ジャッキー佐藤さとう

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ジャッキー佐藤さとう
プロフィール
リングネーム 佐藤さとう 尚子しょうこ
ジャッキー佐藤さとう
本名ほんみょう 佐藤さとう 尚子しょうこ
ニックネーム ジャッキー
なおちゃん
なお
身長しんちょう 173cm
体重たいじゅう 68kg
誕生たんじょう (1957-10-30) 1957ねん10月30にち
死亡しぼう (1999-08-09) 1999ねん8がつ9にち(41さいぼつ
出身しゅっしん 神奈川かながわけん横浜よこはま港南こうなん
所属しょぞく 全日本ぜんにほん女子じょしプロレス
レオプロダクション
ジャパン女子じょしプロレス
スポーツれき バスケットボール
トレーナー 清見きよみげん
デビュー 1975ねん4がつ27にち
引退いんたい 1988ねん3がつ20日はつか
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ジャッキー佐藤さとう(ジャッキーさとう、1957ねん10月30にち - 1999ねん8がつ9にち)は、日本にっぽん女子じょしプロレスラー本名ほんみょう佐藤さとう 尚子しょうこ(さとう なおこ)神奈川かながわけん横浜よこはま港南こうなん出身しゅっしん

経歴けいれき[編集へんしゅう]

出生しゅっしょう体重たいじゅうは3900g。川崎かわさきたてさくらほん小学校しょうがっこう横浜よこはま立浜たちはま中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょう小学生しょうがくせいから長身ちょうしんで、中学ちゅうがくではバスケットボール活躍かつやくインターハイへの出場しゅつじょうやバスケットボール実業じつぎょうだんからスカウトもあったが、1975ねん3がつ神奈川かながわ県立けんりつ商工しょうこう高等こうとう学校がっこうを2ねん中退ちゅうたい家出いえで。その全日本ぜんにほん女子じょしプロレス入門にゅうもん。デビューせん同年どうねん1975ねん4がつ27にちマキ上田うえだで、15ふんたたかったのちけとなっている。 1976ねん2がつ24にちにマキとビューティ・ペア結成けっせいWWWA世界せかいタッグ王座おうざ獲得かくとくした。ビューティ・ペアは『かけめぐる青春せいしゅん』を80まんまいげ、そのは『真赤まっか青春せいしゅん」『バンババン』『青春せいしゅんにバラはいらない』『シーサイド急行きゅうこう』『あいのけものたち』などのきょくだいヒットする。当時とうじのビューティ・ペア人気にんきすさまじく[1]、ピンク・レディーと人気にんき二分にぶんして試合しあいまえリングうた披露ひろうするさいには観客かんきゃくせきからまれたかみテープ紙吹雪かみふぶきいちはいになった。ジャッキーが男役おとこやく・マキがおんなやくの『たたか宝塚たからづか』ともいわれた。

ジャッキー佐藤さとう名義めいぎでは『うつくしい決意けつい』『ポケットいちはいなみだ』『もしも旅立たびだちなら(Bめん:Ciscoをさがせ)』などのシングルレコードを発売はつばいした。

1977ねん11月1にち、マキがWWWA世界せかいシングル王座おうざ挑戦ちょうせん。この試合しあいはビューティ・ペア同士どうし対決たいけつとして注目ちゅうもくされ、たがいにゆずらず60ふん時間切じかんぎ判定はんていでタイトルを獲得かくとく

1979ねん2がつ27にち、”敗者はいしゃ引退いんたい”という過酷かこくなルールでのマキとの再戦さいせんは48ふん7びょう、エビがためで勝利しょうりしてマキは引退いんたい、ビューティ・ペアに終止符しゅうしふたれた。なおこの試合しあいは、マキがビューティペア解散かいさんとマキ自身じしん引退いんたい松永まつなが社長しゃちょう(当時とうじ)にはなしており、松永まつなが社長しゃちょう(当時とうじ)から「ビューティ対決たいけつをしてけたほう引退いんたい」とわれた試合しあいで、1979ねん1がつ4にちまでジャッキーはらなかった。

マキ引退いんたいモンスター・リッパーにWWWA世界せかいシングル王座おうざうばわれてしまう。その奪還だっかんするも1981ねん2がつ25にちジャガー横田よこた当時とうじ横田よこた利美としみせんどう王座おうざから転落てんらく1981ねん5月21にちこころざし生野いくのあつしおっと司会しかい静岡しずおかけんにて引退いんたいしきおこなわれた。当初とうしょ照明しょうめいなどはなかったが会場かいじょう殺風景さっぷうけいだったため、フジテレビとデイリースポーツが照明しょうめいなどを担当たんとう。エキシビションマッチ相手あいてマミ熊野まみくまの

全日本ぜんにほん女子じょしプロレス引退いんたいはスポーツジムブティック経営けいえい。レオプロダクションにも在籍ざいせきしたが、そのしん団体だんたいジャパン女子じょしプロレス」の設立せつりつ勧誘かんゆうされ参加さんか1986ねん8がつ17にちたい神取かんどりしのぶ当時とうじ神取かんどりしのぶ)せん現役げんえき復帰ふっきたす。しかし団体だんたいないでの金銭きんせん問題もんだい怪我けが保障ほしょう問題もんだいトラブルから神取かんどりとの確執かくしつ表面ひょうめん1987ねん7がつ18にち神取かんどりとのシングルマッチ(神奈川かながわけん大和やまと車体しゃたい工業こうぎょう体育館たいいくかん大会たいかい)では壮絶そうぜつセメントマッチとなった。どう試合しあいやぶれたジャッキーは1988ねん3がつ20日はつか沖縄おきなわけんでの試合しあい最後さいご現役げんえき引退いんたいした。

引退いんたい[編集へんしゅう]

引退いんたい直後ちょくご1988ねん体操たいそう教室きょうしつ会社かいしゃ『ジャムナ』を設立せつりつスポーツプログラマーヘルスケア・トレーナー資格しかく取得しゅとくし、中高年ちゅうこうねん女性じょせい中心ちゅうしんみずからが考案こうあんした「ジャムナ体操たいそう」の指導しどう講演こうえん活動かつどうおこなっていた。

1998ねん10月にがん告知こくちされ手術しゅじゅつ術後じゅつごの1998ねん11月29にちぜんおんな30周年しゅうねん記念きねん大会たいかい横浜よこはまアリーナ)へ殿堂でんどう選手せんしゅとして出席しゅっせき。これがおおやけ姿すがたせた最後さいごとなる。1999ねん3がつさい入院にゅういん退院たいいん。1999ねん5がつ再々さいさい入院にゅういんをし、同年どうねん8がつ9にち841ふんがんのため神奈川かながわけん川崎かわさきうち病院びょういん死去しきょ。41さいぼつ生涯しょうがい独身どくしんだった[2]闘病とうびょうちゅうカイロプラクティック開業かいぎょう資格しかくり、自宅じたく施術しじゅついんとしたが、このゆめたせなかった。

だい愛煙あいえんで、かんには愛用あいよう煙草たばこおさめられた。引退いんたい卵巣らんそうがんをわずらったぜんおんな後輩こうはいであるナンシー久美くみ治療ちりょう生活せいかつ精神せいしんてきささえ、私生活しせいかつふく最期さいごまでなかかった。ナンシーは、ジャッキーのあねおとうととも入院にゅういんちゅうのジャッキーの看護かんご[3]死後しご事後じご処理しょりにあたっている。

生前せいぜんマキには病名びょうめいつたえていなかった。そのけんについてマキは「かなしいけど、いつまでもライバルとしててくれたことがうれしかった」と発言はつげんしている。ジャッキーはくなる前年ぜんねん、『マキのみせ』(マキが故郷こきょう鳥取とっとりけん経営けいえいしていた飲食いんしょくてん)の10周年しゅうねんパーティに参加さんかしており、それが今生こんじょうわかれとなったという[4]

葬儀そうぎ横浜よこはま鶴見つるみ總持寺そうじじおこなわれた。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

両親りょうしんあねおとうとがいる。

タイトルれき[編集へんしゅう]

メディア[編集へんしゅう]

テレビドラマ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]