(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ジャン4世 (ブルターニュ公) - Wikipedia コンテンツにスキップ

ジャン4せい (ブルターニュこう)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャン4せい
Jean IV
ブルターニュこう
フロワサール年代ねんだい登場とうじょうするジャン4せい
在位ざいい 1364ねん - 1399ねん

出生しゅっしょう 1339ねん
ブルターニュ公国こうこく
死去しきょ 1399ねん11月9にち
ブルターニュ公国こうこくナント
埋葬まいそう ブルターニュ公国こうこくナントだい聖堂せいどう
配偶はいぐうしゃ メアリー・オブ・イングランド
  ジョーン・ホランド
  ジャンヌ・ド・ナヴァール
子女しじょ 一覧いちらん参照さんしょう
家名かめい ドルー
父親ちちおや ジャン・ド・モンフォール
母親ははおや ジャンヌ・ド・フランドル
テンプレートを表示ひょうじ

ジャン4せい・ド・ブルターニュ[1]Jean IV de Bretagne, 1339ねん - 1399ねん11月9にち)は、ブルターニュおおやけ在位ざいい1364ねん - 1399ねん)。ジャン征服せいふくこう(Jean le Conquéreur)、ジャン勇敢ゆうかんこう(Jean le Vaillant)ともばれた。ジャン・ド・モンフォールとジャンヌ・ド・フランドルの長男ちょうなん

ブルターニュ継承けいしょう戦争せんそうひゃくねん戦争せんそうちゅう1345ねんちち急死きゅうしすると、リッチモンドはくとモンフォールはく継承けいしょうし1364ねんまでブルターニュこうシャティヨン(パンティエーヴル)のシャルル・ド・ブロワあらそった。オーレのたたかでブルターニュ・イングランド連合れんごうぐん勝利しょうりすると、1365ねん4がつ12にち調印ちょういんされたゲランド条約じょうやくでブルターニュこうであることをみとめられた。以後いご、ジャン4せいドルー(モンフォール)がブルターニュおおやけ継承けいしょうしていった。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

継承けいしょう戦争せんそう

[編集へんしゅう]
ジャン4せいのシール

1345ねんちちがシャルル・ド・ブロワとのたたかいで戦死せんししたとき、ジャンはわずか6さいだったが、ははジャンヌ・ド・フランドルがたたかいを継続けいぞくし、勝利しょうりおさめていった。ジャンは1357ねんから軍事ぐんじ作戦さくせん参加さんかし、1364ねんにブロワはく攻撃こうげき準備じゅんびをしていることをオーレー包囲ほういした。

イングランドのエドワードくろ太子たいしおくんだ援軍えんぐんたすけられててきぐん粉砕ふんさいし、オーレのたたかいでブロワはくはいさせたのちかれ未亡人みぼうじんでジャンの従姉じゅうしでもある「おんなこうジャンヌ・ド・パンティエーヴル交渉こうしょうおこない、よく1365ねんみずからを単独たんどくのブルターニュこうであるとみとめさせただい1かいゲランド条約じょうやく調印ちょういん、ブルターニュこうジャン4せいとなった。またこのさい、ジャン4せいフランスおうシャルル5せい臣従しんじゅうすることもさだめられたが、形式けいしきはブルターニュの独立どくりつさまたげない単純たんじゅん臣従しんじゅうともめられ、献身けんしん臣従しんじゅうでないことが両家りょうけあいだ了解りょうかいとなった[2]

イングランド亡命ぼうめい

[編集へんしゅう]

イングランドと同盟どうめい関係かんけいにあり、継承けいしょう戦争せんそうちゅうすうねん亡命ぼうめい期間きかんをイングランドでごしたジャン4せいは、イングランドぐん支援しえんなしにつことはできなかった。かれ最初さいしょはエドワードくろ太子たいしいもうとであり、2度目どめくろ太子たいし継子けいしであった。またいくにんかのイングランドじん傭兵ようへい隊長たいちょう領主りょうしゅ要塞ようさいとその周辺しゅうへん管理かんり委託いたくしなければならなかった(れいとしてブレスト)。これら外国がいこく軍隊ぐんたい悪党あくとうのイングランド領主りょうしゅおおやけ周囲しゅうい政権せいけん公国こうこくない存在そんざいすることをブルトンじん貴族きぞくから非難ひなんされた。

くわえて、ジャン4せいさら人望じんぼううしなった。ジャン4せいはイングランドへの関係かんけいふかめ、1372ねんにイングランドおうエドワード3せい主君しゅくんとする秘密ひみつ条約じょうやくむすんだことがブルターニュ貴族きぞく露見ろけんしたからである。よく1373ねんにイングランドぐんがブルターニュに上陸じょうりくすると、ブルターニュ貴族きぞくでシャルル5せいつかえていたフランス王国おうこく大元帥だいげんすい英語えいごばんベルトラン・デュ・ゲクランオリヴィエ・ド・クリッソン迎撃げいげきかい、ブルターニュのほとんどを征服せいふくした。ジャン4せいはフランスぐんまれ、ブルトンじん貴族きぞく加勢かせいなしにまもることができず、立場たちばうしなったかれあらたにイングランドに亡命ぼうめいせざるをえなかった[3]

凱旋がいせん

[編集へんしゅう]

1378ねん12月、シャルル5せいはジャン4せいたいする懲罰ちょうばつとして公国こうこく没収ぼっしゅうし、フィリップ2せいプランタジネットあさたいしてしたように、公国こうこくをフランスおうりょう併合へいごうした。だがかれ公国こうこくげは非常ひじょう過酷かこくで、独立どくりつおかされたブルトンじん貴族きぞくはフランスに反乱はんらんこし、かつてジャン4せいあらそっていたジャンヌ・ド・パンティエーヴルでさえも先頭せんとうって反乱はんらんくわわった。ジャン4せいはイングランドぐんとともによく1379ねん8がつディナール上陸じょうりく帰国きこく公国こうこく支配しはいけんもどした。イングランドぐんは、公国こうこくさい征服せいふくおこなうジャン4せいがそれら征服せいふくたいして債務さいむ保証ほしょうするため、4つの海上かいじょう要塞ようさい戦略せんりゃくてき要塞ようさいである10箇所かしょしろ攻略こうりゃくした。このブルターニュこうの「凱旋がいせん」は伝統でんとうAn Alarc'hブルトン白鳥しらとり)の主題しゅだいとなっている。ブルターニュ独立どくりつ象徴しょうちょうとして、様々さまざま現在げんざい芸術げいじゅつげている。

1380ねんにゲクランとシャルル5せいぬとフランスのいきおいはよわまり、1381ねん4がつ4にちにジャン4せいシャルル6せい和解わかい臣従しんじゅうするだい2かいゲランド条約じょうやくむすび、平和へいわ公国こうこくおさめた[4]

クリッソンとの対立たいりつ

[編集へんしゅう]

しかしジャン4せいはゲクランののちいで大元帥だいげんすい就任しゅうにんしたオリヴィエ・ド・クリッソンと対立たいりつ1386ねん1387ねんにシャルル6せいとクリッソンが推進すいしんしたイングランド上陸じょうりく作戦さくせん協力きょうりょくしなかったこと、クリッソンがむすめマルグリットをジャンヌ・ド・パンティエーヴルの息子むすこジャン1せい・ド・シャティヨンフランス語ふらんすごばんとつがせたことがかさなりかれ排除はいじょ計画けいかく、1387ねん7がつにヴァンヌに議会ぎかい招集しょうしゅうしてブルトンじん貴族きぞくあつめ、クリッソンをさそしてらえた[5]当初とうしょはクリッソンの暗殺あんさつかんがえたが貴族きぞくたち反対はんたい断念だんねん、クリッソンから膨大ぼうだい身代金みのしろきん領土りょうどもらわりにかれ釈放しゃくほうした。直後ちょくご、クリッソンがシャルル6せいうったえたためおう紛争ふんそう介入かいにゅう、ジャン4せいはクリッソンと一時いちじてき和睦わぼくした[6]

だが5ねん1392ねんふたたびクリッソンの暗殺あんさつはかり、ピエール・ド・クラン(フランス元帥げんすいジル・ド・レ母方ははかた曾祖父そうそふにあたる)を刺客しかくけた。クランはシャルル6せい叔父おじ1人ひとりアンジューおおやけルイ1せいつかえていたが、主君しゅくん財産ざいさん横領おうりょうしてされるとシャルル6せいおとうとオルレアンこうルイ小姓こしょうとしてつかなおしたが、醜聞しゅうぶん暴露ばくろしてオルレアンこうからも出仕しゅっし禁止きんしをいいわたされていた。ジャン4せい没落ぼつらく原因げんいんはクリッソンがオルレアンこうをそそのかしたからだとクランをだまし、かれにクリッソンをおそわせた。

しかし殺人さつじん未遂みすいわり、ブルターニュへんだクランを冷淡れいたんあつか一方いっぽうかれわたしをもとめるシャルル6せい要求ようきゅう拒絶きょぜつ激怒げきどしたシャルル6せいしんせいかうといてイングランドへのさい亡命ぼうめい準備じゅんびしたが、遠征えんせい途中とちゅうの8がつにシャルル6せい発狂はっきょうして遠征えんせい中止ちゅうしされたためジャン4せい命拾いのちびろいした。たいするクリッソンはフランスの保護ほごけられなくなり孤立こりつ1395ねんにジャン4せいとクリッソンはあらためて和睦わぼくした[7]

1399ねんナント死去しきょ長男ちょうなんジャン5せいいだが、かれふく子供こどもたちおさないため、遺言ゆいごんでクリッソンを子供こどもたち後見人こうけんにんさだめた。こののちクリッソンがむすめマルグリットと対立たいりつしたり、ジャン4せい未亡人みぼうじんでジャン5せいらのははジャンヌ・ド・ナヴァールがイングランドおうヘンリー4せい再婚さいこん子供こどもたちがイングランドへれていかれそうになるなど危機ききつづくが、いずれもクリッソンの配慮はいりょけ、ブルターニュにとどまった子供こどもたちはシャルル6せい叔父おじ1人ひとりブルゴーニュおおやけフィリップ2せい豪胆ごうたんこう)にられ成長せいちょうしていった[8]

子女しじょ

[編集へんしゅう]

1355ねん、ロンドンでメアリー・オブ・イングランド(1344ねん - 1362ねんイングランドおうエドワード3せいフィリッパ・オブ・エノー)と結婚けっこん。メアリーと結婚けっこん4ねん死別しべつすると、1366ねんケントはくトマス・ホランドジョーン・オブ・ケントむすめジョーン・ホランド(1350ねん - 1384ねん)と再婚さいこんした。上記じょうき2人ふたり先妻せんさいとのあいだはない。

ジョーンと死別しべつして2ねんの1386ねん、ゲランドにてナバラおうカルロス2せいむすめジャンヌ・ド・ナヴァール再婚さいこんした。

ジャン4せいあとおさな子供こどもたちの領地りょうち管理かんりしゃとなったのはメーヌはくギー12せい・ド・ラヴァル(fr)である。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ ブルターニュ継承けいしょう戦争せんそうあいだ、ジャン・ド・モンフォールがブルターニュこうだったとみなせばジャン4せいかぞえられる。イギリスではかれ後継こうけいしゃをジャン5せいとする。一方いっぽうでフランスではジャン・ド・モンフォールをブルターニュこうかぞえないため、息子むすこがジャン4せいとされる。
  2. ^ エチュヴェリー、P46 - P47、清水しみず、P27 - P28、朝治あさじ、P111、P120、佐藤さとう、P79 - P80。
  3. ^ エチュヴェリー、P49、佐藤さとう、P92。
  4. ^ Hommage simple plutôt que lige, Auray 1364, Laurence Moal, p122, voir aussi Histoire de Bretagne : 1364-1515 / Arthur Le Moyne de La Borderie, p11、エチュヴェリー、P49 - P51、朝治あさじ、P124、佐藤さとう、P92 - P94。
  5. ^ Françoise Autrand, Charles VI, Fayard 1986, p.175
  6. ^ エチュヴェリー、P52 - P53、清水しみず、P29 - P32。
  7. ^ エチュヴェリー、P54 - P56、清水しみず、P32 - P35、佐藤さとう、P104 - P105。
  8. ^ エチュヴェリー、P61 - P62、清水しみず、P35 - P36。

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
先代せんだい
ブルターニュ継承けいしょう戦争せんそうによる中断ちゅうだん
ブルターニュおおやけ
1364ねん - 1399ねん
次代じだい
ジャン5せい