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シェイク・サイード

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シェイク・サイード
げん地名ちめい:
شبه جزيرة الشيخ سعيد
対岸たいがんペリムとうとシェイク・サイードが位置いちするバブ・エル・マンデブ海峡かいきょう衛星えいせい写真しゃしん
シェイク・サイードの位置(イエメン内)
シェイク・サイード
シェイク・サイード
イエメン、シェイク・サイード
シェイク・サイードの位置(アラブ世界内)
シェイク・サイード
シェイク・サイード
シェイク・サイード (アラブ世界せかい)
地理ちり
場所ばしょ アラビア半島はんとう
座標ざひょう 北緯ほくい1244ふん04びょう 東経とうけい4330ふん19びょう / 北緯ほくい12.73444 東経とうけい43.50528 / 12.73444; 43.50528座標ざひょう: 北緯ほくい1244ふん04びょう 東経とうけい4330ふん19びょう / 北緯ほくい12.73444 東経とうけい43.50528 / 12.73444; 43.50528
隣接りんせつ水域すいいき バブ・エル・マンデブ海峡かいきょう
くに
けん タイズけん
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シェイク・サイードフランス語ふらんすご:Cheikh Saïd、Cheik-Saïd[注釈ちゅうしゃく 1], Shaykh Sa'īd)は、イエメン南西なんせい半島はんとうであり、対岸たいがんにはペリムとうがある。シェイク・サイードはバブ・エル・マンデブ海峡かいきょうめんしている。

フランスの定期ていき刊行かんこうぶつであるラデペシュコロニアル(1919ねん5がつ23にちごう)の地理ちりてきサービスによって作成さくせいされたシェイク・サイードの地図ちず

1920ねんに、シェイク・サイードは「重要じゅうよう電信でんしんきょくのある上陸じょうりく場所ばしょとしてすぐれた場所ばしょ」とひょうされた[1]おそくとも1970ねんには『プチ・ラルース』は「1868ねんから1936ねんまでのフランスの植民しょくみん」であると説明せつめいしていたが、フランスはそれについて正式せいしき管轄かんかつけん主権しゅけん主張しゅちょうしたことはない。

1868ねん地元じもとシェイクからくに購入こうにゅうしたマルセイユのラボー・バザンしゃは1870ねん貿易ぼうえき拠点きょてん設立せつりつしようとしたが、当時とうじイエメン支配しはいしていたオスマン帝国ていこく反感はんかんい、1871ねんまつ土地とちへの権利けんり維持いじしながらも、このから撤退てったいした。そのフランスではシェイク・サイードが歴史れきし地理ちり地図ちずちょう教科書きょうかしょ、さらには辞書じしょにフランスの植民しょくみんであるか、フランスの植民しょくみんであったと記述きじゅつされていたが、実際じっさいには、併合へいごうしたり占領せんりょうしたりすることはなく、この領土りょうどとして主張しゅちょうすることさえなかった。しかし、ブルーノ・フリニーフランス語ふらんすごばん著書ちょしょTour du monde des terres françaises oubliées言及げんきゅうしているように、ラボー・バザンしゃがフランスへ権利けんり譲渡じょうとしたことは特筆とくひつあたいする。

地名ちめい[編集へんしゅう]

シェイク・サイードという地名ちめい半島はんとうみさき位置いちする、過去かこ崇拝すうはいされていたシェイクの、質素しっそはか[注釈ちゅうしゃく 2]由来ゆらいする。1870ねん、ラボー・バザンしゃがこのみさきちかくに貿易ぼうえき拠点きょてん設立せつりつしようとこころみたとき以前いぜん一般いっぱんてきにバブ・エル・マンデブ半島はんとうばれていた半島はんとうに、シェイク・サイード半島はんとう名付なづけた。現代げんだいのイエメンの地図ちずにはこの半島はんとうがラス・メンヘリとかれているが、の2つの呼称こしょう引続ひきつづ使用しようされている。

地理ちりてき特性とくせい[編集へんしゅう]

シェイク・サイードの高台たかだいよりのぞペリムとう

シェイク・サイード半島はんとう先端せんたんには火山かざんせいの6つのおか存在そんざいし、そのなかもっとたかいジェベル・メンヘリ(Jebel Menheli)は海抜かいばつ264メートルである。 これらのおか不毛ふもう地味じみすなサンゴ起源きげんとする石灰せっかいしつ堆積たいせきぶつかたまったもので形成けいせいされている。海岸かいがんからはなれるとふたつの山地さんちがあり、ひとつは19世紀せいき旅行りょこうしゃにより説明せつめいされている。「けわしい山々やまやま頂点ちょうてんするどく、けている、またはギザギザで、ほっそりとしたはりのようなものもある。こうしたはりのような山々やまやまは、ときとして様々さまざまなサイズのいわ点在てんざいするふかたにへだてられている」[2]。こうした概観がいかんはシェイク・サイードの風景ふうけい月面げつめんのような印象いんしょうあたえる。シェイク・サイード半島はんとうは、さまざまな距離きょりみさきいわおおわれた支脈しみゃくうみている。シェイク・サイードの海岸かいがんはこうした突出とっしゅつによりちいさくあさわん形成けいせいされている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

古代こだい[編集へんしゅう]

エリュトゥラーうみ案内あんない』やその資料しりょう言及げんきゅうされているオクリス(Océlis)というみなと現在げんざいのバブ・エル・マンダブ海峡かいきょう位置いちしていたとみられ、おそらく現在げんざいのシェイク・サイードのコール・ゴレララグーン付近ふきんむらがオクリスであったとおもわれる。古代こだいみなみアラビアつづられた碑文ひぶん言及げんきゅうされているマバダン(Maddabân)という地名ちめいも、この地域ちいきであるとおもわれる。マバダンは貿易ぼうえき拠点きょてんというより、たんなる停泊ていはく補給ほきゅう基地きちといったものであった。バブ・エル・マンダブ近海きんかい貿易ぼうえきは、おもにシェイク・サイードからちかい、現在げんざいではモカばれているムーサみなと独占どくせんてきおこなわれていた。1835ねんにこのおとずれた測量そくりょう探検たんけんジェームス・レイモンド・ウェルステッド英語えいごばんは、この地域ちいき古代こだいから居住きょじゅうされてきたという証拠しょうこつけられなかった[3]

近代きんだい[編集へんしゅう]

フランスの植民しょくみん建設けんせつへのこころ[編集へんしゅう]

1840ねんから1860ねんあいだ、フランスは紅海こうかいのアフリカがわマッサワ以南いなんアンフィラわん英語えいごばんイディズラ現地げんち部族ぶぞくから購入こうにゅうし、植民しょくみんつくることをこころみてきたが、これらの購入こうにゅう無意味むいみだった[4]。1860ねんにははん公式こうしき任務にんむちゅうであったスタニスラス・ラッセルフランス語ふらんすごばんティグレラス英語えいごばんと、アドゥリスわんとデッシとう購入こうにゅうかんする条約じょうやく締結ていけつしたが、これも最終さいしゅうてきにフランスは批准ひじゅんしなかった。

1883ねんのアルフレ・ラボー。

フランスは植民しょくみん建設けんせつ紅海こうかいのアフリカがわにきずきあげることを計画けいかくつづけてきたが、1868ねん3がつアデンバブ・エル・マンデブ海峡かいきょうあいだ居住きょじゅうする部族ぶぞくシェイクであったアブドゥッラー・ビン・ムルシンが、フランスが地域ちいき保護ほごする見返みかえりにアブドゥッラーの領地りょうちなか位置いちするコール・アムランこうなどにイギリスアデン設立せつりつした拠点きょてん同様どうようもの設置せっちすることを、アデンのフランス領事りょうじ提案ていあんする手紙てがみおくった。 みなと確認かくにんすることを担当たんとうすることとなったフリゲふりげト艦とかんミネルヴァ指揮しきかんであったシャイレは、このみなと中規模ちゅうきぼ船舶せんぱくでさえも接近せっきん危険きけんであり、さらにイギリス影響えいきょうかれているアデン隣接りんせつするこのへの保護ほごりょう設立せつりつ無数むすうあらそいのみなもととなるにもかかわらず、なんの利益りえきもないということを強調きょうちょうして報告ほうこくした。そのため、フランスがこの提案ていあんけることはなかった[5][6]すうねんオスマン帝国ていこく宗主そうしゅから独立どくりつったアケミスぞくシェイク、アリー・タバト・ドーレインはアデン滞在たいざいするボナバンチュール・マスという、ザンジバルのマルセイユ企業きぎょうヴィダル・フレールの代理人だいりにん貿易ぼうえき拠点きょてん建設けんせつのためにシェイク・サイード半島はんとう購入こうにゅうすることをちかけた。 当時とうじスエズ運河うんが開通かいつうちかづいてきており、紅海こうかいくち位置いちするバブ・エル・マンデブ海峡かいきょうのシェイク・サイード半島はんとう購入こうにゅうすることはマスにとって非常ひじょう魅力みりょくてきだった。 資金しきん不足ふそくしていたマスは、スエズ運河うんが会社かいしゃもと社員しゃいんで、マルセイユのべつ商社しょうしゃであるアデン・デュ・ラボー・フレールしゃのテオドール・ポイライと協力きょうりょくし、1868ねん10がつ1にち、「バブ・エル・マンデブ海峡かいきょうからすべての方向ほうこうに6あいだあるいた、シェイク・サイードとばれる領域りょういき」を租借そしゃくし、6ヶ月かげつあいだ契約けいやく期間きかん満了まんりょうに80000ターラーやく425000フラン)を支払しはら契約けいやく締結ていけつした。売買ばいばい契約けいやく隣接りんせつする地域ちいき居住きょじゅうする部族ぶぞく主要しゅような7にんシェイク出席しゅっせきしたつくられ、そのときのアデンのフランス領事りょうじであったバロン・デュ・クレチーに公認こうにんされた。 マスからの出資しゅっしきんをシェイクサイードから回収かいしゅうするために、ポイライはフランスにもどり、ラボーしゃ代表だいひょうとして、フレデリック・ヴァン・デン・ブロークとともナポレオン3せい側近そっきんから援助えんじょけた。そのポイライはアルフレ・ラボーに事業じぎょう提案ていあんした[注釈ちゅうしゃく 3]かれ兄弟きょうだいであったエドュアールは、マックス・バザンとオーギュスト・バザンの兄弟きょうだいちからわせて、探検たんけんることを決定けっていした[7]

バブ・エル・マンデブ海峡かいきょうとシェイク・サイードの地図ちず

1868ねん11月6にち、バザンとラボーのりょう兄弟きょうだい、フレデリック・ヴァン・デン・ブロークは、資本しほんきん100000フランをかきあつめ、「バブ・エル・マンデブ地域ちいき研究けんきゅうかい」を結成けっせいした。研究けんきゅうかいは10月1にちれたシェイク・サイードの権利けんり利用りようすることを担当たんとうした。しん会社かいしゃ設立せつりつ趣意しゅいしょ付随ふずいする地図ちずじょうでは、契約けいやくの「すべての方向ほうこうに6あいだあるいた、シェイク・サイードとばれる領域りょういき」という定義ていぎは、165000ヘクタールをかこ半径はんけい42kmの領域りょういき」と変更へんこうされた。貿易ぼうえき拠点きょてんとなる商館しょうかんくわえて[8]、シェイク・サイード半島はんとう内陸ないりくんだラグーンの港湾こうわん冬季とうきモンスーンよんヶ月かげつあいだえきれないため、シェイク・サイードを利用りようする計画けいかくためには堤防ていぼう建設けんせつ必要ひつようとなった。

シェイク・サイードのコール・ゴレララグーン。

発起人ほっきにんたちはシェイク・サイードがもっと素晴すばらしい商業しょうぎょうこうとなり、地域ちいきしゅ要港ようこうとしての地位ちいで、アデンにってわる「あらたなマルセイユ」となれるとかんがえて、シェイク・サイードについて様々さまざまなことをべた。 「淡水たんすい十分じゅうぶん豊富ほうふで、木材もくざい食料しょくりょう簡単かんたんれることができる。シェイク・サイードには農業のうぎょう植民しょくみん繁栄はんえいするだろう。蒸気じょうき機関きかん使用しようできる石炭せきたん地面じめんから露出ろしゅつしている」[9][10]実際じっさいのシェイク・サイードは火山かざんせいいわおおわれた起伏きふくはげしい半島はんとうで、農業のうぎょうにはてきさない。 アンリ・ド・モンフレイが1914ねんいちがつにこのおとずれたさいには、くら描写びょうしゃがなされている。「海岸かいがんから4キロ以上いじょうにはしおやマグネシウムをふくんだもの以外いがいみずつからない。付近ふきんにはくさえておらず、うしもいない。人口じんこうは250にんほどの漁民ぎょみん減少げんしょうしており、半島はんとう内陸ないりくんだラグーンの海岸かいがん付近ふきんのあばら居住きょじゅうしている。さかなはとても豊富ほうふである」。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 20世紀せいき後半こうはんもっともよく使つかわれたつづりである。
  2. ^ 1914ねんにこのったアンリ・ド・モンフレイは、航海こうかい日誌にっしで「内部ないぶにムハンマドのはたけられた、わらでできたあばら」と説明せつめいしている。
  3. ^ アルフレはザンジバルひがしアフリカの沿岸えんがん滞在たいざいしたことがあり、アデンバブ・エル・マンデブ海峡かいきょうについてもよくっていた。アルフレはマスとポイライに購入こうにゅううながした可能かのうせいがある。1885ねんぬまでのあいだ、アルフレはシェイクサイード関連かんれん事業じぎょう主導しゅどうけんにぎつづけた。アルフレのしんはシェイクサイードににぎられており、商業しょうぎょうてき愛国あいこくてき判断はんだんあらわれていた。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ Prothero, G.W. (1920). Arabia. London: H.M. Stationery Office. p. 75. http://www.wdl.org/en/item/11767/view/1/75/ 
  2. ^ Jules Carrey, « La France et la mer Rouge », Revue scientifique, no 25, 1er semestre, 21 juin 1884, p. 771.
  3. ^ [[{{{1}}}]] - [[ノート:{{{1}}}|ノート]]
  4. ^ Simon Imbert-Vier, Frontières et limites à Djibouti durant la période coloniale (1884-1977), Université de Provence - Aix-Marseille I, 2008, p. 48-49.
  5. ^ Georges Douin, Histoire du règne du Khédive Ismaël, tome III, 2e partie, 1938, Le Caire, page 210.
  6. ^ Gérard Arboit, Aux sources de la politique arabe de la France. Le Second Empire au Machreck, Paris, L’Harmattan, 2000, p. 275.
  7. ^ Douin, p. 211.
  8. ^ (vieilli) Agence ou comptoir d'un établissement commercial à l'étranger (surtout aux colonies). Le Nouveau Petit Robert (1993).
  9. ^ Paul Armand, « Les intérêts français et italiens dans la mer Rouge », Bulletin de la Société de géographie de Marseille, 1878, vol. 2, p. 367.
  10. ^ Marcel Emerit, « Le premier projet d'établissement français sur la Côte des Somalis », Revue française d’histoire d’outre-mer, 1963, volume 50, no 179, p. 195-196.

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]