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サントメール (Saint-Omer )は、フランス 、オー=ド=フランス地域 ちいき 圏 けん 、パ=ド=カレー県 けん のコミューン 。
サントメールは、エール=シュル=ラ=リスから10km、県 けん 都 と アラス から80km離 はな れている。
歴史 れきし 的 てき にはアルトワ 地方 ちほう に属 ぞく し、フランドル 地方 ちほう 及 およ びフランドル・フランセーズ との境界 きょうかい に近 ちか い。カップ・エ・マレ・ドパル地域 ちいき 圏 けん 自然 しぜん 公園 こうえん と接 せっ している。コミューンを北東 ほくとう から南西 なんせい へ向 む け流 なが れるアー川 がわ は、グラヴリーヌ にて北海 ほっかい に注 そそ ぐ。最初 さいしょ の運河 うんが は1165年 ねん 、フランドル伯 はく ボードゥアン7世 せい 時代 じだい の工事 こうじ で完成 かんせい した。川 かわ はサントメールからグラヴリーヌ、そして海 うみ まで航行 こうこう 可能 かのう となり、中世 ちゅうせい のグラヴリーヌはサントメールの外港 がいこう の役割 やくわり を果 は たした。
北部 ほくぶ 郊外 こうがい には水路 すいろ 網 あみ が発達 はったつ しているユネスコ 生物 せいぶつ 圏 けん 保護 ほご 区 く とラムサール条約 じょうやく 登録 とうろく 地 ち のオードマロワ湿地 しっち (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) がある[1] [2] 。
道路 どうろ - A26 、県道 けんどう 642号線 ごうせん 、942号線 ごうせん 、943号線 ごうせん 。車 くるま を用 もち いればカレー 、ベテューヌ 、イープル から50kmである。
鉄道 てつどう - LGV北 きた 線 せん がサントメール駅 えき に通 つう じており、パリからの直行 ちょっこう で2時 じ 間 あいだ かかる。TER アラス-リール-カレーブローニュ=シュル=メール路線 ろせん も通 とお る。
サントメールとは、アウドマルス(Audomarus)に由来 ゆらい する。彼 かれ はクタンス 出身 しゅっしん でリュクセイユの修道 しゅうどう 士 し で、637年 ねん にテルアンヌの司教 しきょう となった。彼 かれ はサン=ベルタン修道院 しゅうどういん を建 た て、その周囲 しゅうい にまちが発展 はってん していった。彼 かれ は667年 ねん か668年 ねん に亡 な くなり、遺 のこ 灰 はい はテルアンヌからノートルダム教会 きょうかい へ移 うつ され、以後 いご 彼 かれ の名 な でコミューンは呼 よ ばれた。
18世紀 せいき のサントメール都市 とし 景観 けいかん を再現 さいげん した図 ず
サン=ベルタン修道院 しゅうどういん の廃墟 はいきょ 。1850年 ねん
サントメールの緑地 りょくち にあるフランス式 しき 庭園 ていえん 。ヴォーバンの城壁 じょうへき 跡 あと の下 した にある
ノートルダム教会 きょうかい
サントメールは7世紀 せいき 、シチュー(Sithiu、Sithieu、Sitdiu)の名 な で文筆 ぶんぴつ 家 か の書物 しょもつ の中 なか に現 あらわ れている。まちはアウドマルス指揮 しき のもとつくられたサン=ベルタン修道院 しゅうどういん の周 まわ りで成長 せいちょう していた。ベルタンとは、アウドマルスの同志 どうし として働 はたら いた者 もの の名 な である。10世紀 せいき から現在 げんざい のサントメールとなった。カール大帝 たいてい 時代 じだい には、海港 かいこう であったサントメールは海 うみ 側 がわ からの侵攻 しんこう にあっている。当時 とうじ 、海 うみ 側 がわ のフランドル地方 ちほう 都市 とし はカレーの一部 いちぶ も含 ふく め、まだ海 うみ の下 した にあった。
932年 ねん 、まちはフランドル伯 はく 領 りょう となった。12世紀 せいき から13世紀 せいき 、サントメールで織物 おりもの 産業 さんぎょう が花開 はなひら いた。大 おお いなる繁栄 はんえい の時代 じだい 、中世 ちゅうせい コミューン機関 きかん から恩恵 おんけい を受 う けた初期 しょき のまちであった。それはおそらく1070年代 ねんだい 初頭 しょとう である[3] 。これらの機関 きかん は自助 じじょ 団体 だんたい であり、兄弟 きょうだい 会 かい の形態 けいたい が常態 じょうたい 化 か され、商人 しょうにん 組合 くみあい がその後 ご 生 う まれた[4] 。これらのコミューンはフランドル伯 はく から3つの自由 じゆう を授 さづ けられた[5] 。その後 ご 、織物 おりもの 産業 さんぎょう 首位 しゅい の座 ざ をブルッヘ に明 あ け渡 わた すことになった。1165年 ねん からアー川 がわ をグラヴリーヌへ向 む けて掘 ほ った。泥 どろ の堆積 たいせき がサントメールの外港 がいこう で進行 しんこう していたからだった。11世紀 せいき から12世紀 せいき のサントメール商人 しょうにん たちは組合 くみあい を結成 けっせい した[6] 。
1212年 ねん のポンタ・ヴァンダン条約 じょうやく でフランドル伯 はく 領 りょう からアルトワ伯 はく 領 りょう となった。サントメールを取 と り戻 もど そうとしたフランドル伯 はく フェラン はブーヴィーヌの戦 たたか い で敗北 はいぼく した。その後 ご フランス化 か が始 はじ まり、公文書 こうぶんしょ はフランス語 ふらんすご で書 か かれ、フランドル語 ご (フラマン語 ご )は少 すく なくとも住民 じゅうみん の生 い きた言葉 ことば でなくなっていた。13世紀 せいき の年代 ねんだい 記 き 作家 さっか ギヨーム・ダンドレスは、当時 とうじ の商 しょう 取引 とりひき はフランドル語 ご だったと記 しる している。サントメールは低地 ていち 諸国 しょこく の広範囲 こうはんい の経済 けいざい 網 もう の中 なか にあったが、公式 こうしき には分離 ぶんり していた。1300年 ねん 頃 ごろ の人口 じんこう は400人 にん ほどに達 たっ していた[7] 。
1384年 ねん 、サントメールはブルゴーニュ公国 こうこく に組 く み込 こ まれた。ブルゴーニュ公 おおやけ 位 い はやがて神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい カール5世 せい が継承 けいしょう した。彼 かれ の退位 たいい 後 ご 、サントメールはスペイン支配 しはい 化 か の代官 だいかん 区 く となった。15世紀 せいき の疫病 えきびょう 流行 りゅうこう では1500人 にん の住民 じゅうみん の命 いのち が失 うしな われた。16世紀 せいき のカトリックによる対抗 たいこう 改革 かいかく により、サントメールの都市 とし 計画 けいかく は宗教 しゅうきょう 色 しょく が強 つよ められた。サントメールは、イングランドやワロン語 ご 地域 ちいき からの多 おお くのコレージュや神学校 しんがっこう 開設 かいせつ を歓迎 かんげい した。1559年 ねん から1790年 ねん までサントメールにはカトリックの司教 しきょう 座 ざ があったが、1801年 ねん にアラス司教 しきょう 座 ざ に移管 いかん された。1678年 ねん のナイメーヘンの和 わ 約 やく で、サントメールはフランスに割譲 かつじょう された。1678年 ねん 以後 いご 、ヴォーバン 指揮 しき のもとでサントメールの防衛 ぼうえい 設備 せつび 強化 きょうか が行 おこな われた。
1848年 ねん に鉄道 てつどう が敷 し かれたが、サントメールにまだ産業 さんぎょう 革命 かくめい は起 お きていなかった。広場 ひろば 、タウンホール、学校 がっこう が築 きず かれ、大通 おおどお り建設 けんせつ のため防衛 ぼうえい 設備 せつび が壊 こわ された。
2つの大戦 たいせん でサントメールは甚大 じんだい な被害 ひがい をこうむった。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん のナチス・ドイツのフランス侵攻 しんこう の過程 かてい では、1940年 ねん 5月24日 にち の夜 よる 、カレーを目指 めざ すドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん 装甲 そうこう 自動車 じどうしゃ 部隊 ぶたい により突破 とっぱ 、占領 せんりょう された[8] 。1942年 ねん 、ナチス・ドイツ はサントメールにコンクリート製 せい トーチカ を建設 けんせつ した。この設備 せつび はもともとV2ロケット 基地 きち として築 きず かれた。設備 せつび は連合 れんごう 国 こく 側 がわ の爆 ばく 撃 げき で破壊 はかい された。サントメールが解放 かいほう されたのは1944年 ねん 9月 がつ 5日 にち 、ポーランド軍 ぐん 第 だい 1装甲 そうこう 師団 しだん (fr )によってであった。
サントメール経済 けいざい は水 みず の周 まわ りで発展 はってん した。コミューン周囲 しゅうい に広 ひろ がるオドマロワ湿地 しっち は農業 のうぎょう や園芸 えんげい 農業 のうぎょう 、観光 かんこう 業 ぎょう の発展 はってん を支 ささ えてきた(特 とく にカリフラワー栽培 さいばい が有名 ゆうめい )。サントメールにはビール醸造 じょうぞう 所 しょ が点在 てんざい する。
サン=ベルタン修道院 しゅうどういん - ベネディクト会 かい 派 は によって建 た てられた。建物 たてもの は16世紀 せいき 完成 かんせい のゴシック様式 ようしき 。フランス革命 かくめい 時代 じだい 、修道 しゅうどう 士 し たちが追放 ついほう され、建物 たてもの は売却 ばいきゃく された。19世紀 せいき になって修道院 しゅうどういん 建物 たてもの の一部 いちぶ がタウンホール建設 けんせつ 資材 しざい として使 つか われた。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう の爆 ばく 撃 げき で崩壊 ほうかい し、現在 げんざい はわずかに壁 かべ が残 のこ る。
ノートルダム教会 きょうかい - 元々 もともと はコミューンの大 だい 広場 ひろば に面 めん した礼拝 れいはい 堂 どう だった。神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい カール5世 せい がテルアンヌを破壊 はかい 後 ご 、教会 きょうかい はカテドラルとなった。聖 せい アウドマルスの慰霊 いれい 碑 ひ 、ルーベンス 画 が の「十字架 じゅうじか から降 お ろされるキリスト」を所蔵 しょぞう する。
イエズス会 かい 礼拝 れいはい 堂 どう - 現在 げんざい はファサードのみ
^ “Marais Audomarois Biosphere Reserve, France ” (英語 えいご ). UNESCO (2019年 ねん 4月 がつ 11日 にち ). 2023年 ねん 4月 がつ 24日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “Le Marais audomarois | Ramsar Sites Information Service ”. rsis.ramsar.org (2017年 ねん 12月22日 にち ). 2023年 ねん 4月 がつ 24日 にち 閲覧 えつらん 。
^ André Chédeville, « Le mouvement communal en France aux XIe et XIIe siècles, ses éléments constitutifs et ses relations avec le pouvoir royal » in Robert Favreau, Régis Rech et Yves-Jean Riou (directeurs), Bonnes villes du Poitou et des pays charentais (XII-XVIII siècles) : Actes du colloque tenu à Saint-Jean-d’Angély les 24-25 septembre 1999 , publiés par la fr:Société des antiquaires de l'Ouest in Mémoires de la Société des antiquaires de l'Ouest et des Musées de Poitiers, 5e série, tome VIII (2002), à Poitiers. ISBN 2-9519441-0-1 , p 19
^ André Chédeville, Le mouvement communal en France... , p 13
^ André Chédeville, Le mouvement communal en France... , p 19
^ Traduits par M. Mollat dans Jacques Le Goff (dir.) , Histoire de la France urbaine II : La Ville médiévale , Seuil, 1980 , p. 128-129
^ Site internet de la ville de Saint-Omer[1]
^ 英 えい 本土 ほんど もドイツ軍 ぐん の射程 しゃてい 内 ない に(『大阪毎日新聞 おおさかまいにちしんぶん 』昭和 しょうわ 15年 ねん 5月 がつ 25日 にち )『昭和 しょうわ ニュース辞典 じてん 第 だい 7巻 かん 昭和 しょうわ 14年 ねん -昭和 しょうわ 16年 ねん 』p369