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オルコメノス

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
オルコメノス
Ορχομενός
オルコメノスのアクロポリスの遺跡と 眼下に広がる現在の町
オルコメノスのアクロポリスの遺跡いせき
眼下がんかひろがる現在げんざいまち

地図

所在地しょざいち
オルコメノスの位置(ギリシャ内)
オルコメノス
オルコメノス
座標ざひょう 北緯ほくい3829ふん 東経とうけい2259ふん / 北緯ほくい38.483 東経とうけい22.983 / 38.483; 22.983座標ざひょう: 北緯ほくい3829ふん 東経とうけい2259ふん / 北緯ほくい38.483 東経とうけい22.983 / 38.483; 22.983
域内いきない位置いち
行政ぎょうせい
くに: ギリシャの旗 ギリシャ
地方ちほう: 中央ちゅうおうギリシャ
けん: ヴィオティアけん
人口じんこう統計とうけい (2011)
ディモス
 - 人口じんこう: 11,621 にん
 - 面積めんせき: 415.9 km2
 - 人口じんこう密度みつど: 28 にん/km2
きゅう自治体じちたい
 - 人口じんこう: 8,869 にん
 - 面積めんせき: 230.098 km2
 - 人口じんこう密度みつど: 39 にん/km2
キノティタ
 - 人口じんこう: 5,238 にん
 - 面積めんせき: 43.431 km2
 - 人口じんこう密度みつど: 121 にん/km2
その
標準時ひょうじゅんじ: EET/EEST (UTC+2/3)
公式こうしきサイト
https://orchomenos.gr/

オルコメノス古希こき: Ὀρχομενός, Orchomenos)は、ギリシャボイオティア地方ちほうポリス都市とし国家こっか)である。ふるくはしん石器せっき時代じだいからヘレニズム時代じだいまで存続そんぞくしたゆたかな考古学こうこがく遺跡いせきおおくのギリシア神話しんわ舞台ぶたいとしてよくられている。伝承でんしょうによると都市とし名前なまえミニュアスおう息子むすこオルコメノスにちなんで名付なづけられた[1]アルカディア地方ちほう同名どうめい古代こだい都市としオルコメノスがある。

神話しんわ

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オルコメノスの原初げんしょおうテッサリア地方ちほうかわしんペネイオスアンドレウスわれる[2]。そのアタマス[3]シシュポス息子むすこハルモスがやって土地とちけてもらった[4]。アンドレウスはアタマスの孫娘まごむすめエウイッペ結婚けっこんし、エテオクレスをもうけた[5]

アタマスの物語ものがたりひろられている。もともとアタマスにはネペレばれるつまがおり、彼女かのじょとのあいだプリクソスヘレの2をもうけたが、ネペレとわかれてイノ再婚さいこんした。あたらしいつまとのあいだにはレアルコスメリケルテスまれたが、イノは前妻ぜんさい子供こどもたちをころそうと陰謀いんぼうめぐらせた。しかしプリクソスはきむもうひつじって東方とうほう異国いこくコルキス逃亡とうぼうした[6]。この物語ものがたりアルゴーせん冒険ぼうけん前日ぜんじつたんとなっている。のちにアタマスとイノはディオニュソスかくまったためにヘラ女神めがみいかりをい、狂気きょうきしてころしてしまった[7][8]

アタマスののちおうとなったエテオクレスは優美ゆうびの3女神めがみカリス祭祀さいしをギリシアで最初さいしょ創始そうしした[9][10]。そのプレギュアスミニュアスの2だいにわたってハルモスの家系かけいからおうた。プレギュアスはギリシアちゅうからすぐれた戦士せんしあつめて好戦こうせんてき国家こっかつくったが、デルポイ略奪りゃくだつしようとしたためにかみいかりにれ、はげしい落雷らくらい地震じしん疫病えきびょうおそわれておおくのものほろんだ[11]。しかしつづくミニュアスおうのもとでオルコメノスは最大さいだい繁栄はんえいげた。ミニュアスは莫大ばくだいざいし、とみおさめるための宝物ほうもつをギリシアではじめて建造けんぞうした[12]。この神話しんわてきな3だいおう印欧語いんおうごぞく特徴とくちょうてきさん機能きのうイデオロギー象徴しょうちょうしているとされる[13]

オルコメノスの人々ひとびとはミニュアスにちなんでミニュアスじん(ミニュアイ)とばれた[12]。またアルゴナウタイもミニュアイとばれた。それはアルゴナウタイがミニュアスのいているからとも[14][15]イアソンははがミニュアスのまごだからともいわれる[15]

エテオクレス、プレギュアス、ミニュアスの3だいて、王位おういはアタマスの直系ちょっけいクリュメノスにめぐってきた。クリュメノスはコルキスに亡命ぼうめいしたプリクソスのまごで、ちちプレスボンのだいにオルコメノスに帰国きこくしていた。クリュメノスがテーバイじんころされたとき、その息子むすこエルギノスはテーバイと戦争せんそうこして勝利しょうりし、おう殺害さつがい賠償ばいしょうとして莫大ばくだい献納けんのうをテーバイに要求ようきゅうした。しかしのちにテーバイで成長せいちょうしたわか英雄えいゆうヘラクレスはオルコメノスとの戦争せんそう勝利しょうりしてテーバイを解放かいほうした[16][17]

オルコメノスはホメロス叙事詩じょじしイリアス』の「軍船ぐんせんひょう」でトロイア戦争せんそうたたかうために派兵はへいしているアカイアじん都市としあいだ言及げんきゅうされている。クリュメノスの子孫しそんにあたるイアルメノスアスカラポスはオルコメノスじんアスプレドン英語えいごばんひと軍船ぐんせん30せきひきいて参加さんかし、戦争せんそう貢献こうけんした[18][19]

またオルコメノスじんはコドロスとともにイオニア地方ちほう入植にゅうしょくした[20]

歴史れきし

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オルコメノス
Ορχομενός
ウィリアム・マーティン・リーク英語えいごばんによるオルコメノスの地図ちず[21]
古代こだいのボイオティア地方ちほう
オルコメノスはコパイス北岸ほくがん
所在地しょざいち 中央ちゅうおうギリシャ, ヴィオティアけん
種類しゅるい 蜂窩ほうかじょう墳墓ふんぼミニュアス宝庫ほうこ)と王宮おうきゅうあと, アクロポリス城壁じょうへき, 古代こだい劇場げきじょうなど
歴史れきし
時代じだい ミケーネ時代じだい, 古代こだいギリシャ, 古代こだいローマ, ビザンティン
出来事できごと カイロネイアのたたか (ぜん338ねん)
カイロネイアのたたか英語えいごばん (ぜん86ねん)
オルコメノスのたたか (ぜん85ねん)
追加ついか情報じょうほう
発掘はっくつ期間きかん 1880ねん-1886ねん:
ハインリヒ・シュリーマン
1893ねん:
リンデル(A. de Ridder)
1903ねん-1905ねん:
ハインリッヒ・ビュル英語えいごばん
アドルフ・フルトヴェングラー
1970ねん-1973ねん:
テオドール・スピロプーロス英語えいごばん

オルコメノスの創建そうけん神話しんわによると、その王朝おうちょうテッサリア地方ちほう沿岸えんがんから定住ていじゅうした指導しどうしゃミニュアスによって確立かくりつされた。青銅器せいどうき時代じだい紀元前きげんぜん14世紀せいきから13世紀せいきにかけて、オルコメノスはミケーネ文明ぶんめいゆたかで重要じゅうよう文化ぶんか中心ちゅうしんとなり、テーバイのライバルとなった。フレスコのある王宮おうきゅう巨大きょだい蜂窩ほうかじょう墳墓ふんぼ(トロス)はミケーネ時代じだいのオルコメノスの強大きょうだいちからしめしている。かれらはだい規模きぼ干拓かんたく事業じぎょうによりコパイス英語えいごばん沼地ぬまちゆたかな農業のうぎょう地帯ちたいえた[22]。しかしゲ海げかい周辺しゅうへんおおくの遺跡いせき同様どうように、紀元前きげんぜん1200ねんきた青銅器せいどうき時代じだい崩壊ほうかいでオルコメノスはかれ、王宮おうきゅう破壊はかいされた。

オルコメノスはまえ7世紀せいきカラウレイア同盟どうめい英語えいごばんくわわった都市とし国家こっかの1つであったらしい[23]。オルコメノスはまえ6世紀せいきなかばから独自どくじ貨幣かへい発行はっこうした。ライバルのテーバイはその世紀せいきわるころまでに優位ゆういせい確固かっこたるものとしており、オルコメノスはまえ600ねんごろにテーバイ主導しゅどうのボイオティア同盟どうめい参加さんかした[22]

小麦こむぎつぶをかたどったオルコメノスのオボルス銀貨ぎんか

パウサニアスによると古典こてんのオルコメノスはもっとふるいカリス女神めがみ聖域せいいきられていた[9]。この聖域せいいきはいまだ発見はっけんされておらず、おそらく9世紀せいき建設けんせつされたビザンティウムパナギア・スクリプ修道院しゅうどういん教会きょうかいドイツばんしたねむっているとかんがえられている[24]。1972ねん発見はっけんされた劇場げきじょうでは、音楽おんがく競技きょうぎ祭典さいてんであるカリテシアさい(Charitesia)が女神めがみたちに敬意けいいあらわして開催かいさいされた[25][26]。ディオニュソスしん祭典さいてんであるアグリオニアさい英語えいごばんは、ディオニュソスを象徴しょうちょうするおとこしたがおんなたちの儀式ぎしきてき追跡ついせきともなった。

ぜん480ねんから479ねん、オルコメノスじんペルシア戦争せんそうクセルクセス侵略しんりゃくぐんかえすためにライバルのテーバイとむすんだ。世紀せいきなかばに、オルコメノスはボイオティア地方ちほうアテナイ支配しはいから解放かいほうした寡頭せい亡命ぼうめいしゃ保護ほごした。コリントス戦争せんそうはじまった紀元前きげんぜん395ねんと394ねん、オルコメノスはテーバイとの伝統でんとうてき対立たいりつにより、テーバイにさからってアゲシラオス2せいスパルタ味方みかたした。レウクトラのたたか紀元前きげんぜん371ねん)でスパルタをやぶったのちのテーバイじん報復ほうふくエパメイノンダス寛容かんよう政策せいさくによりおくれた[27]紀元前きげんぜん364ねん、ボイオティア連盟れんめいはオルコメノスを略奪りゃくだつした。ポキスひとだいさん神聖しんせい戦争せんそう英語えいごばんなか紀元前きげんぜん355ねん都市とし再建さいけんしたが、テーバイじんは349ねんふたた破壊はかいした。

オルコメノスとカイロネイアあいだひろ平野へいやは、古典こてん古代こだいにおいて非常ひじょう重要じゅうような2つのたたかいの舞台ぶたいとなった。ぜん338ねんマケドニアおうフィリッポス2せい旋風せんぷうのようにみなみかってギリシャ中部ちゅうぶ進軍しんぐんしたのち最初さいしょカイロネイアのたたかでテーバイとアテナイをやぶり、都市とし国家こっかたいするマケドニアの優位ゆういせい確立かくりつし、おうわか息子むすこアレクサンドロス大王だいおうもまたその武勇ぶゆうしめした。ぜん335ねんのアレクサンドロス大王だいおうのテーバイにたいする作戦さくせん行動こうどうちゅうに、オルコメノスはマケドニアじん味方みかたをした。アレクサンドロス大王だいおう報酬ほうしゅうとしてオルコメノスを再建さいけんし、このときに今日きょうまでのこっている劇場げきじょう城塞じょうさいかべ建設けんせつされた。

だい2のカイロネイアのたたか英語えいごばんだいいちミトリダテス戦争せんそうなかこった。紀元前きげんぜん86ねん独裁どくさいしゃスッラ共和きょうわせいローマぐんはカイロネイアちかくでポントゥスミトリダテス6せい部隊ぶたいひきいたアルケラオスたたかいこれをやぶった。 このたたかいの翌年よくねんオルコメノスのたたかおこなわれ、アルケラオスの部隊ぶたい完全かんぜんやぶった。

その、オルコメノスにかつての勢力せいりょくもどることはなかった。オルコメノスは劇場げきじょうがまだ使用しようされていた後期こうきローマ時代じだいまで、そしてそのちいさなまちであった。

考古学こうこがく

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ミニュアスの宝庫ほうこ巨大きょだいリンテル
オルコメノスのアクロポリス。

ほとんどの発掘はっくつ下町したまち初期しょきおよびミケーネ時代じだい遺跡いせき集中しゅうちゅうしており、アクロポリスの後期こうきヘレニズム時代じだい都市としだい部分ぶぶん未開拓みかいたくのままとなっている。1880ねんから1886ねんハインリヒ・シュリーマン発掘はっくつ(H.シュリーマン『オルコメノス』ライプツィヒ、1881ねん)はミケーネの「アトレウスの宝庫ほうこ」に匹敵ひってきするミケーネ文明ぶんめい記念きねん建造けんぞうぶつである「ミニュアスの宝庫ほうこ」とばれる蜂窩ほうかじょう墳墓ふんぼ(トロス)をあきらかにした。1893ねん、リンデル(A. de Ridder)はアスクレピオス神殿しんでんローマ時代じだいネクロポリスのいくつかのはか発掘はっくつした。1903ねんから05ねんにかけて、ハインリッヒ・ビュル英語えいごばんアドルフ・フルトヴェングラーバイエルン考古学こうこがくミッションは遺跡いせきでの発掘はっくつ成功せいこうさせた。1970ねんから73ねんにかけて、テオドール・スピロプーロス英語えいごばんのもとでギリシア考古学こうこがく機関きかん英語えいごばん研究けんきゅうつづけ、ミケーネ時代じだい王宮おうきゅう先史せんし墓地ぼち劇場げきじょう、その建造けんぞうぶつ発見はっけんした。

ミニュアスの宝庫ほうこ

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ミニュアスの宝庫ほうこはミケーネ時代じだい最大さいだい埋葬まいそうモニュメントの1つである[28]。このはかはおそらく紀元前きげんぜん1250ねんごろにオルコメノスの王族おうぞくのために建造けんぞうされ、古代こだい略奪りゃくだつされた。ミニュアスの宝庫ほうこはかとしての役割やくわりえたのちもなに世紀せいきにもわたってることができ、ヘレニズム時代じだいには崇拝すうはい場所ばしょにさえなった。すくなくともパウサニアスがオルコメノスをおとずれて、墳墓ふんぼ様子ようす詳細しょうさい説明せつめいした2世紀せいきまでは、おそらく有名ゆうめいなランドマークであった[29]ながさ30メートルのドロモス(Dromos, 建物たてものつうじる入口いりくち通路つうろ)があり、入口いりくちくら灰色はいいろレバデイアさん大理石だいりせきつくられ、木製もくせいのドアがあった。リンテル現在げんざい設置せっちされており、ながさは6メートル、おもさはすうトンある。入口いりくち部屋へやかべあなしめされているように青銅せいどうロゼットかざられていた。側面そくめん部屋へや天井てんじょうには螺旋らせんはなのモチーフが浮彫うきぼされている。トロスの中心ちゅうしんにある長方形ちょうほうけい埋葬まいそう記念きねんはヘレニズム時代じだい紀元前きげんぜん323ねんから30ねん)のものである。建築けんちく考古こうこ学者がくしゃアナスタシオス・オルランドスによって部分ぶぶんてき修復しゅうふくされた。1994ねんギリシャ文化ぶんかしょう英語えいごばんおも排水はいすい側室そくしつかべ強化きょうかからなる修復しゅうふく作業さぎょう着手ちゃくしゅした。

そのほかの古代こだい遺跡いせき

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オルコメノスで発見はっけんされたしん石器せっき時代じだい遺物いぶつ最初さいしょはその遺跡いせきのものとかんがえられていたが(Bulle 1907)、のちにそれらは平坦へいたん堆積たいせきぶつ充填じゅうてん構成こうせいされたようにおもわれた(Kunze 1931; Treuil 1983)。したがって、関連かんれんする円形えんけいいえ直径ちょっけい2メートルから6メートル)は実際じっさいには青銅器せいどうき時代じだい初期しょき紀元前きげんぜん2800ねんから1900ねん)のものである。

トロスひがし位置いちし、教会きょうかい一部いちぶかさなっているミケーネ時代じだい王宮おうきゅう部分ぶぶんてきにのみ発掘はっくつされており、3むねつばさ構成こうせいされ、そのいくつかはフレスコ装飾そうしょくされていた。オルコメノスの城塞じょうさいかべはマケドニアじんした紀元前きげんぜん4世紀せいき後半こうはん建設けんせつされ、アコンションさん(mount Akontion)のひがしはしかんしている。劇場げきじょう紀元前きげんぜん4世紀せいきまつ建設けんせつされた。半円はんえんがた観客かんきゃくせきとオルケストラ(Orchestra)、スケーネ (Skené)の一部いちぶふくカウェアはすべて保存ほぞんされており、ローマ時代じだい後期こうき(4世紀せいき)まで使用しようされていた。

パナギア・スクリプ修道院しゅうどういん教会きょうかい

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劇場げきじょうかいにはビザンティン時代じだいのパナギア・スクリプ修道院しゅうどういん教会きょうかいがある。よく保存ほぞんされた碑文ひぶん教会きょうかい年代ねんだい西暦せいれき874ねん確定かくていしており、後援こうえんしゃひがしマ帝国まていこくマケドニア王朝おうちょう初代しょだい皇帝こうていバシレイオス1せいつかえた高官こうかんで、バシレイオス1せい息子むすこコンスタンティノスとレオン6せい共同きょうどう統治とうち期間きかんちゅう首席しゅせき帯剣たいけん護衛ごえいかん(Protospatharios, イスタンブール宮殿きゅうでん皇室こうしつ警備けいびたい指揮しきかん)をつとめたレオン(Leon)であると明示めいじしている。きた礼拝れいはいどうみなみ礼拝れいはいどう使徒しとペテロパウロささげられている。

美術びじゅつ文化ぶんか

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パナギア・スクリプ修道院しゅうどういん教会きょうかい

オルコメノスはその名前なまえ紀元前きげんぜん590ねんから570ねんごろのオルコメノス・テラグループ(Orchomenos-Thera group)という、アルカイッククーロス英語えいごばん彫刻ちょうこくあたえている。アッティカではこの期間きかん小康しょうこう状態じょうたいしめし、活動かつどうはボイオティア地方ちほうとくプトイオンさん英語えいごばんアポロン聖域せいいきとオルコメノス(NAMA 9)の両方りょうほう活発かっぱつだった。

オルコメノス・テラグループの様式ようしき特徴とくちょうつぎのとおり。みみはまだ1つの平面へいめんきざまれているが、様式ようしきされていない。以前いぜんほどおおきくなく、よりまるくなっている。くち水平すいへいではあるが、つねに1つの平面へいめんにあるとはかぎらない。かたかぶとこつ個別こべつ隆起りゅうきめんになった。脊柱せきちゅう起立きりつはときどき隆起りゅうきした平面へいめんとしてしめされることがある。通常つうじょううでからだ結合けつごうされている。だいてん英語えいごばんおおうくぼみは一般いっぱん省略しょうりゃくされ、むこずね時々ときどき内側うちがわがっている。ひだり脇腹わきばら時折ときおりわずかに前方ぜんぽう配置はいちされることがある。

ミニュアス土器どき英語えいごばん中期ちゅうきヘラディック文明ぶんめいのギリシアで生産せいさんされた特定とくてい種類しゅるいろくろせい陶器とうき用語ようごである。みな一様いちよう灰色はいいろをしており、オルコメノスで発見はっけんされ、シュリーマンによって名付なづけられたのち定着ていちゃくした。

行政ぎょうせい区画くかく

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現在げんざいのオルコメノス
統合とうごうまえきゅうオルコメノス

現在げんざいのオルコメノスは1960年代ねんだいに2つのちいさな近隣きんりん村落そんらくペトロマグーラとスクリプーおよび合併がっぺいしたのち、2011ねん地方自治体ちほうじちたい統廃合とうはいごう隣接りんせつするアクレフニア英語えいごばん合併がっぺいしてまれた。きゅう自治体じちたいしん自治体じちたい構成こうせいする行政ぎょうせい(ディモティキ・エノティタ)となった[30]el:Δήμος Ορχομενού参照さんしょう)。

きゅう自治体じちたい つづ 政庁せいちょう所在地しょざいち 面積めんせき 人口じんこう
1 オルコメノス Ορχομενός オルコメノス  (el 230.098 10,732
2 アクレフニア Ακραιφνίας アクレフニオ  (el 185.816 3,230

きゅう自治体じちたい

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カリクラティス改革かいかく以前いぜんきゅうオルコメノスにあたるオルコメノス地区ちくΔημοτική ενότητα Ορχομενός)は、以下いかキノティタ都市とし村落そんらく)から構成こうせいされる。

オルコメノス
アギオス・ディミトリオス(Agios Dimitrios)、アギオス・スピリドナス(Agios Spyridonas)、ディオニソス(Dionysos)、カリヤ(Karya)、ルシオ(Loutsio)、オルコメノス(Orchomenos)、パブロス(Pavlos)、ピルゴス英語えいごばん(Pyrgos)

ギャラリー

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ パウサニアス、9かん36・6。
  2. ^ パウサニアス、9かん34・6。
  3. ^ パウサニアス、9かん34・7。
  4. ^ パウサニアス、9かん34・10。
  5. ^ パウサニアス、9かん34・9。
  6. ^ アポロドロス、1かん9・1。
  7. ^ アポロドロス、1かん9・2。
  8. ^ アポロドロス、3かん4・3。
  9. ^ a b パウサニアス、9かん35・1。
  10. ^ パウサニアス、9かん35・3。
  11. ^ パウサニアス、9かん36・2-36・3。
  12. ^ a b パウサニアス、9かん36・4。
  13. ^ フランシス・ヴィアン「オルコメノス伝説でんせつ構造こうぞう」(『比較ひかく神話しんわがく現在げんざい収録しゅうろく)。
  14. ^ ロドスのアポロニオス、229ぎょう-231ぎょう
  15. ^ a b ヒュギーヌス、14
  16. ^ アポロドロス、2かん4・11。
  17. ^ パウサニアス、9かん37・1-37・3。
  18. ^ 『イーリアス』2かん511ぎょう-516ぎょう
  19. ^ パウサニアス、9かん37・7。
  20. ^ パウサニアス、9かん37・8。
  21. ^ William Martin Leake (1835).
  22. ^ a b Nigel Wilson 2013.
  23. ^ Thomas Kelly 1966.
  24. ^ J. G. Frazer's note on Pausanias, 1898.
  25. ^ A. Schachter, 1981, pp.140–44.
  26. ^ John Buckler, 1984.
  27. ^ John Buckler, 1980.
  28. ^ Tholos tomb of Minyas”. odysseus.culture. 2020ねん2がつ2にち閲覧えつらん
  29. ^ パウサニアス、9かん38・2–9・3。
  30. ^ Kallikratis law. Greece Ministry of Interior.

参考さんこう文献ぶんけん

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原典げんてん資料しりょう

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研究けんきゅう資料しりょう

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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