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ジャン・ド・ヴァロワ (トゥーレーヌ公) - Wikipedia コンテンツにスキップ

ジャン・ド・ヴァロワ (トゥーレーヌこう)

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ジャン・ド・ヴァロワ
Jean de Valois
フランスドーファン
在位ざいい 1415ねん - 1417ねん

称号しょうごう トゥーレーヌおおやけベリーこう
出生しゅっしょう (1398-08-31) 1398ねん8がつ31にち
死去しきょ (1417-04-05) 1417ねん4がつ5にち(18さいぼつ
フランス王国おうこくコンピエーニュ
埋葬まいそう フランス王国おうこくサン=ドニだい聖堂せいどう
配偶はいぐうしゃ ジャクリーヌ・ド・エノー
家名かめい ヴァロワ
父親ちちおや フランスおうシャルル6せい
母親ははおや イザボー・ド・バヴィエール
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ジャン・ド・ヴァロワフランス語ふらんすご: Jean de Valois)またはジャン・ド・フランスフランス語ふらんすご: Jean de France, 1398ねん8がつ31にち - 1417ねん4がつ5にち)は、フランスおうシャルル6せい王妃おうひイザボー・ド・バヴィエール息子むすこよんなんであり、かつ4にんおう太子たいしドーファン)となった。はじめトゥーレーヌおおやけのちベリーこうなどにじょされた。

あねイングランドおうリチャード2せいおよびオルレアンこうシャルルイザベルブルターニュおおやけジャン5せいジャンヌブルゴーニュおおやけフィリップ3せいミシェルいもうとにイングランドおうヘンリー5せいカトリーヌあににギュイエンヌこうルイおとうとにフランスおうシャルル7せいがいる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ブルゴーニュこうジャン1せいこわおおやけ)のめいネーデルラントしょはくりょう相続そうぞくじんとなるジャクリーヌ・ド・エノー1406ねん婚約こんやくし、義父ぎふでありしたバイエルン=シュトラウビンクこうおよびエノーはくホラントはくゼーラントはくヴィルヘルム2せいもとル・ケスノワ英語えいごばんげんフランスりょうフランドルノールけんまち)でそだった。これはジャンを当時とうじ混乱こんらんしていたフランス宮廷きゅうていからとおざけるとともに、ヴィルヘルム2せい死去しきょするとジャンがジャクリーヌのおっととして統治とうちするであろう領地りょうちをあらかじめおしえようとするためであった[1]

1415ねんにジャンはジャクリーヌと正式せいしき結婚けっこんしたが、同年どうねんあにであるおう太子たいしルイが早世そうせいしたため、ジャンはあらたにおう太子たいしとなった。それから1ねんすうヶ月かげつ自身じしんも18さい死去しきょし、コンピエーニュ埋葬まいそうされたが、死因しいんたしかではなく、あたま膿瘍のうようとも、毒殺どくさつともわれる[2]おとうとシャルルが5にんおう太子たいしとなり、のちにシャルル7せいとして即位そくいした。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ A. Janse, Een Pion voor een Dame (2009)
  2. ^ Ernest van Bruyssel, Histoire du commerce et de la marine en Belgique, 1863, p. 66., A. Janse, Een Pion voor een Dame (2009)
先代せんだい
ルイ
フランスのドーファン
1415ねん - 1417ねん4がつ5にち
次代じだい
シャルル7せい
先代せんだい
おうりょう
トゥーレーヌこう
1407ねん - 1417ねん4がつ5にち
次代じだい
シャルル1せい
先代せんだい
ジャン1せい
ベリーこう
1416ねん - 1417ねん4がつ5にち
(ジャン2せい
次代じだい
シャルル1せい