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ハウサじん

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ハウサじん
そう人口じんこう
3000まんにんから3500まんにん
居住きょじゅう地域ちいき
ナイジェリア北部ほくぶニジェール南部なんぶおもガーナコートジボワールチャドカメルーンスーダンひとし
言語げんご
ハウサ
宗教しゅうきょう
イスラム教いすらむきょう

ハウサじんは、アフリカチャドけい民族みんぞくおもナイジェリア北部ほくぶおよニジェール南部なんぶ居住きょじゅうし、西にしアフリカ最大さいだい民族みんぞく集団しゅうだんのひとつである。

居住きょじゅう[編集へんしゅう]

ナイジェリアではヨルバじんイボじんならさんだい民族みんぞくのひとつであり、そのなかでももっと人口じんこうおおいため、建国けんこく以来いらいナイジェリアの実権じっけんにぎってきた。一方いっぽうニジェールでは人口じんこうの55.4%(2001ねん)をハウサじんめる[1]が、1993ねん民主みんしゅまでくに実権じっけんにぎることはなかった。ニジェールのハウサじん南部なんぶマラディザンデール地方ちほうおも居住きょじゅうしている[2]。また、この両国りょうこくとくにナイジェリアにおいてはフラニじん同化どうかすすんでおり、ハウサ=フラニじんしょうされることもある。カノザリアなどの都市としは、ハウサじん中心ちゅうしん都市としである。

歴史れきし[編集へんしゅう]

西暦せいれき500ねんから700ねんあいだに、ハウサじん祖先そせんヌビア地方ちほうからゆっくりと西進せいしんしてきたとかんがえられている。11世紀せいきにはカネム・ボルヌ帝国ていこくのカヌリじんからイスラム教いすらむきょうつたえられた。

13世紀せいきごろになると、ハウサじんハウサしょ王国おうこくばれる7つの都市とし国家こっか建設けんせつし、サハラ交易こうえき従事じゅうじするようになった。15世紀せいきにはソンガイ帝国ていこく従属じゅうぞくしたものの、ソンガイが滅亡めつぼうすると自立じりつせい回復かいふくし、サハラ交易こうえきルートのメインルートもこのとおるようになったため、ハウサじん繁栄はんえいした。

1809ねんウスマン・ダン・フォディオジハードによってハウサじん地域ちいきのほとんどがソコト帝国ていこくりょうとなった。支配しはいしゃとなったフラニじんは、しかしハウサじん同化どうかしていき、現在げんざいはほとんど区別くべつがなくなっている。

1904ねん、ソコト帝国ていこくイギリスほろぼされると、北部ほくぶナイジェリア保護ほごりょうとしてイギリスの支配しはいはいった。

イギリス統治とうちにおいては間接かんせつ統治とうちがとられ、現地げんち権力けんりょく構造こうぞうはそのまま維持いじされた。これはハウサじん安定あんていをもたらすと同時どうじに、イギリスの教育きょういくなどがハウサじん地域ちいきにほとんどいきわたらなかったため、南部なんぶのイボじんやヨルバじんくら植民しょくみん政府せいふ官吏かんり輩出はいしゅつすることができず、南北なんぼく対立たいりつ原因げんいんのひとつとなった。

ナイジェリア独立どくりつ[編集へんしゅう]

1960ねん、ナイジェリアが独立どくりつすると、ハウサじん北部ほくぶ人民じんみん会議かいぎ(NPC)を結成けっせいして選挙せんきょ勝利しょうりし、NPCのタファワ・バレワが連邦れんぽう初代しょだい首相しゅしょうとなった。ハウサじん議会ぎかいでの優位ゆうい利用りようしハウサじんりの政策せいさくすすめたため、とく東部とうぶのイボじん反発はんぱつった。ぎゃくにハウサじんは、教育きょういく商売しょうばい上手うまいため北部ほくぶ進出しんしゅつしてきているイボじん警戒けいかいした。

1966ねん1がつ15にち、イボじんジョンソン・アグイイ=イロンシ将軍しょうぐんによるクーデターが発生はっせいし、タファワ・バレワ首相しゅしょうなど北部ほくぶけい政治せいじころされた。しかし、それに反発はんぱつしたハウサじんが5月にカノをはじめとする北部ほくぶしょ都市としでイボじん虐殺ぎゃくさつおこない、イロンシ将軍しょうぐんも6がつふたたこったクーデターで殺害さつがいされ、さらに9がつふたたびイボじん虐殺ぎゃくさつきると、ハウサじん主導しゅどう政府せいふ反発はんぱつしたイボじん独立どくりつ宣言せんげんし、戦争せんそうはじまった(ビアフラ戦争せんそう)。

ビアフラ戦争せんそう終結しゅうけつしたあとも、ナイジェリアにおけるハウサじん優位ゆうい基本きほんてき継続けいぞくしている。

ニジェール[編集へんしゅう]

いっぽう、ニジェールにおいてはハウサじん最大さいだい民族みんぞくであったものの、支配しはいけん首都しゅとニアメ周辺しゅうへんジェルマじん英語えいごばんにぎつづけていた。フランスりょう西にしアフリカ時代じだいから、フランスはジェルマじん優遇ゆうぐうしており、エリートを輩出はいしゅつしていたからである。 ハウサじん政治せいじおもて舞台ぶたいったのは、1993ねん民主みんしゅのちのことだった。

遺伝子いでんし[編集へんしゅう]

スーダンのハウサじん西にしユーラシアけいハプログループR1b (Y染色せんしょくたい)を40%もつ。そのBが15.6%、Aが12.5%、E1b1aが12.5%である。ハウサじんアフロ・アジアけいチャド諸語しょごはなすが、アフロ・アジア語族ごぞく関連かんれんするE1b1bは3%とすくない[3]

つね染色せんしょくたい研究けんきゅうではハウサじんもっとちかいのはナイジェリアカメルーンチャド中部ちゅうぶみなみスーダンナイロートぞくである。これはハウサじんなどチャドけい民族みんぞくは、アフロ・アジア語族ごぞく言語げんご交替こうたいこすまえは、もともとナイル・サハラ語族ごぞくはなしていたことを示唆しさする[4]

生活せいかつ[編集へんしゅう]

ハウサじん農耕のうこう民族みんぞくであり、トウジンビエモロコシトウモロコシ中心ちゅうしんとする畑作はたさく農耕のうこうおこなっている。ハウサじんのほとんどはイスラム教いすらむきょうスンニ信者しんじゃであり、2000ねんにはハウサじん多数たすうめるナイジェリア北部ほくぶ12しゅう裁判さいばんシャリーア導入どうにゅうされ、ナイジェリア憲法けんぽう違反いはんするとした政府せいふ対立たいりつした。

ハウサじん伝統でんとうてき父系ふけい社会しゃかいで、一夫多妻いっぷたさいである。

ハウサじんのコミュニティでは、ひとぬと埋葬まいそうまでその遺体いたい当人とうにんんだ部屋へや屋敷やしきない安置あんちする。数日すうじつ以上いじょうにわたって安置あんちする場合ばあいは、体液たいえきミイラじょうにする防腐ぼうふ処置しょちほどこしたうえ安置あんちする。火葬かそうおこなわない。[5]

文化ぶんか[編集へんしゅう]

ハウサじんには、民族みんぞく独自どくじダンベばれる格闘技かくとうぎ古来こらいよりつたわっている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版ねんばん 世界せかい各国かっこく要覧ようらん最新さいしん統計とうけい」p299 二宮にのみや書店しょてん 平成へいせい28ねん1がつ10日とおか発行はっこう
  2. ^ 「ニジェール 独立どくりつ50ねん全体ぜんたいぞう」p23 小倉おぐら信雄のぶお久保くぼたまきちょ 東京とうきょう図書としょ出版しゅっぱん 2013ねん5がつ23にち初版しょはん発行はっこう
  3. ^ Hassan, Hisham Y. et al. 2008 "Y-Chromosome Variation Among Sudanese: Restricted Gene Flow, Concordance With Language, Geography, and History"
  4. ^ Williams, Floyd A. (2009). "The Genetic Structure and History of Africans and African Americans". The American Association for the Advancement of Science 324 (5930): 1035–44. Bibcode:2009Sci...324.1035T. doi:10.1126/science.1172257. PMC 2947357. PMID 19407144
  5. ^ 松濤しょうとう弘道こうどう世界せかい葬式そうしき』、新潮社しんちょうしゃ、1991ねん10がつ、p204。

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]