オペル・アスコナ

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アスコナAscona )は、ゼネラルモーターズのドイツ子会社こがいしゃオペル中型ちゅうがたしゃ。1970ねんから1988ねんまでに3世代せだい販売はんばいされた。

歴代れきだいモデル[編集へんしゅう]

初代しょだい(アスコナA)[編集へんしゅう]

アスコナA
アスコナコンビ

1970ねん10がつ28にちカデットレコルトなかあいだ車種しゃしゅとして発表はっぴょうされた。一足ひとあしさきに9月9にち発表はっぴょうされたマンタ兄弟きょうだい車種しゃしゅたる。2ドア/4ドアセダン、3ドアステーションワゴンがあった。日本にっぽんには商標しょうひょう登録とうろく関係かんけいか「オペル・1604」として輸入ゆにゅうされたが、このクラスは国産こくさんしゃ競争きょうそうりょくたかまっており、ほとんどれなかった。

2代目だいめ(アスコナB)[編集へんしゅう]

アスコナB

だい2世代せだい1975ねんフランクフルトモーターショー発表はっぴょうされた。英国えいこくではボクスホール・キャバリエというくるまめいだった。

3代目だいめ(アスコナC)[編集へんしゅう]

アスコナC

1981ねんにGMのJカープロジェクトの一環いっかん発表はっぴょうされた。姉妹しまいしゃいすゞ・アスカがある。オペルのFFしゃとしては1979ねんカデットDいで2番目ばんめのモデルだった。日本にっぽんにも若干じゃっかんすう輸入ゆにゅうされた。

アスコナは1988ねん事実じじつじょう後継こうけいしゃであるオペル・ベクトラ発表はっぴょうにより生産せいさん終了しゅうりょう・モデル廃止はいしされた。ボクスホール・キャバリエもベクトラとおなじモデルにチェンジされたが、キャバリエの名称めいしょうは1995ねんまで継続けいぞくされた。

アスコナ400[編集へんしゅう]

アスコナ400 Gr.B(1983ねんサファリラリー バタネン仕様しよう

カデットGT/EによるWRC参戦さんせんごたえをかんじたオペルのワークスチーム「GM・ユーロハンドラー」の監督かんとく英国えいこくチューナー(D.O.T.)のトニー・ホールはカデットの後継こうけいとしてGr.2仕様しようのアスコナBベースにGr.4仕様しようとするため、エアダムスカート、ボンネットじょうのフィン、リアスポイラーなどのエアロパーツで武装ぶそうし、ボンネットをFRPしたボディにオペル市販しはんしゃとしてははつのDOHC16バルブエンジンを搭載とうさいしたアスコナ400を1979ねん11月に発表はっぴょう。これにともないGr.4ホモロゲーションモデル400だい製作せいさく販売はんばいされた。

排気はいきりょうを2.4リッターに拡大かくだいし、ウェーバーせいツインキャブレターにより240hpを出力しゅつりょくZFせい5そくギアボックスをわせ、フィアット・131アバルトやフォード・エスコートRSと互角ごかくえるちからけた。

WRCデビューは1980ねんラリー・モンテカルロにアンダー・クーラングのドライブにより4入賞にゅうしょうつづく2がつのスウェディッシュ・ラリーで優勝ゆうしょうサファリラリーではプジョーチームで監督かんとくつとめたジャン=ピエール・ニコラがエンディ・ブモンとんで5とコンスタントに好成績こうせいせきをあげ、このとしのメイクス・タイトルは4となる。

よく1981ねん、パブリモ・ビールのスポンサーを獲得かくとく。モンテカルロは3・4入賞にゅうしょうサファリラリーではうし衝突しょうとつしリタイアするなど結果けっかせず、シーズン途中とちゅうでパブリモはスポンサーから撤退てったい。エースのクーラングもチームをってしまう。1982ねんロスマンズがスポンサーに体制たいせいあらたにすると、ドライバーにヴァルター・ロールヘンリ・トイヴォネンむかえ、初戦しょせんモンテカルロはドライコンディションにたすけられ、ルノー・5ターボやアウディ・クワトロなどの強豪きょうごう退しりぞけ、ロールが優勝ゆうしょう、そのも22かい、31かい、コートジボワールで優勝ゆうしょう上々じょうじょう成績せいせきげ、ロールがオペルにとってはつのドライバーズ・タイトルを獲得かくとく。メイクスタイトルはアウディにぐ2となり、Gr.4時代じだい終端しゅうたんのFRマシン最後さいごのチャンピオンをかざった。

オペルはよく1983ねんから施行しこうされるグループB規定きていわせて、ベースしゃがFFされたアスコナ(C)にわり[1]あらたにマンタをベースとしたマシンの開発かいはつすすめるが、そのホモロゲーション取得しゅとくおくれたためアスコナ400でつづきグループBの承認しょうにんとおした。ドライバーはアリ・バタネン前年ぜんねんのチャンピオン・マシンであれどのグループBマシン相手あいて苦戦くせんいられる最中さいちゅう、サファリラリーで優勝ゆうしょうときおなじくしてマンタのグループB公認こうにんられたことから、そののコルスからマンタにバトンタッチしてアスコナ400はだい一線いっせんから退しりぞいた。

当時とうじサファリを拠点きょてんにしていた岩瀬いわせ晏弘は、1984ねんにグループBのアスコナ400でサファリとアルゼンチンに参戦さんせんし、アルゼンチンで総合そうごう5入賞にゅうしょうした[2]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 競技きょうぎ性質せいしつじょう時流じりゅうから、FFしゃでの参戦さんせんはコンペティティブとはおもわれなかった背景はいけいがあり、それをけたものとされる。
  2. ^ 岩瀬いわせ晏弘ラリー経歴けいれき

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]