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ソニア・ガンディー

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ソニア・ガンディー
सोनिया गांधी
Sonia Gandhi
生年月日せいねんがっぴ (1946-12-09) 1946ねん12月9にち(77さい
出生しゅっしょう イタリアの旗 イタリア ヴェネトしゅうヴィチェンツァけんルジアーナ
所属しょぞく政党せいとう インド国民こくみん会議かいぎ
配偶はいぐうしゃ ラジーヴ・ガンディー

インドの旗 連邦れんぽう下院かいん議員ぎいん
選挙せんきょ カルナータカしゅう バッラーリ選挙せんきょ[1]
ウッタル・プラデーシュしゅう アメーティー選挙せんきょ[1]
在任ざいにん期間きかん 1999ねん - 2004ねん
選挙せんきょ ウッタル・プラデーシュしゅう ラーイ・バレーリー選挙せんきょ[2][3]
在任ざいにん期間きかん 2004ねん - 2006ねん3月23にち[3]
在任ざいにん期間きかん 2006ねん5月15にち[3] - 現職げんしょく

インド国民こくみん会議かいぎ 総裁そうさい
在任ざいにん期間きかん 1998ねん3月14にち - 2017ねん12月16にち

在任ざいにん期間きかん 2004ねん - 現職げんしょく
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ソニア・ガンディーイタリア:Sonia Gandhi、ヒンディー:सोनिया गांधी、1946ねん12月9にち - )は、インド政治せいじ統一とういつ進歩しんぽ同盟どうめい(UPA)議長ぎちょうもとインド国民こくみん会議かいぎ暫定ざんてい総裁そうさい

経歴けいれき[編集へんしゅう]

イタリアじんとしてイタリア北東ほくとうヴェネトしゅうヴィチェンツァけんルジアーナまれ、カトリック教徒きょうと家庭かていそだつ。1964ねんイギリス留学りゅうがくし、ケンブリッジ語学ごがく学校がっこう英語えいごまなぶ。そこでケンブリッジ大学けんぶりっじだいがく留学りゅうがくしていたラジーヴ・ガンディー1968ねん結婚けっこんした。2人ふたりあいだには1970ねん長男ちょうなんラーフル1972ねん長女ちょうじょプリヤンカまれている。

ラジーヴのははインディラ・ガンディー当時とうじインドの首相しゅしょうであったが、結婚けっこんしてしばらくのあいだはラジーヴもソニアも政治せいじかかわることはなかった。しかしラジーヴはおとうとサンジャイ・ガンディー1980ねん飛行機ひこうき事故じこ死亡しぼうすると政界せいかいはいり、さらに1984ねんははのインディラが暗殺あんさつ英語えいごばんされると、そのいで首相しゅしょう就任しゅうにんすることになる。そしてソニアはインドのファーストレディとなった。

1991ねんにラジーヴが暗殺あんさつ英語えいごばんされると、国民こくみん会議かいぎナラシンハ・ラーオした同年どうねんそう選挙せんきょ勝利しょうりしたが、つぎ1996ねんそう選挙せんきょでは敗北はいぼくする。党勢とうせいもどそうとするうごきのなかでソニアに期待きたいがかかると、ソニアは1997ねん国民こくみん会議かいぎ入党にゅうとうし、よく1998ねん3月14にちには総裁そうさい選出せんしゅつされる。

1999ねん4がつ当時とうじバジパイ首相しゅしょう信任しんにん決議けつぎローク・サバー下院かいん)で否決ひけつされたことによりだいいちとうインド人民じんみんとう中心ちゅうしんとする政権せいけん崩壊ほうかいすると、国民こくみん会議かいぎだいとうだったため、その総裁そうさいであるソニアが首相しゅしょう候補こうほとしてがったが、多数たすう工作こうさく失敗しっぱい組閣そかく実現じつげんしなかった[4]下院かいん結局けっきょく解散かいさんされ、同年どうねん選挙せんきょでソニアは議員ぎいん選出せんしゅつされるが、インド人民じんみんとう勝利しょうりしたため国民こくみん会議かいぎ政権せいけん獲得かくとくはできなかった。選挙せんきょソニアは下院かいん野党やとう院内いんない総務そうむつとめた。

2004ねんそう選挙せんきょでは国民こくみん会議かいぎ勝利しょうりみちび政権せいけん奪還だっかんたす。選挙せんきょ5月15にちにソニアは国民こくみん会議かいぎ両院りょういん議員ぎいん総会そうかい首相しゅしょう候補こうほとして選出せんしゅつされ[5]、そのまま首相しゅしょう就任しゅうにんするかとおもわれたが、イタリアまれであることが批判ひはんされていたこともあり、5月18にち両院りょういん議員ぎいん総会そうかい首相しゅしょう就任しゅうにん固辞こじ[6]わりにマンモハン・シン首相しゅしょう指名しめいした。

2006ねん3月、下院かいん議員ぎいん国家こっか諮問しもん委員いいんかい議長ぎちょう辞職じしょくした。どう委員いいんかい議長ぎちょうつとめていることが国会こっかい議員ぎいんによる有給ゆうきゅうしょく兼務けんむ禁止きんし法律ほうりつれているという批判ひはんをかわすためとられる。その同年どうねん5がつ実施じっし下院かいん補欠ほけつ選挙せんきょあらためて出馬しゅつばし、2候補こうほ大差たいさをつけて圧勝あっしょうした。

2019ねん、ラーフル・ガンディーが国民こくみん会議かいぎ総裁そうさい退任たいにんしたため、国民こくみん会議かいぎ暫定ざんてい総裁そうさい復帰ふっき[7]

家族かぞく[編集へんしゅう]

長男ちょうなんのラーフル・ガンディーも政治せいじであり、2004ねん下院かいん議員ぎいん選出せんしゅつされて以来いらいそのしょくにある。また、国民こくみん会議かいぎ幹事かんじちょうつとめる。長女ちょうじょのプリヤンカ・ヴァドラは政界せいかいりこそしていないが、国民こくみん会議かいぎ応援おうえん演説えんぜつ積極せっきょくてきにこなしている。人気にんきたかく、祖母そぼであるインディラ・ガンディーの再来さいらいだとわれることもある[8]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]