キルヒャルト (ドイツ語 ご : Kirchardt ) は、ドイツ連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく バーデン=ヴュルテンベルク州 しゅう ハイルブロン郡 ぐん に属 ぞく す町村 ちょうそん (以下 いか 、本 ほん 項 こう では便宜上 べんぎじょう 「町 まち 」と記述 きじゅつ する)。
キルヒャルトは、ハイルブロン郡 ぐん 北西 ほくせい 部 ぶ に位置 いち し、シュトゥットガルト大都市 だいとし 圏 けん 周縁 しゅうえん 部 ぶ に含 ふく まれる。
キルヒャルトに隣接 りんせつ する市町村 しちょうそん は、北 きた から時計 とけい 回 まわ りに、バート・ラッペナウ 、マッセンバッハハウゼン 、ゲンミンゲン 、エッピンゲン 、イットリンゲン (以上 いじょう 、いずれもハイルブロン郡 ぐん )およびジンスハイム (ライン=ネッカー郡 ぐん )である。キルヒャルトは、バート・ラッペナウおよびジーゲルスバッハと行政 ぎょうせい 共同 きょうどう 体 たい を形成 けいせい している。
キルヒャルトには、キルヒャルト地区 ちく の他 ほか 、ベルヴァンゲン地区 ちく 、ボックシャフト地区 ちく からなる。[ 2]
キルヒャルト全体 ぜんたい の人口 じんこう は、約 やく 5,500人 にん (2007年 ねん 現在 げんざい )であるが、このうち3,700人 にん がキルヒャルト地区 ちく に、1,400人 にん がベルヴァンゲン地区 ちく に、400人 にん がボックシャフト地区 ちく に住 す んでいる。[ 3]
ケルト人 じん 、ローマ人 じん 、アレマン人 じん 、古代 こだい 入植 にゅうしょく 者 しゃ たち[ 編集 へんしゅう ]
キルヒャルトで最古 さいこ の人 ひと の痕跡 こんせき は、青銅器 せいどうき 時代 じだい に遡 さかのぼ る。現在 げんざい のキルヒャルトの町 まち 域 いき に、最初 さいしょ に人 ひと が定住 ていじゅう し始 はじ めたのは紀元前 きげんぜん 6世紀 せいき のケルト人 じん の時代 じだい である。ローマ人 じん は、紀元 きげん 90年 ねん から260年 ねん に、”civitas alisinensis”(エルゼンツガウ)に様々 さまざま な構造 こうぞう 物 ぶつ 、 ネッカー=オーデンヴァルト・リーメス への兵站 へいたん 線 せん である道路 どうろ や建物 たてもの を建設 けんせつ した。その中 なか には、1832年 ねん に現在 げんざい の町 まち 域内 いきない のハフテンヴァルトで発掘 はっくつ された Villa rustica(ローマ時代 じだい の、貴族 きぞく の荘園 しょうえん などの大 だい 規模 きぼ 地方 ちほう 農場 のうじょう )が含 ふく まれる。また、シュネッケンベルクの農場 のうじょう 跡 あと もこの時代 じだい のものである。主要 しゅよう なローマ街道 かいどう が現在 げんざい のベルヴァンゲン地区 ちく を通 とお っており、いわゆるジュピター柱 ばしら が発掘 はっくつ されている。260年 ねん 頃 ごろ 、ライン 右岸 うがん 地区 ちく からローマ人 じん が撤退 てったい すると、アレマン人 じん が進出 しんしゅつ し、ローマ時代 じだい の建築 けんちく は荒廃 こうはい していった。
ロルシュ文書 ぶんしょ での最初 さいしょ の記録 きろく と地名 ちめい の意味 いみ [ 編集 へんしゅう ]
キルヒャルトとその地区 ちく は、他 た のヴュルテンベルク北部 ほくぶ やバーデン北部 ほくぶ の街 まち と同様 どうよう 、ロルシュ文書 ぶんしょ 中 なか に初 はじ めて、その名 な が記録 きろく されている。修道 しゅうどう 女 おんな エーギルラートが、villa Kyrih-Hart の農場 のうじょう とそれに付随 ふずい する自由 じゆう 地 ち を791年 ねん にロルシュ修道院 しゅうどういん に譲渡 じょうと したという記録 きろく である[ 4] 。この村 むら の名前 なまえ は、元々 もともと 農場 のうじょう の名前 なまえ で、おそらく「森 もり の教会 きょうかい 」または「教会 きょうかい 所有 しょゆう 地 ち の森 もり 」といった意味 いみ であろうと言 い われてきたが、「アカトビ の住 す む森 もり 」という意味 いみ であるとの推測 すいそく もなされている[ 5] 。ロルシュ文書 ぶんしょ には、現在 げんざい のベルヴァンゲン地区 ちく についても793年 ねん の、ボックシャフト地区 ちく も829年 ねん の譲渡 じょうと 証明 しょうめい 書 しょ にそれぞれ、最初 さいしょ の記録 きろく が遺 のこ されている。この地名 ちめい につけられた villaという呼称 こしょう は、キルヒャルトが、これらの入植 にゅうしょく 地 ち の最初 さいしょ に形成 けいせい されたことを示 しめ している。当時 とうじ のキルヒャルトの集落 しゅうらく の中心 ちゅうしん 地 ち はかつてのベルヴァンゲンとの境界 きょうかい のすぐ北側 きたがわ にあり、キルヒャルトから南 みなみ のベルヴァンゲン地区 ちく へ、さらにはビルケンバッハ川 かわ 沿 ぞ いにリーヒェン(エッピンゲンの市区 しく )へと徐々 じょじょ に向 む かって入植 にゅうしょく 地 ち が広 ひろ がっていったものと推測 すいそく されている。
中世 ちゅうせい 初期 しょき には、Hohe Straßeとよばれるハイルブロンとハイデルベルクを結 むす ぶ道路 どうろ が通 かよ っていた。このうちハイルブロンからジンスハイムまでは、おおむね現在 げんざい の連邦 れんぽう 道 どう B39号線 ごうせん と同 おな じ行程 こうてい をたどっていたが、キルヒャルトは、この歴史 れきし 的 てき な街道 かいどう から少 すこ し離 はな れたクライヒガウの丘陵 きゅうりょう 地 ち 周縁 しゅうえん 部 ぶ に位置 いち しており、農地 のうち や牧草 ぼくそう 地 ち 、オーク の木 き の森 もり が広 ひろ がっていた。農業 のうぎょう を専 せん らとした住民 じゅうみん たちは、何 なに 世紀 せいき もの間 あいだ 、畑 はたけ を耕 たがや し、ブタを飼育 しいく していた。養豚 ようとん 業 ぎょう で重要 じゅうよう な飼料 しりょう がドングリ であった。このため、1769年 ねん に採択 さいたく されたキルヒャルトの紋章 もんしょう にはカシの実 み が描 えが かれているのである。この町 まち の名前 なまえ は、13世紀 せいき から16世紀 せいき まではKirchart(他 た のスペルもある)、17世紀 せいき から18世紀 せいき には Kirhartと変 か わったが、19世紀 せいき の初 はじ めに Kirchardtで定着 ていちゃく した。
14世紀 せいき 以降 いこう 、プファルツ選 せん 帝 みかど 侯 こう 領 りょう 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
キルヒャルトの 土地 とち 台帳 だいちょう 中 ちゅう に城 しろ についての記述 きじゅつ がある。世襲 せしゅう 封土 ほうど としてのBurghof(城 しろ の農場 のうじょう )とBurggärten(城 しろ の庭園 ていえん )の耕作 こうさく 地 ち がそれである。ここでいう Burg(城 しろ )は、12世紀 せいき に存在 そんざい し、この周辺 しゅうへん の村 むら を治 おさ めた領主 りょうしゅ の城 しろ であるシュタインスベルク城 じょう を指 さ すと考 かんが えて、ほぼまちがいない。シュタインスベルク家 か が断絶 だんぜつ した後 のち 、この地 ち はエッティンゲン家 か に移 うつ り、さらに1308年 ねん 頃 ころ からはライン宮中 きゅうちゅう 伯 はく 家 いえ に移 うつ った。これによりキルヒャルトは、14世紀 せいき にはプファルツ家 か の所領 しょりょう となり、1803年 ねん にプファルツ選 せん 帝 みかど 侯 こう が廃止 はいし されるまで、その所領 しょりょう にとどまった。最初 さいしょ は、アムト・シュタインスベルク管轄 かんかつ 下 か 、1521年 ねん からはオーバーアムト・モスバッハのヒルスバッハ・ワイン管理 かんり 局 きょく の管轄 かんかつ 下 か におかれた。(アムト、オーバーアムトは当時 とうじ の地方 ちほう 行政 ぎょうせい 区画 くかく )果実 かじつ およびワインの十 じゅう 分 ぶん の一 いち 税 ぜい 徴収 ちょうしゅう 権 けん など教会 きょうかい 関係 かんけい の権利 けんり はドイツ騎士 きし 団 だん に属 ぞく したが、1556年 ねん にプファルツ選 せん 帝 みかど 侯 こう 領 りょう で宗教 しゅうきょう 改革 かいかく がなされた後 のち は、その影響 えいきょう 力 りょく は減退 げんたい した。
プファルツ選 せん 帝 みかど 侯 こう 領 りょう 時代 じだい のこの村 むら は、ヒルスバッハ・ワイン管理 かんり 局 きょく から派遣 はけん された村長 そんちょう によって運営 うんえい され、一定 いってい の自治 じち 権 けん を行使 こうし していた。この他 ほか に、村 むら の裁判所 さいばんしょ には、12人 にん 、 三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう 後 のち には8 - 9人 にん の判事 はんじ がいた。キルヒャルトで最初 さいしょ の役場 やくば は1570年 ねん 頃 ごろ に建設 けんせつ された。
この村 むら の領域 りょういき は、中世 ちゅうせい には、柵 しがらみ で囲 かこ まれており、自由 じゆう 民 みん や半 はん 自由 じゆう 民 みん の自分 じぶん の土地 とち 、相続 そうぞく 可能 かのう な土地 とち として農民 のうみん に耕作 こうさく を委託 いたく している領主 りょうしゅ の土地 とち に分類 ぶんるい された。こうした相続 そうぞく 封土 ほうど は分割 ぶんかつ や縮小 しゅくしょう が許 ゆる されていなかったが、交換 こうかん による頻繁 ひんぱん な管轄 かんかつ 地 ち の変更 へんこう や、クンケルレーエン(男系 だんけい だけでなく女系 じょけい の後継 こうけい 者 しゃ にも相続 そうぞく 可能 かのう なレーエン)として授 さづ けられた封土 ほうど によって、数 すう 多 おお くの小 しょう 地主 じぬし が発生 はっせい した。これに対 たい して、農民 のうみん 自身 じしん の土地 とち は分割 ぶんかつ 相続 そうぞく により、土地 とち の分割 ぶんかつ が進行 しんこう し、所有 しょゆう 関係 かんけい は複雑 ふくざつ なものになっていった。その上 うえ 、元々 もともと はゆったりと造 つく られていた柵 しがらみ 内 ない の入植 にゅうしょく 地 ち は人口 じんこう 増加 ぞうか により過密 かみつ になって行 い き、農場 のうじょう だった辺 あた りは、現在 げんざい の本通 ほんどお り沿 ぞ いから教会 きょうかい 付近 ふきん で東 ひがし に膨 ふく らんだ窮屈 きゅうくつ な街道 かいどう 町 まち になっていった。1496年 ねん に最初 さいしょ の記録 きろく が遺 のこ るこの教会 きょうかい は村 むら を3つに分割 ぶんかつ した。教会 きょうかい の北 きた からグロムバッハ門 もん までのオーバードルフ(上 うえ の村 むら )、教会 きょうかい の東側 ひがしがわ 一帯 いったい のミッテルドルフ(中 なか の村 むら )、教会 きょうかい の南 みなみ からベルヴァンゲン門 もん までのウンタードルフ(下 した の村 むら )である。元々 もともと 、村 むら には藁葺 わらぶ き屋根 やね の木造 もくぞう 建築 けんちく が主 おも であった。1531年 ねん にプファルツ選 せん 帝 みかど 侯 こう 領 りょう に出 だ された法令 ほうれい により、家屋 かおく 、家畜 かちく 小屋 こや や倉庫 そうこ は、これ以後 いご 、石 いし の基礎 きそ の上 うえ に建 た てることが定 さだ められ、1700年 ねん の法令 ほうれい により藁葺 わらぶ き屋根 やね は瓦 かわら 屋根 やね に葺 ふ き替 か えられた。
三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう 以後 いご は、それによる荒廃 こうはい に加 くわ え、ペスト にも周辺 しゅうへん 全域 ぜんいき が苦 くる しめられ、キルヒャルトの人口 じんこう は、約 やく 80人 にん にまで減少 げんしょう した。その後 ご 、1686年 ねん に約 やく 280人 にん 、1746年 ねん に420人 にん 、1774年 ねん には509人 にん と回復 かいふく していった。
1701年 ねん には、教会 きょうかい と司祭 しさい 館 かん の壊滅 かいめつ 的 てき な状態 じょうたい がきっかけとなり、十 じゅう 分 ぶん の一 いち 税 ぜい を受 う け取 と っているドイツ騎士 きし 団 だん には教会 きょうかい を復興 ふっこう する義務 ぎむ があるのではないかという議論 ぎろん がおこった。結局 けっきょく 、騎士 きし 団 だん は教会 きょうかい の塔 とう の石組 いしぐ み部分 ぶぶん と司祭 しさい 館 かん の再建 さいけん について義務 ぎむ を負 お うこととなった。
18世紀 せいき 後半 こうはん に、プファルツ選 せん 帝 みかど 侯 こう カール・テオドール によってキルヒャルトを経由 けいゆ する幹線 かんせん 道路 どうろ が建設 けんせつ された。この道路 どうろ はシュタインスフルトからフュルフェルトへ至 いた る新 あたら しい国道 こくどう であった。Hohe Straßeと呼 よ ばれる旧 きゅう 国道 こくどう は、これよりも北側 きたがわ のグロムバッハ付近 ふきん を通 とお っていた。新 しん 国道 こくどう のこの区間 くかん は、現在 げんざい の連邦 れんぽう 道 どう B39号線 ごうせん になっている。1800年 ねん 頃 ごろ に門 もん が廃止 はいし され、門 もん による村 むら 域 いき の制限 せいげん が徐々 じょじょ に廃止 はいし され、キルヒャルトの交通 こうつう は強化 きょうか されていった。
プファルツ選 せん 帝 みかど 侯 こう の終焉 しゅうえん 後 ご 、1802年 ねん 11月27日 にち 付 づけ の布告 ふこく により、キルヒャルトは短期間 たんきかん ではあるが、新 あら たに創設 そうせつ されたライニンゲン侯 ほう 領 りょう に編入 へんにゅう され、1806年 ねん からベルヴァンゲンおよびボックシャフトとともにバーデン大公 たいこう 国 こく に移管 いかん された。ここでは、バーデン大公 たいこう 国 こく およびライニンゲン侯 こう 領 りょう のベツィルクスアムト・ジンスハイム(後 ご のアムツベツィルク・ジンスハイム)の管轄 かんかつ 下 か に置 お かれた。1813年 ねん まではライニンゲンの代官 だいかん 所 しょ 、その後 ご はバーデン大公 たいこう 国 こく の代官 だいかん 所 しょ 、1831年 ねん からは村長 そんちょう が置 お かれた。村 むら の裁判所 さいばんしょ の機能 きのう は、村議 そんぎ 会 かい に引 ひ き継 つ がれた。1810年 ねん 頃 ごろ にはルネサンス様式 ようしき の村役場 むらやくば は老朽 ろうきゅう 化 か し、1813年 ねん に取 と り壊 こわ されて、同 おな じ場所 ばしょ (本通 ほんどお りとハイルブロン通 どお りの角 かく )に新 あたら しい村役場 むらやくば が建設 けんせつ された。
1800年 ねん 頃 ごろ 、キルヒャルトには約 やく 750人 にん の住民 じゅうみん がいたが、そのほとんどは農業 のうぎょう に従事 じゅうじ していた。これに対 たい して、ベルヴァンゲンには、この時代 じだい 、ほぼ同数 どうすう の住民 じゅうみん がいたが、こちらはすでに工業 こうぎょう 化 か されていた。1825年 ねん にはキルヒャルトの人口 じんこう は1030人 にん に達 たっ したが、中世 ちゅうせい の柵 しがらみ による境界 きょうかい 線 せん は維持 いじ されていた。このため、その狭隘 きょうあい さや社会 しゃかい 問題 もんだい (貧困 ひんこん 、飢餓 きが )が深刻 しんこく な問題 もんだい となった。こうして、100人 にん 以上 いじょう の住民 じゅうみん が1835年 ねん から1860年 ねん の間 あいだ に、多 おお くはアメリカへ、移民 いみん として流出 りゅうしゅつ した。
1868年 ねん 、ハイデルベルクからハイルブロンへの鉄道 てつどう (エルゼンツタール鉄道 てつどう )が建設 けんせつ され、隣接 りんせつ するグロムバッハに駅 えき が設 もう けられた。1876年 ねん にはハイルブロンへの道路 どうろ が、当時 とうじ の交通 こうつう 事情 じじょう に合 あ わせて拡張 かくちょう された。1880年 ねん にハイルブロン通 どお りに新 あたら しい学校 がっこう が建設 けんせつ された。1885年 ねん に最初 さいしょ の経済 けいざい 発展 はってん があった。この地域 ちいき で栽培 さいばい したタバコ を加工 かこう 生産 せいさん するタバコ会社 かいしゃ のキルヒャルトへの進出 しんしゅつ である。キルヒャルトには、後 のち にあわせて7つの工場 こうじょう を造 つく られた。これにより1900年 ねん 頃 ごろ には、約 やく 200人 にん の住民 じゅうみん が賃金 ちんぎん で生計 せいけい を立 た てるようになっていた。1914年 ねん までには、これらのタバコ会社 かいしゃ だけでなく、より大 おお きな企業 きぎょう もいくつかこの農村 のうそん に進出 しんしゅつ してきた。人口 じんこう は1300人 にん 近 ちか くにまで増加 ぞうか した。1817年 ねん から1925年 ねん までの間 あいだ に、キルヒャルトの企業 きぎょう 数 すう は96件 けん から210件 けん に増加 ぞうか した。
インフレーション と世界 せかい 恐慌 きょうこう により、キルヒャルトとその周辺 しゅうへん の村 むら は、貧困 ひんこん と増加 ぞうか する失業 しつぎょう 者 しゃ に悩 なや まされるようになった。これ以後 いご 、キルヒャルトでは住民 じゅうみん 文化 ぶんか が興隆 こうりゅう し始 はじ めた。1910年 ねん にエルゼンツ=ツルンガウ民謡 みんよう 祭 さい が開催 かいさい され、1920年 ねん にはスポーツ競技 きょうぎ 場 じょう がオープンした。
1933年 ねん にキルヒャルトの人口 じんこう は1,300人 にん 、ベルヴァンゲンは750人 にん 、ボックシャフトは130人 にん となった。1936年 ねん には、ジンスハイムの郡 ぐん 庁 ちょう 所在地 しょざいち への昇格 しょうかく に伴 ともな い、キルヒャルト、ベルヴァンゲン、ボックシャフトが属 ぞく すアムツベツィルク・ジンスハイムはジンスハイム郡 ぐん となった。
1946年 ねん 、人口 じんこう の1/4にあたる500人 にん 以上 いじょう の放逐 ほうちく ドイツ人 じん を受 う け容 い れたことは、さらなる生活 せいかつ 環境 かんきょう の悪化 あっか と職場 しょくば 不足 ふそく をもたらした。戦後 せんご になっても農作業 のうさぎょう は、手作業 てさぎょう と家畜 かちく の力 ちから に頼 たよ っていた。1948年 ねん の通貨 つうか 改革 かいかく 以後 いご は、こうした農作業 のうさぎょう も機械 きかい 化 か されたが、これがさらなる人 ひと 余 あま りの原因 げんいん となった。こうした状況 じょうきょう の中 なか 、町 まち は適切 てきせつ な住宅 じゅうたく 供給 きょうきゅう と地元 じもと の職場 しょくば 創出 そうしゅつ に取 と り組 く んだ。第 だい 一 いち 次 じ 産業 さんぎょう 用地 ようち が買収 ばいしゅう され、いくつかの工場 こうじょう が建 た てられた。キルヒャルトに戦後 せんご 初 はじ めて進出 しんしゅつ して来 き た企業 きぎょう は、1948年 ねん に進出 しんしゅつ した玩具 おもちゃ メーカーのクレメンスであった。
1963年 ねん に新興 しんこう 住宅 じゅうたく 地 ち 「シュネッケンベルク」が開発 かいはつ され、1965年 ねん にはハフテンヴァルトの麓 ふもと にあった耕地 こうち 「クルツァー・ゼー」が産業 さんぎょう 地域 ちいき に造成 ぞうせい された。さらに1966年 ねん には2つの新 あら たな住宅 じゅうたく 地 ち 「ヒンター・デン・ドルフゲルテン」と「シュタイネッカー」が整備 せいび された。同 おな じ頃 ごろ に進 すす められたアウトバーン A6号 ごう ハイルブロン – マンハイム線 せん の建設 けんせつ 、耕地 こうち 整理 せいり 、1968年 ねん のバーデン=ヴュルテンベルク州 しゅう の行政 ぎょうせい 改革 かいかく は、経済 けいざい 的 てき なインパクトをもたらした。多 おお くの未 み 舗装 ほそう の道路 どうろ がアスファルト 舗装 ほそう され、交通 こうつう 網 もう が改善 かいぜん された。1813年 ねん に建造 けんぞう された町 まち 役場 やくば は、1967年 ねん に道路 どうろ 整備 せいび のため取 と り壊 こわ され、新興 しんこう 住宅 じゅうたく 地 ち の「ヒンター・デン・ドルフゲルテン」に新 あたら しい役場 やくば が建設 けんせつ された。1968年 ねん からは新 あたら しい学校 がっこう の建設 けんせつ も始 はじ まり、このため1880年 ねん に建 た てられた古 ふる い学校 がっこう は取 と り壊 こわ された。1970年 ねん 時点 じてん の人口 じんこう は、約 やく 1950人 にん であった。
市町村 しちょうそん 再編 さいへん の時代 じだい 、1971年 ねん 7月 がつ 1日 にち にボックシャフトが、9月1日 にち にベルヴァンゲンが、キルヒャルトの地区 ちく として合併 がっぺい した。
郡 ぐん の再編 さいへん では、1973年 ねん 1月 がつ 1日 にち にジンスハイム郡 ぐん が廃止 はいし され、キルヒャルトはハイルブロン郡 ぐん に編入 へんにゅう され、新 あら たに創設 そうせつ されたフランケン地域 ちいき 連合 れんごう に組 く み込 こ まれた。これにより、キルヒャルトはバーデン(北部 ほくぶ )の町 まち でありながら、ヴュルテンベルクの管轄 かんかつ 下 か に置 お かれた数少 かずすく ない町 まち の一 ひと つとなった。1975年 ねん 1月 がつ 1日 にち にバート・ラッペナウおよびジーゲルスバッハと、それぞれの自治体 じちたい は独立 どくりつ を保 たも ったまま行政 ぎょうせい 協力 きょうりょく を行 おこな う行政 ぎょうせい 共同 きょうどう 体 たい を創設 そうせつ した。
1970年代 ねんだい には、公共 こうきょう 機関 きかん や増加 ぞうか した人口 じんこう が郊外 こうがい の新興 しんこう 住宅 じゅうたく 地 ち に移転 いてん したことで町 まち の中心 ちゅうしん 部 ぶ は空洞 くうどう 化 か していた。町 まち は、1978年 ねん から、この中心 ちゅうしん 部 ぶ を取 と り壊 こわ し、再 さい 開発 かいはつ を強行 きょうこう しようとしたが、この町 まち は工業 こうぎょう 地域 ちいき に分類 ぶんるい されていたため、1978年 ねん から80年 ねん のバーデン=ヴュルテンベルク州 しゅう の「村落 そんらく 開発 かいはつ 計画 けいかく 」のプログラムには組 く み込 こ まれなかった。その後 ご 、1984年 ねん になって初 はじ めて、州 しゅう の都市 とし 建設 けんせつ 助成 じょせい プログラムに組 く み込 こ まれた。1986年 ねん 1月 がつ のバーデン=ヴュルテンベルク州 しゅう 地方自治体 ちほうじちたい 開発 かいはつ 団体 だんたい の事業 じぎょう 報告 ほうこく は、キルヒャルトの再 さい 開発 かいはつ の対象 たいしょう となる中心 ちゅうしん 部 ぶ 約 やく 10haの建物 たてもの 96%が立 た て替 か えの対象 たいしょう になると記 しる している。これに伴 ともな い、この地域 ちいき の解体 かいたい 再生 さいせい 計画 けいかく を募集 ぼしゅう し、これが現在 げんざい の町 まち の中心 ちゅうしん 部 ぶ の景観 けいかん に活 い かされている。
キルヒャルト全体 ぜんたい では、現在 げんざい 、手工業 しゅこうぎょう 、生産 せいさん 業 ぎょう 、商 しょう 工業 こうぎょう 、サービス業 ぎょう を併 あわ せて1,500人 にん の雇用 こよう がある。
プファルツ選 せん 帝 みかど 侯 こう 領 りょう であったキルヒャルトやベルヴァンゲンでは、中世 ちゅうせい 後期 こうき 、16世紀 せいき にはすでに宗教 しゅうきょう 改革 かいかく が行 おこな われた。カトリック教会 きょうかい が再 ふたた び定着 ていちゃく するのは、かなり後 のち になってのことであった。1701年 ねん のカトリック信者 しんじゃ は4人 にん だけであったが、1809年 ねん には46人 にん に増 ふ えている。1811年 ねん 、キルヒャルトのハイルブロン通 どお り沿 ぞ いに、カトリック教会 きょうかい が建設 けんせつ された。この教会 きょうかい は1960年 ねん 頃 ごろ に取 と り壊 こわ され、ヴァルト通 どお り沿 ぞ いに宗教 しゅうきょう 改革 かいかく 以前 いぜん の村 むら の教会 きょうかい の守護 しゅご 聖人 せいじん に献 けんじ 堂 どう された新 あたら しい教会 きょうかい 、聖 せい エギディウス教会 きょうかい が建設 けんせつ された。
キルヒャルトとベルヴァンゲンには、それぞれ個別 こべつ のプロテスタント 教会 きょうかい 組織 そしき がある。この他 ほか に、キルヒャルトには、既 すんで 述 じゅつ のカトリック教会 きょうかい 、福音 ふくいん 派 は 自由 じゆう 教会 きょうかい (バプティスト教会 きょうかい )がある。こうしたプロテスタント系 けい 、カトリック系 けい の教会 きょうかい の他 ほか 、1960年代 ねんだい にシリア正教会 せいきょうかい の信者 しんじゃ が多 おお く移住 いじゅう してきて、第 だい 三 さん の教会 きょうかい 勢力 せいりょく となり、この町 まち に教会堂 きょうかいどう を建設 けんせつ した。バーデン=ヴュルテンベルク州 しゅう のシリア正教会 せいきょうかい は、キルヒャルトに本部 ほんぶ を置 お いている。
ユダヤ教 きょう のシナゴーグ やユダヤ人 じん 墓地 ぼち は現在 げんざい のベルヴァンゲン地区 ちく に存在 そんざい するのみである。キルヒャルトには17世紀 せいき 中頃 なかごろ 以降 いこう 、ユダヤ人 じん はごく希 まれ に住 す んだことがあるに過 す ぎない。1825年 ねん には9人 にん のユダヤ人 じん がいたが、1875年 ねん には1人 ひとり だけになっていた。
キルヒャルトの町 まち 役場 やくば
キルヒャルトの議会 ぎかい は、17人 にん の議員 ぎいん からなる。議会 ぎかい では、これに首長 しゅちょう が加 くわ わり議長 ぎちょう を務 つと める。
ボックシャフト地区 ちく には、議員 ぎいん 数 すう 4からなる地区 ちく 議会 ぎかい が存在 そんざい する。
図柄 ずがら : 銀地 ぎんじ に水平 すいへい に置 お かれた緑 みどり の枝 えだ 。そこから上向 うわむ きに緑 みどり のドングリ 。町 まち の旗 はた は、緑 みどり – 白 しろ である。
キルヒャルトの紋章 もんしょう に描 えが かれたドングリは、おそらく、町 まち の名 な の後半 こうはん 、放牧 ほうぼく 地 ち の森 もり を意味 いみ する -hardtに由来 ゆらい する。放牧 ほうぼく 地 ち としての森 もり では、そこに落 お ちているドングリが家畜 かちく の餌 えさ として有用 ゆうよう であった。この紋章 もんしょう は、1769年 ねん の印章 いんしょう に初 はじ めて現 あらわ れ、1901年 ねん に色 いろ が定 さだ められた。旗 はた は、1980年 ねん 1月 がつ 31日 にち にハイルブロン郡 ぐん 当局 とうきょく の認可 にんか を得 え た。[ 6]
プロテスタント教会 きょうかい
カトリックの聖 せい エギディウス教会 きょうかい
シリア正教会 せいきょうかい
キルヒャルトの中心 ちゅうしん 部 ぶ にはルネサンス時代 じだい の農場 のうじょう 跡 あと のいくつかの建築 けんちく が遺 のこ されている。その中 なか には、ブルクゲルテン通 どお りの1578年 ねん の住宅 じゅうたく が含 ふく まれる。町 まち の中 なか を貫 つらぬ く連邦 れんぽう 道 どう B39号線 ごうせん 沿 ぞ いには卓越 たくえつ した建築 けんちく が存在 そんざい する。多 おお くの歴史 れきし 的 てき 農場 のうじょう 建築 けんちく や旅館 りょかん があり、中 なか には18世紀 せいき に遡 さかのぼ る建物 たてもの もある。ハイルブロン通 どお り沿 ぞ いの、1839年 ねん 建造 けんぞう のカトリックの旧 きゅう 学校 がっこう は特徴 とくちょう 的 てき な十字 じゅうじ 型 がた の窓 まど がある建物 たてもの である。グロムバッハ通 どお り1番 ばん の建物 たてもの は特徴 とくちょう 的 てき な木組 きぐ みの切妻 きりづま を有 ゆう している。
1870年 ねん から71年 ねん の出征 しゅっせい 兵士 へいし の名誉 めいよ を讃 たた える戦争 せんそう 記念 きねん 碑 ひ
キルヒャルトには1925年 ねん から屋外 おくがい プールがある。また、1974年 ねん には屋内 おくない プールも造 つく られた。町 まち の北東 ほくとう 部 ぶ 「ケッテント」と呼 よ ばれる耕地 こうち に、1976年 ねん から77年 ねん に新 あたら しい競技 きょうぎ 場 じょう が、アメリカ軍 ぐん 兵士 へいし の協力 きょうりょく で建設 けんせつ された。
2年 ねん ごとに、ボックシャフト地区 ちく でキルヒャルト・ドルフフェスタ(村 むら 祭 まつ り)が開催 かいさい されている。
キルヒャルトは、アウトバーン A6号線 ごうせん (インターチェンジは、ジンスハイム=シュタインスフルトおよびバート・ラッペナウを利用 りよう する)、および連邦 れんぽう 道 どう B39号線 ごうせん のハイルブロン - ジンスハイム間 あいだ に位置 いち している。最寄 もよ りの駅 えき は、バート・ラッペナウ、ジンスハイム、およびエッピンゲンにあり、グロムバッハとゲンミンゲンにも停車 ていしゃ 所 しょ がある。ハイルブロンおよびカールスルーエの市電 しでん であるクライヒガウ鉄道 てつどう もゲンミンゲンを通 とお っている。
キルヒャルトおよびその周辺 しゅうへん 地域 ちいき のできごとは、日刊 にっかん 紙 し の Kraichgau Stimme(Heilbronner Stimmeの地方 ちほう 版 ばん )および Rhein-Neckar-Zeitungに掲載 けいさい される。
キルヒャルトおよびそれに含 ふく まれる地区 ちく には、あらゆる職種 しょくしゅ の多 おお くの中小 ちゅうしょう 企業 きぎょう が存在 そんざい している。ボックシャフト地区 ちく には、小売 こうり 店 てん がない。
^ Statistisches Landesamt Baden-Württemberg – Bevölkerung nach Nationalität und Geschlecht am 31. Dezember 2022 (CSV-Datei)
^ Das Land Baden-Württemberg. Amtliche Beschreibung nach Kreisen und Gemeinden. Band IV: Regierungsbezirk Stuttgart, Regionalverbände Franken und Ostwürttemberg. Kohlhammer, Stuttgart 1980, ISBN 3-17-005708-1 . S. 57–58
^ Quelle: キルヒャルトの統計 とうけい (2007年 ねん 12月25日 にち 現在 げんざい )
^ 村 むら の名前 なまえ Kyrih-Hart は、原典 げんてん ではハイフンで分離 ぶんり 書 が きされている。ハイフンなしでの綴 つづ りは Kyrihart となる。
^ Gustav Neuwirthによれば、"Kyrih-Hart" = "Kyrihart" という村 むら の名前 なまえ は Speßhart(キツツキの住 す む森 もり )と同 おな じ構造 こうぞう で、Kürweihen (アカトビ (Rotmilan) の古 ふる い呼 よ び名 な )であるという。(1978年 ねん )
^ 「紋章 もんしょう と旗 はた 」の項 こう の出典 しゅってん : Heinz Bardua: Die Kreis- und Gemeindewappen im Regierungsbezirk Stuttgart . Theiss, Stuttgart 1987, ISBN 3-8062-0801-8 (Kreis- und Gemeindewappen in Baden-Württemberg, 1). S. 84
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