(Translated by https://www.hiragana.jp/)
キルヒャルト - Wikipedia コンテンツにスキップ

キルヒャルト

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
紋章もんしょう 地図ちず
ぐん位置いち
基本きほん情報じょうほう
連邦れんぽうしゅう: バーデン=ヴュルテンベルクしゅう
行政ぎょうせい管区かんく: シュトゥットガルト行政ぎょうせい管区かんく
ぐん: ハイルブロンぐん
緯度いど経度けいど: 北緯ほくい4912ふん18びょう 東経とうけい0859ふん30びょう / 北緯ほくい49.20500 東経とうけい8.99167 / 49.20500; 8.99167座標ざひょう: 北緯ほくい4912ふん18びょう 東経とうけい0859ふん30びょう / 北緯ほくい49.20500 東経とうけい8.99167 / 49.20500; 8.99167
標高ひょうこう: 海抜かいばつ 227 m
面積めんせき: 21.5 km2
人口じんこう:

6,054にん(2022ねん12月31にち現在げんざい[1]

人口じんこう密度みつど: 282 にん/km2
郵便ゆうびん番号ばんごう: 74912
市外しがい局番きょくばん: 07266
ナンバープレート: HN
自治体じちたいコード:

08 1 25 049

行政ぎょうせい庁舎ちょうしゃ住所じゅうしょ: Goethestraße 5
74912 Kirchardt
ウェブサイト: www.kirchardt.de
首長しゅちょう: ゲルト・クライター (Gerd Kreiter)
ぐんない位置いち
地図ちず
地図

キルヒャルト (ドイツ: Kirchardt) は、ドイツ連邦れんぽう共和きょうわこくバーデン=ヴュルテンベルクしゅうハイルブロンぐんぞく町村ちょうそん以下いかほんこうでは便宜上べんぎじょうまち」と記述きじゅつする)。

地理ちり

[編集へんしゅう]

位置いち

[編集へんしゅう]

キルヒャルトは、ハイルブロンぐん北西ほくせい位置いちし、シュトゥットガルト大都市だいとしけん周縁しゅうえんふくまれる。

隣接りんせつする市町村しちょうそん

[編集へんしゅう]

キルヒャルトに隣接りんせつする市町村しちょうそんは、きたから時計とけいまわりに、バート・ラッペナウマッセンバッハハウゼンゲンミンゲンエッピンゲンイットリンゲン以上いじょう、いずれもハイルブロンぐん)およびジンスハイムライン=ネッカーぐん)である。キルヒャルトは、バート・ラッペナウおよびジーゲルスバッハと行政ぎょうせい共同きょうどうたい形成けいせいしている。

自治体じちたい構成こうせい

[編集へんしゅう]

キルヒャルトには、キルヒャルト地区ちくほか、ベルヴァンゲン地区ちく、ボックシャフト地区ちくからなる。[2]

キルヒャルト全体ぜんたい人口じんこうは、やく5,500にん(2007ねん現在げんざい)であるが、このうち3,700にんがキルヒャルト地区ちくに、1,400にんがベルヴァンゲン地区ちくに、400にんがボックシャフト地区ちくんでいる。[3]

歴史れきし

[編集へんしゅう]

ケルトじん、ローマじん、アレマンじん古代こだい入植にゅうしょくしゃたち

[編集へんしゅう]

キルヒャルトで最古さいこひと痕跡こんせきは、青銅器せいどうき時代じだいさかのぼる。現在げんざいのキルヒャルトのまちいきに、最初さいしょひと定住ていじゅうはじめたのは紀元前きげんぜん6世紀せいきケルトじん時代じだいである。ローマじんは、紀元きげん90ねんから260ねんに、”civitas alisinensis”(エルゼンツガウ)に様々さまざま構造こうぞうぶつネッカー=オーデンヴァルト・リーメスへの兵站へいたんせんである道路どうろ建物たてもの建設けんせつした。そのなかには、1832ねん現在げんざいまち域内いきないのハフテンヴァルトで発掘はっくつされた Villa rustica(ローマ時代じだいの、貴族きぞく荘園しょうえんなどのだい規模きぼ地方ちほう農場のうじょう)がふくまれる。また、シュネッケンベルクの農場のうじょうあともこの時代じだいのものである。主要しゅようローマ街道かいどう現在げんざいのベルヴァンゲン地区ちくとおっており、いわゆるジュピターばしら発掘はっくつされている。260ねんごろライン右岸うがん地区ちくからローマじん撤退てったいすると、アレマンじん進出しんしゅつし、ローマ時代じだい建築けんちく荒廃こうはいしていった。

ロルシュ文書ぶんしょでの最初さいしょ記録きろく地名ちめい意味いみ

[編集へんしゅう]

キルヒャルトとその地区ちくは、のヴュルテンベルク北部ほくぶやバーデン北部ほくぶまち同様どうようロルシュ文書ぶんしょなかはじめて、その記録きろくされている。修道しゅうどうおんなエーギルラートが、villa Kyrih-Hart の農場のうじょうとそれに付随ふずいする自由じゆう791ねんロルシュ修道院しゅうどういん譲渡じょうとしたという記録きろくである[4]。このむら名前なまえは、元々もともと農場のうじょう名前なまえで、おそらく「もり教会きょうかい」または「教会きょうかい所有しょゆうもり」といった意味いみであろうとわれてきたが、「アカトビもり」という意味いみであるとの推測すいそくもなされている[5]。ロルシュ文書ぶんしょには、現在げんざいのベルヴァンゲン地区ちくについても793ねんの、ボックシャフト地区ちく829ねん譲渡じょうと証明しょうめいしょにそれぞれ、最初さいしょ記録きろくのこされている。この地名ちめいにつけられた villaという呼称こしょうは、キルヒャルトが、これらの入植にゅうしょく最初さいしょ形成けいせいされたことをしめしている。当時とうじのキルヒャルトの集落しゅうらく中心ちゅうしんはかつてのベルヴァンゲンとの境界きょうかいのすぐ北側きたがわにあり、キルヒャルトからみなみのベルヴァンゲン地区ちくへ、さらにはビルケンバッハかわ沿いにリーヒェン(エッピンゲンの市区しく)へと徐々じょじょかって入植にゅうしょくひろがっていったものと推測すいそくされている。

中世ちゅうせい初期しょきには、Hohe Straßeとよばれるハイルブロンとハイデルベルクをむす道路どうろかよっていた。このうちハイルブロンからジンスハイムまでは、おおむね現在げんざい連邦れんぽうどうB39号線ごうせんおな行程こうていをたどっていたが、キルヒャルトは、この歴史れきしてき街道かいどうからすこはなれたクライヒガウの丘陵きゅうりょう周縁しゅうえん位置いちしており、農地のうち牧草ぼくそうオークもりひろがっていた。農業のうぎょうせんらとした住民じゅうみんたちは、なに世紀せいきものあいだはたけたがやし、ブタを飼育しいくしていた。養豚ようとんぎょう重要じゅうよう飼料しりょうドングリであった。このため、1769ねん採択さいたくされたキルヒャルトの紋章もんしょうにはカシのえがかれているのである。このまち名前なまえは、13世紀せいきから16世紀せいきまではKirchart(のスペルもある)、17世紀せいきから18世紀せいきには Kirhartとわったが、19世紀せいきはじめに Kirchardtで定着ていちゃくした。

14世紀せいき以降いこう、プファルツせんみかどこうりょう時代じだい

[編集へんしゅう]

キルヒャルトの 土地とち台帳だいちょうちゅうしろについての記述きじゅつがある。世襲せしゅう封土ほうどとしてのBurghof(しろ農場のうじょう)とBurggärten(しろ庭園ていえん)の耕作こうさくがそれである。ここでいう Burg(しろ)は、12世紀せいき存在そんざいし、この周辺しゅうへんむらおさめた領主りょうしゅしろであるシュタインスベルクじょうすとかんがえて、ほぼまちがいない。シュタインスベルク断絶だんぜつしたのち、このはエッティンゲンうつり、さらに1308ねんころからはライン宮中きゅうちゅうはくいえうつった。これによりキルヒャルトは、14世紀せいきにはプファルツ所領しょりょうとなり、1803ねんプファルツせんみかどこう廃止はいしされるまで、その所領しょりょうにとどまった。最初さいしょは、アムト・シュタインスベルク管轄かんかつ1521ねんからはオーバーアムト・モスバッハのヒルスバッハ・ワイン管理かんりきょく管轄かんかつにおかれた。(アムト、オーバーアムトは当時とうじ地方ちほう行政ぎょうせい区画くかく果実かじつおよびワインのじゅうぶんいちぜい徴収ちょうしゅうけんなど教会きょうかい関係かんけい権利けんりドイツ騎士きしだんぞくしたが、1556ねんにプファルツせんみかどこうりょう宗教しゅうきょう改革かいかくがなされたのちは、その影響えいきょうりょく減退げんたいした。

プファルツせんみかどこうりょう時代じだいのこのむらは、ヒルスバッハ・ワイン管理かんりきょくから派遣はけんされた村長そんちょうによって運営うんえいされ、一定いってい自治じちけん行使こうししていた。このほかに、むら裁判所さいばんしょには、12にんさんじゅうねん戦争せんそうのちには8 - 9にん判事はんじがいた。キルヒャルトで最初さいしょ役場やくばは1570ねんごろ建設けんせつされた。

このむら領域りょういきは、中世ちゅうせいには、しがらみかこまれており、自由じゆうみんはん自由じゆうみん自分じぶん土地とち相続そうぞく可能かのう土地とちとして農民のうみん耕作こうさく委託いたくしている領主りょうしゅ土地とち分類ぶんるいされた。こうした相続そうぞく封土ほうど分割ぶんかつ縮小しゅくしょうゆるされていなかったが、交換こうかんによる頻繁ひんぱん管轄かんかつ変更へんこうや、クンケルレーエン(男系だんけいだけでなく女系じょけい後継こうけいしゃにも相続そうぞく可能かのうなレーエン)としてさづけられた封土ほうどによって、すうおおくのしょう地主じぬし発生はっせいした。これにたいして、農民のうみん自身じしん土地とち分割ぶんかつ相続そうぞくにより、土地とち分割ぶんかつ進行しんこうし、所有しょゆう関係かんけい複雑ふくざつなものになっていった。そのうえ元々もともとはゆったりとつくられていたしがらみない入植にゅうしょく人口じんこう増加ぞうかにより過密かみつになってき、農場のうじょうだったあたりは、現在げんざい本通ほんどお沿いから教会きょうかい付近ふきんひがしふくらんだ窮屈きゅうくつ街道かいどうまちになっていった。1496ねん最初さいしょ記録きろくのこるこの教会きょうかいむらを3つに分割ぶんかつした。教会きょうかいきたからグロムバッハもんまでのオーバードルフ(うえむら)、教会きょうかい東側ひがしがわ一帯いったいのミッテルドルフ(なかむら)、教会きょうかいみなみからベルヴァンゲンもんまでのウンタードルフ(したむら)である。元々もともとむらには藁葺わらぶ屋根やね木造もくぞう建築けんちくおもであった。1531ねんにプファルツせんみかどこうりょうされた法令ほうれいにより、家屋かおく家畜かちく小屋こや倉庫そうこは、これ以後いごいし基礎きそうえてることがさだめられ、1700ねん法令ほうれいにより藁葺わらぶ屋根やねかわら屋根やねえられた。

さんじゅうねん戦争せんそう以後いごは、それによる荒廃こうはいくわえ、ペストにも周辺しゅうへん全域ぜんいきくるしめられ、キルヒャルトの人口じんこうは、やく80にんにまで減少げんしょうした。その、1686ねんやく280にん、1746ねんに420にん、1774ねんには509にん回復かいふくしていった。

1701ねんには、教会きょうかい司祭しさいかん壊滅かいめつてき状態じょうたいがきっかけとなり、じゅうぶんいちぜいっているドイツ騎士きしだんには教会きょうかい復興ふっこうする義務ぎむがあるのではないかという議論ぎろんがおこった。結局けっきょく騎士きしだん教会きょうかいとう石組いしぐ部分ぶぶん司祭しさいかん再建さいけんについて義務ぎむうこととなった。

18世紀せいき後半こうはんに、プファルツせんみかどこうカール・テオドールによってキルヒャルトを経由けいゆする幹線かんせん道路どうろ建設けんせつされた。この道路どうろはシュタインスフルトからフュルフェルトへいたあたらしい国道こくどうであった。Hohe Straßeとばれるきゅう国道こくどうは、これよりも北側きたがわのグロムバッハ付近ふきんとおっていた。しん国道こくどうのこの区間くかんは、現在げんざい連邦れんぽうどうB39号線ごうせんになっている。1800ねんごろもん廃止はいしされ、もんによるむらいき制限せいげん徐々じょじょ廃止はいしされ、キルヒャルトの交通こうつう強化きょうかされていった。

19世紀せいき、バーデンへの移行いこう

[編集へんしゅう]

プファルツせんみかどこう終焉しゅうえん1802ねん11月27にちづけ布告ふこくにより、キルヒャルトは短期間たんきかんではあるが、あらたに創設そうせつされたライニンゲンほうりょう編入へんにゅうされ、1806ねんからベルヴァンゲンおよびボックシャフトとともにバーデン大公たいこうこく移管いかんされた。ここでは、バーデン大公たいこうこくおよびライニンゲンこうりょうのベツィルクスアムト・ジンスハイム(のアムツベツィルク・ジンスハイム)の管轄かんかつかれた。1813ねんまではライニンゲンの代官だいかんしょ、そのはバーデン大公たいこうこく代官だいかんしょ1831ねんからは村長そんちょうかれた。むら裁判所さいばんしょ機能きのうは、村議そんぎかいがれた。1810ねんごろにはルネサンス様式ようしき村役場むらやくば老朽ろうきゅうし、1813ねんこわされて、おな場所ばしょ本通ほんどおりとハイルブロンどおりのかく)にあたらしい村役場むらやくば建設けんせつされた。

1800ねんごろ、キルヒャルトにはやく750にん住民じゅうみんがいたが、そのほとんどは農業のうぎょう従事じゅうじしていた。これにたいして、ベルヴァンゲンには、この時代じだい、ほぼ同数どうすう住民じゅうみんがいたが、こちらはすでに工業こうぎょうされていた。1825ねんにはキルヒャルトの人口じんこうは1030にんたっしたが、中世ちゅうせいしがらみによる境界きょうかいせん維持いじされていた。このため、その狭隘きょうあいさや社会しゃかい問題もんだい貧困ひんこん飢餓きが)が深刻しんこく問題もんだいとなった。こうして、100にん以上いじょう住民じゅうみん1835ねんから1860ねんあいだに、おおくはアメリカへ、移民いみんとして流出りゅうしゅつした。

1868ねん、ハイデルベルクからハイルブロンへの鉄道てつどう(エルゼンツタール鉄道てつどう)が建設けんせつされ、隣接りんせつするグロムバッハにえきもうけられた。1876ねんにはハイルブロンへの道路どうろが、当時とうじ交通こうつう事情じじょうわせて拡張かくちょうされた。1880ねんにハイルブロンどおりにあたらしい学校がっこう建設けんせつされた。1885ねん最初さいしょ経済けいざい発展はってんがあった。この地域ちいき栽培さいばいしたタバコ加工かこう生産せいさんするタバコ会社かいしゃのキルヒャルトへの進出しんしゅつである。キルヒャルトには、のちにあわせて7つの工場こうじょうつくられた。これにより1900ねんごろには、やく200にん住民じゅうみん賃金ちんぎん生計せいけいてるようになっていた。1914ねんまでには、これらのタバコ会社かいしゃだけでなく、よりおおきな企業きぎょうもいくつかこの農村のうそん進出しんしゅつしてきた。人口じんこうは1300にんちかくにまで増加ぞうかした。1817ねんから1925ねんまでのあいだに、キルヒャルトの企業きぎょうすうは96けんから210けん増加ぞうかした。

インフレーション世界せかい恐慌きょうこうにより、キルヒャルトとその周辺しゅうへんむらは、貧困ひんこん増加ぞうかする失業しつぎょうしゃなやまされるようになった。これ以後いご、キルヒャルトでは住民じゅうみん文化ぶんか興隆こうりゅうはじめた。1910ねんにエルゼンツ=ツルンガウ民謡みんようさい開催かいさいされ、1920ねんにはスポーツ競技きょうぎじょうがオープンした。

1933ねんにキルヒャルトの人口じんこうは1,300にん、ベルヴァンゲンは750にん、ボックシャフトは130にんとなった。1936ねんには、ジンスハイムのぐんちょう所在地しょざいちへの昇格しょうかくともない、キルヒャルト、ベルヴァンゲン、ボックシャフトがぞくすアムツベツィルク・ジンスハイムはジンスハイムぐんとなった。

だい世界せかい大戦たいせん

[編集へんしゅう]

1946ねん人口じんこうの1/4にあたる500にん以上いじょう放逐ほうちくドイツじんれたことは、さらなる生活せいかつ環境かんきょう悪化あっか職場しょくば不足ふそくをもたらした。戦後せんごになっても農作業のうさぎょうは、手作業てさぎょう家畜かちくちからたよっていた。1948ねん通貨つうか改革かいかく以後いごは、こうした農作業のうさぎょう機械きかいされたが、これがさらなるひとあまりの原因げんいんとなった。こうした状況じょうきょうなかまち適切てきせつ住宅じゅうたく供給きょうきゅう地元じもと職場しょくば創出そうしゅつんだ。だいいち産業さんぎょう用地ようち買収ばいしゅうされ、いくつかの工場こうじょうてられた。キルヒャルトに戦後せんごはじめて進出しんしゅつして企業きぎょうは、1948ねん進出しんしゅつした玩具おもちゃメーカーのクレメンスであった。

1963ねん新興しんこう住宅じゅうたく「シュネッケンベルク」が開発かいはつされ、1965ねんにはハフテンヴァルトのふもとにあった耕地こうち「クルツァー・ゼー」が産業さんぎょう地域ちいき造成ぞうせいされた。さらに1966ねんには2つのあらたな住宅じゅうたく「ヒンター・デン・ドルフゲルテン」と「シュタイネッカー」が整備せいびされた。おなごろすすめられたアウトバーンA6ごう ハイルブロン – マンハイムせん建設けんせつ耕地こうち整理せいり1968ねんのバーデン=ヴュルテンベルクしゅう行政ぎょうせい改革かいかくは、経済けいざいてきなインパクトをもたらした。おおくの舗装ほそう道路どうろアスファルト舗装ほそうされ、交通こうつうもう改善かいぜんされた。1813ねん建造けんぞうされたまち役場やくばは、1967ねん道路どうろ整備せいびのためこわされ、新興しんこう住宅じゅうたくの「ヒンター・デン・ドルフゲルテン」にあたらしい役場やくば建設けんせつされた。1968ねんからはあたらしい学校がっこう建設けんせつはじまり、このため1880ねんてられたふる学校がっこうこわされた。1970ねん時点じてん人口じんこうは、やく1950にんであった。

市町村しちょうそん再編さいへん時代じだい、1971ねん7がつ1にちにボックシャフトが、9月1にちにベルヴァンゲンが、キルヒャルトの地区ちくとして合併がっぺいした。

ぐん再編さいへんでは、1973ねん1がつ1にちにジンスハイムぐん廃止はいしされ、キルヒャルトはハイルブロンぐん編入へんにゅうされ、あらたに創設そうせつされたフランケン地域ちいき連合れんごうまれた。これにより、キルヒャルトはバーデン(北部ほくぶ)のまちでありながら、ヴュルテンベルクの管轄かんかつかれた数少かずすくないまちひとつとなった。1975ねん1がつ1にちにバート・ラッペナウおよびジーゲルスバッハと、それぞれの自治体じちたい独立どくりつたもったまま行政ぎょうせい協力きょうりょくおこな行政ぎょうせい共同きょうどうたい創設そうせつした。

1970年代ねんだいには、公共こうきょう機関きかん増加ぞうかした人口じんこう郊外こうがい新興しんこう住宅じゅうたく移転いてんしたことでまち中心ちゅうしん空洞くうどうしていた。まちは、1978ねんから、この中心ちゅうしんこわし、さい開発かいはつ強行きょうこうしようとしたが、このまち工業こうぎょう地域ちいき分類ぶんるいされていたため、1978ねんから80ねんのバーデン=ヴュルテンベルクしゅうの「村落そんらく開発かいはつ計画けいかく」のプログラムにはまれなかった。その1984ねんになってはじめて、しゅう都市とし建設けんせつ助成じょせいプログラムにまれた。1986ねん1がつのバーデン=ヴュルテンベルクしゅう地方自治体ちほうじちたい開発かいはつ団体だんたい事業じぎょう報告ほうこくは、キルヒャルトのさい開発かいはつ対象たいしょうとなる中心ちゅうしんやく10haの建物たてもの96%がえの対象たいしょうになるとしるしている。これにともない、この地域ちいき解体かいたい再生さいせい計画けいかく募集ぼしゅうし、これが現在げんざいまち中心ちゅうしん景観けいかんかされている。

キルヒャルト全体ぜんたいでは、現在げんざい手工業しゅこうぎょう生産せいさんぎょうしょう工業こうぎょう、サービスぎょうあわせて1,500にん雇用こようがある。

宗教しゅうきょう

[編集へんしゅう]

プファルツせんみかどこうりょうであったキルヒャルトやベルヴァンゲンでは、中世ちゅうせい後期こうき、16世紀せいきにはすでに宗教しゅうきょう改革かいかくおこなわれた。カトリック教会きょうかいふたた定着ていちゃくするのは、かなりのちになってのことであった。1701ねんのカトリック信者しんじゃは4にんだけであったが、1809ねんには46にんえている。1811ねん、キルヒャルトのハイルブロンどお沿いに、カトリック教会きょうかい建設けんせつされた。この教会きょうかいは1960ねんごろこわされ、ヴァルトどお沿いに宗教しゅうきょう改革かいかく以前いぜんむら教会きょうかい守護しゅご聖人せいじんけんじどうされたあたらしい教会きょうかいせいエギディウス教会きょうかい建設けんせつされた。

キルヒャルトとベルヴァンゲンには、それぞれ個別こべつプロテスタント教会きょうかい組織そしきがある。このほかに、キルヒャルトには、すんでじゅつのカトリック教会きょうかい福音ふくいん自由じゆう教会きょうかいバプティスト教会きょうかい)がある。こうしたプロテスタントけい、カトリックけい教会きょうかいほか、1960年代ねんだいシリア正教会せいきょうかい信者しんじゃおお移住いじゅうしてきて、だいさん教会きょうかい勢力せいりょくとなり、このまち教会堂きょうかいどう建設けんせつした。バーデン=ヴュルテンベルクしゅうのシリア正教会せいきょうかいは、キルヒャルトに本部ほんぶいている。

ユダヤきょうシナゴーグやユダヤじん墓地ぼち現在げんざいのベルヴァンゲン地区ちく存在そんざいするのみである。キルヒャルトには17世紀せいき中頃なかごろ以降いこう、ユダヤじんはごくまれんだことがあるにぎない。1825ねんには9にんのユダヤじんがいたが、1875ねんには1人ひとりだけになっていた。

行政ぎょうせい

[編集へんしゅう]
キルヒャルトのまち役場やくば

議会ぎかい

[編集へんしゅう]

キルヒャルトの議会ぎかいは、17にん議員ぎいんからなる。議会ぎかいでは、これに首長しゅちょうくわわり議長ぎちょうつとめる。

ボックシャフト地区ちくには、議員ぎいんすう4からなる地区ちく議会ぎかい存在そんざいする。

紋章もんしょうはた

[編集へんしゅう]

図柄ずがら: 銀地ぎんじ水平すいへいかれたみどりえだ。そこから上向うわむきにみどりドングリまちはたは、みどりしろである。

キルヒャルトの紋章もんしょうえがかれたドングリは、おそらく、まち後半こうはん放牧ほうぼくもり意味いみする -hardtに由来ゆらいする。放牧ほうぼくとしてのもりでは、そこにちているドングリが家畜かちくえさとして有用ゆうようであった。この紋章もんしょうは、1769ねん印章いんしょうはじめてあらわれ、1901ねんいろさだめられた。はたは、1980ねん1がつ31にちにハイルブロンぐん当局とうきょく認可にんかた。[6]


文化ぶんか見所みどころ

[編集へんしゅう]

建築けんちく見所みどころ

[編集へんしゅう]
  • プロテスタント教会きょうかい
  • カトリックのせいエギディウス教会きょうかい
  • シリア正教会せいきょうかい
  • キルヒャルトの中心ちゅうしんにはルネサンス時代じだい農場のうじょうあとのいくつかの建築けんちくのこされている。そのなかには、ブルクゲルテンどおりの1578ねん住宅じゅうたくふくまれる。まちなかつらぬ連邦れんぽうどうB39号線ごうせん沿いには卓越たくえつした建築けんちく存在そんざいする。おおくの歴史れきしてき農場のうじょう建築けんちく旅館りょかんがあり、なかには18世紀せいきさかのぼ建物たてものもある。ハイルブロンどお沿いの、1839ねん建造けんぞうのカトリックのきゅう学校がっこう特徴とくちょうてき十字じゅうじがたまどがある建物たてものである。グロムバッハどおり1ばん建物たてもの特徴とくちょうてき木組きぐみの切妻きりづまゆうしている。
  • 1870ねんから71ねん出征しゅっせい兵士へいし名誉めいよたたえる戦争せんそう記念きねん

スポーツと余暇よか

[編集へんしゅう]

キルヒャルトには1925ねんから屋外おくがいプールがある。また、1974ねんには屋内おくないプールもつくられた。まち北東ほくとう「ケッテント」とばれる耕地こうちに、1976ねんから77ねんあたらしい競技きょうぎじょうが、アメリカぐん兵士へいし協力きょうりょく建設けんせつされた。

年中ねんじゅう行事ぎょうじ

[編集へんしゅう]

2ねんごとに、ボックシャフト地区ちくでキルヒャルト・ドルフフェスタ(むらまつり)が開催かいさいされている。

経済けいざい社会しゃかい資本しほん

[編集へんしゅう]

交通こうつう

[編集へんしゅう]

キルヒャルトは、アウトバーン A6号線ごうせん(インターチェンジは、ジンスハイム=シュタインスフルトおよびバート・ラッペナウを利用りようする)、および連邦れんぽうどうB39号線ごうせんのハイルブロン - ジンスハイムあいだ位置いちしている。最寄もよりのえきは、バート・ラッペナウ、ジンスハイム、およびエッピンゲンにあり、グロムバッハとゲンミンゲンにも停車ていしゃしょがある。ハイルブロンおよびカールスルーエの市電しでんであるクライヒガウ鉄道てつどうもゲンミンゲンをとおっている。

メディア

[編集へんしゅう]

キルヒャルトおよびその周辺しゅうへん地域ちいきのできごとは、日刊にっかんの Kraichgau Stimme(Heilbronner Stimmeの地方ちほうばん)および Rhein-Neckar-Zeitungに掲載けいさいされる。

経済けいざい

[編集へんしゅう]

キルヒャルトおよびそれにふくまれる地区ちくには、あらゆる職種しょくしゅおおくの中小ちゅうしょう企業きぎょう存在そんざいしている。ボックシャフト地区ちくには、小売こうりてんがない。

出典しゅってん脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ Statistisches Landesamt Baden-Württemberg – Bevölkerung nach Nationalität und Geschlecht am 31. Dezember 2022 (CSV-Datei)
  2. ^ Das Land Baden-Württemberg. Amtliche Beschreibung nach Kreisen und Gemeinden. Band IV: Regierungsbezirk Stuttgart, Regionalverbände Franken und Ostwürttemberg. Kohlhammer, Stuttgart 1980, ISBN 3-17-005708-1. S. 57–58
  3. ^ Quelle: キルヒャルトの統計とうけい (2007ねん12月25にち現在げんざい
  4. ^ むら名前なまえ Kyrih-Hart は、原典げんてんではハイフンで分離ぶんりきされている。ハイフンなしでのつづりは Kyrihart となる。
  5. ^ Gustav Neuwirthによれば、"Kyrih-Hart" = "Kyrihart" というむら名前なまえは Speßhart(キツツキのもり)とおな構造こうぞうで、Kürweihen(アカトビ (Rotmilan) のふる)であるという。(1978ねん
  6. ^ 紋章もんしょうはた」のこう出典しゅってん:
    Heinz Bardua: Die Kreis- und Gemeindewappen im Regierungsbezirk Stuttgart. Theiss, Stuttgart 1987, ISBN 3-8062-0801-8 (Kreis- und Gemeindewappen in Baden-Württemberg, 1). S. 84

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]