ギオン・ブルーフォード

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ギオン・ブルーフォード
NASA 宇宙うちゅう飛行ひこう
国籍こくせき アメリカじん
現況げんきょう 引退いんたい
生誕せいたん (1942-11-22) 1942ねん11月22にち(81さい
ペンシルベニアしゅうフィラデルフィア
職業しょくぎょう 戦闘せんとうパイロット、技術ぎじゅつしゃ
出身しゅっしんこう ペンシルベニア州立しゅうりつ大学だいがく, B.S. 1964
空軍くうぐん工科こうか大学だいがく, M.S. 1974, Ph.D. 1978
ヒューストン大学だいがくクリアレイクこう, MBA 1987
階級かいきゅう アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく空軍くうぐん大尉たいい
宇宙うちゅう滞在たいざい期間きかん 28にち16あいだ33ふん
選抜せんばつ試験しけん 1978 NASA Group 8
ミッション STS-8, STS-61-A, STS-39, STS-53
記章きしょう

ギオン・ブルーフォード(Guion Stewart Bluford Jr.、1942ねん11月22にち-)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく航空こうくう技術ぎじゅつしゃアメリカ空軍くうぐん戦闘せんとうパイロット、アメリカ航空こうくう宇宙うちゅうきょく宇宙うちゅう飛行ひこうであり、アフリカけいアメリカじんとしてはじめて[1]、アフリカ起源きげん人物じんぶつとしてキューバアルナルド・タマヨ・メンデスつづき2にん宇宙うちゅうおとずれた。宇宙うちゅう飛行ひこうになるまえにはアメリカ空軍くうぐん所属しょぞくしており、大尉たいいにまでなった。1983ねんから1992ねんにかけて4スペースシャトルのミッションに参加さんかした。

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ペンシルベニアしゅうフィラデルフィアまれ、1960ねんにオーバーブルック高校こうこう卒業そつぎょうした。1964ねんペンシルベニア州立しゅうりつ大学だいがく航空こうくう宇宙うちゅう工学こうがく学士がくしごう、1974ねん空軍くうぐん工科こうか大学だいがく航空こうくう宇宙うちゅう工学こうがく修士しゅうしごう、1978ねんどう大学だいがくレーザー物理ぶつりがくふく専攻せんこうとして航空こうくう宇宙うちゅう工学こうがく博士はかせごう、1987ねんヒューストン大学だいがくクリアレイクこう経営けいえい学修がくしゅう取得しゅとくした[2]。また、ペンシルベニア大学だいがくウォートン・スクールにもとおった。

趣味しゅみは、読書どくしょ水泳すいえい、ジョギング、ラケットボール、ハンドボール、スキューバダイビング、ゴルフである。1964ねんにLinda Tullと結婚けっこんし、ギオン3せいとジェームズの2人ふたり息子むすこがいる[3]

空軍くうぐんでのキャリア[編集へんしゅう]

ブルーフォードは、アリゾナしゅうウィリアムズ空軍くうぐん基地きちでパイロットの訓練くんれんけ、1966ねん1がつw:pilot wingsた。その、アリゾナしゅうフロリダしゅうF-4C搭乗とうじょう訓練くんれんけ、ベトナムカムランわんだい557教育きょういく飛行ひこうたい配属はいぞくされた。144かい出撃しゅつげきし、そのうち65かいベトナム民主みんしゅ共和きょうわこく上空じょうくうであった。

1967ねん7がつT-38A教官きょうかんとして、テキサスしゅうシェパード空軍くうぐん基地きちだい3630教育きょういく飛行ひこうたい配属はいぞくされた。1971ねんはじめには中隊ちゅうたいちょう士官しかん学校がっこう(w:Squadron Officer School)にとおった。1972ねん8がつオハイオしゅうライト・パターソン空軍くうぐん基地きち空軍くうぐん工科こうか大学だいがく入学にゅうがくし、1974ねん修士しゅうしごう卒業そつぎょうすると[4]どう空軍くうぐん基地きち空軍くうぐん飛行ひこうダイナミクス研究所けんきゅうじょ配属はいぞくされ、計算けいさん流体りゅうたい力学りきがく分野ぶんやでいくつか論文ろんぶんいた。

T-33T-37、T-38、F-4C、U-2/TR-1F-5A/Bひとし機体きたい搭乗とうじょうして、5,200あいだ飛行ひこう経験けいけんつ。そのうち1,300あいだは、教官きょうかんとしてT-38にった。また、連邦れんぽう航空局こうくうきょくのパイロットの免許めんきょつ。

NASAでのキャリア[編集へんしゅう]

ブルーフォードは、1979ねん8がつ[2]すうせんにん候補者こうほしゃなかからNASAの宇宙うちゅう飛行ひこうえらばれた。シャトル・アビオニクス統合とうごう施設しせつとFlight Systems Laboratory (FSL)で、宇宙うちゅうステーション運用うんようシャトル・リモート・マニピュレータ・システム(RMS)やスペースラブのシステムや実験じっけん、ペイロードの安全あんぜんせい飛行ひこうソフトウェアの評価ひょうかとう担当たんとうした。STS-8STS-61-ASTS-39STS-53にミッションスペシャリストとして参加さんかした[4]

最初さいしょのミッションのSTS-8では、1983ねん8がつ30にちにフロリダしゅうケネディ宇宙うちゅうセンターからげられた。これは、スペースシャトル・チャレンジャーの3度目どめ打上うちあげげで、夜間やかん打上うちあげと着陸ちゃくりくおこなはじめてのミッションであった。このミッションのあいだ乗組のりくみいんは、Indian National Satellite (INSAT-1B)を展開てんかいし、カナダ建造けんぞうしたロボットアーム(RMS)を試験しけんし、なま細胞さいぼうサンプルをもちいてContinuous Flow Electrophoresis System (CFES)を運用うんようし、宇宙うちゅう飛行ひこう生体せいたい生理学せいりがくてき効果こうか調しらべるための医学いがく測定そくていおこない、4つの"Getaway Special" キャニスターを起動きどうした。145あいだ地球ちきゅうを98しゅうし、1983ねん9がつ5にちにカリフォルニアしゅうエドワーズ空軍くうぐん基地きち着陸ちゃくりくした。

その、1985ねん10がつ30にちにSTS-61-Aでケネディ宇宙うちゅうセンターから宇宙うちゅうった。このミッションでは、1宇宙うちゅう飛行ひこうおこなった最多さいた人数にんずうである8にん登場とうじょうし、うち3にんはヨーロッパじんのペイロードスペシャリストであった。またこのかいは、ドイツ航空こうくう宇宙うちゅう研究所けんきゅうじょ指揮しきしたおこなわれたはじめてのスペースラブのミッションであり、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくがペイロードの制御せいぎょ他国たこくドイツ航空こうくう宇宙うちゅうセンター)にわたしたはじめての事例じれいとなった。このミッションでは、"Getaway Special"のキャニスターからGlobal Low Orbiting Message Relay Satellite (GLOMR)が放出ほうしゅつされ、スペースラブで流体りゅうたい物理ぶつりがく材料ざいりょう科学かがく生物せいぶつ科学かがく、ナビゲーションとうふくむ76の実験じっけんおこなわれた。169あいだ地球ちきゅうを111しゅうし、1985ねん11月6にちにエドワーズ空軍くうぐん基地きち着陸ちゃくりくした。

1991ねん4がつ28にちは、STS-39でケネディ宇宙うちゅうセンターからげられた。乗組のりくみいんは、AFP-675ペイロードをもちいて、オーロラ地球ちきゅうえんそら、スペースシャトルの環境かんきょうかんするデータを収集しゅうしゅうした。このペイロードには、Cryogenic Infrared Radiance Instrumentation for Shuttle (CIRRIS-1A) experiment、Far Ultraviolet Camera experiment (FAR UV)、Uniformly Redundant Array (URA)、Quadrupole Ion Neutral Mass Spectrometer (QINMS)、Horizon Ultraviolet Program (HUP)とうがあった。また、Infrared Background Signature Survey (IBSS)をんだSPAS-IIを展開てんかい回収かいしゅうした。199あいだ地球ちきゅうを134しゅうし、1991ねん5がつ6にちにケネディ宇宙うちゅうセンターに着陸ちゃくりくした。

最後さいごのミッションはSTS-53で、1992ねん12月2にちにケネディ宇宙うちゅうセンターからげられた。5にん乗組のりくみいんは、国防総省こくぼうそうしょうのペイロードを展開てんかいし、いくつかの軍事ぐんじ実験じっけんおこなった。175あいだ地球ちきゅうを115しゅうし、1992ねん12月9にちにエドワーズ空軍くうぐん基地きち着陸ちゃくりくした。4のミッションの合計ごうけいで、宇宙うちゅう滞在たいざい時間じかんは688あいだとなった。

コロラドしゅうモニュメントのボーイスカウトだい514分隊ぶんたいは、チャレンジャーごう爆発ばくはつ事故じこ爆発ばくはつした機体きたいせるためにアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国旗こっき提供ていきょうしていたが、この国旗こっき無傷むきずもどった(w:Challenger flag)。イーグルスカウトであったブルーフォードは、1986ねん12月にボーイスカウトだい514分隊ぶんたいにこのはた返還へんかんする使者ししゃ指名しめいされた。このとしの12月18にちファルコン空軍くうぐん基地きちおこなわれたセレモニーで、はた返還へんかんした。

NASA以降いこう[編集へんしゅう]

ブルーフォードは1993ねんにNASAをし、空軍くうぐん引退いんたいして、Nyma, Inc.のふく社長しゃちょう、1997ねん5がつにはFederal Data Corporationの航空こうくう宇宙うちゅう部門ぶもんふく社長しゃちょう、2000ねん10がつにはノースロップ・グラマン微小びしょう重力じゅうりょく研究けんきゅう開発かいはつ担当たんとうふく社長しゃちょうとなった。2002ねん9がつにノースロップ・グラマンからはなれ、オハイオしゅうクリーヴランド技術ぎじゅつコンサルタント会社かいしゃであるAerospace Technologyの社長しゃちょうとなった。

1997ねんw:International Space Hall of Fame、2010ねんw:United States Astronaut Hall of Fame[4]えらばれた。

2002ねん、アフリカ研究けんきゅうしゃモレフィ・ケテ・アサンテは、ブルーフォードを『100にん偉大いだいなアフリカけいアメリカじん』にえらんだ[5]。2006ねんには、母校ぼこうのペンシルベニア州立しゅうりつ大学だいがくから"Grand Marshal"にえらばれた[6]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ Launius, Roger D. (2004). Frontiers of Space Exploration. Greenwood Publishing Group. pp. 245. ISBN 9780313325243. https://books.google.com/books?id=evUP4glYmvEC&lpg=PA87&dq=bluford%20first%20space&pg=PA87#v=onepage&q=bluford%20first%20space&f=false 
  2. ^ a b NASA, Biographical Data, Guion S. Bluford Jr. (Colonel, USAF, Ret.) NASA Astronaut (former), (accessed May 1, 2013)
  3. ^ Guy Bluford: Biography from Answers.com”. 2019ねん9がつ13にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c Guion S. Bluford Jr. Biography from Who 2.com”. 2019ねん9がつ13にち閲覧えつらん
  5. ^ Asante, Molefi Kete (2002). 100 Greatest African Americans: A Biographical Encyclopedia. Amherst, New York: Prometheus Books. ISBN 1-57392-963-8 
  6. ^ Ranalli, Melanie (2006ねん9がつ19にち). “Penn State astronaut selected homecoming grand marshal”. Pennsylvania State University. 2012ねん3がつ6にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん6がつ5にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]