ニュルンベルクの戦 たたか い (ニュルンベルクのたたかい、英 えい : Battle of Nürnberg )は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 末期 まっき 、バイエルン州 しゅう 、フランケン地方 ちほう の都市 とし ニュルンベルク において行 おこな われた戦闘 せんとう である。
ナチス・ドイツ によるバルジの戦 たたか い とノルトヴィント作戦 さくせん の失敗 しっぱい 後 ご 、ヨーロッパにおける第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん は最終 さいしゅう 局面 きょくめん に至 いた り、1945年 ねん 4月 がつ からバイエルン 地方 ちほう の各 かく 都市 とし はアメリカ陸軍 りくぐん 第 だい 7軍 ぐん による部隊 ぶたい に占領 せんりょう された。その中 なか でニュルンベルク の占領 せんりょう を巡 めぐ る戦闘 せんとう が5日間 にちかん 続 つづ いた。しかし、すでに大 だい 規模 きぼ な空襲 くうしゅう によって破壊 はかい されていたニュルンベルクの占領 せんりょう は戦争 せんそう のこの段階 だんかい に至 いた っては戦略 せんりゃく 上 じょう 、特 とく に重要 じゅうよう ではなかったという。
フランスの解放 かいほう 後 ご 、連合 れんごう 軍 ぐん はライン川 がわ を越 こ えバイエルン 地方 ちほう に進 すす んでいた。アメリカ軍 ぐん によるこの地域 ちいき の占領 せんりょう はヤルタ会談 かいだん ですでに策定 さくてい されており、後 ご の占領 せんりょう 地域 ちいき の範囲 はんい に対応 たいおう していた。したがって、ナチス の支配 しはい 下 か にあるバイエルン地方 ちほう の解放 かいほう はアメリカ軍 ぐん にかかっていた。ドイツ西部 せいぶ ではアメリカ軍 ぐん が接近 せっきん した際 さい にいくつかの都市 とし は戦 たたか わずに降伏 ごうぶく したが、いくつかの場所 ばしょ では小規模 しょうきぼ な抵抗 ていこう による激 はげ しい戦闘 せんとう がおこなわれており、ニュルンベルクにおける戦 たたか いもその一 ひと つであった。
当時 とうじ 、神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の実質 じっしつ 的 てき な首都 しゅと であり伝統 でんとう 的 てき にドイツ国 こく の中心 ちゅうしん 地 ち と考 かんが えられ、ナチスの会合 かいごう が行 おこな われてきたニュルンベルクはドイツと連合 れんごう 国 こく 双方 そうほう の認識 にんしき から「ナチズム の聖地 せいち 」として特 とく に重視 じゅうし されていた。そのため、ニュルンベルクの占領 せんりょう を目指 めざ して侵攻 しんこう するアメリカ軍 ぐん と現地 げんち の守備 しゅび 隊 たい による衝突 しょうとつ は必然 ひつぜん 的 てき なものとなっていた。
ドイツ側 がわ の状況 じょうきょう [ 編集 へんしゅう ]
フランケン大 だい 管区 かんく 指導 しどう 者 しゃ カール・ホルツ
ニュルンベルクでは、以下 いか の部隊 ぶたい が防衛 ぼうえい 部隊 ぶたい として編成 へんせい された。
召集 しょうしゅう の結果 けっか 、11,000~12,000人 にん の14歳 さい 以上 いじょう の男性 だんせい が集 あつ まった。しかし、部隊 ぶたい の装備 そうび は貧弱 ひんじゃく であり、戦車 せんしゃ や大砲 たいほう といった兵器 へいき も存在 そんざい せずライフル とピストル 程度 ていど の兵器 へいき しか装備 そうび されなかった。唯 ただ 一 いち まともな兵器 へいき は、市内 しない に設 もう けられた約 やく 140基 き の高射 こうしゃ 砲 ほう であり、その中 なか には連合 れんごう 国 こく が恐 おそ れていた8.8cm高射 こうしゃ 砲 ほう も含 ふく まれていた。それらは主 おも に防空 ぼうくう 用 よう の固定 こてい 砲台 ほうだい として敷設 ふせつ されており、RADの隊員 たいいん によって運用 うんよう され、ヒトラーユーゲントと東方 とうほう 義勇 ぎゆう 部隊 ぶたい の隊員 たいいん がその補助 ほじょ に務 つと めた。また、ニュルンベルクの操車 そうしゃ 場 じょう で大量 たいりょう の対空 たいくう 砲弾 ほうだん を積 つ んだ列車 れっしゃ が発見 はっけん されたので、弾薬 だんやく の不足 ふそく に悩 なや む必要 ひつよう はなかったという。
ニュルンベルクの防衛 ぼうえい 部隊 ぶたい に編入 へんにゅう された一部 いちぶ の部隊 ぶたい は壊滅 かいめつ しており、補充 ほじゅう と再編 さいへん のためにフランケン地方 ちほう に移 うつ されていた部隊 ぶたい (第 だい 38SS装甲 そうこう 擲弾兵 へい 連隊 れんたい と第 だい 21空軍 くうぐん 野戦 やせん 連隊 れんたい )であった。大半 たいはん の兵士 へいし は十分 じゅうぶん な訓練 くんれん を受 う けておらず、戦闘 せんとう 用 よう の被服 ひふく も不足 ふそく していたが多 おお くの隊員 たいいん は戦闘 せんとう に向 む いた私服 しふく と共 とも に隊員 たいいん 用 よう の腕章 わんしょう を身 み に着 つ けていた。私服 しふく のみではゲリラ と見 み なされ、捕虜 ほりょ となっても銃殺 じゅうさつ される恐 おそ れがあったので、腕章 わんしょう の着用 ちゃくよう は必要 ひつよう 不可欠 ふかけつ となっていた。飛行場 ひこうじょう の地上 ちじょう 要員 よういん 、そして、特 とく にヒトラーユーゲントと国民 こくみん 突撃 とつげき 隊 たい の装備 そうび が不足 ふそく していたという。
当時 とうじ 、ヨーゼフ・ゲッベルス は「結局 けっきょく のところ、武器 ぶき はそれほど重要 じゅうよう ではない。戦闘 せんとう では兵士 へいし は別 べつ の方法 ほうほう で武器 ぶき を得 え るだろう。」という精神 せいしん 論 ろん を唱 とな えていたが[2] 、こうした見解 けんかい はヒトラーユーゲントといった「若 わか き力 ちから 」によって敵 てき の「喉元 のどもと を噛 か む」であろうというニュルンベルクの大 だい 管区 かんく 監察 かんさつ 官 かん ゲオルグ・ハーバーカーンの見解 けんかい と一致 いっち していた[3] 。実際 じっさい ニュルンベルクの戦 たたか いにおいて、ヒトラーユーゲントの隊員 たいいん は、パンツァーファウスト による攻撃 こうげき や肉 にく 迫 せり によって数 すう メートル距離 きょり での対戦 たいせん 車 しゃ 戦闘 せんとう を敢行 かんこう していた[4] 。戦闘 せんとう 司令 しれい 官 かん のヴォルフは、各地 かくち に木材 もくざい と路面 ろめん 電車 でんしゃ による対戦 たいせん 車 しゃ 用 よう バリケード を建設 けんせつ させたが、これらはアメリカ軍 ぐん の前 まえ には全 まった く無力 むりょく であった[5] 。ヴォルフはアメリカ軍 ぐん の部隊 ぶたい がニュルンベルクに隣接 りんせつ するフュルト の町 まち から侵入 しんにゅう するものと見 み ていたが、この予測 よそく は外 はず れていた。この誤 あやま った判断 はんだん の下 した 、彼 かれ はレドニッツ川 がわ に架 か かる残 のこ りの橋 はし を爆破 ばくは するよう命令 めいれい していた。
ある学生 がくせい は、国民 こくみん 突撃 とつげき 隊 たい に所属 しょぞく した50歳 さい の父親 ちちおや をこう表現 ひょうげん している。
鎖 くさり につながれた(
食糧 しょくりょう 用 よう の)
牛 うし と
城 しろ の
二 ふた つの
堀 ほり だけが
頼 たの みである…しかし、
彼 かれ が
唯一 ゆいいつ 出来 でき ることは
白旗 はっき を
掲 かか げて
城 しろ を
解放 かいほう 者 しゃ に
引 ひ き
渡 わた すことのみであった
[6] 。
守備 しゅび 隊 たい は都市 とし の西側 にしがわ の道路 どうろ 、主 おも にフュルター通 どお りと主要 しゅよう 道路 どうろ 沿 ぞ いのいくつかの地点 ちてん に集中 しゅうちゅう していた。1945年 ねん 4月 がつ 7日 にち 、ニュルンベルクは「後方 こうほう 作戦 さくせん 地域 ちいき (rückwärtiges Operationsgebiet)」として宣言 せんげん され、国民 こくみん 突撃 とつげき 隊 たい の召集 しょうしゅう が行 おこな われ、4月 がつ 13日 にち に完了 かんりょう した[7] 。
アメリカ軍 ぐん の状況 じょうきょう [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 3歩兵 ほへい 師団 しだん 司令 しれい 官 かん ジョン・W・オダニエル
ジョン・W・オダニエル (en )指揮 しき 下 か の第 だい 3歩兵 ほへい 師団 しだん はジークフリート線 せん を突破 とっぱ し、ライン川 がわ を越 こ えバンベルク (4月 がつ 13日 にち 占領 せんりょう )とエアランゲン (4月 がつ 16日 にち 占領 せんりょう )を占領 せんりょう していた。その北 きた と東 ひがし に平行 へいこう してロバート・T・フレデリック 将軍 しょうぐん 率 ひき いる第 だい 45歩兵 ほへい 師団 しだん がヴォルムス とアシャッフェンブルク を経由 けいゆ して前進 ぜんしん していた。両 りょう 部隊 ぶたい は、ニュルンベルク、アウグスブルク 、ミュンヘン の制圧 せいあつ を担 にな い、ウェイド・H・ヘイスリップ (en )中将 ちゅうじょう 指揮 しき 下 か のXV軍団 ぐんだん に属 ぞく し、第 だい 7軍 ぐん の指揮 しき 下 か にあった。さらに支援 しえん 部隊 ぶたい には、第 だい 12機甲 きこう 師団 しだん 、東部 とうぶ の第 だい 14機甲 きこう 師団 しだん 、南部 なんぶ の第 だい 106機甲 きこう 騎兵 きへい 団 だん が存在 そんざい していた。ニュルンベルクでの戦闘 せんとう 指揮 しき は第 だい 3歩兵 ほへい 師団 しだん のオダニエルが執 と った[8] 。
全体 ぜんたい の戦力 せんりょく は約 やく 100,000人 にん で、約 やく 30,000人 にん の兵士 へいし が戦闘 せんとう に参加 さんか しており (特 とく に第 だい 3・第 だい 45歩兵 ほへい 師団 しだん ) 、これらの部隊 ぶたい には戦車 せんしゃ 、砲兵 ほうへい 、重砲 じゅうほう が装備 そうび されていた。ニュルンベルクの周辺 しゅうへん に展開 てんかい していた他 ほか の部隊 ぶたい はもはや必要 ひつよう なかったが、かつてのアルデンヌ攻勢 こうせい によるドイツ軍 ぐん の奇襲 きしゅう を避 さ けるため、予備 よび 部隊 ぶたい として戦闘 せんとう 部隊 ぶたい に随伴 ずいはん していた。これらの部隊 ぶたい が前進 ぜんしん を続 つづ けたもう 1 つの理由 りゆう は、ドイツ側 がわ に秘策 ひさく があるかもしれない、という司令 しれい 部 ぶ の懸念 けねん であった。アルプスに存在 そんざい するという、いわゆるアルプス国家 こっか 要塞 ようさい がその一 ひと つとして問題 もんだい とされていたが、実際 じっさい には要塞 ようさい は存在 そんざい しなかった。
ニュルンベルクの南西 なんせい 部 ぶ は閉鎖 へいさ されていなかったため、ドイツ軍 ぐん の部隊 ぶたい はローテンブルガー通 どお り (de )を経由 けいゆ して撤退 てったい していた。ドイツ軍 ぐん は劣勢 れっせい にもかかわらず、司令 しれい 部 ぶ から無謀 むぼう な戦闘 せんとう が要求 ようきゅう されたので、脱走 だっそう 兵 へい が相次 あいつ いだ[9] 。
ニュルンベルクの戦 たたか いは、1945年 ねん 4月 がつ 16日 にち の正午 しょうご に開始 かいし された。この日 ひ の天候 てんこう は暖 あたた かく、穏 おだ やかな天候 てんこう であった[10] 。ドイツでは1945年 ねん 4月 がつ 2日 にち より夏時間 なつじかん が実施 じっし されていたため、戦闘 せんとう は毎日 まいにち 早 はや い時間 じかん に開始 かいし された[11] 。
1945年 ねん 4月 がつ 16日 にち [ 編集 へんしゅう ]
アメリカ軍 ぐん の接近 せっきん の報告 ほうこく を受 う けた大 だい 管区 かんく 指導 しどう 者 しゃ のホルツは、アドルフ・ヒトラー が1945年 ねん 3月 がつ 19日 にち に下 くだ したいわゆるネロ指令 しれい に従 したが い、ニュルンベルクの都市 とし の破壊 はかい を命 めい じた。布告 ふこく にあたって「警告 けいこく !警告 けいこく !特殊 とくしゅ 作戦 さくせん Z : 作戦 さくせん 名 めい プーマ(Achtung! Achtung! Sonderkommando Z: Code 'Puma'!)」という警報 けいほう が放送 ほうそう された。降伏 ごうぶく に前向 まえむ きな市長 しちょう のリーベルと、放送 ほうそう 局 きょく の職員 しょくいん である高射 こうしゃ 砲 ほう 部隊 ぶたい のシェダート軍曹 ぐんそう との間 あいだ の暗黙 あんもく の、あるいは合意 ごうい に基 もと づく協力 きょうりょく により放送 ほうそう は中止 ちゅうし され、何 なん 千 せん 人 にん もの命 いのち を奪 うば うであろうこの命令 めいれい は実行 じっこう されずに済 す んだ[12] 。翌日 よくじつ 、ホルツに詰問 きつもん された際 さい も、シェダートはその毅然 きぜん とした態度 たいど から「偉丈夫 いじょうふ 」として親 した しまれたが[13] 、破壊 はかい 命令 めいれい を2回 かい 読 よ み上 あ げたと正直 しょうじき に主張 しゅちょう した。さらにホルツは、リンデ社 しゃ の冷凍 れいとう 倉庫 そうこ に保管 ほかん されていた175万 まん kgの冷凍 れいとう 肉 にく と67万 まん kgのバター を、住民 じゅうみん に分配 ぶんぱい するように命 めい じた。これは、アメリカ軍 ぐん に少 すこ しでも物資 ぶっし を与 あた えないためにとられた処置 しょち であった[14] 。このため、1942年 ねん に食糧 しょくりょう の配給 はいきゅう が大幅 おおはば に削減 さくげん されて以来 いらい 、市民 しみん は初 はじ めて本格 ほんかく 的 てき な食事 しょくじ にありつけることができた。1週間 しゅうかん に1,700kgのパン 、250gの肉 にく 、125gのバターが配 くば られていた[15] 。
正午 しょうご 、アメリカ軍 ぐん の戦車 せんしゃ 部隊 ぶたい が東 ひがし のエルレンシュテーゲン (de )近郊 きんこう からニュルンベルク市域 しいき に入 はい った。午後 ごご 12時 じ 45分 ふん 、最初 さいしょ は誤 あやま って空襲 くうしゅう 警報 けいほう 、次 つぎ に戦車 せんしゃ 警報 けいほう (敵襲 てきしゅう 警報 けいほう とも呼 よ ばれる)が放送 ほうそう された。家屋 かおく が破壊 はかい されるにつれて各所 かくしょ の防空 ぼうくう サイレンが作動 さどう しなくなったため、ラジオ 放送 ほうそう や拡声 かくせい 器 き を搭載 とうさい した車 くるま で警報 けいほう を行 おこな った。非 ひ 戦闘 せんとう 員 いん は地下 ちか へ避難 ひなん するように命 めい じられた。4月16日 にち 、第 だい 3師団 しだん の戦車 せんしゃ 部隊 ぶたい は先鋒 せんぽう としてブッヘンビュール(de )を経由 けいゆ してジーゲルシュタイン(de )へ進 すす み、第 だい 45師団 しだん の戦車 せんしゃ 部隊 ぶたい はエルレンシュテーゲンを経由 けいゆ して南西 なんせい の操車 そうしゃ 場 じょう へと進 すす んでいった。日暮 ひぐ れまで大 おお きな戦闘 せんとう はなく、双方 そうほう とも暗闇 くらやみ での戦闘 せんとう を避 さ けていた[16] 。灯火 ともしび 管制 かんせい による夜陰 やいん の中 なか 、双方 そうほう は同士討 どうしう ちを警戒 けいかい していたが、アメリカ軍 ぐん の砲兵 ほうへい だけは日没 にちぼつ までに標定 ひょうてい を済 す ませていたため砲撃 ほうげき を続 つづ けた。
1945年 ねん 4月 がつ 17日 にち [ 編集 へんしゅう ]
4月 がつ 17日 にち 、アメリカ軍 ぐん によるニュルンベルクへの砲撃 ほうげき が始 はじ まった。電話 でんわ による降伏 ごうぶく 勧告 かんこく が市長 しちょう 宛 あ てに行 おこな われたが、回答 かいとう は無 な かった。狂信 きょうしん 的 てき なナチのホルツは市長 しちょう のリーベルと方針 ほうしん を巡 めぐ って対立 たいりつ していたが、ホルツは死守 ししゅ する立場 たちば をとっており、その上 うえ 、ヒトラーと徹底 てってい 抗戦 こうせん を巡 めぐ る電報 でんぽう を交換 こうかん していたので、その意思 いし は強固 きょうこ なものとなっていた。
市内 しない では自暴自棄 じぼうじき に冒 おか された一部 いちぶ の住民 じゅうみん による強奪 ごうだつ や略奪 りゃくだつ が横行 おうこう していた[17] 。保税 ほぜい 倉庫 そうこ のワイン倉庫 そうこ では「グロテスクな酒宴 しゅえん 」を楽 たの しんでいた多 おお くの者 もの が、戦闘 せんとう の砲撃 ほうげき により死傷 ししょう していた。貨物 かもつ 駅 えき では食糧 しょくりょう を積 つ んだ貨車 かしゃ が襲 おそ われた。市営 しえい の衣服 いふく 倉庫 そうこ や、民間 みんかん 企業 きぎょう も同様 どうよう に略奪 りゃくだつ の被害 ひがい を受 う けた。この日 ひ もアメリカ軍 ぐん は前進 ぜんしん を続 つづ け、第 だい 3歩兵 ほへい 師団 しだん はアルモスホフやローエのドイツ軍 ぐん 抵抗 ていこう の拠点 きょてん へ、第 だい 45歩兵 ほへい 師団 しだん は町 まち の南 みなみ にあるSSの兵舎 へいしゃ へと進撃 しんげき した。4月17日 にち の夜 よる には、北 きた 、東 ひがし 、南東 なんとう のドイツ軍 ぐん の主要 しゅよう 戦線 せんせん が失 うしな われた。
1945年 ねん 4月 がつ 18日 にち [ 編集 へんしゅう ]
4月 がつ 18日 にち には、ドイツ軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい による抵抗 ていこう が激 はげ しくなった。北 きた 、東 ひがし 、南東 なんとう の主要 しゅよう 進入 しんにゅう 路 ろ (Bucher Straße、Rollnerstraße、Bayreuther Straße、Sulzbacher Straße、Ostendstraße、Regensburger Straße)では、武装 ぶそう 親衛隊 しんえいたい や空軍 くうぐん の部隊 ぶたい が、進撃 しんげき してくるアメリカ軍 ぐん に市街 しがい 戦 せん を仕掛 しか けたが、進撃 しんげき を阻止 そし することはできなかった。
その日 ひ の夕方 ゆうがた 、アメリカ軍 ぐん の部隊 ぶたい は旧 きゅう 市街 しがい の環状 かんじょう 道路 どうろ から約 やく 1km離 はな れた地点 ちてん で円陣 えんじん を組 く み、開 ひら かれていた南西 なんせい の隙間 すきま を埋 う めた。その日 ひ の夜 よる 、ヴォルフ、ホルツ、リーベルは、それまでの司令 しれい 部 ぶ のパニエブンカーが米 べい 軍 ぐん の迫撃 はくげき 砲 ほう の射程 しゃてい 内 ない に入 はい ってしまったため、アルトシュタット南西 なんせい 端 はし にある警察 けいさつ 本部 ほんぶ のパルメンホフバンカーに移動 いどう した。ホルツは徹底 てってい 抗戦 こうせん による死守 ししゅ をヒトラーに無線 むせん で報告 ほうこく した。ホルツの計画 けいかく では、アメリカ軍 ぐん によるニュルンベルク占領 せんりょう を阻止 そし することであったが、同時 どうじ にその計画 けいかく が非 ひ 現実 げんじつ 的 てき であることも知 し っていた。仮 かり に防衛 ぼうえい に成功 せいこう したとしても、軍事 ぐんじ 的 てき にも政治 せいじ 的 てき にも何 なん の成果 せいか も得 え られず、都市 とし の住民 じゅうみん や部隊 ぶたい が大量 たいりょう に犠牲 ぎせい になるだけであった。こうした、自殺 じさつ 的 てき な傾向 けいこう は、ヒトラーが帝国 ていこく 防衛 ぼうえい 委員 いいん に要求 ようきゅう したものと一致 いっち していた。
1945年 ねん 4月 がつ 19日 にち [ 編集 へんしゅう ]
ニュルンベルク旧 きゅう 市街 しがい における第 だい 3歩兵 ほへい 師団 しだん の部隊 ぶたい
4月 がつ 19日 にち の朝 あさ 、隣 となり 町 まち のフュルト が戦 たたか わずして降伏 ごうぶく したため、西 にし の第 だい 42師団 しだん はニュルンベルクまで抵抗 ていこう もなく前進 ぜんしん できるようになった。ニュルンベルク城 じょう 近 ちか くのSt.Johannis地区 ちく 、プレーラー広場 ひろば そして中央 ちゅうおう 駅 えき 周辺 しゅうへん といった旧 きゅう 市街 しがい では、市街 しがい 戦 せん が建物 たてもの 間 あいだ での戦闘 せんとう にまで発展 はってん した。特 とく に、市街 しがい 戦 せん ではドイツ軍 ぐん の狙撃 そげき 兵 へい が脅威 きょうい となっていた。市街 しがい が被 こうむ った損害 そんがい は甚大 じんだい なもので、戦後 せんご 数 すう 十 じゅう 年 ねん を経 へ てもなお痕跡 こんせき が残 のこ されている。
4月 がつ 19日 にち の夜 よる 、アメリカ軍 ぐん は最後 さいご の防衛 ぼうえい 線 せん である旧 きゅう 市街 しがい の環状 かんじょう 線 せん まで進 すす んでいた。そのため、米兵 べいへい は中央 ちゅうおう 駅前 えきまえ のケーニッヒ通 どお り、そしてプレーラー広場 ひろば に展開 てんかい していた[18] 。
1945年 ねん 4月 がつ 20日 はつか [ 編集 へんしゅう ]
ニュルンベルクの戦 たたか いを報 ほう じる星条旗 せいじょうき 新聞 しんぶん (1945年 ねん 4月 がつ 21日 にち 版 ばん )
ヒトラーの誕生 たんじょう 日 び である、4月 がつ 20日 はつか 、市長 しちょう のリーベルは自決 じけつ した。一説 いっせつ には、都市 とし をアメリカ軍 ぐん に明 あ け渡 わた そうとした所 ところ をホルツに射殺 しゃさつ されたといわれるが、真相 しんそう は未 いま だ不明 ふめい である[19] 。戦闘 せんとう 司令 しれい 官 かん のヴォルフによると、リーベルは午前 ごぜん 12時 じ 30分 ふん 頃 ごろ 、パルメンホフ地下 ちか 壕 ごう のホルツの執務 しつむ 室 しつ で自殺 じさつ したという[20] 。ブルグベルクの地下 ちか に作 つく られた大 だい 規模 きぼ な地下道 ちかどう の部隊 ぶたい が降伏 ごうぶく した後 のち 、アメリカ軍 ぐん による砲撃 ほうげき が止 や んだ。ヴォルフは、午前 ごぜん 10時 じ 30分 ふん 頃 ごろ 、残 のこ った防衛 ぼうえい 部隊 ぶたい に無線 むせん で抵抗 ていこう を中止 ちゅうし するように命 めい じたが、町 まち を明 あ け渡 わた すことはせず、部隊 ぶたい に行動 こうどう の自由 じゆう を与 あた えた。彼 かれ は、2週間 しゅうかん 前 まえ に指揮 しき を執 と ったヴュルツブルク での戦闘 せんとう と同様 どうよう 、わずかに残 のこ った建物 たてもの を広範囲 こうはんい に破壊 はかい し、多 おお くの人命 じんめい を奪 うば い、戦局 せんきょく に影響 えいきょう を与 あた えないという結果 けっか をもたらした。そのため、個々 ここ の部隊 ぶたい が戦闘 せんとう を続 つづ けた。特 とく に、ホルツを中心 ちゅうしん としたグループは、数 すう 百 ひゃく 人 にん の警察官 けいさつかん や軍人 ぐんじん とともにパルメンホフの地下 ちか 壕 ごう に立 た て篭 こ もり、夕方 ゆうがた まで戦闘 せんとう を続 つづ けていた。その中 なか には、ニュルンベルク警察 けいさつ 署長 しょちょう のオットー・クショーも含 ふく まれていたが、彼 かれ は戦闘 せんとう 中 ちゅう に死亡 しぼう した。4月 がつ 20日 はつか の夕方 ゆうがた 、オダニエルはハウプトマルクトの「アドルフ・ヒトラー通 どお り」で戦勝 せんしょう パレードを行 おこな った[21] 。「アドルフ・ヒトラー通 どお り」と書 か かれた道路 どうろ 標識 ひょうしき は、オダニエルのニックネーム「アイアン・マイク」にちなんで「アイゼルナー・マイケル・プラッツ」(鉄 てつ のマイケル広場 ひろば )と改称 かいしょう され、その日 ひ のうちに「ルーズベルト・プレイス」と書 か かれた標識 ひょうしき も追加 ついか された。パレードは、地下 ちか 壕 ごう の最後 さいご の抵抗 ていこう 勢力 せいりょく による攻撃 こうげき によっても妨 さまた げられず、パレードが広場 ひろば で行 おこな われている間 あいだ 、この最後 さいご の抵抗 ていこう 勢力 せいりょく (広場 ひろば から約 やく 1マイルの距離 きょり )も鎮圧 ちんあつ された。ホルツの部隊 ぶたい もまた、解散 かいさん の兆 きざ しを防 ふせ ぐことができず、自滅 じめつ 的 てき な攻撃 こうげき や自殺 じさつ が相次 あいつ いだ。(それにも関 かか わらずホルツ自身 じしん は、当時 とうじ のヴァイツェン通 どお りで、投降 とうこう した警察官 けいさつかん の一団 いちだん とアメリカ兵 へい に警察 けいさつ 本部 ほんぶ から発砲 はっぽう し抵抗 ていこう していた[22] )ホルツによる最後 さいご の足掻 あが きとも思 おも われる行動 こうどう は、降伏 ごうぶく の交渉 こうしょう のために地下 ちか 壕 ごう に近 ちか づいてきたベルギー の議員 ぎいん を射殺 しゃさつ させたことであった[22] 。オダニエルは戦勝 せんしょう パレードと、1945年 ねん 4月 がつ 12日 にち に亡 な くなったフランクリン・ルーズベルト 大統領 だいとうりょう への追悼 ついとう を合 あ わせて行 い った[23] 。
4月 がつ 20日 はつか の夜 よる 、防衛 ぼうえい 司令 しれい 官 かん のヴォルフは逃亡 とうぼう したが、4月 がつ 21日 にち の早朝 そうちょう 、地下 ちか 室 しつ に潜伏 せんぷく していた所 ところ をアメリカのパトロール部隊 ぶたい に捕 と らえられた[24] 。市街地 しがいち の南部 なんぶ では、4月 がつ 24日 にち まで個々 ここ のドイツ兵 へい による抵抗 ていこう があったという[25] 。
ニュルンベルクにおける戦 たたか いは、軍事 ぐんじ 的 てき にも政治 せいじ 的 てき にもほとんど無意味 むいみ に終 お わった。その上 うえ 、重要 じゅうよう な建物 たてもの や橋 はし 、各種 かくしゅ のインフラ施設 しせつ が完全 かんぜん に破壊 はかい された。セバルドゥス教会 きょうかい の塔 とう や、多数 たすう の旧 きゅう 市街 しがい 城門 じょうもん 、ライン・マイン・ドナウ運河 うんが の港 みなと に面 めん してすでに大 おお きな被害 ひがい を受 う けていたガス供給 きょうきゅう 施設 しせつ なども同様 どうよう に被害 ひがい を受 う けた。もっとも、アメリカ軍 ぐん の進撃 しんげき や、ダッハウ強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ の解放 かいほう は数日 すうじつ 遅 おく れることになった。
ニュルンベルクの戦 たたか いでは、少 すく なくとも901人 にん が犠牲 ぎせい となった。
民間 みんかん 人 じん と強制 きょうせい 労働 ろうどう 者 しゃ 371人 にん
第 だい 3歩兵 ほへい 師団 しだん と第 だい 45歩兵 ほへい 師団 しだん のアメリカ兵 へい 130人 にん
ドイツ兵 へい 400人 にん 、とりわけ対戦 たいせん 車 しゃ 近接 きんせつ 戦闘 せんとう を試 こころ みたヒトラー・ユーゲントを含 ふく む
このため、防衛 ぼうえい 首脳 しゅのう 部 ぶ のリーベル、ホルツ、ヴォルフの行動 こうどう は非難 ひなん されている[26] 。
^ Wobei Liebels reale Einflußmöglichkeit gering war; Entscheidungen trafen im Wesentlichen Holz und Wolf; vgl. Willy Liebel
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^ Robert Fritzsch: Nürnberg im Krieg . Droste, Düsseldorf 1984, ISBN 3-8112-0697-4 , S. 100.
^ Verordnung über die Wiedereinführung der Normalzeit im Winter 1944/45 vom 4. September 1944, RGBl. I, S. 198.
^ Der Spiegel : Onkel Baldrian: Die Stimme im Bunker , 3. Oktober 2007, geladen am 20. September 2018
^ Bayerischer Rundfunk : Leben in Trümmern , vom 9. April 2015, geladen am 20. September 2018
^ Michael Diefenbacher, Wiltrud Fischer-Pache: Der Luftkrieg gegen Nürnberg . Schmidt, Nürnberg 2004, ISBN 3-87707-634-3 , S. 381 f.
^ Robert Fritzsch: Nürnberg im Krieg . Droste, Düsseldorf 1984, ISBN 3-8112-0697-4 , S. 89.
^ Fritz Nadler: Ich sah wie Nürnberg unterging , Fränkische Verlagsanstalt und Buchdruckerei, Nürnberg 1955, S. 129.
^ Für diesen und den vorangehenden Absatz: Fritz Nadler: Ich sah wie Nürnberg unterging , Fränkische Verlagsanstalt und Buchdruckerei, Nürnberg 1955, S. 133 f.
^ Fritz Nadler: Ich sah wie Nürnberg unterging , Fränkische Verlagsanstalt und Buchdruckerei, Nürnberg 1955, S. 131.
^ Die 1956 gerichtlich festgestellte Todesursache lautete auf Selbsttötung.
^ Walter Kempowski: Das Echolot – Abgesang ’45 , 3. Auflage. Knaus, München 2005, ISBN 3-8135-0249-X , S. 51.
^ US Wochenschau mit Bildern von Nürnberg und der Siegesparade
^ a b Fritz Nadler: Ich sah wie Nürnberg unterging . Fränkische Verlagsanstalt und Buchdruckerei, Nürnberg 1955, S. 133
^ Zu den Abschnitten ab 17. April 1945: Robert Fritzsch: Nürnberg im Krieg . Droste, Düsseldorf 1984, ISBN 3-8112-0697-4 , S. 98 ff. und Michael Diefenbacher, Wiltrud Fischer-Pache: Der Luftkrieg gegen Nürnberg . Schmidt, Nürnberg 2004, ISBN 3-87707-634-3 , S. 380 ff.
^ Zu diesem gesamten Absatz: Walter Kempowski : Das Echolot – Abgesang ’45 . 3. Auflage. Knaus, München 2005, ISBN 3-8135-0249-X , S. 52.
^ Robert Fritzsch: Nürnberg im Krieg . Droste, Düsseldorf 1984, ISBN 3-8112-0697-4 , S. 105.
^ Michael Diefenbacher, Wiltrud Fischer-Pache: Der Luftkrieg gegen Nürnberg . Schmidt, Nürnberg 2004, ISBN 3-87707-634-3 , S. 289.
Michael Diefenbacher , Wiltrud Fischer-Pache: Der Luftkrieg gegen Nürnberg . Schmidt, Nürnberg 2004, ISBN 3-87707-634-3 .
Robert Fritzsch: Nürnberg im Krieg . Droste, Düsseldorf 1984, ISBN 3-8112-0697-4 .
Peter Heigl : Toyland – Bomber über Nürnberg: Nürnberg im Zweiten Weltkrieg . Nürnberg 2004, ISBN 3-00-015199-0 .
Karl Kunze: Kriegsende in Franken und der Kampf um Nürnberg im April 1945 (= Nürnberger Forschungen , 28). Nürnberg 1995.
Erhard Mossack: Die letzten Tage von Nürnberg. Nach einem Tatsachenbericht aus dem 8 Uhr-Blatt . Noris-Verlag, Nürnberg 1952. (Nachdruck: Verlag Deuerlein, 2000, ISBN 3-423-02701-0 )
Fritz Nadler: Ich sah wie Nürnberg unterging . Fränkische Verlagsanstalt und Buchdruckerei, Nürnberg 1955.