カール9せい (スウェーデンおう)

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カール9せい
Karl IX
スウェーデン国王こくおう
フィンランド大公たいこう
在位ざいい 1604ねん3月22にち - 1611ねん10月30にち
戴冠たいかんしき 1607ねん3月15にち

出生しゅっしょう 1550ねん10月4にち
スウェーデンストックホルムトレー・クローノルじょう
死去しきょ (1611-10-30) 1611ねん10月30にち(61さいぼつ
スウェーデンニュヒェーピングニュヒェーピングじょう
埋葬まいそう スウェーデンストレングネースだい聖堂せいどう
配偶はいぐうしゃ アンナ・マリア・フォン・デア・プファルツ
  クリスティーネ・フォン・ホルシュタイン=ゴットルプ
子女しじょ 一覧いちらん参照さんしょう
王朝おうちょう ヴァーサあさ
父親ちちおや グスタフ1せい
母親ははおや マルガレータ・エリクスドッテル
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カール9せい(Karl IX,1550ねん10月4にち - 1611ねん10月30にち)は、ヴァーサ王朝おうちょうスウェーデン国王こくおう在位ざいい1604ねん - 1611ねん)。1599ねんから1604ねんまで摂政せっしょうグスタフ1せいと2度目どめマルガレータ

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ヨハン3せい時代じだい[編集へんしゅう]

同母どうぼけいヨハンによる異母いぼけいのスウェーデンおうエリク14せい廃位はいい協力きょうりょくしたことで、ヨハン3せいによりセーデルマンランド公爵こうしゃくてられた。ヨハン3せいがスウェーデンを統治とうちした最中さいちゅうポーランド王国おうこくとの同盟どうめい画策かくさくし、ポーランドのヤギェウォ婚姻こんいんむすんだことで、1566ねん誕生たんじょうしたヨハン3せいシギスムンドは、1587ねんにポーランドおうジグムント3せいとして即位そくいする。シギスムンドはカトリック改宗かいしゅうしており、プロテスタント国家こっかであるスウェーデンとは相容あいいれず、スウェーデンの王位おうい継承けいしょう問題もんだいにもかげとすようになった。そうしたなかでカールはプロテスタントであり、スウェーデンのはんカトリック勢力せいりょく希望きぼうほしとされた。しかしヨハン3せいとは良好りょうこう間柄あいだがらであった。

シギスムンド時代じだい[編集へんしゅう]

1592ねんにヨハン3せい崩御ほうぎょすると、ポーランドおうジグムント3せいとなっていたシギスムンドはスウェーデン王位おうい継承けいしょうした。しかしシギスムンドは、カトリックであり、また、ポーランドを主軸しゅじくとしていたため叔父おじであるカールがスウェーデンの執政しっせいとなった。しかし、スウェーデンではカトリックに改宗かいしゅうしたシギスムンドに反感はんかんつよめ、はんカトリック勢力せいりょくのリーダーとしてカールがまつげられることになった。そしてカールはスウェーデン国王こくおう代行だいこうとして事実じじつじょうのスウェーデン統治とうちしゃとなり、カトリック教会きょうかい絶縁ぜつえん宣言せんげんするのである。シギスムンドは一旦いったんはこれをみとめたものの、両者りょうしゃ対立たいりつけられぬものとなり、1598ねん、シギスムンドはスウェーデンに上陸じょうりくし、カールの統治とうちけん剥奪はくだつした。

ここにいたりカールは反乱はんらんぐん組織そしきし、ストックホルム南方なんぽうリンシェーピング両者りょうしゃ開戦かいせんした。結果けっか、カールはシギスムンドをやぶり、スウェーデンから追放ついほうしてスウェーデン王位おうい剥奪はくだつした。よく1599ねん、カールはスウェーデンの摂政せっしょう任命にんめいされたが、事実じじつじょうのスウェーデンの君主くんしゅとなった。

対外たいがいてきには、1590ねんからのロシア・スウェーデン戦争せんそうやぶれ、1595ねんリヴォニア戦争せんそうたエストニア以外いがい獲得かくとくロシア返還へんかんすることとなった。こうしたことは、ポーランドとスウェーデンとの分裂ぶんれつ間隙かんげきをロシアがわからかれた結果けっかであり、カールはのち国王こくおうとなると、ふたたバルト地方ちほうやロシア方面ほうめんへの勢力せいりょく伸張しんちょうはかこととなる。

国王こくおう時代じだい[編集へんしゅう]

1600ねん、シギスムンドに協力きょうりょくした勢力せいりょくたい粛清しゅくせいリンシェーピングのよく)をおこない、カトリック勢力せいりょく一掃いっそうした。そしてスウェーデンはルター国教こっきょうさだめ、ヴァーサあさによるスウェーデンの統治とうちけん確立かくりつする。国内こくない問題もんだい解決かいけつしたカールは、1604ねん、シギスムンドの異母弟いぼていフィンランドこうヨハン協定きょうていむす王位おうい継承けいしょう辞退じたいさせたうえで、あにヨハン3せいおなさまにスウェーデン王位おうい簒奪さんだつによって即位そくいした。なお、カールが9せいとして即位そくいしたのはスウェーデンの伝承でんしょう・「ゴート起源きげんせつ」の正当せいとうためである。8せい以前いぜんには明確めいかくなスウェーデンおうカールが存在そんざいしていたわけではない。いずれにしろスウェーデン政府せいふは、諸々もろもろ正当せいとうおこないつつも結果けっかとして独立どくりつ維持いじすることとなった。

カール9せいホルシュタイン=ゴットルプこうおんなクリスティーナ結婚けっこんし、4にんもうけた。その1人ひとりこうのスウェーデンおうグスタフ2せいアドルフである。なお、カール9せいのもう1人ひとり息子むすこカール・フィリップは、ロシア内乱ないらんだい動乱どうらん)において、ノヴゴロドツァーリ推戴すいたいされている。

その前妻ぜんさいアンナ・マリア(プファルツせんみかどこうルートヴィヒ6せいむすめ)とのふくめて10まれている。その1人ひとり前妻ぜんさいむすめカタリーナヴィッテルスバッハ傍流ぼうりゅうのプファルツ=クレーブルクこうヨハン・カジミール結婚けっこんしたが、そのカール・グスタフは、のちにスウェーデン王位おうい継承けいしょうした。

スウェーデンおうとなったカール9せいであったが、その治世ちせいはままならなかった。国王こくおう自身じしんやまいおかされ、近隣きんりんロシア、ポーランド、デンマークとも対立たいりつきわみにあった。ロシアは内戦ないせんとなり、デンマークはスウェーデンの独立どくりつみとめず、ポーランド王家おうけはスウェーデン王位おうい主張しゅちょうつづけていた。カール9せいはスウェーデンを大国たいこくさせること腐心ふしんしたが、ポーランドとのたたかいでは惨敗ざんぱいきっした(1605ねんリヴォニア侵攻しんこう)。スウェーデンの財政ざいせいきびしく、軍事ぐんじりょく弱体じゃくたいしていたのである。

しょ問題もんだいかかえるなかで、カール9せいおさなきグスタフ・アドルフにつよ期待きたいいだき、帝王ていおう教育きょういくほどこし、10さいにして国政こくせい参画さんかくさせた。カール9せい晩年ばんねんにロシアの内戦ないせんだい動乱どうらん)にスウェーデンを参戦さんせんさせるなか崩御ほうぎょし、すでにスウェーデンぐんひきいていたグスタフ・アドルフが17さい王位おうい継承けいしょうした。

子女しじょ[編集へんしゅう]

1579ねんプファルツせんみかどこうルートヴィヒ6せいむすめアンナ・マリア結婚けっこん、6にんもうけた。

  • マルガレータ・エリザベト(1580ねん - 1585ねん
  • エリサベト・サビーナ(1582ねん - 1585ねん
  • ルドヴィグ(1583ねん
  • カタリーナ(1584ねん - 1638ねん) - プファルツ=クレーブルクこうヨハン・カジミール結婚けっこんカール10せいはは
  • グスタフ(1587ねん
  • カール(1588ねん - 1589ねん

1592ねんホルシュタイン=ゴットルプこうアドルフむすめクリスティーナ再婚さいこん。4にんもうけた。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Bain, Robert Nisbet (1911). "Charles IX., King of Sweden" . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語えいご). Vol. 5 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 927.
  • Ripley, George; Dana, Charles A., eds. (1879). "Charles IX., King of Sweden" . The American Cyclopædia (英語えいご). Vol. IV. pp. 302–303.
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
シギスムンド
スウェーデンおう
1604ねん - 1611ねん
次代じだい
グスタフ2せいアドルフ