サーラシ・フェレンツ (ハンガリー語 ご : Szálasi Ferenc , ハンガリー語 ご 発音 はつおん : [ˈsaːlɒʃi ˈfɛrɛnt͡s] , 1897年 ねん 1月 がつ 6日 にち - 1946年 ねん 3月12日 にち )は、ハンガリー の政治 せいじ 家 か 。ハンガリーのファシスト 組織 そしき 、矢 や 十 じゅう 字 じ 党 とう の指導 しどう 者 しゃ 。本姓 ほんせい はサロスヤン(Salosjan)。
カッサ(現在 げんざい のスロヴァキア・コシツェ )出身 しゅっしん 。父親 ちちおや はドイツ系 けい で、曾祖父 そうそふ はアルメニア系 けい 。
1915年 ねん 、ウィーナー・ノイシュタット の士官 しかん 学校 がっこう を卒業 そつぎょう 。中尉 ちゅうい に任官 にんかん しオーストリア・ハンガリー帝国 ていこく 軍 ぐん に入隊 にゅうたい 後 ご は第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に従軍 じゅうぐん し、戦後 せんご は新 あら たに創設 そうせつ されたハンガリー軍 ぐん に所属 しょぞく した。
1925年 ねん 4月 がつ から参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 勤務 きんむ 。
1930年 ねん 、秘密 ひみつ 組織 そしき ・ハンガリー生活 せいかつ 同盟 どうめい に入 はい り、その主要 しゅよう 指導 しどう 者 しゃ の1人 ひとり となった。
1933年 ねん に少佐 しょうさ に昇進 しょうしん し、同 どう 時期 じき に民族 みんぞく 主義 しゅぎ に傾倒 けいとう し、トリアノン条約 じょうやく で失 うしな った旧 きゅう 領土 りょうど の回復 かいふく を主張 しゅちょう するようになった。
ドイツを旅行 りょこう 中 ちゅう のサーラシとギゼラ
1935年 ねん 、中佐 ちゅうさ で退役 たいえき し、民族 みんぞく 主義 しゅぎ 政党 せいとう ・国民 こくみん の意思 いし 党 とう を創設 そうせつ 。しかし、過激 かげき な民族 みんぞく 主義 しゅぎ 思想 しそう を危険 きけん 視 し したハンガリー政府 せいふ により1937年 ねん 4月 がつ に活動 かつどう を禁止 きんし され、同年 どうねん にハンガリー国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 党 とう (英語 えいご 版 ばん ) を結成 けっせい した。ハンガリー国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 党 とう は反 はん ユダヤ主義 しゅぎ を掲 かか げ、下層 かそう 階級 かいきゅう の支持 しじ を集 あつ め勢力 せいりょく を拡大 かくだい していった。
1938年 ねん 3月、アンシュルス 以降 いこう のハンガリー国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 党 とう の急進 きゅうしん 化 か によるファシズム の浸透 しんとう を危険 きけん 視 し したハンガリー政府 せいふ によりサーラシは逮捕 たいほ された。逮捕 たいほ 後 ご もサーラシは党 とう における影響 えいきょう 力 りょく を維持 いじ し、1939年 ねん に党名 とうめい を変更 へんこう した矢 や 十 じゅう 字 じ 党 とう の党首 とうしゅ となった。矢 や 十 じゅう 字 じ 党 とう は同年 どうねん に行 おこな われた選挙 せんきょ で30議席 ぎせき を獲得 かくとく したが、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 勃発 ぼっぱつ 後 ご に活動 かつどう を禁止 きんし された。
1940年 ねん 9月、第 だい 二 に 次 じ ウィーン裁定 さいてい 締結 ていけつ 後 ご の恩赦 おんしゃ によりサーラシは釈放 しゃくほう され、以降 いこう はナチス・ドイツ の後 うし ろ盾 たて を得 え て活動 かつどう するようになった。
パンツァーファウスト作戦 さくせん [ 編集 へんしゅう ]
1944年 ねん 3月19日 にち 、同盟 どうめい 国 こく であるハンガリーの離反 りはん を恐 おそ れたドイツはマルガレーテ作戦 さくせん によりハンガリーを占領 せんりょう し、親 しん 独 どく 派 は のストーヤイ・デメ が首相 しゅしょう に任命 にんめい された。ストーヤイ政権 せいけん 成立 せいりつ に伴 ともな い矢 や 十 じゅう 字 じ 党 とう は合法 ごうほう 化 か されるが、8月 がつ にストーヤイが罷免 ひめん されると、連合 れんごう 国 こく との和平 わへい を模索 もさく する摂政 せっしょう (英語 えいご 版 ばん ) ホルティ・ミクローシュ は再 ふたた びサーラシの逮捕 たいほ を命 めい じた。ドイツはホルティを失脚 しっきゃく させるため10月 がつ 15日 にち にパンツァーファウスト作戦 さくせん を発動 はつどう し、矢 や 十 じゅう 字 じ 党 とう は郵便 ゆうびん 局 きょく 、駅 えき 、ラジオ局 きょく を占拠 せんきょ し、ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん は摂政 せっしょう 宮殿 きゅうでん を占領 せんりょう した。10月16日 にち 、ホルティが摂政 せっしょう を退任 たいにん 。サーラシは国民 こくみん 統一 とういつ 政府 せいふ を樹立 じゅりつ し、総統 そうとう (国民 こくみん 指導 しどう 者 しゃ )[1] 及 およ び首相 しゅしょう に就任 しゅうにん 。11月4日 にち にはベレグフィ・カーロイ 、ライニシュ・フェレンツ (英語 えいご 版 ばん ) 、チア・シャーンドル (ハンガリー語 ご 版 ばん ) から成 な る摂政 せっしょう 評議 ひょうぎ 会 かい の創設 そうせつ を布告 ふこく した。これによりサーラシはハンガリーの実権 じっけん を掌握 しょうあく したが、彼 かれ が統治 とうち する範囲 はんい はドイツ占領 せんりょう 地 ち のみに限 かぎ られた。
総統 そうとう (国民 こくみん 指導 しどう 者 しゃ )[ 編集 へんしゅう ]
1944年 ねん 10月 がつ 、ブダ宮殿 きゅうでん (摂政 せっしょう 宮殿 きゅうでん ) に入 はい るサーラシ
政権 せいけん 掌握 しょうあく 後 ご 、サーラシはドイツの反 はん ユダヤ政策 せいさく に協力 きょうりょく し、国内 こくない に居住 きょじゅう する10万 まん 〜15万 まん 人 にん のユダヤ人 じん を殺害 さつがい し、8万 まん 人 にん のユダヤ人 じん をアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に移送 いそう した。また、ドイツ軍 ぐん に協力 きょうりょく しソビエト連邦 れんぽう との戦 たたか いのため総動員 そうどういん を布告 ふこく し、工業 こうぎょう ・農業 のうぎょう 資源 しげん をドイツ軍 ぐん に提供 ていきょう し、老人 ろうじん や少年 しょうねん を徴兵 ちょうへい し赤軍 せきぐん との戦闘 せんとう を継続 けいぞく した。その一方 いっぽう で、サーラシは政治 せいじ 思想 しそう をまとめた著作 ちょさく の執筆 しっぴつ や国内 こくない の視察 しさつ に明 あ け暮 く れたため、政務 せいむ の大半 たいはん は副 ふく 首相 しゅしょう のセッレーシ・イエネー (ハンガリー語 ご 版 ばん ) が代行 だいこう した[2] 。
しかし、サーラシが政権 せいけん を掌握 しょうあく した時点 じてん でハンガリーの大半 たいはん はソ連 それん 軍 ぐん に占領 せんりょう されており、10月29日 にち にはソ連 それん 軍 ぐん ・ルーマニア 軍 ぐん がブダペスト攻勢 こうせい を開始 かいし した。ドイツ・ハンガリー軍 ぐん は劣勢 れっせい に立 た たされ、サーラシは12月9日 にち にソンバトヘイ に脱出 だっしゅつ した。サーラシら指導 しどう 者 しゃ は3月 がつ にはウィーン に脱出 だっしゅつ し、3月27日 にち に国民 こくみん 統一 とういつ 政府 せいふ は事実 じじつ 上 じょう 崩壊 ほうかい した。4月にウィーン攻勢 こうせい が開始 かいし されると、サーラシはミュンヘン に脱出 だっしゅつ した[3] 。脱出 だっしゅつ 後 ご の4月 がつ 29日 にち 、長年 ながねん 交際 こうさい していたルッツ・ギゼラ (英語 えいご 版 ばん ) と結婚 けっこん した。
1945年 ねん 5月6日 にち 、ザルツブルク でアメリカ軍 ぐん に投降 とうこう し、10月3日 にち にハンガリーに送還 そうかん された[4] 。
1946年 ねん 2月 がつ 5日 にち 、リスト・フェレンツ音楽 おんがく 大学 だいがく において戦争 せんそう 犯罪 はんざい と反乱 はんらん の罪 つみ で人民 じんみん 裁判 さいばん に掛 か けられ、死刑 しけい 判決 はんけつ をい渡 いわた され、3月12日 にち に政府 せいふ 幹部 かんぶ と共 とも に絞首刑 こうしゅけい が執行 しっこう された。
埋葬 まいそう 地 ち は不明 ふめい になっており、2008年 ねん に歴史 れきし 家 か のコバチ・トマーシュは、ハンガリー国家 こっか 警察 けいさつ ・国家 こっか 保衛 やすえ 部 ぶ がサーラシを「ルカーチ・フェレンツ」としてブダペスト新 しん 公共 こうきょう 墓地 ぼち (英語 えいご 版 ばん ) に埋葬 まいそう したと主張 しゅちょう したが、他 た の歴史 れきし 家 か からは「明確 めいかく な史料 しりょう が提示 ていじ されていない」として否定 ひてい されている[5] 。
^ ハンガリー語 ご の nemzetvezető [ˈnemzɛtˌvɛzetøː] 「ネムゼトヴェゼテー」はヒトラーの Führer やムッソリーニの duce という称号 しょうごう に倣 なら って造語 ぞうご された。
^ Stanley G. Payne, A history of fascism, 1914-1945 , Routledge, 1996, page 420
^ Thomas, The Royal Hungarian Army in World war II , p. 24
^ Gosztonyi, Péter (1992) (Hungarian). A Magyar Honvédség a második világháborúban (2nd ed.). Budapest: Európa Könyvkiadó. pp. 275–276. ISBN 963-07-5386-3
^ Nemzeti emlékhelyen nyugszik Szálasi? – FigyelőNet, 2008-02-08.
全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 人物 じんぶつ その他 た