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エリザベス・F・エレット

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
エリザベス・フライズ・ラミス・エレット
Elizabeth Fries Lummis Ellet
エリザベス・エレットの肖像しょうぞう
誕生たんじょう (1818-10-18) 1818ねん10月18にち
ニューヨークしゅうソーダスポイント
死没しぼつ 1877ねん6月3にち(1877-06-03)(58さいぼつ
ニューヨーク
職業しょくぎょう 著作ちょさく歴史れきし詩人しじん, 翻訳ほんやく
配偶はいぐうしゃ ウィリアム・ヘンリー・エレット
(1806ねん-1859ねん)
ウィキポータル 文学ぶんがく
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エリザベス・フライズ・ラミス・エレットえい: Elizabeth Fries Lummis Ellet1818ねん10月18にち - 1877ねん6月3にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくニューヨークしゅう出身しゅっしん著作ちょさく歴史れきし詩人しじんである。アメリカ独立どくりつ戦争せんそう貢献こうけんした女性じょせい生涯しょうがい記録きろくした最初さいしょ作家さっかである[1]

ニューヨークしゅうでエリザベス・フライズ・ラミスとしてまれ、1835ねん最初さいしょ著書ちょしょである『翻訳ほんやく原本げんぽん』を出版しゅっぱんした。化学かがくしゃのウィリアム・ヘンリー・エレットと結婚けっこんし、夫妻ふさいサウスカロライナしゅう移転いてんした。そこでいくつかの著作ちょさく出版しゅっぱんし、おおくの雑誌ざっし寄稿きこうした。1845ねんニューヨークもどり、そこで文学ぶんがくサロンとまじわることになった。エドガー・アラン・ポーフランシス・サージェント・オズグッドのスキャンダルにかかわり、のちにはルーファス・ウィルモット・グリスウォルドとのスキャンダルにもまれた。エレットのもっと重要じゅうよう作品さくひんである『アメリカ独立どくりつ戦争せんそうおんなたち』を1845ねん出版しゅっぱんした。この3かんからなるほんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく初期しょき愛国あいこくてき女性じょせい生涯しょうがいえがいていた。エレットは1877ねんときまで執筆しっぴつつづけた。

初期しょき人生じんせい

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エリザベス・フライズ・ラミス(以下いかとくことわりのかぎりエリザベスと表記ひょうきする)は、1818ねん10がつ18にちニューヨークしゅうソーダスポイントでまれた。はははサラ・マクスウェル(1780ねん-1849ねん)であり[2]、アメリカ独立どくりつ戦争せんそう大尉たいいだったジョン・マクスウェルのむすめだった。ジョン・マクスウェルは独立どくりつ戦争せんそうときニュージャージーサセックスぐんげただい1中隊ちゅうたい中尉ちゅういであり、大尉たいい昇進しょうしんし、ハンタードンぐん民兵みんぺいたいだい2連隊れんたい付加ふかされた[3]。1777ねん2がつ7にちから1778ねん4がつ11にちに、大陸たいりくぐんスペンサー大佐たいさ連隊れんたいでも大尉たいいだった。のちジョージ・ワシントン将軍しょうぐん軍隊ぐんたいくわわり、マクスウェル中隊ちゅうたいばれた100めい志願しがんへい中隊ちゅうたいひきいる大尉たいいだった[4]

エリザベスのちちはウィリアム・ニクソン・ラミス(1775ねん-1833ねん)であり、フィラデルフィア著名ちょめい医師いしベンジャミン・ラッシュ博士はかせした医学いがくまなんだすぐれた医師いしだった[4]。1800年代ねんだい初期しょき、ラミスはフィラデルフィアをはなれて、ニューヨークしゅうウェインぐんのソーダスポイントで、パルトニー荘園しょうえん購入こうにゅうした[5]。エリザベスはカユガぐんオーロラむらにあったオーロラ女子じょし神学校しんがっこう入学にゅうがくし、おおくの学科がっかまなんだが、なかでもフランス語ふらんすごドイツイタリアをものした。エリザベスが最初さいしょほん出版しゅっぱんしたのは、16さいとき翻訳ほんやくしたイタリアの詩人しじんシルビオ・ペリコの作品さくひん『メッシーナのユーフェミオ』だった[6]

作家さっかとしての経歴けいれき

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1835ねん、エリザベスは最初さいしょ著書ちょしょである『翻訳ほんやく原本げんぽん』を出版しゅっぱんした。これにはヴェネツィア歴史れきしもとづいた悲劇ひげき『テレサ・コンタリニ』がはいっており、この戯曲ぎきょくはニューヨークなどの都市とし上演じょうえんされ、成功せいこうした。このころにニューヨークしゅう出身しゅっしん化学かがくしゃウィリアム・ヘンリー・エレット(1806ねん-1859ねん)と結婚けっこんした[7]。ウィリアムはニューヨークコロンビア大学ころんびあだいがく卒業そつぎょうし、ジシアン化合かごうぶつかんする論文ろんぶんきんメダルをていた。1836ねん、ウィリアムがサウスカロライナ大学だいがく化学かがく鉱物こうぶつがく地質ちしつがく教授きょうじゅとなり、夫妻ふさいはサウスカロライナしゅうコロンビア移転いてんした。綿めん火薬かやくニトロセルロース)を生成せいせいするあたらしく安価あんか方法ほうほう発明はつめいし、そのことでサウスカロライナしゅうからぎん食器しょっきいちくみおくられた[8]

この時期じきにエリザベスは著書ちょしょすうさつ発行はっこうしていた。1839ねん、ドイツの詩人しじんフリードリヒ・フォン・シラーかんする評論ひょうろん『シラーの性格せいかく』をき、シラーのおおくの翻訳ほんやくふくめた[9]。また女性じょせい貴族きぞく生活せいかつ様式ようしき歴史れきしである『シシリーのジョアンナの生活せいかつにおけるシーン』や、1840ねんにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくたびしたときに観察かんさつした景色けしききと叙述じょじゅつした『くにについてのおしゃべり』もいた[10]翻訳ほんやく、ヨーロッパ文学ぶんがくかんする随筆ずいひつなどをつづけ、それを雑誌ざっし「アメリカン・マンスリー」、「ノースアメリカ・レビュー」、「サザン・リテラリー・メッセンジャー」、「サザン・クォーターリー・レビュー」などに寄稿きこうした。幅広はばひろいジャンルでおおくの作品さくひんんだ[11]

1845ねん、エリザベスはおっと南部なんぶのこしたままニューヨークもどり、そこでマーガレット・フラー、アン・リンチ・ボッタ、エドガー・アラン・ポールーファス・ウィルモット・グリスウォルド、アンナ・コーラ・モワット、フランシス・サージェント・オズグッドらととも文学ぶんがくサロンで自分じぶん地位ちい再開さいかいさせた。

フランシス・サージェント・オズグッド、1840年代ねんだいなかばにオズグッドとエドガー・アラン・ポーのスキャンダルがこり、エリザベスもまれた

スキャンダル

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このころ、エリザベスはエドガー・アラン・ポーとフランシス・サージェント・オズグッドをんだスキャンダルにくわわることになった。この二人ふたりすで別々べつべつ既婚きこんしゃだった。このスキャンダルとその結果けっか詳細しょうさいかんする証言しょうげん様々さまざまである。当時とうじ、ポーは物語ものがたりだいからす』でその名声めいせい頂点ちょうてんたっしていたときだった。エリザベスやオズグッドをはじめ、文学ぶんがくサロンのおおくの女性じょせいかれ手紙てがみおくっていた。そのような手紙てがみいくつかは、いたり好色こうしょくなものであったりした可能かのうせいがある。エリザベスはポーと文学ぶんがくてきなことをろんじて時間じかんごすこともあった。ポーのあいもとめてオズグッドときそ気持きもちになっていた可能かのうせいもある[1]。このころのポーはオズグッドにてた、また彼女かのじょかんするいくつかいており、そのなかには『バレンタイン』がはいっていた[12]

エリザベスは、1846ねん1がつにポーのいえ訪問ほうもんしたとき[13]、ポーのつまバージニアから、オズグッドから手紙てがみせられたとされており、そのオズグッドににん軽率けいそつさを指摘してきして手紙てがみ返還へんかんもとめるよう忠告ちゅうこくした[13]。オズグッドのために、マーガレット・フラーとアン・リンチ・ボッタがポーにそれら手紙てがみ返還へんかんするようもとめた。ポーは彼女かのじょたち干渉かんしょういかり、エリザベスには「彼女かのじょ自身じしんの』手紙てがみ面倒めんどうる」かたいと示唆しさした[14]。そのような手紙てがみなかでドイツかれたものが1つうあり、ポーに「今夜こんや彼女かのじょ住居じゅうきょでそれをもとめる」ようもとめたものがあり、その言葉ことば誘惑ゆうわく意味いみしたとかんがえられるが、ポーはそれを無視むししたか、あるいはその意味いみ理解りかいできなかった[15]。そのポーはエリザベスからの手紙てがみまとめ、それを彼女かのじょいえのこした[13]彼女かのじょ手紙てがみ返還へんかんされたにもかかわらず、エリザベスは自分じぶんおとうとに「わたし手紙てがみ要求ようきゅうする」ようもとめた[14]おとうとのウィリアム・ラミス大佐たいさは、ポーがすで手紙てがみ返還へんかんしたとはしんぜず、かれころすとおどした。ポーは自己じこ防衛ぼうえいのためにトマス・ダン・イングリッシュに拳銃けんじゅう要請ようせいした。イングリッシュはエリザベスがポーに手紙てがみおくったとはかんがえてもいなかった[13]

オズグッドのおっと、サミュエル・スティルマン・オズグッドは、エリザベスが公式こうしきあやまらなければ訴訟そしょうこすとおどした。エリザベスはオズグッドにてた手紙てがみで、「ポー夫人ふじんわたしせた手紙てがみは、ポー自身じしん創作そうさくした『偽物にせものちがいない』」とって前言ぜんげんした[16]彼女かのじょすべての責任せきにんをポーにしつけ、この出来事できごとはポーが、「抑制よくせいき、狂気きょうきかれて行動こうどうしがちである」からだと示唆しさした[17]。ポーのくるっているといううわさは、エリザベスやそのポーのてきによってひろめられ、最後さいご新聞しんぶんにまで掲載けいさいされた[18]。オズグッドがおっともともどったのち、このスキャンダルもえてった[17]。しかし、病気びょうきだったポーのつまバージニアはこのスキャンダルの影響えいきょうふかけた。おそらくエリザベスのものとかんがえられる匿名とくめい手紙てがみり、それには1845ねん7がつにはすで彼女かのじょおっと無分別むふんべつ行動こうどうをしていたとかれていた。バージニアはそのゆかで、「E夫人ふじんわたしころしたものだった」とった[19]。それからなんねんのちにポーは、「E夫人ふじんわたし嫌悪けんおかんたせたのであり、今日きょういたっても『匿名とくめいの』迫害はくがいめようとはしていないので、彼女かのじょ軽蔑けいべつする」としるしていた[20]。ポーが短編たんぺんの『かえる』をいたのは、エリザベスたちたいする文学ぶんがくによる報復ほうふくだったと、かんがえられている[21]

『アメリカ独立どくりつ戦争せんそうおんなたち

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『アメリカ独立どくりつ戦争せんそうおんなたち』1856年版ねんばん表紙ひょうし

1846ねんごろ、エリザベスは歴史れきしかんする大作たいさくかった。それはアメリカ独立どくりつ戦争せんそうささげられ、積極せっきょくてきかかわった女性じょせい生涯しょうがいげるものだった。エリザベスは、出版しゅっぱんされていない手紙てがみ日記にっきさがし、独立どくりつ戦争せんそう時代じだいもの子孫しそんやフロンティアの女性じょせいをインタビューすることで、これをおこなっており、そのようなことをおこな独立どくりつ戦争せんそうかんする最初さいしょ歴史れきしとなった[7]。「(おとこがわの)行動こうどうについては史料しりょう豊富ほうふにある」ことに注目ちゅうもくし、これにおんながわからかたることで平衡へいこうろうとした。その女性じょせいたち建国けんこくの「ははたち」とび、「その世界せかいけ、かりをげかけることになった市民しみん自由じゆうあいかんする国内こくない聖域せいいきやしな場所ばしょ」をあたえたとった[22]

女性じょせい愛国あいこくしゃかんするおおくの情報じょうほうて、それが1848ねんに2かんほん出版しゅっぱんされた『アメリカ独立どくりつ戦争せんそうおんなたち初版しょはんとなった。この著書ちょしょ読者どくしゃれられたので、さらに資料しりょう追加ついかして3かんが1850ねん出版しゅっぱんされた。歴史れきしたちはこれらがエリザベスのもっと重要じゅうよう作品さくひんになったとかんがえている[10]。エリザベスは『アメリカ独立どくりつ戦争せんそう国内こくない』もあらわし、おな資料しりょう叙述じょじゅつてき形態けいたい要約ようやくし、やはり1850ねん出版しゅっぱんした。

エリザベスはあらゆる植民しょくみん社会しゃかいすべての階級かいきゅう女性じょせいはなしかたったが、例外れいがいとしてアフリカけいアメリカじん役割やくわり無視むしすることにした。彼女かのじょいた女性じょせいなかには、マーサ・ワシントンアビゲイル・アダムズ、マーシー・オーティス・ウォーレン、アン・エリザ・ブリーカーなど、彼女かのじょたち自身じしん功績こうせきすで著名ちょめいものもいた。エリザベスはもっとられていないが、前述ぜんじゅつ女性じょせいたちおなじくらい価値かちある功績こうせきのこした女性じょせいたちについてもいた。英雄えいゆうたちつまは、イギリスぐん侵略しんりゃくまえにして、勇敢ゆうかん子供こどもたちそだて、いえまもった[23]。エリザベスは、「まれたばかりの共和きょうわこく運命うんめいについて、女性じょせい愛国あいこくしゃあたえた広大こうだい影響えいきょういま賞賛しょうさんするのはほとんど不可能ふかのうである」としるした[23]

選集せんしゅう編集へんしゅうしゃ批評ひひょうのルーファス・ウィルモット・グリスウォルドが、このほん制作せいさくでエリザベスを援助えんじょし、かれ会員かいいんだったニューヨーク歴史れきし協会きょうかい記録きろくるいれることをみとめた。しかしエリザベスは、グリスウォルドの援助えんじょみとめなかったので、悪意あくいあるかれおこらせた[24]。グリスウォルドは書評しょひょうなかで、「彼女かのじょ自身じしんよりも我々われわれ公的こうてきおよび家庭かていない経験けいけんについてっているいくにん紳士しんし援助えんじょて、彼女かのじょ貴重きちょう興味きょうみある作品さくひん作成さくせいした」としるしていた[25]

その作品さくひん

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実務じつむてき主婦しゅふ』の1857年版ねんばん表紙ひょうし

エリザベスは、このときまでに名声めいせい尊敬そんけいされる作家さっかとなり、1849ねんには『聖書せいしょ家族かぞく写真しゃしん』をいた。1850ねん、ドイツの伝説でんせつ伝統でんとうあつめた『ウッドローンのゆうべ』をき、さらに『アメリカ独立どくりつ戦争せんそう国内こくない』をいて、男性だんせい女性じょせい双方そうほう視点してんからアメリカ独立どくりつ戦争せんそう歴史れきしいた、おそらく唯一ゆいいつのものとなった。1851ねんから1857ねん、『つめるたましい』『西部せいぶのパイオニア女性じょせい』、『音楽家おんがくか中編ちゅうへん小説しょうせつ』、『西部せいぶでのなつのおしゃべり』をすすめていった。この最後さいごほんは1852ねんミネソタがわふねたびしたときにヒントをたものだった。ミネソタしゅうイーデンプレーリーは、エリザベスがそのけており、そこにある自然しぜんみち彼女かのじょけた[26]

1857ねん、エリザベスは『実務じつむてき主婦しゅふ』とだいするアメリカじん家政学かせいがくの600ページにおよ事典じてん出版しゅっぱんした。このガイドブックは中流ちゅうりゅうから上流じょうりゅう読者どくしゃ対象たいしょうにしており、3、すなわち料理りょうり家事かじ薬学やくがくてき関心かんしん構成こうせいだった。そのなかには数多かずおおいレシピや、哲学てつがくしゃ化学かがくしゃおよび古代こだい文明ぶんめいからんだ助言じょげんおさめられた。500まい版画はんがによる挿絵さしえ使つかわれた。その序文じょぶんには「これまでのマニュアルの範囲はんいないでは、このくに体系たいけいてき家政学かせいがく完成かんせいされたものが出版しゅっぱんされていなかった」とかれていた[7]

その作品さくひんとして、1859ねん出版しゅっぱんされた『あらゆる年代ねんだいくに女性じょせいアーティスト』は、女性じょせいアーティストの歴史れきししめしたことでは最初さいしょしょとなった[27]。1867ねん出版しゅっぱんの『アメリカ社会しゃかい女王じょおう』、1869ねんの『共和きょうわこく社交しゃこうかい』はジョージ・ワシントンからユリシーズ・グラントまで18だい大統領だいとうりょう社交しゃこう生活せいかつえがいていた[25]

晩年ばんねん

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エリザベス・エレットのはか、ニューヨークブルックリングリーンウッド墓地ぼち

1850ねんエリザベスとそのおっとはニューヨーク移転いてんし、おっとはマンハッタン・ガス会社かいしゃ化学かがく分野ぶんやのコンサルタントとして晩年ばんねんごした。

1852ねん、エリザベスはルーファス・グリスウォルドとその2番目ばんめつまシャーロット・マイアーズの離婚りこん訴訟そしょうかかわるようになった。エリザベスとアン・S・スティーブンスはマイアーズにてて、離婚りこんみとめないようにげる手紙てがみき、わせて離婚りこん成立せいりつにグリスウォルドと結婚けっこんしようとしていたハリエット・マクリリスには、かれとの関係かんけいめるよう手紙てがみいた[28]離婚りこんみとめられたのちでもエリザベスとスティーブンスはマイアーズに手紙てがみおくつづけ、1853ねん9がつ23にちには離婚りこん撤回てっかいするよう説得せっとくした[29]。1856ねん2がつ24にち控訴こうそ裁判所さいばんしょされ、エリザベスとスティーブンスはグリスウォルドの性格せいかく攻撃こうげきする長々ながながしい証言しょうげんおこなった。これにはグリスウォルドもマイアーズも出席しゅっせきせず、訴訟そしょう棄却ききゃくされた[30]。グリスウォルドが1857ねんぬと、友人ゆうじん作家さっかのサラ・アンナ・ルイスが、エリザベスの干渉かんしょうがグリスウォルドの病状びょうじょうわるくしたことを示唆しさし、「グリスウォルドをてた」とった[31]

1857ねん、エリザベスはアン・スティーブンスにわって、ニューヨークの「イブニング・イクスプレス」の文芸ぶんげい編集へんしゅうしゃになった[32]。その2ねんの1859ねん、エリザベスのおっとウィリアムがんだ。エリザベスは執筆しっぴつつづけ、子供こどもなかったが、大衆たいしゅう寄付きふすすめるはなしをすることで、まずしい女性じょせい子供こどもたちのための慈善じぜん活動かつどう推進すいしんした。エリザベスは米国べいこくせい公会こうかい信徒しんとであったが、晩年ばんねんにはカトリック転向てんこうした[7]。エリザベスは1877ねん6がつ3にち、ニューヨークでブライトびょうのためにんだ。ブルックリンのグリーンウッド墓地ぼちにあるおっとはかはた埋葬まいそうされた[2]

遺産いさん

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エリザベス・エレットはアメリカ独立どくりつ戦争せんそう女性じょせい関係かんけいについてはじめて執筆しっぴつした歴史れきしだった。女性じょせいはその影響えいきょうりょく歴史れきし形作かたちづくり、その「感情かんじょう」と「感覚かんかく」でことをすとかんがえた。これを定義ていぎするのはむずかしかったので、「歴史れきし正義せいぎしにすすめられる」とべた[33]。その著書ちょしょ『アメリカ独立どくりつ戦争せんそうおんなたち』は現在げんざい研究けんきゅう対象たいしょうになっている。

作品さくひん一覧いちらん

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以下いかのエリザベス・エレット作品さくひん一覧いちらんはミシガン州立しゅうりつ大学だいがくヒストリック・アメリカン・プロジェクトからられた[7]

  • 『メッシーナのユーフェミオ』Euphemio of Messina (1834ねん) 翻訳ほんやくしょ
  • 翻訳ほんやく原本げんぽんPoems, Translated and Original 戯曲ぎきょく『テレサ・コンタリニ』Teresa Conariniふくむ (1835ねん)
  • 『シラーの性格せいかくThe Characters of Schiller (1839ねん)
  • 『シシリーのジョアンナ』Joanna of Sicily (1840ねん)
  • くにについてのおしゃべり』Rambles about the Country (1840ねん)
  • 『アメリカ独立どくりつ戦争せんそうおんなたちThe Women of the American Revolution (1848ねん-1850ねん) (3 かん)
  • 『ウッドローンのゆうべ』Evenings at Woodlawn (1849ねん)
  • 聖書せいしょ家族かぞく写真しゃしんFamily Pictures from the Bible (1849ねん)
  • 『アメリカ独立どくりつ戦争せんそう国内こくないDomestic History of the American Revolution (1850ねん)
  • つめるたましいWatching Spirits (1851ねん)
  • 音楽家おんがくか中編ちゅうへん小説しょうせつNouvelettes of the Musicians (1851ねん)
  • 西部せいぶのパイオニア女性じょせいPioneer Women of the West (1852ねん)
  • 西部せいぶでのなつのおしゃべり』Summer Rambles in the West (1853ねん),
  • 実務じつむてき主婦しゅふThe Practical Housekeeper (1857ねん)
  • 『あらゆる年代ねんだいくに女性じょせいアーティスト』Women Artists in All Ages and Countries (1859ねん)
  • 『アメリカ社会しゃかい女王じょおう』、The Queens of American Society (1867ねん)
  • 共和きょうわこく社交しゃこうかいCourt Circles of the Republic (1869ねん)

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b Librarycompany”. Elizabeth F. Ellet. May 1, 2007閲覧えつらん
  2. ^ a b Ellet, Elizabeth Fries (1998) [1848]. Diamant, Lincoln. ed. Revolutionary Women in the War for American Independence. Westport, CT: Greenwood Publishing Group. ISBN 0-275-96263-6 
  3. ^ New Jersey State Library”. Official Register of the Officers and Men of New Jersey in the Revolutionary War by William Stryker. April 24, 2008閲覧えつらん
  4. ^ a b Southern New York”. MARDOS Memorial Library. August 8, 2007閲覧えつらん
  5. ^ “New York Times Archives” (PDF). Elizabeth Fries Ellet Obituary. (June 4, 1877). http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?_r=1&res=9B00EFD8123FE63BBC4C53DFB066838C669FDE&oref=slogin April 19, 2008閲覧えつらん 
  6. ^ Britannica”. Elizabeth-Fries-Lummis-Ellet. May 1, 2007閲覧えつらん
  7. ^ a b c d e MSU Library”. Historic American Project. May 1, 2007閲覧えつらん
  8. ^ Drake, Francis Samuel (1872). Dictionary of American Biography. Boston: James R. Osgood and Co.. pp. 301 
  9. ^ Elfe, Wolfgang; James N. Hardin; Günther Holst (1992). The Fortunes of German Writers in America: Studies in Literary Reception. South Carolina: University of South Carolina Press. pp. 22. ISBN 0-87249-786-0 
  10. ^ a b Ellet, E. F. (Elizabeth Fries), 1818–1877”. Literature Online Biography. April 16, 2008閲覧えつらん
  11. ^ For women”. Elizabeth F. Lummis Ellet. May 1, 2007閲覧えつらん
  12. ^ E.A. Poe Society”. Lectures and Articles on Edgar Allan Poe. October 13, 2007閲覧えつらん
  13. ^ a b c d Meyers, Jeffrey. Edgar Allan Poe: His Life and Legacy. New York Cooper Square Press, 1992: 191. ISBN 0-684-19370-1.
  14. ^ a b Silverman, Kenneth. Edgar A. Poe: Mournful and Never-ending Remembrance. New York: Harper Perennial, 1991: 290. ISBN 0-06-092331-8.
  15. ^ Silverman, Kenneth. Edgar A. Poe: Mournful and Never-ending Remembrance. New York: Harper Perennial, 1991: 291. ISBN 0-06-092331-8.
  16. ^ Moss, Sidney P. Poe's Literary Battles: The Critic in the Context of His Literary Milieu. Southern Illinois University Press, 1969: 215
  17. ^ a b Silverman, Kenneth. Edgar A. Poe: Mournful and Never-ending Remembrance. New York: Harper Perennial, 1991: 292. ISBN 0-06-092331-8.
  18. ^ Meyers, Jeffrey. Edgar Allan Poe: His Life and Legacy. New York Cooper Square Press, 1992: 192. ISBN 0-684-19370-1.
  19. ^ Moss, Sidney P. Poe's Literary Battles: The Critic in the Context of His Literary Milieu. Southern Illinois University Press, 1969: 213–214
  20. ^ Phillips, Mary E. Edgar Allan Poe: The Man. Volume II. Chicago: The John C. Winston Co., 1926: 1388
  21. ^ Benton, Richard P. "Friends and Enemies: Women in the Life of Edgar Allan Poe" as collected in Myths and Reality: The Mysterious Mr. Poe. Baltimore: Edgar Allan Poe Society, 1987: 16.
  22. ^ Douglas, Ann. The Feminization of American Culture. New York: Alfred A. Knopf, 1977: 184. ISBN 0-394-40532-3
  23. ^ a b History From America's Most Famous Valleys”. The Women of the American Revolution. October 13, 2007閲覧えつらん
  24. ^ Bayless, Joy. Rufus Wilmot Griswold: Poe's Literary Executor, Hardcover ed. Nashville: Vanderbilt University Press, 1943. pp. 143–144.
  25. ^ a b Legacy Profile by Carol Mattingly”. Elizabeth Fries Lummis Ellet (1818–1877). April 16, 2008閲覧えつらん
  26. ^ Jerde, Lyn. "Elizabeth Fries Ellet Interpretive Trail is signed, dedicated", Eden Prairie Sun-Current. August 9, 2007. p. 9A
  27. ^ Langer, Sandra L.; Ellet, Elizabeth Fries Lummis (1980). “Women Artists in All Ages and Countries by Elizabeth Fries Lummis Ellet”. Woman's Art Journal (Woman's Art Journal, Vol. 1, No. 2) 1 (2): 55–58. doi:10.2307/1358087. JSTOR 1358087. 
  28. ^ Bayless, Joy. Rufus Wilmot Griswold: Poe's Literary Executor. Nashville: Vanderbilt University Press, 1943: 217–220.
  29. ^ Bayless, Joy. Rufus Wilmot Griswold: Poe's Literary Executor. Nashville: Vanderbilt University Press, 1943: 227.
  30. ^ Bayless, Joy. Rufus Wilmot Griswold: Poe's Literary Executor. Nashville: Vanderbilt University Press, 1943: 251.
  31. ^ Phillips, Mary E. Edgar Allan Poe: The Man. Volume II. Chicago: The John C. Winston Co., 1926: 1575
  32. ^ Meyer, Annie Nathan; Julia Ward Howe (1891). Woman's Work in America. New York: Henry Holt and Company. pp. 128 
  33. ^ Kerber, Linda (1997). Toward an Intellectual History of Women: Essays. Chapel Hill, NC: UNC Press. pp. 67–68. ISBN 0-8078-4654-6 

外部がいぶリンク

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