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オレンジアタッカーズ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
オレンジアタッカーズ
原語げんご表記ひょうき オレンジアタッカーズ
ホームタウン 兵庫ひょうごけん神戸こうべ
クラブカラー オレンジ・くろ
創設そうせつねん 1982ねん(ダイエーとして)
廃部はいぶねん 2000ねん
チーム所在地しょざいち 兵庫ひょうごけん神戸こうべ
体育館たいいくかん所在地しょざいち 兵庫ひょうごけん神戸こうべ

オレンジアタッカーズ(オレンジアタッカーズ)は、兵庫ひょうごけん神戸こうべ本拠地ほんきょち活動かつどうしていた、女子じょしバレーボールのプロチームである。獲得かくとくタイトルけい11かい。 なお、この項目こうもくでは、前身ぜんしんチームである、ダイエーオレンジアタッカーズについてもべる。

来歴らいれき[編集へんしゅう]

1982ねん11月、日本にっぽん大手おおてスーパー・ダイエー社内しゃないレクリエーション活動かつどう一環いっかんとして女子じょしバレーボールの実業じつぎょうだんチーム「ダイエー女子じょしバレーボール・オレンジアタッカーズ」としてスタート。本拠地ほんきょちをダイエー本部ほんぶのある神戸こうべにおいていた。

1983ねん4がつ、チーム始動しどう全日本ぜんにほん実業じつぎょうだん6にんせい優勝ゆうしょう大会たいかい優勝ゆうしょうし、地域ちいきリーグり。よく1984ねんだい4かい地域ちいきリーグ優勝ゆうしょうだい16かい実業じつぎょうだんリーグで全勝ぜんしょう優勝ゆうしょうかざり、最短さいたん日本にっぽんバレーボールリーグ昇格しょうかくたす。19851986ねんだい19かい日本にっぽんリーグでいきなりじゅん優勝ゆうしょう健闘けんとうしたが、そのシーズンちゅうの1986ねん1がつ24にちたい日立ひたちせんで、フロー・ハイマンもとロサンゼルス五輪ごりんアメリカ代表だいひょう)が試合しあいちゅうたお急死きゅうしするというアクシデントにも見舞みまわれた[1]。1986ねん、1992ねんの、くろわしはた全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん優勝ゆうしょう日本にっぽんリーグでは着実ちゃくじつ上位じょうい進出しんしゅつをするも、優勝ゆうしょうまでにはいたらなかった。

日本にっぽんリーグからVリーグへ、念願ねんがん優勝ゆうしょう[編集へんしゅう]

従来じゅうらい日本にっぽんリーグから1994/95シーズンにリニューアルしただい1かいVリーグでは、リーグ途中とちゅう阪神はんしん淡路あわじ大震災だいしんさい被害ひがい非常ひじょう事態じたいなか、「がんばろうKOBE」を合言葉あいことば団結だんけつし、チームの悲願ひがんである優勝ゆうしょうった。 念願ねんがんだったチャンピオンの手中しゅちゅうおさめて以降いこう、Vリーグは1997/1998シーズンのだい4かい大会たいかい優勝ゆうしょう1996ねん、1998ねんくろわしはた全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん優勝ゆうしょうするなど、強豪きょうごうチームとしての地位ちいかくたるものとした。

この時期じきのダイエーは、エース山内やまうち美加みか中心ちゅうしんに、移籍いせき加入かにゅうした吉原よしはら知子ともこ坂本さかもと清美きよみ斎藤さいとう真由美まゆみといった日本にっぽん代表だいひょうクラスの選手せんしゅかかえるほかミレーヤ・ルイス(キューバ)やポーラ・ワイショフ(アメリカ)といった世界せかいのスター選手せんしゅすけ選手せんしゅとしてむかえ、まさに「スター軍団ぐんだん」とぶに相応ふさわしいチーム構成こうせいであった。このことも「ダイエー=つよい」というイメージをける要因よういんになっていたといえる。

ダイエー休部きゅうぶ・プロチームへ[編集へんしゅう]

しかし、おりからのきょうでダイエー本体ほんたいがダメージをけており、これを理由りゆうだい4かいVリーグの最中さいちゅうであった1998ねん1がつにチームの休部きゅうぶ発表はっぴょうされた。 このリーグでは開幕かいまくから好調こうちょうをキープしていた。そんななかでの休部きゅうぶ発表はっぴょうは、チームのいきおいにみずすのではないかという心配しんぱいをよそに、休部きゅうぶ報道ほうどうぼしつらね、最終さいしゅうてきに2度目どめのリーグ優勝ゆうしょうたす。「ダイエーとしての有終ゆうしゅうを」という選手せんしゅ意思いしんだ結果けっかであり、試合しあい、チームのはた会場かいじょうまわ選手せんしゅ姿すがたはファンの感動かんどうんだ。

Vリーグ優勝ゆうしょうたしたチームは、試合しあい直後ちょくご祝賀しゅくがかいでの中内なかうちダイエー会長かいちょうけん社長しゃちょう当時とうじ)の提言ていげんにより、しんチームでの存続そんぞくみちさぐることとなった。 当初とうしょ目指めざしていた独立どくりつ採算さいさんがたのプロチーム設立せつりつ断念だんねんしたが、グループ会社かいしゃのダイエーコミュニケーションズがチームをけることになり、1998ねん6がつ1にち日本にっぽんバレーかいはつのプロチーム・オレンジアタッカーズが誕生たんじょうした。

新生しんせいオレンジアタッカーズは積極せっきょくてき広報こうほう活動かつどうおこない、選手せんしゅたちもこれに積極せっきょくてき参加さんかした。一般いっぱんけファンクラブ設立せつりつやグッズ販売はんばい、イベント開催かいさいなどは、当時とうじとしてはめずらしく、こうしためんでもバレーファンから注目ちゅうもくびることとなった。 オレンジアタッカーズとしてはじめてむかえたVリーグ(だい5かい・1998/99ねん)は大村おおむら加奈子かなこ高橋たかはし幸子さちこといった若手わかてがレギュラーに起用きようされ、開幕かいまく5連勝れんしょうだしは好調こうちょうだったが、後半こうはん突如とつじょだいブレーキ。10しょう8はいしながら5わる。直後ちょくごくろわしでは優勝ゆうしょうし、2連覇れんぱたすが、この大会たいかいかぎりでヨーコ・ゼッターランド引退いんたいアリー・セリンジャー監督かんとく退任たいにんし、さら吉原よしはら知子ともこ斎藤さいとう真由美まゆみ佐々木ささきみきといった中心ちゅうしん選手せんしゅ退すさしてチームは一気いっき窮地きゅうちまれる。ここで中心ちゅうしんになったのは、すでにレギュラーとなっていたまんえいひとみ大村おおむら加奈子かなこをはじめとした若手わかて選手せんしゅ(チームめいになぞらえ、一部いちぶでは若手わかてアタッカーズともばれていた[よう出典しゅってん])であった。

むかえただい6かいVリーグでは、チャンスを選手せんしゅたちがちから発揮はっき前年ぜんねんおなじ10しょう8はい成績せいせきげたが、またしても5わった。しかし、はつレギュラーとなったさき久美子くみこがスパイクしょうとベスト6を獲得かくとくする活躍かつやくせたほかおなじくはつレギュラーの鶴田つるた桂子けいこ関井せきい陽子ようこ活躍かつやくした。

オレンジの終焉しゅうえん久光ひさみつ[編集へんしゅう]

しかし、クラブチームとしてのオレンジアタッカーズも経営けいえいてききびしい状況じょうきょうつづいていた。そんななか、2000ねん5がつくろわしはたえた直後ちょくご久光製薬ひさみつせいやくとチームのスポンサード契約けいやくむすんだことが発表はっぴょうされる。同時どうじにチームめいを「久光製薬ひさみつせいやくスプリングアタッカーズ」と変更へんこう。ダイエー時代じだいからつづく「オレンジアタッカーズ」の歴史れきしまくろし、あらたなチームとして始動しどうすることとなった。ただ、チーム統合とうごうも2022ねんまではチーム所在地しょざいち加盟かめい地域ちいき協会きょうかい佐賀さがけんとしながらも、練習れんしゅう拠点きょてんはこの名残なごりにより神戸こうべかれていた。2023ねんから練習れんしゅう拠点きょてんをチーム所在地しょざいちおな佐賀さがけんうつした(以降いこう来歴らいれきについては久光ひさみつスプリングス参照さんしょうのこと)。

エピソード[編集へんしゅう]

  • 地元じもとサンテレビとのむすびつきがつよく、Vリーグ期間きかんちゅうに「オレンジアタッカーズアワー」として試合しあい録画ろくが中継ちゅうけいおこなっていた(1997ねんまでつづく)。この模様もよう千葉ちばテレビひとし一部いちぶきょくでも放映ほうえいされた。
    • 当時とうじ、サンテレビはダイエー資本しほんつよかったためであり、1989ねん-1993ねん2001ねんには福岡ふくおかから当時とうじダイエーホークス主管しゅかん試合しあいとし20-30試合しあいサンテレビボックスせき時間じかんなま中継ちゅうけいしたこともあった。
    • 球団きゅうだんスポンサーであるダイエーは試合しあい中継ちゅうけい前後ぜんこうカウキャッチャーヒッチハイクとして企業きぎょうCMを放送ほうそうしていた。しかし本編ほんぺんではダイエー本体ほんたい提供ていきょうせず、ダイエーとの取引とりひき関係かんけいがある企業きぎょう食品しょくひん生活せいかつ用品ようひんメーカーすうしゃ)が協賛きょうさんについていた。

成績せいせき[編集へんしゅう]

おも成績せいせき[編集へんしゅう]

日本にっぽんリーグ/Vリーグ
くろわしはた全日本ぜんにほん選抜せんばつ
国民こくみん体育たいいく大会たいかい成年せいねん女子じょし(6にんせい

年度ねんどべつ成績せいせき[編集へんしゅう]

大会たいかいめい 順位じゅんい 参加さんかチームすう 試合しあいすう かち はい 勝率しょうりつ
実業じつぎょうだんリーグ だい16かい (1984/85) 優勝ゆうしょう 8チーム 14 14 0 1.000
日本にっぽんリーグ だい19かい (1985/86) じゅん優勝ゆうしょう 8チーム 21 15 6 0.714
だい20かい (1986/87) 3 8チーム 21 15 6 0.714
だい21かい (1987/88) 4 8チーム 14 9 5 0.643
だい22かい (1988/89) 5 8チーム 14 5 9 0.357
だい23かい (1989/90) 5 8チーム 14 5 9 0.357
だい24かい (1990/91) 6 8チーム 14 5 9 0.357
だい25かい (1991/92) 3 8チーム 20 10 10 0.500
だい26かい (1992/93) 5 8チーム 14 6 8 0.429
だい27かい (1993/94) じゅん優勝ゆうしょう 8チーム 20 14 6 0.700
日本にっぽんリーグ通算つうさん (9ねん) 152 84 68 0.553
Vリーグ だい1かい (1994/95) 優勝ゆうしょう 8チーム 21 16 5 0.762
だい2かい (1995/96) 4 8チーム 21 17 4 0.809
だい3かい (1996/97) 6 8チーム 21 10 11 0.476
だい4かい (1997/98) 優勝ゆうしょう 8チーム 21 19 2 0.905
だい5かい (1998/99) 5 10チーム 18 10 8 0.556
だい6かい (1999/2000) 5 10チーム 18 10 8 0.556
Vリーグ通算つうさん (6ねん) 120 82 38 0.683

かつて在籍ざいせきしていた選手せんしゅ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ やぶれた日立ひたち連勝れんしょう記録きろくが88でストップした歴史れきしてきでもあった[1]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]