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タール羽の刑 - Wikipedia コンテンツにスキップ

タールけい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
Tarring and feathering victim front.
Tarring and feathering victim back as a form of humiliation
だいいち世界せかい大戦たいせんちゅうの1918ねん8がつにミネソタしゅうルバーンで、戦時せんじ公債こうさい運動うんどう支持しじしなかったという理由りゆうでタールけいけたドイツけいアメリカじん農夫のうふジョン・マインツの写真しゃしん[1]

タールけい(タールばねのけい、えい: Tarring and feathering)は近世きんせいヨーロッパや、その植民しょくみん初期しょきアメリカの開拓かいたくおこなわれていた私刑しけいで、拷問ごうもんおよび刑罰けいばつさらけい)の一種いっしゅしゅとして暴徒ぼうとたちが報復ほうふくのためにもちいた。

私刑しけい対象たいしょうとなったものを、全裸ぜんらまたは上半身じょうはんしんはだかにして身体しんたい固定こていし、その身体しんたいに(まだあつ状態じょうたい場合ばあいもある)タールけたり、む。そして、タールの部分ぶぶん羽毛うもうたばげつけたり、羽毛うもうやまころがせることで、タール部分ぶぶん多量たりょう羽毛うもう付着ふちゃくさせ、その姿すがたさらしゃにする、というものである。

タールと羽毛うもうをつけたアウトロー無法者むほうもの)のイメージは、現在げんざいでも世間せけんからの批判ひはんきびしいことの比喩ひゆとしてあつかわれる[2]

初期しょき事例じれい

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この刑罰けいばつしるしたもっとふる記録きろくは、1189ねんイングランドおうリチャード1せい聖地せいちかう海軍かいぐんした命令めいれいしょである[3][4]

おうリチャードのほう命令めいれいかんして、おう海軍かいぐんけて)ほうしたが有罪ゆうざい判決はんけつけた窃盗せっとうはんまたは重罪じゅうざいじんは、そのかみげ、あたためたピッチ[注釈ちゅうしゃく 1]あたまからけて、羽毛うもうまたはわらをつけてそのもの判別はんべつできるようにしておけ。そして最初さいしょ上陸じょうりく地点ちてんてよ。

— transcript of original statute in Hakluyt's Voyages, ii. 21

さらにれいとしては『Notes and Queries』(series 4, vol. v)に記載きさいされた、1623ねんにマドリードでジェームズ・ハウエルが言及げんきゅうしたものがある[3]

ドイツのプロテスタントぐん指揮しきかんでもあった乱暴らんぼうなハルバーシュタット司教しきょう[注釈ちゅうしゃく 2]は(中略ちゅうりゃく男子だんし女子じょしそれぞれの2つの修道院しゅうどういんがあった占領せんりょうすると、かれ様々さまざま羽毛うもうじったベッドをかせ、そのすべての羽根はね大広間おおひろまあつめさせた。修道しゅうどうおんな修道しゅうどうはだかにされると、その身体しんたいあぶらられ、羽毛うもうなかへところまわるようにさせられた。この(マドリード)においてかれ不吉ふきつ予感よかんさせるものだ。

1696ねん、ロンドンの管財かんざいじんがサヴォイの敷地しきち避難ひなんしていた債務さいむしゃ訴訟そしょうおこなおうとした。この管財かんざいじんはタールけいしょされたのち手押ておしゃでストランドにはこばれ、現在げんざいサマセットハウスちかくでおこなわれていたメイポール(5がつはるおとずれをよろこんでおどまつり)のつくられた急造きゅうぞうさらだいった状態じょうたい拘束こうそくされた[3]

18世紀せいきアメリカ

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「The Bostonians Paying the Excise-Man(徴税ちょうぜいじん支払しはらいをおこなうボストン市民しみん)」(フィリップ・ドーさく)。1774ねんにボストンの税関ぜいかんちょうジョン・マルコム英語えいごばん市民しみんたちからタールけいけ、紅茶こうちゃ無理むりやりまされている場面ばめん。マルコムにとって2度目どめ襲撃しゅうげきであった。
「The Alternative of Williamsburg(ウィリアムズバーグの選択肢せんたくし)」(フィリップ・ドーさく)。1774ねんにイギリスで作成さくせいされた版画はんがであり、1774ねんにウィリアムズバーグであった議決ぎけつたいして、ロイヤリスト署名しょめいいている場面ばめんえがいている。みぎじょうえがかれているのは「難病なんびょう治療ちりょうほう(A Cure for the Refractory)」とかれた看板かんばんにぶらがるいちふくろ羽毛うもういちたるのタールである。

タール習慣しゅうかんは、アメリカ大陸あめりかたいりくつたわり、18世紀せいきなかばによくもちいられた。 1760年代ねんだいとおして、タウンゼンド諸法しょほうと、その執行しっこうしゃたいする民衆みんしゅう抗議こうぎ手段しゅだんとしておこなわれることが増加ぞうかした[5]。 1770ねんから1773ねんにかけて、ほとんど実行じっこうされない時期じきもあったが、1773ねん5がつちゃほうをきっかけにふたたられるようになった[5]

1765ねん印紙いんしほうはしはっする騒動そうどうさいには、ロイヤリストの裕福ゆうふく地主じぬしであったアーチボルド・マッコール英語えいごばんはバージニアしゅうウエストモアランドとエセックスぐんで、パトリオットの暴徒ぼうとらから標的ひょうてきにされた[6]。 マッコールは印紙いんしほう賛同さんどうしゃであり、イギリス本国ほんごく印紙いんしだい税金ぜいきん)を徴収ちょうしゅうすることを肯定こうていした。このために、どうほう反対はんたいする暴徒ぼうとらは、バージニアしゅうタッパハノックにあったかれ自宅じたく襲撃しゅうげきしてかれらえ、タールけいしょした[7]。 1766ねん、ウィリアム・スミス船長せんちょう町長ちょうちょうふく暴徒ぼうとらによってタールけいしょされたうえ、バージニアしゅうノーフォークみなとれられた。かれ体力たいりょくきるもふねすくわれ、一命いちめいめた。スミスがこのような私刑しけいけたのは、密輸みつゆ業者ぎょうしゃをイギリスの税関ぜいかん密告みっこくしていたとうたがわれていたためであり、これは以降いこう10年間ねんかんのタールけい犠牲ぎせいしゃおおくと同様どうよう理由りゆうであった[8]

1768ねんマサチューセッツしゅうセイラムにおいて、暴徒ぼうと税関ぜいかん下級かきゅう職員しょくいんをタールけいしょ事件じけんこった。同様どうように1769ねん10がつにはボストンにおいても税関ぜいかん船員せんいん暴徒ぼうとおそわれ、こうした襲撃しゅうげきは1774ねんまでふくすうかいわたって発生はっせいした。税関ぜいかんちょうジョン・マルコム英語えいごばんは2にわたってタールけい被害ひがいけ、1度目どめは1773ねん11月にニューハンプシャーしゅうポーツマス船員せんいんたちに、2度目どめはよりはげしく1774ねん1がつボストン同様どうようった[9][10]。 マルコムは全裸ぜんらにされたうえで、むちたれたり、なぐられ、タールけいしょされるということが数時間すうじかんにわたってつづいた。その自由じゆう英語えいごばんもと連行れんこうされると、くまでおちゃむことを強要きょうようされた[5]

1775ねん2がつ、コネティカットしゅうイースト・ハダムのロイヤリストであったアブナー・ベビー博士はかせは、ぶた小屋こやれてかれるとタールけいしょされた。さらにベビーは、ぶたくそられたうえに、にもれられ、きわめつけにまされた。これは地元じもと安全あんぜん委員いいんかいしんえい感情かんじょう表明ひょうめいしたとなされたことにはしはっして懲罰ちょうばつとしておこなわれた[10][11]

1775ねん8がつ、ジョージアしゅうオーガスタ北東ほくとうで、とく暴力ぼうりょくてきなタールけいおこなわれた[12]。 ロイヤリストの地主じぬしトマス・ブラウンは、「自由じゆう息子むすこたち」のメンバーらによって、自身じしん所有しょゆうれてかれた。ブラウンは抵抗ていこうしたが、ライフルじゅう頭蓋骨ずがいこつ骨折こっせつするほどなぐられ、ぐるみをがされるとしばけられた。そして、をつけられるまえあついピッチをけられ、かぶにかかっていたかれの2ほんあしゆび火傷かしょうった。その羽毛うもうけられると、かれはナイフで頭皮とうひがされた[12]

一般いっぱんにタールけいは、アメリカ独立どくりつ運動うんどうにおけるパトリオットの行動こうどうられていた[5]例外れいがいてきなものとしては、1775ねん3がつにマサチューセッツしゅうビレリカのトマス・ディットソンは、だい47歩兵ほへい連隊れんたい兵士へいしからマスケットじゅうおうとして、どう連隊れんたい士官しかん多数たすう兵士へいしからタールけいけた[13]。 ディトソンはタールと羽毛うもうけられたのち、ファイフと太鼓たいこで『ヤンキードゥードゥル』が演奏えんそうされるなかで「American Liberty: A Speciment[注釈ちゅうしゃく 3] of Democracy(アメリカの自由じゆう民主みんしゅ主義しゅぎ見本みほん)」とかれたプラカードをたされた[5]

1791ねんウィスキーぜい反乱はんらんでも、農民のうみんたちが連邦れんぽう徴税ちょうぜいかんにタールけいおこなれいられた[5]。 9月11にち以降いこう、ペンシルバニア西部せいぶ農民のうみんたちは、連邦れんぽう政府せいふによる同地どうちのウィスキー蒸留じょうりゅうしょへの課税かぜいたいして暴動ぼうどうこした。かれらによる最初さいしょ犠牲ぎせいしゃは、最初さいしょ任官にんかんされた徴税ちょうぜいかんロバート・ジョンソンだったとわれている。ワシントンぐんにて変装へんそうしたギャングにおそわれ、タールと羽毛うもうをつけられた。さらに、その襲撃しゅうげきしゃたちに裁判所さいばんしょ令状れいじょうさせようとしたほか役人やくにんたちもおそわれ、鞭打むちうちやタールけいおこなわれた。これらをふくめた暴力ぼうりょくてき襲撃しゅうげきのため、1791ねんから1792ねんにかけての徴税ちょうぜい実績じっせきはゼロとなった。襲撃しゅうげきしゃたちはアメリカ独立どくりつ運動うんどうにおける抗議こうぎ活動かつどう模範もはんとしていた[14]

19世紀せいき

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1851ねんのボストンにおいて、アフリカけいアメリカじんのトマス・ポール・スミスは、学校がっこう分離ぶんり政策せいさくたいする反対はんたい運動うんどうかんして率直そっちょく意見いけんべたがために、どう反対はんたい運動うんどうおこなっていたアフリカけいアメリカじんからなるボストンの市民しみんグループによってタールけいけた[15]

また、どう1851ねんにメインしゅうエルスワースでは、小学校しょうがっこう(grammar school)における宗教しゅうきょうカリキュラムにかんする論争ろんそうなかで、ノウ・ナッシング運動うんどう暴徒ぼうとたちが、スイスまれのイエズスかいジョン・バプスト英語えいごばん神父しんぷにタールけいおこなった記録きろくがある。このため、バプストはエルズワースをはなれ、どうしゅうバンゴーちかくにうつんだ。同地どうちにはアイルランドけいカトリックのおおきなコミュニティがあり、地元じもと高校こうこう名前なまえは、かれにちなんで名付なづけられた[16]

20世紀せいき

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1906ねん11月27にちづけのエイダ・イブニング・ニュースの記事きじ「Female Whitecaps Chastise Woman」の挿絵さしえ。ペンシルベニアしゅうイースト・サンディにおいて、4にん既婚きこん女性じょせいがハティー・ローリー夫人ふじんにタールけいおこなったという事件じけんほうじた。

タールけい標的ひょうてきにされるのは男性だんせいだけではなかった。1906ねん11月27にちづけのオクラホマしゅうエイダで発行はっこうされていたエイダ・イブニング・ニュースによれば、ペンシルベニアしゅうイースト・サンディにおいて、4にんわか既婚きこん女性じょせいからなる自警じけいだんが、ホワイトキャッピング運動うんどう英語えいごばんなか隣人りんじんのハティー・ローリー夫人ふじん不埒ふらちおこないを矯正きょうせいしたとしている。私刑しけいおこなった一人ひとりは、被害ひがいしゃ義妹ぎまいであった。その加害かがいしゃの4にんはローリー夫人ふじん自宅じたくおもむくとコミュニティのまえはずかしめるつもりだと通告つうこくし、彼女かのじょ身柄みがらおさえると、糖蜜とうみつあたまからかけたのち羽毛うもうをつけた。そして、200にんほどがはたら鉄道てつどう現場げんばまで連行れんこうし、しばけてさらしゃにし、30ふん一人ひとりおとこたすすまで放置ほうちした。その加害かがいしゃのうちの3にん逮捕たいほされ、つみみとめて、それぞれ10ドルの罰金ばっきん支払しはらった[17]

だいいち世界せかい大戦たいせん以前いぜんのミシシッピしゅうヴィックスバーグではアフリカけいアメリカじんたいするタールけい事例じれいがいくつかあった[18]。 ウィリアム・ハリスによれば、南北戦争なんぼくせんそうのアメリカ南部なんぶにおいて、暴徒ぼうとたちがアフリカけいアメリカじんおこな私刑しけいとしては比較的ひかくてきめずらしいものであったが、これは一般いっぱんてきではなく、苦痛くつう屈辱くつじょくあたえることが目的もくてきだったためである[18]

だいいち世界せかい大戦たいせんちゅうはんドイツ感情かんじょうたかまったアメリカでは、おおくのドイツけいアメリカじん攻撃こうげきされた。たとえば、1918ねん8がつ、ミネソタしゅうルバーンのドイツけいアメリカじん農夫のうふジョン・マインツは、(一説いっせつ戦時せんじ公債こうさい運動うんどう支持しじしなかったという理由りゆうで)おとこたちにちかくのサウスダコタしゅうさかいまでられてタールけいけた。マインツは加害かがいしゃらをうったえるもいち敗訴はいそするが、連邦れんぽうさいへの上訴じょうそにおいて勝利しょうりし、1922ねんに6,000ドルで示談じだん成立せいりつした[19]。 ミネソタ史家しかは、この事件じけんをミネソタにおける移民いみん排斥はいせき運動うんどうはんドイツ感情かんじょういちれいとしてげている[20]。 1922ねん3がつ、テキサスしゅうスラトンで、ドイツ出身しゅっしんのカトリック司祭しさいジョセフ・M・ケラーは、その出自しゅつじのために地元じもと住民じゅうみんからいやがらせをつづけ、やがて告解こっかい守秘しゅひ義務ぎむやぶったとしてタールけいけた。その、ケラーはウィスコンシンしゅうミルウォーキーにうつり、そこのカトリック教区きょうく奉仕ほうしおこなった[21]

どう時期じき、オーストラリアでもタールけいられた。 のちにオーストラリア議会ぎかい上院じょういん議員ぎいんとなるフレッド・カッツ英語えいごばんは、ドイツけいかつ、社会しゃかい主義しゅぎしゃはん徴兵ちょうへい制度せいどろんしゃであったが、1915ねん12月にメルボルンの事務所じむしょそと公然こうぜんとタールけいにされた[22]1919ねんのオーストラリアそう選挙せんきょ英語えいごばんの1週間しゅうかんまえにはもと労働党ろうどうとう議員ぎいんジョン・マクドゥーガル英語えいごばんが、ビクトリアしゅうアララトで、やく20にんもと兵士へいしのグループに拉致らちされ、タールけいしょされたのちまちとおりに放置ほうちされる事件じけん発生はっせいした。マクドゥーガルは、以前いぜん兵士へいし侮辱ぶじょくしているとれる反戦はんせんいたことでられていた。6にんおとこたちがじゅう傷害しょうがいざいうったえられたが、一般いっぱん傷害しょうがいざいえられ、それぞれ5ポンドの罰金ばっきんされた。おおくの新聞しんぶんかれらの行動こうどう支持しじした[23]

同様どうよう手法しゅほうきたアイルランド問題もんだい通称つうしょうトラブル)初期しょきに、アイルランド共和軍あいるらんどきょうわぐん(IRA)でももちいられた。被害ひがいしゃおおくは、警官けいかんやイギリスへい交際こうさい関係かんけいにあると批難ひなんされた女性じょせいたちであった[24][25]

21世紀せいき

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2007ねん8がつきたアイルランドにおいて日曜にちよう夕方ゆうがたまちちゅう公然こうぜんとタールけいおこなわれ、さらに被害ひがいしゃに「わたし麻薬まやく売人ばいにんであるいやしい人間にんげんです」とかれたプラカードがけられる事件じけんこった。この事件じけんかんして、アルスター防衛ぼうえい同盟どうめい(UDA)の軍事ぐんじ部門ぶもん関与かんよしたとうたがわれているが、UDAの政治せいじ否定ひていした[26]

2020ねん6がつ、インディアナしゅうインディアナポリスのクラウンヒル墓地ぼち英語えいごばんにおいて、複数ふくすうみなみぐん兵士へいしはか記念きねんに、タールと羽毛うもうけられる被害ひがい発生はっせいした[27]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ コールタールを蒸留じょうりゅうして製造せいぞうされる粘着ねんちゃく物質ぶっしつふね補修ほしゅうざい
  2. ^ この司教しきょうクリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルおもわれる。
  3. ^ スペルミス。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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