ニュルンベルクのたたか

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ニュルンベルクのたたか

ナチとうとう大会たいかい会場かいじょう占領せんりょうしたアメリカぐん(ツェッペリン広場ひろば
戦争せんそうだい世界せかい大戦たいせん西部せいぶ戦線せんせん
年月日ねんがっぴ:1945ねん4がつ16にち - 4がつ20日はつか
場所ばしょドイツ
ニュルンベルク
結果けっか:アメリカぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
ナチス・ドイツの旗 ドイツこく アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
ナチス・ドイツの旗 ヴィリー・リーベルde
ナチス・ドイツの旗 カール・ホルツde
ナチス・ドイツの旗 リヒャルト・ヴォルフde
アメリカ合衆国の旗 ウェイド・H・ハイスリップen
アメリカ合衆国の旗 ジョン・W・オダニエルen
アメリカ合衆国の旗 ロバート・T・フレデリックen
戦力せんりょく
ドイツ国防こくぼうぐん

武装ぶそう親衛隊しんえいたい フランケンだい管区かんくde

アメリカ合衆国の旗 だい7ぐん
損害そんがい
戦闘せんとういん400にん戦闘せんとういん371にん 130にん
西部せいぶ戦線せんせん (1944-45)

ニュルンベルクのたたか(ニュルンベルクのたたかい、えい: Battle of Nürnberg)は、だい世界せかい大戦たいせん末期まっきバイエルンしゅうフランケン地方ちほう都市としニュルンベルクにおいておこなわれた戦闘せんとうである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

ナチス・ドイツによるバルジのたたかノルトヴィント作戦さくせん失敗しっぱい、ヨーロッパにおけるだい世界せかい大戦たいせん最終さいしゅう局面きょくめんいたり、1945ねん4がつからバイエルン地方ちほうかく都市としアメリカ陸軍りくぐんだい7ぐんによる部隊ぶたい占領せんりょうされた。そのなかニュルンベルク占領せんりょうめぐ戦闘せんとうが5日間にちかんつづいた。しかし、すでにだい規模きぼ空襲くうしゅうによって破壊はかいされていたニュルンベルクの占領せんりょう戦争せんそうのこの段階だんかいいたっては戦略せんりゃくじょうとく重要じゅうようではなかったという。

フランスの解放かいほう連合れんごうぐんラインがわバイエルン地方ちほうすすんでいた。アメリカぐんによるこの地域ちいき占領せんりょうヤルタ会談かいだんですでに策定さくていされており、占領せんりょう地域ちいき範囲はんい対応たいおうしていた。したがって、ナチス支配しはいにあるバイエルン地方ちほう解放かいほうはアメリカぐんにかかっていた。ドイツ西部せいぶではアメリカぐん接近せっきんしたさいにいくつかの都市としたたかわずに降伏ごうぶくしたが、いくつかの場所ばしょでは小規模しょうきぼ抵抗ていこうによるはげしい戦闘せんとうがおこなわれており、ニュルンベルクにおけるたたかいもそのひとつであった。

当時とうじかみきよしマ帝国まていこく実質じっしつてき首都しゅとであり伝統でんとうてきドイツこく中心ちゅうしんかんがえられ、ナチスの会合かいごうおこなわれてきたニュルンベルクはドイツと連合れんごうこく双方そうほう認識にんしきから「ナチズム聖地せいち」としてとく重視じゅうしされていた。そのため、ニュルンベルクの占領せんりょう目指めざして侵攻しんこうするアメリカぐん現地げんち守備しゅびたいによる衝突しょうとつ必然ひつぜんてきなものとなっていた。

ドイツがわ状況じょうきょう[編集へんしゅう]

フランケンだい管区かんく指導しどうしゃカール・ホルツ

ニュルンベルクでは、以下いか部隊ぶたい防衛ぼうえい部隊ぶたいとして編成へんせいされた。

召集しょうしゅう結果けっか、11,000~12,000にんの14さい以上いじょう男性だんせいあつまった。しかし、部隊ぶたい装備そうび貧弱ひんじゃくであり、戦車せんしゃ大砲たいほうといった兵器へいき存在そんざいせずライフルピストル程度ていど兵器へいきしか装備そうびされなかった。ただいちまともな兵器へいきは、市内しないもうけられたやく140高射こうしゃほうであり、そのなかには連合れんごうこくおそれていた8.8cm高射こうしゃほうふくまれていた。それらはおも防空ぼうくうよう固定こてい砲台ほうだいとして敷設ふせつされており、RADの隊員たいいんによって運用うんようされ、ヒトラーユーゲントと東方とうほう義勇ぎゆう部隊ぶたい隊員たいいんがその補助ほじょつとめた。また、ニュルンベルクの操車そうしゃじょう大量たいりょう対空たいくう砲弾ほうだんんだ列車れっしゃ発見はっけんされたので、弾薬だんやく不足ふそくなや必要ひつようはなかったという。

ニュルンベルクの防衛ぼうえい部隊ぶたい編入へんにゅうされた一部いちぶ部隊ぶたい壊滅かいめつしており、補充ほじゅう再編さいへんのためにフランケン地方ちほううつされていた部隊ぶたい(だい38SS装甲そうこう擲弾へい連隊れんたいだい21空軍くうぐん野戦やせん連隊れんたい)であった。大半たいはん兵士へいし十分じゅうぶん訓練くんれんけておらず、戦闘せんとうよう被服ひふく不足ふそくしていたがおおくの隊員たいいん戦闘せんとういた私服しふくとも隊員たいいんよう腕章わんしょうけていた。私服しふくのみではゲリラなされ、捕虜ほりょとなっても銃殺じゅうさつされるおそれがあったので、腕章わんしょう着用ちゃくよう必要ひつよう不可欠ふかけつとなっていた。飛行場ひこうじょう地上ちじょう要員よういん、そして、とくにヒトラーユーゲントと国民こくみん突撃とつげきたい装備そうび不足ふそくしていたという。

当時とうじヨーゼフ・ゲッベルスは「結局けっきょくのところ、武器ぶきはそれほど重要じゅうようではない。戦闘せんとうでは兵士へいしべつ方法ほうほう武器ぶきるだろう。」という精神せいしんろんとなえていたが[2]、こうした見解けんかいはヒトラーユーゲントといった「わかちから」によっててきの「喉元のどもとむ」であろうというニュルンベルクのだい管区かんく監察かんさつかんゲオルグ・ハーバーカーンの見解けんかい一致いっちしていた[3]実際じっさいニュルンベルクのたたかいにおいて、ヒトラーユーゲントの隊員たいいんは、パンツァーファウストによる攻撃こうげきにくせりによってすうメートル距離きょりでの対戦たいせんしゃ戦闘せんとう敢行かんこうしていた[4]戦闘せんとう司令しれいかんのヴォルフは、各地かくち木材もくざい路面ろめん電車でんしゃによる対戦たいせんしゃようバリケード建設けんせつさせたが、これらはアメリカぐんまえにはまった無力むりょくであった[5] 。ヴォルフはアメリカぐん部隊ぶたいがニュルンベルクに隣接りんせつするフュルトまちから侵入しんにゅうするものとていたが、この予測よそくはずれていた。このあやまった判断はんだんしたかれレドニッツがわかるのこりのはし爆破ばくはするよう命令めいれいしていた。

ある学生がくせいは、国民こくみん突撃とつげきたい所属しょぞくした50さい父親ちちおやをこう表現ひょうげんしている。

くさりにつながれた(食糧しょくりょうようの)うししろふたつのほりだけがたのみである…しかし、かれ唯一ゆいいつ出来できることは白旗はっきかかげてしろ解放かいほうしゃわたすことのみであった[6]

守備しゅびたい都市とし西側にしがわ道路どうろおもにフュルターどおりと主要しゅよう道路どうろ沿いのいくつかの地点ちてん集中しゅうちゅうしていた。1945ねん4がつ7にち、ニュルンベルクは「後方こうほう作戦さくせん地域ちいき(rückwärtiges Operationsgebiet)」として宣言せんげんされ、国民こくみん突撃とつげきたい召集しょうしゅうおこなわれ、4がつ13にち完了かんりょうした[7]

アメリカぐん状況じょうきょう[編集へんしゅう]

だい3歩兵ほへい師団しだん司令しれいかんジョン・W・オダニエル

ジョン・W・オダニエルen指揮しきだい3歩兵ほへい師団しだんジークフリートせん突破とっぱし、ラインがわバンベルク(4がつ13にち占領せんりょう)とエアランゲン(4がつ16にち占領せんりょう)を占領せんりょうしていた。そのきたひがし平行へいこうしてロバート・T・フレデリック将軍しょうぐんひきいるだい45歩兵ほへい師団しだんヴォルムスアシャッフェンブルク経由けいゆして前進ぜんしんしていた。りょう部隊ぶたいは、ニュルンベルク、アウグスブルクミュンヘン制圧せいあつにない、ウェイド・H・ヘイスリップen中将ちゅうじょう指揮しきのXV軍団ぐんだんぞくし、だい7ぐん指揮しきにあった。さらに支援しえん部隊ぶたいには、だい12機甲きこう師団しだん東部とうぶだい14機甲きこう師団しだん南部なんぶだい106機甲きこう騎兵きへいだん存在そんざいしていた。ニュルンベルクでの戦闘せんとう指揮しきだい3歩兵ほへい師団しだんのオダニエルがった[8]

全体ぜんたい戦力せんりょくやく100,000にんで、やく 30,000にん兵士へいし戦闘せんとう参加さんかしており (とくだい3・だい45歩兵ほへい師団しだん) 、これらの部隊ぶたいには戦車せんしゃ砲兵ほうへい重砲じゅうほう装備そうびされていた。ニュルンベルクの周辺しゅうへん展開てんかいしていたほか部隊ぶたいはもはや必要ひつようなかったが、かつてのアルデンヌ攻勢こうせいによるドイツぐん奇襲きしゅうけるため、予備よび部隊ぶたいとして戦闘せんとう部隊ぶたい随伴ずいはんしていた。これらの部隊ぶたい前進ぜんしんつづけたもう 1 つの理由りゆうは、ドイツがわ秘策ひさくがあるかもしれない、という司令しれい懸念けねんであった。アルプスに存在そんざいするという、いわゆるアルプス国家こっか要塞ようさいがそのひとつとして問題もんだいとされていたが、実際じっさいには要塞ようさい存在そんざいしなかった。

ニュルンベルクの南西なんせい閉鎖へいさされていなかったため、ドイツぐん部隊ぶたいローテンブルガーどおde)を経由けいゆして撤退てったいしていた。ドイツぐん劣勢れっせいにもかかわらず、司令しれいから無謀むぼう戦闘せんとう要求ようきゅうされたので、脱走だっそうへい相次あいついだ[9]

戦闘せんとう[編集へんしゅう]

ニュルンベルクのたたかいは、1945ねん4がつ16にち正午しょうご開始かいしされた。この天候てんこうあたたかく、おだやかな天候てんこうであった[10]。ドイツでは1945ねん4がつ2にちより夏時間なつじかん実施じっしされていたため、戦闘せんとう毎日まいにちはや時間じかん開始かいしされた[11]

1945ねん4がつ16にち[編集へんしゅう]

アメリカぐん接近せっきん報告ほうこくけただい管区かんく指導しどうしゃのホルツは、アドルフ・ヒトラーが1945ねん3がつ19にちくだしたいわゆるネロ指令しれいしたがい、ニュルンベルクの都市とし破壊はかいめいじた。布告ふこくにあたって「警告けいこく警告けいこく特殊とくしゅ作戦さくせんZ : 作戦さくせんめいプーマ(Achtung! Achtung! Sonderkommando Z: Code 'Puma'!)」という警報けいほう放送ほうそうされた。降伏ごうぶく前向まえむきな市長しちょうのリーベルと、放送ほうそうきょく職員しょくいんである高射こうしゃほう部隊ぶたいのシェダート軍曹ぐんそうとのあいだ暗黙あんもくの、あるいは合意ごういもとづく協力きょうりょくにより放送ほうそう中止ちゅうしされ、なんせんにんものいのちうばうであろうこの命令めいれい実行じっこうされずにんだ[12]翌日よくじつ、ホルツに詰問きつもんされたさいも、シェダートはその毅然きぜんとした態度たいどから「偉丈夫いじょうふ」としてしたしまれたが[13]破壊はかい命令めいれいを2かいげたと正直しょうじき主張しゅちょうした。さらにホルツは、リンデしゃ冷凍れいとう倉庫そうこ保管ほかんされていた175まんkgの冷凍れいとうにくと67まんkgのバターを、住民じゅうみん分配ぶんぱいするようにめいじた。これは、アメリカぐんすこしでも物資ぶっしあたえないためにとられた処置しょちであった[14]。このため、1942ねん食糧しょくりょう配給はいきゅう大幅おおはば削減さくげんされて以来いらい市民しみんはじめて本格ほんかくてき食事しょくじにありつけることができた。1週間しゅうかんに1,700kgのパン、250gのにく、125gのバターがくばられていた[15]

正午しょうご、アメリカぐん戦車せんしゃ部隊ぶたいひがしエルレンシュテーゲンde近郊きんこうからニュルンベルク市域しいきはいった。午後ごご1245ふん最初さいしょあやまって空襲くうしゅう警報けいほうつぎ戦車せんしゃ警報けいほう敵襲てきしゅう警報けいほうともばれる)が放送ほうそうされた。家屋かおく破壊はかいされるにつれて各所かくしょ防空ぼうくうサイレンが作動さどうしなくなったため、ラジオ放送ほうそう拡声かくせい搭載とうさいしたくるま警報けいほうおこなった。戦闘せんとういん地下ちか避難ひなんするようにめいじられた。4月16にちだい3師団しだん戦車せんしゃ部隊ぶたい先鋒せんぽうとしてブッヘンビュール(de)を経由けいゆしてジーゲルシュタイン(de)へすすみ、だい45師団しだん戦車せんしゃ部隊ぶたいはエルレンシュテーゲンを経由けいゆして南西なんせい操車そうしゃじょうへとすすんでいった。日暮ひぐれまでおおきな戦闘せんとうはなく、双方そうほうとも暗闇くらやみでの戦闘せんとうけていた[16]灯火ともしび管制かんせいによる夜陰やいんなか双方そうほう同士討どうしうちを警戒けいかいしていたが、アメリカぐん砲兵ほうへいだけは日没にちぼつまでに標定ひょうていませていたため砲撃ほうげきつづけた。

1945ねん4がつ17にち[編集へんしゅう]

4がつ17にち、アメリカぐんによるニュルンベルクへの砲撃ほうげきはじまった。電話でんわによる降伏ごうぶく勧告かんこく市長しちょうてにおこなわれたが、回答かいとうかった。狂信きょうしんてきなナチのホルツは市長しちょうのリーベルと方針ほうしんめぐって対立たいりつしていたが、ホルツは死守ししゅする立場たちばをとっており、そのうえ、ヒトラーと徹底てってい抗戦こうせんめぐ電報でんぽう交換こうかんしていたので、その意思いし強固きょうこなものとなっていた。

市内しないでは自暴自棄じぼうじきおかされた一部いちぶ住民じゅうみんによる強奪ごうだつ略奪りゃくだつ横行おうこうしていた[17]保税ほぜい倉庫そうこのワイン倉庫そうこでは「グロテスクな酒宴しゅえん」をたのしんでいたおおくのものが、戦闘せんとう砲撃ほうげきにより死傷ししょうしていた。貨物かもつえきでは食糧しょくりょうんだ貨車かしゃおそわれた。市営しえい衣服いふく倉庫そうこや、民間みんかん企業きぎょう同様どうよう略奪りゃくだつ被害ひがいけた。このもアメリカぐん前進ぜんしんつづけ、だい3歩兵ほへい師団しだんはアルモスホフやローエのドイツぐん抵抗ていこう拠点きょてんへ、だい45歩兵ほへい師団しだんまちみなみにあるSSの兵舎へいしゃへと進撃しんげきした。4月17にちよるには、きたひがし南東なんとうのドイツぐん主要しゅよう戦線せんせんうしなわれた。

1945ねん4がつ18にち[編集へんしゅう]

4がつ18にちには、ドイツぐん守備しゅびたいによる抵抗ていこうはげしくなった。きたひがし南東なんとう主要しゅよう進入しんにゅう(Bucher Straße、Rollnerstraße、Bayreuther Straße、Sulzbacher Straße、Ostendstraße、Regensburger Straße)では、武装ぶそう親衛隊しんえいたい空軍くうぐん部隊ぶたいが、進撃しんげきしてくるアメリカぐん市街しがいせん仕掛しかけたが、進撃しんげき阻止そしすることはできなかった。

その夕方ゆうがた、アメリカぐん部隊ぶたいきゅう市街しがい環状かんじょう道路どうろからやく1kmはなれた地点ちてん円陣えんじんみ、ひらかれていた南西なんせい隙間すきまめた。そのよる、ヴォルフ、ホルツ、リーベルは、それまでの司令しれいのパニエブンカーがべいぐん迫撃はくげきほう射程しゃていないはいってしまったため、アルトシュタット南西なんせいはしにある警察けいさつ本部ほんぶのパルメンホフバンカーに移動いどうした。ホルツは徹底てってい抗戦こうせんによる死守ししゅをヒトラーに無線むせん報告ほうこくした。ホルツの計画けいかくでは、アメリカぐんによるニュルンベルク占領せんりょう阻止そしすることであったが、同時どうじにその計画けいかく現実げんじつてきであることもっていた。かり防衛ぼうえい成功せいこうしたとしても、軍事ぐんじてきにも政治せいじてきにもなん成果せいかられず、都市とし住民じゅうみん部隊ぶたい大量たいりょう犠牲ぎせいになるだけであった。こうした、自殺じさつてき傾向けいこうは、ヒトラーが帝国ていこく防衛ぼうえい委員いいん要求ようきゅうしたものと一致いっちしていた。

1945ねん4がつ19にち[編集へんしゅう]

ニュルンベルクきゅう市街しがいにおけるだい3歩兵ほへい師団しだん部隊ぶたい

4がつ19にちあさとなりまちフュルトたたかわずして降伏ごうぶくしたため、西にしだい42師団しだんはニュルンベルクまで抵抗ていこうもなく前進ぜんしんできるようになった。ニュルンベルクじょうちかくのSt.Johannis地区ちく、プレーラー広場ひろばそして中央ちゅうおうえき周辺しゅうへんといったきゅう市街しがいでは、市街しがいせん建物たてものあいだでの戦闘せんとうにまで発展はってんした。とくに、市街しがいせんではドイツぐん狙撃そげきへい脅威きょういとなっていた。市街しがいこうむった損害そんがい甚大じんだいなもので、戦後せんごすうじゅうねんてもなお痕跡こんせきのこされている。

4がつ19にちよる、アメリカぐん最後さいご防衛ぼうえいせんであるきゅう市街しがい環状かんじょうせんまですすんでいた。そのため、米兵べいへい中央ちゅうおう駅前えきまえのケーニッヒどおり、そしてプレーラー広場ひろば展開てんかいしていた[18]

1945ねん4がつ20日はつか[編集へんしゅう]

ニュルンベルクのたたかいをほうじる星条旗せいじょうき新聞しんぶん(1945ねん4がつ21にちばん

ヒトラーの誕生たんじょうである、4がつ20日はつか市長しちょうのリーベルは自決じけつした。一説いっせつには、都市としをアメリカぐんわたそうとしたところをホルツに射殺しゃさつされたといわれるが、真相しんそういま不明ふめいである[19]戦闘せんとう司令しれいかんのヴォルフによると、リーベルは午前ごぜん1230ふんごろ、パルメンホフ地下ちかごうのホルツの執務しつむしつ自殺じさつしたという[20]。ブルグベルクの地下ちかつくられただい規模きぼ地下道ちかどう部隊ぶたい降伏ごうぶくしたのち、アメリカぐんによる砲撃ほうげきんだ。ヴォルフは、午前ごぜん1030ふんごろのこった防衛ぼうえい部隊ぶたい無線むせん抵抗ていこう中止ちゅうしするようにめいじたが、まちわたすことはせず、部隊ぶたい行動こうどう自由じゆうあたえた。かれは、2週間しゅうかんまえ指揮しきったヴュルツブルクでの戦闘せんとう同様どうよう、わずかにのこった建物たてもの広範囲こうはんい破壊はかいし、おおくの人命じんめいうばい、戦局せんきょく影響えいきょうあたえないという結果けっかをもたらした。そのため、個々ここ部隊ぶたい戦闘せんとうつづけた。とくに、ホルツを中心ちゅうしんとしたグループは、すうひゃくにん警察官けいさつかん軍人ぐんじんとともにパルメンホフの地下ちかごうもり、夕方ゆうがたまで戦闘せんとうつづけていた。そのなかには、ニュルンベルク警察けいさつ署長しょちょうのオットー・クショーもふくまれていたが、かれ戦闘せんとうちゅう死亡しぼうした。4がつ20日はつか夕方ゆうがた、オダニエルはハウプトマルクトの「アドルフ・ヒトラーどおり」で戦勝せんしょうパレードをおこなった[21]。「アドルフ・ヒトラーどおり」とかれた道路どうろ標識ひょうしきは、オダニエルのニックネーム「アイアン・マイク」にちなんで「アイゼルナー・マイケル・プラッツ」(てつのマイケル広場ひろば)と改称かいしょうされ、そののうちに「ルーズベルト・プレイス」とかれた標識ひょうしき追加ついかされた。パレードは、地下ちかごう最後さいご抵抗ていこう勢力せいりょくによる攻撃こうげきによってもさまたげられず、パレードが広場ひろばおこなわれているあいだ、この最後さいご抵抗ていこう勢力せいりょく広場ひろばからやく1マイルの距離きょり)も鎮圧ちんあつされた。ホルツの部隊ぶたいもまた、解散かいさんきざしをふせぐことができず、自滅じめつてき攻撃こうげき自殺じさつ相次あいついだ。(それにもかかわらずホルツ自身じしんは、当時とうじのヴァイツェンどおりで、投降とうこうした警察官けいさつかん一団いちだんとアメリカへい警察けいさつ本部ほんぶから発砲はっぽう抵抗ていこうしていた[22])ホルツによる最後さいご足掻あがきともおもわれる行動こうどうは、降伏ごうぶく交渉こうしょうのために地下ちかごうちかづいてきたベルギー議員ぎいん射殺しゃさつさせたことであった[22]。オダニエルは戦勝せんしょうパレードと、1945ねん4がつ12にちくなったフランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょうへの追悼ついとうわせてった[23]

4がつ20日はつかよる防衛ぼうえい司令しれいかんのヴォルフは逃亡とうぼうしたが、4がつ21にち早朝そうちょう地下ちかしつ潜伏せんぷくしていたところをアメリカのパトロール部隊ぶたいらえられた[24]市街地しがいち南部なんぶでは、4がつ24にちまで個々ここのドイツへいによる抵抗ていこうがあったという[25]

戦闘せんとう結果けっか[編集へんしゅう]

ニュルンベルクにおけるたたかいは、軍事ぐんじてきにも政治せいじてきにもほとんど無意味むいみわった。そのうえ重要じゅうよう建物たてものはし各種かくしゅのインフラ施設しせつ完全かんぜん破壊はかいされた。セバルドゥス教会きょうかいとうや、多数たすうきゅう市街しがい城門じょうもんライン・マイン・ドナウ運河うんがみなとめんしてすでにおおきな被害ひがいけていたガス供給きょうきゅう施設しせつなども同様どうよう被害ひがいけた。もっとも、アメリカぐん進撃しんげきや、ダッハウ強制きょうせい収容しゅうようしょ解放かいほう数日すうじつおくれることになった。

ニュルンベルクのたたかいでは、すくなくとも901にん犠牲ぎせいとなった。

  • 民間みんかんじん強制きょうせい労働ろうどうしゃ371にん
  • だい3歩兵ほへい師団しだんだい45歩兵ほへい師団しだんのアメリカへい130にん
  • ドイツへい400にん、とりわけ対戦たいせんしゃ近接きんせつ戦闘せんとうこころみたヒトラー・ユーゲントをふく

このため、防衛ぼうえい首脳しゅのうのリーベル、ホルツ、ヴォルフの行動こうどう非難ひなんされている[26]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Wobei Liebels reale Einflußmöglichkeit gering war; Entscheidungen trafen im Wesentlichen Holz und Wolf; vgl. Willy Liebel
  2. ^ Dieses und das vorangehende Zitat: Helmut Heiber: Joseph Goebbels. Colloquium, West-Berlin 1965, S. 378 f. Nachdruck 1988 bei dtv, München: Template:Falsche ISBN
  3. ^ Fritz Nadler: Ich sah wie Nürnberg unterging, Fränkische Verlagsanstalt und Buchdruckerei, Nürnberg 1955, S. 112.
  4. ^ Im damaligen Jargon: „geknackt“.
  5. ^ Robert Fritzsch: Nürnberg im Krieg. Droste, Düsseldorf 1984, ISBN 3-8112-0697-4, S. 98.
  6. ^ Walter Kempowski: Das Echolot – Abgesang ’45, 3. Auflage. Knaus, München 2005, ISBN 3-8135-0249-X, S. 52.
  7. ^ Robert Fritzsch: Nürnberg im Krieg. Droste, Düsseldorf 1984, ISBN 3-8112-0697-4, S. 94.
  8. ^ Robert Fritzsch: Nürnberg im Krieg, S. 100.
  9. ^ Weil die Wehrmacht seit der Ardennenoffensive nie den amerikanischen Einheiten an Masse oder Material überlegen war, aber dennoch diese Form der Auseinandersetzung, die zu Niederlagen führen musste, suchte.
  10. ^ Robert Fritzsch: Nürnberg im Krieg. Droste, Düsseldorf 1984, ISBN 3-8112-0697-4, S. 100.
  11. ^ Verordnung über die Wiedereinführung der Normalzeit im Winter 1944/45 vom 4. September 1944, RGBl. I, S. 198.
  12. ^ Der Spiegel: Onkel Baldrian: Die Stimme im Bunker, 3. Oktober 2007, geladen am 20. September 2018
  13. ^ Bayerischer Rundfunk: Leben in Trümmern, vom 9. April 2015, geladen am 20. September 2018
  14. ^ Michael Diefenbacher, Wiltrud Fischer-Pache: Der Luftkrieg gegen Nürnberg. Schmidt, Nürnberg 2004, ISBN 3-87707-634-3, S. 381 f.
  15. ^ Robert Fritzsch: Nürnberg im Krieg. Droste, Düsseldorf 1984, ISBN 3-8112-0697-4, S. 89.
  16. ^ Fritz Nadler: Ich sah wie Nürnberg unterging, Fränkische Verlagsanstalt und Buchdruckerei, Nürnberg 1955, S. 129.
  17. ^ Für diesen und den vorangehenden Absatz: Fritz Nadler: Ich sah wie Nürnberg unterging, Fränkische Verlagsanstalt und Buchdruckerei, Nürnberg 1955, S. 133 f.
  18. ^ Fritz Nadler: Ich sah wie Nürnberg unterging, Fränkische Verlagsanstalt und Buchdruckerei, Nürnberg 1955, S. 131.
  19. ^ Die 1956 gerichtlich festgestellte Todesursache lautete auf Selbsttötung.
  20. ^ Walter Kempowski: Das Echolot – Abgesang ’45, 3. Auflage. Knaus, München 2005, ISBN 3-8135-0249-X, S. 51.
  21. ^ US Wochenschau mit Bildern von Nürnberg und der Siegesparade
  22. ^ a b Fritz Nadler: Ich sah wie Nürnberg unterging. Fränkische Verlagsanstalt und Buchdruckerei, Nürnberg 1955, S. 133
  23. ^ Zu den Abschnitten ab 17. April 1945: Robert Fritzsch: Nürnberg im Krieg. Droste, Düsseldorf 1984, ISBN 3-8112-0697-4, S. 98 ff. und Michael Diefenbacher, Wiltrud Fischer-Pache: Der Luftkrieg gegen Nürnberg. Schmidt, Nürnberg 2004, ISBN 3-87707-634-3, S. 380 ff.
  24. ^ Zu diesem gesamten Absatz: Walter Kempowski: Das Echolot – Abgesang ’45. 3. Auflage. Knaus, München 2005, ISBN 3-8135-0249-X, S. 52.
  25. ^ Robert Fritzsch: Nürnberg im Krieg. Droste, Düsseldorf 1984, ISBN 3-8112-0697-4, S. 105.
  26. ^ Michael Diefenbacher, Wiltrud Fischer-Pache: Der Luftkrieg gegen Nürnberg. Schmidt, Nürnberg 2004, ISBN 3-87707-634-3, S. 289.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Michael Diefenbacher, Wiltrud Fischer-Pache: Der Luftkrieg gegen Nürnberg. Schmidt, Nürnberg 2004, ISBN 3-87707-634-3.
  • Robert Fritzsch: Nürnberg im Krieg. Droste, Düsseldorf 1984, ISBN 3-8112-0697-4.
  • Peter Heigl: Toyland – Bomber über Nürnberg: Nürnberg im Zweiten Weltkrieg. Nürnberg 2004, ISBN 3-00-015199-0.
  • Karl Kunze: Kriegsende in Franken und der Kampf um Nürnberg im April 1945 (= Nürnberger Forschungen, 28). Nürnberg 1995.
  • Erhard Mossack: Die letzten Tage von Nürnberg. Nach einem Tatsachenbericht aus dem 8 Uhr-Blatt. Noris-Verlag, Nürnberg 1952. (Nachdruck: Verlag Deuerlein, 2000, ISBN 3-423-02701-0)
  • Fritz Nadler: Ich sah wie Nürnberg unterging. Fränkische Verlagsanstalt und Buchdruckerei, Nürnberg 1955.