1683年 ねん 頃 ごろ の中央 ちゅうおう ヨーロッパ
テケリ・イムレ (ハンガリー語 ご :Thököly Imre[ˈtøkøli ˈimrɛ], 1657年 ねん 4月 がつ 25日 にち - 1705年 ねん 9月13日 にち )は、ハンガリー人 じん の政治 せいじ 家 か 、反 はん ハプスブルク 蜂起 ほうき の指導 しどう 者 しゃ 、ケーシュマールク伯爵 はくしゃく 、トランシルヴァニア公 こう (在位 ざいい :1690年 ねん )。
通常 つうじょう ハンガリー語 ご ではlyは[j]と発音 はつおん されるので、日本 にっぽん では[ˈtøkøj](テケイ)と誤読 ごどく されることがあるが、この姓 せい はTököl(Thökölのthはtの古形 こけい )[ˈtøkøl]という地名 ちめい に形容詞 けいようし 派生 はせい 辞 じ の-iの古形 こけい の-y[i]が付 つ いたものなので、Thökölyは現代 げんだい 語 ご 風 ふう に表記 ひょうき するとTököliとなり、[ˈtøkøli](テケリ)が正 ただ しい読 よ みである。
1657年 ねん 、王 おう 領 りょう ハンガリー のケーシュマールク(現在 げんざい のスロヴァキア 領 りょう ケジュマロク )に生 う まれ、幼 おさな いころに両親 りょうしん を亡 な くした。エペリェシュ にあるルター派 は の大学 だいがく に入 はい ったが、彼 かれ の住 す む上 うえ ハンガリー(現在 げんざい のスロバキア 東部 とうぶ )では当時 とうじ 、ハプスブルク家 か の反対 はんたい 派 は やプロテスタント の皇帝 こうてい 軍 ぐん に対 たい する武装 ぶそう 蜂起 ほうき が恒常 こうじょう 的 てき に起 お きていて、テケリの立場 たちば も危 あや ういものだった。
父 ちち テケリ・イシュトヴァーン伯爵 はくしゃく (hu:Thököly István )は1670年 ねん 12月、反 はん ハプスブルク派 は によるヴェッシェレーニ陰謀 いんぼう の参加 さんか 者 しゃ としてスロバキア北部 ほくぶ のアルヴァ城 じょう を防衛 ぼうえい していた時 とき 、トランシルヴァニア公 こう アパフィ・ミハーイ1世 せい に大 だい 法官 ほうかん として仕 つか えていた親族 しんぞく テケリ・ミハーイを頼 たよ ってトランシルヴァニアに逃亡 とうぼう しようと城 しろ を脱出 だっしゅつ したところで、皇帝 こうてい の軍勢 ぐんぜい に殺 ころ されていた。テケリもまた王 おう 領 りょう ハンガリー(現在 げんざい のスロバキア地域 ちいき )からトランシルヴァニアに逃 のが れた人々 ひとびと と連絡 れんらく を取 と るようになった。
トランシルヴァニアの亡命 ぼうめい 者 しゃ 達 たち は、自分 じぶん 達 たち と同 おな じように迫害 はくがい を受 う け、膨大 ぼうだい な領地 りょうち の大 だい 部分 ぶぶん を皇帝 こうてい によって没収 ぼっしゅう された、有能 ゆうのう な若 わか き貴公子 きこうし テケリに大 おお きな期待 きたい を寄 よ せていた。そして神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい レオポルト1世 せい が1673年 ねん 2月 がつ 27日 にち にハンガリー国法 こくほう を停止 ていし してヨハン・カスパー・フォン・アンプリンゲン(de:Johann Caspar von Ampringen )を独裁 どくさい 官 かん に任命 にんめい し、アンプリンゲンが450人 にん のプロテスタント聖職 せいしょく 者 しゃ を追放 ついほう し、そのうち67人 にん 以上 いじょう をガレー船 せん の徒刑囚 とけいしゅう にすると、テケリの不満 ふまん は頂点 ちょうてん に達 たっ した。
反 はん ハプスブルク蜂起 ほうき [ 編集 へんしゅう ]
フランス 王 おう ルイ14世 せい からの支援 しえん の約束 やくそく に勇気 ゆうき づけられ、反 はん ハプスブルク派 は 勢力 せいりょく は1678年 ねん 、「自由 じゆう と正義 せいぎ のために」蜂起 ほうき を開始 かいし し、若 わか いテケリを指導 しどう 者 しゃ に選 えら んだ。東 ひがし ハンガリー とハンガリー中央 ちゅうおう 部 ぶ の鉱山 こうざん 都市 とし はすぐにテケリの手 て に落 お ち、1681年 ねん に1万 まん 人 にん のトランシルヴァニア軍 ぐん とナジヴァーラド(現在 げんざい のルーマニア 領 りょう オラデア )の総督 そうとく (パシャ )に率 ひき いられたオスマン帝国 ていこく 軍 ぐん を援軍 えんぐん として従 したが えたテケリは、皇帝 こうてい に休戦 きゅうせん を結 むす ばせることに成功 せいこう した。翌 よく 1682年 ねん にクロアチア 副 ふく 王 おう ペータル・ズリンスキ の娘 むすめ でラーコーツィ・フェレンツ1世 せい の未亡人 みぼうじん であるズリーニ・イロナ と結婚 けっこん した。
テケリはレオポルト1世 せい に対 たい する不信 ふしん 感 かん からオスマン帝国 ていこく のスルタン ・メフメト4世 せい の側 がわ に寝返 ねがえ り、スルタンから上 うえ ハンガリー の王 おう と認 みと められ、イスタンブール 政府 せいふ に年 とし 4万 まん ターラー の貢 みつぎ 納金 のうきん を支払 しはら うことになった。この時 とき よりテケリは皇帝 こうてい から次々 つぎつぎ に要塞 ようさい を奪 うば い、その領土 りょうど をヴァーグ川 がわ まで拡 ひろ げた。1683年 ねん にカッサ (コシツェ)とタッリャ でテケリが主宰 しゅさい した2度 ど の議会 ぎかい では、議員 ぎいん 達 たち はテケリの個人 こじん 的 てき な魅力 みりょく に影響 えいきょう されないわけではなかったが、部分 ぶぶん 的 てき には信頼 しんらい 感 かん を示 しめ しつつも、彼 かれ がトルコとの同盟 どうめい のために自国 じこく の独立 どくりつ を犠牲 ぎせい にするのではないかという不安 ふあん を感 かん じていた。このため議会 ぎかい は彼 かれ のために助成 じょせい 金 きん も総動員 そうどういん 令 れい のどちらも出 だ すことを拒 こば み、テケリはこれらを力 ちから ずくで出 だ させることを余儀 よぎ なくされた。
オスマン帝国 ていこく との同盟 どうめい [ 編集 へんしゅう ]
ブダペスト の英雄 えいゆう 広場 ひろば にあるテケリ・イムレ像 ぞう
1683年 ねん の第 だい 二 に 次 じ ウィーン包囲 ほうい に際 さい してはオスマン帝国 ていこく を物資 ぶっし 面 めん で支援 しえん し、敗走 はいそう したオスマン軍 ぐん の退却 たいきゃく にも同行 どうこう した。ところが指揮 しき 官 かん の大 だい 宰相 さいしょう カラ・ムスタファ・パシャ はウィーンでの敗戦 はいせん の責任 せきにん をテケリになすりつけたため、テケリはスルタンの面前 めんぜん で自己 じこ 弁護 べんご するためエディルネ に急行 きゅうこう した。しかし、直後 ちょくご にトルコが覇権 はけん を失 うしな ったことを理解 りかい したテケリは、ポーランド 王 おう ヤン3世 せい ソビェスキ の仲介 ちゅうかい でレオポルト1世 せい と和解 わかい する道 みち を模索 もさく し始 はじ めた。
テケリは皇帝 こうてい がハンガリーにおけるプロテスタントの宗教 しゅうきょう 上 じょう の権利 けんり と、テケリの領土 りょうど となった上 うえ ハンガリー(正確 せいかく には王 おう 領 りょう ハンガリー内 ない の13郡 ぐん )と君主 くんしゅ の称号 しょうごう の保持 ほじ を認 みと めれば降伏 ごうぶく するという提案 ていあん を行 おこな ったが、レオポルト1世 せい はこれらの条件 じょうけん をのむことを拒否 きょひ し、無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく を要求 ようきゅう したため、テケリは戦争 せんそう を再開 さいかい することになった。しかし1685年 ねん の遠征 えんせい は失敗 しっぱい の連続 れんぞく で、ナジヴァーラドのトルコ人 じん 達 たち に支援 しえん を求 もと めに行 い ったところ、逮捕 たいほ されてエディルネに連行 れんこう された(レオポルト1世 せい との交渉 こうしょう で信用 しんよう を失 うしな っていたとされる)。臣下 しんか 達 たち の大 だい 部分 ぶぶん は皇帝 こうてい との和平 わへい を結 むす んだため、テケリは劣勢 れっせい になった。
1686年 ねん に牢獄 ろうごく から解放 かいほう され、小規模 しょうきぼ な部隊 ぶたい と共 とも にトランシルヴァニアに送 おく り込 こ まれたが、この時 とき の遠征 えんせい も1688年 ねん の遠征 えんせい も失敗 しっぱい に終 お わり、またもや投獄 とうごく された。しかし1690年 ねん 、オスマン帝国 ていこく から1万 まん 6000人 にん の軍勢 ぐんぜい を与 あた えられトランシルヴァニアに送 おく り込 こ まれ、ジグベルト・ハイスター(de:Sigbert Heister )とテレキ・ミハーイ伯爵 はくしゃく の連合 れんごう 軍 ぐん にゼルネスト で勝利 しょうり した。この大勝 たいしょう の後 のち 、テケリはケレステミネズの議会 ぎかい によってトランシルヴァニア公 こう に選出 せんしゅつ されたが、この地位 ちい は皇帝 こうてい 軍 ぐん との戦 たたか いが極 きわ めて難局 なんきょく に陥 おちい ると維持 いじ 出来 でき なくなり、1691年 ねん にトランシルヴァニアから完全 かんぜん に撤退 てったい 、トランシルヴァニア公 こう はアパフィ・ミハーイ2世 せい が選出 せんしゅつ された。テケリは以後 いご 大 だい トルコ戦争 せんそう でオスマン帝国 ていこく に協力 きょうりょく し、1691年 ねん のスランカメンの戦 たたか い ではトルコ騎馬 きば 隊 たい を率 ひき いて活躍 かつやく したが、その後 ご のオーストリアとの戦 たたか いでは振 ふ るわず、1697年 ねん のゼンタの戦 たたか い で完敗 かんぱい してしまった。
1699年 ねん 1月 がつ 26日 にち に結 むす ばれたカルロヴィッツ条約 じょうやく では、ハンガリー人 じん 反乱 はんらん 者 しゃ に恩赦 おんしゃ が約束 やくそく されたが、テケリは恩赦 おんしゃ の対象 たいしょう 外 がい とされた。1700年 ねん にトランシルヴァニア公国 こうこく を取 と り戻 もど そうとしたが失敗 しっぱい に終 お わり、妻 つま イロナと共 とも に亡命 ぼうめい 、ガラタ に身 み を落 お ちつけた。スルタン・ムスタファ2世 せい からは膨大 ぼうだい な領地 りょうち を与 あた えられ、ヴィディン 伯爵 はくしゃく の称号 しょうごう を贈 おく った。1705年 ねん 、48歳 さい でニコメディア で亡 な くなった。
イロナとの間 あいだ に娘 むすめ エルジェーベトが1683年 ねん に生 う まれたが、1688年 ねん に夭折 ようせつ した。継子 けいし のラーコーツィ・フェレンツ2世 せい はウィーン でハプスブルク家 か の保護 ほご 下 か に置 お かれていたがやがて脱走 だっそう 、ハンガリー独立 どくりつ 戦争 せんそう を起 お こすことになる。
この記事 きじ にはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 内 うち で著作 ちょさく 権 けん が消滅 しょうめつ した次 つぎ の百科 ひゃっか 事典 じてん 本文 ほんぶん を含 ふく む: Chisholm, Hugh , ed. (1911). "Thököly, Imre". Encyclopædia Britannica (英語 えいご ) (11th ed.). Cambridge University Press.
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