女性 じょせい の生涯 しょうがい を取 と り上 あ げるものだった。エリザベスは、出版 しゅっぱん されていない手紙 てがみ や日記 にっき を探 さが し、独立 どくりつ 戦争 せんそう 時代 じだい の者 もの の子孫 しそん やフロンティアの女性 じょせい をインタビューすることで、これを行 おこな っており、そのようなことを行 おこな う独立 どくりつ 戦争 せんそう に関 かん する最初 さいしょ の歴史 れきし 家 か となった[7] 。「(男 おとこ の側 がわ の)行動 こうどう 史 し については史料 しりょう が豊富 ほうふ にある」ことに注目 ちゅうもく し、これに女 おんな の側 がわ から語 かた ることで平衡 へいこう を取 と ろうとした。その女性 じょせい 達 たち を建国 けんこく の「母 はは たち」と呼 よ び、「その後 ご の世界 せかい に火 ひ を点 つ け、明 あ かりを投 な げかけることになった市民 しみん の自由 じゆう 愛 あい に関 かん する国内 こくない の聖域 せいいき を養 やしな う場所 ばしょ 」を与 あた えたと言 い った[22] 。
女性 じょせい 愛国 あいこく 者 しゃ に関 かん する多 おお くの情報 じょうほう を得 え て、それが1848年 ねん に2巻 かん 本 ほん で出版 しゅっぱん された『アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう の女 おんな 達 たち 』 初版 しょはん となった。この著書 ちょしょ は読者 どくしゃ に受 う け入 い れられたので、さらに資料 しりょう を追加 ついか して3巻 かん 目 め が1850年 ねん に出版 しゅっぱん された。後 ご の歴史 れきし 家 か 達 たち はこれらがエリザベスの最 もっと も重要 じゅうよう な作品 さくひん になったと考 かんが えている[10] 。エリザベスは『アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう の国内 こくない 史 し 』も著 あらわ し、同 おな じ資料 しりょう を叙述 じょじゅつ 的 てき 形態 けいたい で要約 ようやく し、やはり1850年 ねん に出版 しゅっぱん した。
エリザベスはあらゆる植民 しょくみん 地 ち と社会 しゃかい の全 すべ ての階級 かいきゅう の女性 じょせい の話 はなし を語 かた ったが、例外 れいがい としてアフリカ系 けい アメリカ人 じん の役割 やくわり は無視 むし することにした。彼女 かのじょ が書 か いた女性 じょせい の中 なか には、マーサ・ワシントン 、アビゲイル・アダムズ 、マーシー・オーティス・ウォーレン、アン・エリザ・ブリーカーなど、彼女 かのじょ 達 たち 自身 じしん の功績 こうせき で既 すで に著名 ちょめい な者 もの もいた。エリザベスはもっと知 し られていないが、前述 ぜんじゅつ の女性 じょせい 達 たち と同 おな じくらい価値 かち ある功績 こうせき を残 のこ した女性 じょせい 達 たち についても書 か いた。英雄 えいゆう 達 たち の妻 つま は、イギリス軍 ぐん の侵略 しんりゃく を前 まえ にして、勇敢 ゆうかん に子供 こども 達 たち を育 そだ て、家 いえ を守 まも った[23] 。エリザベスは、「生 う まれたばかりの共和 きょうわ 国 こく の運命 うんめい について、女性 じょせい 愛国 あいこく 者 しゃ の与 あた えた広大 こうだい な影響 えいきょう を今 いま 賞賛 しょうさん するのはほとんど不可能 ふかのう である」と記 しる した[23] 。
選集 せんしゅう 編集 へんしゅう 者 しゃ で批評 ひひょう 家 か のルーファス・ウィルモット・グリスウォルドが、この本 ほん の制作 せいさく でエリザベスを援助 えんじょ し、彼 かれ が会員 かいいん だったニューヨーク歴史 れきし 協会 きょうかい の記録 きろく 類 るい に触 ふ れることを認 みと めた。しかしエリザベスは、グリスウォルドの援助 えんじょ を認 みと めなかったので、悪意 あくい ある彼 かれ を怒 おこ らせた[24] 。グリスウォルドは書評 しょひょう の中 なか で、「彼女 かのじょ 自身 じしん よりも我々 われわれ の公的 こうてき および家庭 かてい 内 ない の経験 けいけん について良 よ く知 し っている幾 いく 人 にん か紳士 しんし の援助 えんじょ を得 え て、彼女 かのじょ は貴重 きちょう で興味 きょうみ ある作品 さくひん を作成 さくせい した」と記 しる していた[25] 。
『実務 じつむ 的 てき な主婦 しゅふ 』の1857年版 ねんばん 表紙 ひょうし
エリザベスは、この時 とき までに名声 めいせい を得 え て尊敬 そんけい される作家 さっか となり、1849年 ねん には『聖書 せいしょ の家族 かぞく 写真 しゃしん 』を書 か いた。1850年 ねん 、ドイツの伝説 でんせつ や伝統 でんとう を集 あつ めた『ウッドローンの夕 ゆう べ』を書 か き、さらに『アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう の国内 こくない 史 し 』を書 か いて、男性 だんせい と女性 じょせい の双方 そうほう の視点 してん からアメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう の歴史 れきし を書 か いた、おそらく唯一 ゆいいつ のものとなった。1851年 ねん から1857年 ねん 、『見 み つめる魂 たましい 』『西部 せいぶ のパイオニア女性 じょせい 』、『音楽家 おんがくか の中編 ちゅうへん 小説 しょうせつ 』、『西部 せいぶ での夏 なつ のおしゃべり』を書 か き進 すす めていった。この最後 さいご の本 ほん は1852年 ねん にミネソタ川 がわ を船 ふね で旅 たび した時 とき にヒントを得 え たものだった。ミネソタ州 しゅう イーデンプレーリーは、エリザベスがその名 な を付 つ けており、そこにある自然 しぜん の道 みち に彼女 かのじょ の名 な を付 つ けた[26] 。
1857年 ねん 、エリザベスは『実務 じつむ 的 てき な主婦 しゅふ 』と題 だい するアメリカ人 じん 家政学 かせいがく の600ページに及 およ ぶ事典 じてん を出版 しゅっぱん した。このガイドブックは中流 ちゅうりゅう から上流 じょうりゅう の読者 どくしゃ を対象 たいしょう にしており、3部 ぶ 、すなわち料理 りょうり 、家事 かじ 、薬学 やくがく 的 てき 関心 かんしん の構成 こうせい だった。その中 なか には数多 かずおお いレシピや、哲学 てつがく 者 しゃ 、化学 かがく 者 しゃ および古代 こだい 文明 ぶんめい に絡 から んだ助言 じょげん が納 おさ められた。500枚 まい の版画 はんが による挿絵 さしえ も使 つか われた。その序文 じょぶん には「これまでのマニュアルの範囲 はんい 内 ない では、この国 くに で体系 たいけい 的 てき な家政学 かせいがく の完成 かんせい されたものが出版 しゅっぱん されていなかった」と書 か かれていた[7] 。
その後 ご の作品 さくひん として、1859年 ねん に出版 しゅっぱん された『あらゆる年代 ねんだい と国 くに の女性 じょせい アーティスト』は、女性 じょせい アーティストの歴史 れきし を示 しめ したことでは最初 さいしょ の書 しょ となった[27] 。1867年 ねん 出版 しゅっぱん の『アメリカ社会 しゃかい の女王 じょおう 』、1869年 ねん の『共和 きょうわ 国 こく の社交 しゃこう 界 かい 』はジョージ・ワシントンからユリシーズ・グラント まで18代 だい の大統領 だいとうりょう の社交 しゃこう 生活 せいかつ を描 えが いていた[25] 。
エリザベス・エレットの墓 はか 、ニューヨーク市 し ブルックリン区 く グリーンウッド墓地 ぼち
1850年 ねん エリザベスとその夫 おっと はニューヨーク市 し に移転 いてん し、夫 おっと はマンハッタン・ガス会社 かいしゃ の化学 かがく 分野 ぶんや のコンサルタントとして晩年 ばんねん を過 す ごした。
1852年 ねん 、エリザベスはルーファス・グリスウォルドとその2番目 ばんめ の妻 つま シャーロット・マイアーズの離婚 りこん 訴訟 そしょう に関 かか わるようになった。エリザベスとアン・S・スティーブンスはマイアーズに宛 あ てて、離婚 りこん を認 みと めないように告 つ げる手紙 てがみ を書 か き、合 あ わせて離婚 りこん 成立 せいりつ 後 ご にグリスウォルドと結婚 けっこん しようとしていたハリエット・マクリリスには、彼 かれ との関係 かんけい を止 と めるよう手紙 てがみ を書 か いた[28] 。離婚 りこん が認 みと められた後 のち でもエリザベスとスティーブンスはマイアーズに手紙 てがみ を送 おく り続 つづ け、1853年 ねん 9月 がつ 23日 にち には離婚 りこん を撤回 てっかい するよう説得 せっとく した[29] 。1856年 ねん 2月 がつ 24日 にち 、控訴 こうそ が裁判所 さいばんしょ に出 だ され、エリザベスとスティーブンスはグリスウォルドの性格 せいかく を攻撃 こうげき する長々 ながなが しい証言 しょうげん を行 おこな った。これにはグリスウォルドもマイアーズも出席 しゅっせき せず、訴訟 そしょう は棄却 ききゃく された[30] 。グリスウォルドが1857年 ねん に死 し ぬと、友人 ゆうじん で作家 さっか のサラ・アンナ・ルイスが、エリザベスの干渉 かんしょう がグリスウォルドの病状 びょうじょう を悪 わる くしたことを示唆 しさ し、「グリスウォルドを死 し に駆 か り立 た てた」と言 い った[31] 。
1857年 ねん 、エリザベスはアン・スティーブンスに代 か わって、ニューヨークの「イブニング・イクスプレス」の文芸 ぶんげい 編集 へんしゅう 者 しゃ になった[32] 。その2年 ねん 後 ご の1859年 ねん 、エリザベスの夫 おっと ウィリアムが死 し んだ。エリザベスは執筆 しっぴつ を続 つづ け、子供 こども は居 い なかったが、大衆 たいしゅう に寄付 きふ を勧 すす める話 はなし をすることで、貧 まず しい女性 じょせい や子供 こども 達 たち のための慈善 じぜん 活動 かつどう を推進 すいしん した。エリザベスは米国 べいこく 聖 せい 公会 こうかい の信徒 しんと であったが、晩年 ばんねん にはカトリック に転向 てんこう した[7] 。エリザベスは1877年 ねん 6月 がつ 3日 にち 、ニューヨーク市 し でブライト病 びょう のために死 し んだ。ブルックリン区 く のグリーンウッド墓地 ぼち にある夫 おっと の墓 はか の傍 はた に埋葬 まいそう された[2] 。
エリザベス・エレットはアメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう と女性 じょせい の関係 かんけい について初 はじ めて執筆 しっぴつ した歴史 れきし 家 か だった。女性 じょせい はその影響 えいきょう 力 りょく で歴史 れきし を形作 かたちづく り、その「感情 かんじょう 」と「感覚 かんかく 」でことを成 な すと考 かんが えた。これを定義 ていぎ するのは難 むずか しかったので、「歴史 れきし は正義 せいぎ 無 な しに進 すす められる」と述 の べた[33] 。その著書 ちょしょ 『アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう の女 おんな 達 たち 』は現在 げんざい も研究 けんきゅう 対象 たいしょう になっている。
以下 いか のエリザベス・エレット作品 さくひん 一覧 いちらん はミシガン州立 しゅうりつ 大学 だいがく ヒストリック・アメリカン・プロジェクトから得 え られた[7] 。
『メッシーナのユーフェミオ』Euphemio of Messina (1834年 ねん ) 翻訳 ほんやく 書 しょ
『詩 し 、翻訳 ほんやく と原本 げんぽん 』Poems, Translated and Original 戯曲 ぎきょく 『テレサ・コンタリニ』Teresa Conarini を含 ふく む (1835年 ねん )
『シラーの性格 せいかく 』The Characters of Schiller (1839年 ねん )
『シシリーのジョアンナ』Joanna of Sicily (1840年 ねん )
『国 くに についてのおしゃべり』Rambles about the Country (1840年 ねん )
『アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう の女 おんな 達 たち 』The Women of the American Revolution (1848年 ねん -1850年 ねん ) (3 巻 かん )
『ウッドローンの夕 ゆう べ』Evenings at Woodlawn (1849年 ねん )
『聖書 せいしょ の家族 かぞく 写真 しゃしん 』Family Pictures from the Bible (1849年 ねん )
『アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう の国内 こくない 史 し 』Domestic History of the American Revolution (1850年 ねん )
『見 み つめる魂 たましい 』Watching Spirits (1851年 ねん )
『音楽家 おんがくか の中編 ちゅうへん 小説 しょうせつ 』Nouvelettes of the Musicians (1851年 ねん )
『西部 せいぶ のパイオニア女性 じょせい 』Pioneer Women of the West (1852年 ねん )
『西部 せいぶ での夏 なつ のおしゃべり』Summer Rambles in the West (1853年 ねん ),
『実務 じつむ 的 てき な主婦 しゅふ 』The Practical Housekeeper (1857年 ねん )
『あらゆる年代 ねんだい と国 くに の女性 じょせい アーティスト』Women Artists in All Ages and Countries (1859年 ねん )
『アメリカ社会 しゃかい の女王 じょおう 』、The Queens of American Society (1867年 ねん )
『共和 きょうわ 国 こく の社交 しゃこう 界 かい 』Court Circles of the Republic (1869年 ねん )
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