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サントメール (パ=ド=カレーけん)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
Saint-Omer


行政ぎょうせい
くに フランスの旗 フランス
地域ちいきけん (Région) オー=ド=フランス地域ちいきけん
けん (département) パ=ド=カレーけん
ぐん (arrondissement) サントメールぐん
小郡おごおり (canton) 小郡おごおりちょう所在地しょざいち
INSEEコード 62765
郵便ゆうびん番号ばんごう 62500
市長しちょう任期にんき ブリュノ・マニエ
2008ねん - 2014ねん
自治体じちたいあいだ連合れんごう (fr) fr:communauté d'agglomération de Saint-Omer
人口じんこう動態どうたい
人口じんこう 14 893にん
2009ねん
人口じんこう密度みつど 908にん/km2
住民じゅうみん呼称こしょう Audomarois
地理ちり
座標ざひょう 北緯ほくい5044ふん46びょう 東経とうけい215ふん42びょう / 北緯ほくい50.746111 東経とうけい2.261667 / 50.746111; 2.261667座標ざひょう: 北緯ほくい5044ふん46びょう 東経とうけい215ふん42びょう / 北緯ほくい50.746111 東経とうけい2.261667 / 50.746111; 2.261667
標高ひょうこう 平均へいきん:m
最低さいてい:0 m
最高さいこう:27 m
面積めんせき 16.4km2
Saint-Omerの位置(フランス内)
Saint-Omer
Saint-Omer
公式こうしきサイト http://www.ville-saint-omer.fr/
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サントメールSaint-Omer)は、フランスオー=ド=フランス地域ちいきけんパ=ド=カレーけんコミューン

地理ちり[編集へんしゅう]

サントメールは、エール=シュル=ラ=リスから10km、けんアラスから80kmはなれている。

歴史れきしてきにはアルトワ地方ちほうぞくし、フランドル地方ちほうおよフランドル・フランセーズとの境界きょうかいちかい。カップ・エ・マレ・ドパル地域ちいきけん自然しぜん公園こうえんせっしている。コミューンを北東ほくとうから南西なんせいながれるアーがわは、グラヴリーヌにて北海ほっかいそそぐ。最初さいしょ運河うんがは1165ねんフランドルはくボードゥアン7せい時代じだい工事こうじ完成かんせいした。かわはサントメールからグラヴリーヌ、そしてうみまで航行こうこう可能かのうとなり、中世ちゅうせいのグラヴリーヌはサントメールの外港がいこう役割やくわりたした。

北部ほくぶ郊外こうがいには水路すいろあみ発達はったつしているユネスコ生物せいぶつけん保護ほごラムサール条約じょうやく登録とうろくオードマロワ湿地しっちフランス語ふらんすごばんがある[1][2]

交通こうつう[編集へんしゅう]

  • 道路どうろ - A26県道けんどう642号線ごうせん、942号線ごうせん、943号線ごうせんくるまもちいればカレーベテューヌイープルから50kmである。
  • 鉄道てつどう - LGVきたせんがサントメールえきつうじており、パリからの直行ちょっこうで2あいだかかる。TERアラス-リール-カレーブローニュ=シュル=メール路線ろせんとおる。

語源ごげん[編集へんしゅう]

サントメールとは、アウドマルス(Audomarus)に由来ゆらいする。かれクタンス出身しゅっしんでリュクセイユの修道しゅうどうで、637ねんにテルアンヌの司教しきょうとなった。かれはサン=ベルタン修道院しゅうどういんて、その周囲しゅういにまちが発展はってんしていった。かれは667ねんか668ねんくなり、のこはいはテルアンヌからノートルダム教会きょうかいうつされ、以後いごかれでコミューンはばれた。

歴史れきし[編集へんしゅう]

18世紀せいきのサントメール都市とし景観けいかん再現さいげんした
サン=ベルタン修道院しゅうどういん廃墟はいきょ。1850ねん
サントメールの緑地りょくちにあるフランスしき庭園ていえん。ヴォーバンの城壁じょうへきあとしたにある
ノートルダム教会きょうかい

サントメールは7世紀せいき、シチュー(Sithiu、Sithieu、Sitdiu)の文筆ぶんぴつ書物しょもつなかあらわれている。まちはアウドマルス指揮しきのもとつくられたサン=ベルタン修道院しゅうどういんまわりで成長せいちょうしていた。ベルタンとは、アウドマルスの同志どうしとしてはたらいたものである。10世紀せいきから現在げんざいのサントメールとなった。カール大帝たいてい時代じだいには、海港かいこうであったサントメールはうみがわからの侵攻しんこうにあっている。当時とうじうみがわのフランドル地方ちほう都市としはカレーの一部いちぶふくめ、まだうみしたにあった。

932ねん、まちはフランドルはくりょうとなった。12世紀せいきから13世紀せいき、サントメールで織物おりもの産業さんぎょう花開はなひらいた。おおいなる繁栄はんえい時代じだい中世ちゅうせいコミューン機関きかんから恩恵おんけいけた初期しょきのまちであった。それはおそらく1070年代ねんだい初頭しょとうである[3]。これらの機関きかん自助じじょ団体だんたいであり、兄弟きょうだいかい形態けいたい常態じょうたいされ、商人しょうにん組合くみあいがそのまれた[4]。これらのコミューンはフランドルはくから3つの自由じゆうさづけられた[5]。その織物おりもの産業さんぎょう首位しゅいブルッヘわたすことになった。1165ねんからアーがわをグラヴリーヌへけてった。どろ堆積たいせきがサントメールの外港がいこう進行しんこうしていたからだった。11世紀せいきから12世紀せいきのサントメール商人しょうにんたちは組合くみあい結成けっせいした[6]

1212ねんのポンタ・ヴァンダン条約じょうやくでフランドルはくりょうからアルトワはくりょうとなった。サントメールをもどそうとしたフランドルはくフェランブーヴィーヌのたたか敗北はいぼくした。そのフランスはじまり、公文書こうぶんしょフランス語ふらんすごかれ、フランドルフラマン)はすくなくとも住民じゅうみんきた言葉ことばでなくなっていた。13世紀せいき年代ねんだい作家さっかギヨーム・ダンドレスは、当時とうじしょう取引とりひきはフランドルだったとしるしている。サントメールは低地ていち諸国しょこく広範囲こうはんい経済けいざいもうなかにあったが、公式こうしきには分離ぶんりしていた。1300ねんごろ人口じんこうは400にんほどにたっしていた[7]

1384ねん、サントメールはブルゴーニュ公国こうこくまれた。ブルゴーニュおおやけはやがて神聖しんせいローマ皇帝こうていカール5せい継承けいしょうした。かれ退位たいい、サントメールはスペイン支配しはい代官だいかんとなった。15世紀せいき疫病えきびょう流行りゅうこうでは1500にん住民じゅうみんいのちうしなわれた。16世紀せいきのカトリックによる対抗たいこう改革かいかくにより、サントメールの都市とし計画けいかく宗教しゅうきょうしょくつよめられた。サントメールは、イングランドやワロン地域ちいきからのおおくのコレージュや神学校しんがっこう開設かいせつ歓迎かんげいした。1559ねんから1790ねんまでサントメールにはカトリックの司教しきょうがあったが、1801ねんにアラス司教しきょう移管いかんされた。1678ねんナイメーヘンのやくで、サントメールはフランスに割譲かつじょうされた。1678ねん以後いごヴォーバン指揮しきのもとでサントメールの防衛ぼうえい設備せつび強化きょうかおこなわれた。

1848ねん鉄道てつどうかれたが、サントメールにまだ産業さんぎょう革命かくめいきていなかった。広場ひろば、タウンホール、学校がっこうきずかれ、大通おおどお建設けんせつのため防衛ぼうえい設備せつびこわされた。

2つの大戦たいせんでサントメールは甚大じんだい被害ひがいをこうむった。 だい世界せかい大戦たいせんナチス・ドイツのフランス侵攻しんこう過程かていでは、1940ねん5月24にちよる、カレーを目指めざドイツ国防こくぼうぐん装甲そうこう自動車じどうしゃ部隊ぶたいにより突破とっぱ占領せんりょうされた[8]。1942ねんナチス・ドイツはサントメールにコンクリートせいトーチカ建設けんせつした。この設備せつびはもともとV2ロケット基地きちとしてきずかれた。設備せつび連合れんごうこくがわばくげき破壊はかいされた。サントメールが解放かいほうされたのは1944ねん9がつ5にち、ポーランドぐんだい1装甲そうこう師団しだんfr)によってであった。

経済けいざい[編集へんしゅう]

サントメール経済けいざいみずまわりで発展はってんした。コミューン周囲しゅういひろがるオドマロワ湿地しっち農業のうぎょう園芸えんげい農業のうぎょう観光かんこうぎょう発展はってんささえてきた(とくにカリフラワー栽培さいばい有名ゆうめい)。サントメールにはビール醸造じょうぞうしょ点在てんざいする。

史跡しせき[編集へんしゅう]

  • サン=ベルタン修道院しゅうどういん - ベネディクトかいによっててられた。建物たてものは16世紀せいき完成かんせいゴシック様式ようしきフランス革命かくめい時代じだい修道しゅうどうたちが追放ついほうされ、建物たてもの売却ばいきゃくされた。19世紀せいきになって修道院しゅうどういん建物たてもの一部いちぶがタウンホール建設けんせつ資材しざいとして使つかわれた。だい世界せかい大戦たいせんちゅうばくげき崩壊ほうかいし、現在げんざいはわずかにかべのこる。
  • ノートルダム教会きょうかい - 元々もともとはコミューンのだい広場ひろばめんした礼拝れいはいどうだった。神聖しんせいローマ皇帝こうていカール5せいがテルアンヌを破壊はかい教会きょうかいはカテドラルとなった。せいアウドマルスの慰霊いれいルーベンスの「十字架じゅうじかからろされるキリスト」を所蔵しょぞうする。
  • イエズスかい礼拝れいはいどう - 現在げんざいはファサードのみ

出身しゅっしんしゃ[編集へんしゅう]

姉妹しまい都市とし[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Marais Audomarois Biosphere Reserve, France” (英語えいご). UNESCO (2019ねん4がつ11にち). 2023ねん4がつ24にち閲覧えつらん
  2. ^ Le Marais audomarois | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (2017ねん12月22にち). 2023ねん4がつ24にち閲覧えつらん
  3. ^ André Chédeville, « Le mouvement communal en France aux XIe et XIIe siècles, ses éléments constitutifs et ses relations avec le pouvoir royal » in Robert Favreau, Régis Rech et Yves-Jean Riou (directeurs), Bonnes villes du Poitou et des pays charentais (XII-XVIII siècles) : Actes du colloque tenu à Saint-Jean-d’Angély les 24-25 septembre 1999, publiés par la fr:Société des antiquaires de l'Ouest in Mémoires de la Société des antiquaires de l'Ouest et des Musées de Poitiers, 5e série, tome VIII (2002), à Poitiers. ISBN 2-9519441-0-1, p 19
  4. ^ André Chédeville, Le mouvement communal en France..., p 13
  5. ^ André Chédeville, Le mouvement communal en France..., p 19
  6. ^ Traduits par M. Mollat dans Jacques Le Goff (dir.), Histoire de la France urbaine II : La Ville médiévale, Seuil,‎ , p. 128-129
  7. ^ Site internet de la ville de Saint-Omer[1]
  8. ^ えい本土ほんどもドイツぐん射程しゃていないに(『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん昭和しょうわ15ねん5がつ25にち)『昭和しょうわニュース辞典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん』p369