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バコン

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バコン
ប្រាសាទបាគង
Bakong
基本きほん情報じょうほう
座標ざひょう 北緯ほくい1320ふん10びょう 東経とうけい10358ふん27びょう / 北緯ほくい13.33611 東経とうけい103.97417 / 13.33611; 103.97417座標ざひょう: 北緯ほくい1320ふん10びょう 東経とうけい10358ふん27びょう / 北緯ほくい13.33611 東経とうけい103.97417 / 13.33611; 103.97417
宗教しゅうきょう ヒンドゥーきょう
けん ロリュオス英語えいごばん
地区ちく プラサットバコンぐん英語えいごばん
しゅう シェムリアップしゅう
くに カンボジアの旗 カンボジア
現況げんきょう 遺跡いせき
建設けんせつ
形式けいしき クメール建築けんちく英語えいごばん
様式ようしき プリア・コー様式ようしき[1][2]
創設そうせつしゃ インドラヴァルマン1せい英語えいごばん
完成かんせい 881ねん
資材しざい ラテライト砂岩さがん煉瓦れんが
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バコン(Bakong、クメール: ប្រាសាទបាគង)は、カンボジアにおける現代げんだいシェムリアップちかアンコールにおいて、クメール王朝おうちょう統治とうちしゃによって構築こうちくされた砂岩さがん山岳さんがくがた寺院じいんえい: temple mountain)である[1]。9世紀せいきまつじゅうすう年間ねんかん今日きょうロリュオス英語えいごばんばれている地域ちいき位置いちした古代こだいハリハラーラヤ英語えいごばんにおいて[1]おうインドラヴァルマン1せい英語えいごばん在位ざいい877-889ねん[2])の国家こっか寺院じいんとしての役割やくわりたした[3]

歴史れきし

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西暦せいれき802ねんアンコールあさ初代しょだいおうジャヤーヴァルマン2せい英語えいごばんが、カンボジアの主権しゅけん宣言せんげんした。曲折きょくせつのち、ジャヤーヴァルマン2せいハリハラーラヤ英語えいごばんにおいてかれ都城みやこのじょう首都しゅと)を制定せいていした[4][5]かずじゅうねんおう後継こうけいしゃは、アンコールにおける砂岩さがん最初さいしょ山岳さんがくがた寺院じいんとして[6]、バコン寺院じいん段階だんかいてき構築こうちくした[7]石碑せきひ分類ぶんるい K.826)の碑文ひぶんは、881ねんおうインドラヴァルマン1せいシヴァかみ寺院じいんささげ、その中心ちゅうしん宗教しゅうきょうてき象徴しょうちょうであるリンガとして[8]、その名前なまえおう (Indravarman) 自身じしんと、シヴァしん ("Iśvara") をあらわ接尾せつび "-esvara" のわせであるインドレシュヴァラしん (Sri Indresvara) を奉献ほうけんしたとべている[9][10]ジョルジュ・セデスによると、デヴァラージャ英語えいごばん(devarāja、かみおう崇拝すうはいは、王権おうけん正当せいとうせいとしてかみによる王政おうせいという構想こうそうより成立せいりつしたとするが、著者ちょしゃは、それはかならずしも統治とうちしゃ自体じたい物理ぶつりてき人物じんぶつ崇拝すうはいともなわないとべている[11][12]

バコンは、わずかすう年間ねんかん、アンコールの国家こっか寺院じいんとしての地位ちい享受きょうじゅしたが、12世紀せいき中頃なかごろ[13]ないし13世紀せいきのちみやつこちくは、それが放棄ほうきされなかったことを証明しょうめいしている。9世紀せいきまつにかけて、インドラヴァルマンの息子むすこかつ後継こうけいしゃヤショーヴァルマン1せいは、ハリハラーラヤから、現在げんざいアンコールとしてられるシェムリアップの北部ほくぶ地域ちいき都城みやこのじょううつし、ここでかれバケンばれるあたらしい山岳さんがくがた寺院じいん中心ちゅうしん新都しんとヤショーダラプラ英語えいごばんてた[14]

構成こうせい

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中央ちゅうおうのピラミッドがた基壇きだんかこ煉瓦れんがとうは、ハリハラーラヤ英語えいごばんほか寺院じいんプリア・コーロレイる。

バコンのてらいきは、東西とうざい900メートル、南北なんぼく700メートルであり[2]、2つのかんほりと、ひがしから西にしかう主軸しゅじく区切くぎられた3つの同心どうしん周壁しゅうへきえい: enclosure)より構成こうせいされる。外周がいしゅうかべは、かべとうもんゴープラム)もなくなっており、その境界きょうかい今日きょう外側そとがわほり部分ぶぶんてきられるのみである。国道こくどう6ごう (NH6) から現行げんこう接続せつぞくする道路どうろは、だい2周壁しゅうへきはしにつながる。うちほり区域くいきかくし、その内側うちがわえんに、東西とうざい350メートル、南北なんぼく320メートルのラテライト周壁しゅうへき[15]あとと4つの十字形じゅうじがたとうもん、それにひろ土手どてどう交差こうさして、そのりょうわきにはナーガの欄干らんかんえい: nāga bridge)の原型げんけいのような7つのあたまナーガならんでいる。2つのほりあいだには、26付随ふずいする煉瓦れんがしょう祠堂しどう遺跡いせきがある[15]

もっと内側うちがわ周壁しゅうへきは、160メートル×120メートルのラテライトのかべかこまれ[15]中央ちゅうおう寺院じいんピラミッドがあって、シヴァしんささげられたひがしきの8煉瓦れんがとう祠堂しどうが、各面かくめんに2ずつそのまわりにある。それら煉瓦れんが祠堂しどうとびらこうわくはしらにせとびら砂岩さがんつくられ、まぐさ(リンテル)には精巧せいこう浮彫うきぼりがられる。また、ドヴァーラパーラ門衛もんえいしん)やデヴァター英語えいごばん女神めがみ)の塑像そぞう側面そくめんにある[16]。そのいくつものよりちいさい構造こうぞうぶつもまた周壁しゅうへきない配置はいちされている。ひがしとうもんのすぐ外側そとがわには、現代げんだい仏教ぶっきょう寺院じいんがある[1]

シンハぞうが、中央ちゅうおうピラミッドの石段いしだんにありかく基壇きだんまもる。

ピラミッドがた基壇きだんは5そうからなり[8]、そのだい1そう基壇きだんは65メートル×67メートルである。その中央ちゅうおうは1936ねんから1943ねんに、フランスのモーリス・グレーズ英語えいごばんによって、アナスティローズ英語えいごばん技法ぎほう[17]により再建さいけんされた[18]いただき上部じょうぶにはかなりのち再建さいけんされたとう唯一ゆいいつ1あり、その様式ようしきはハリハラーラヤの9世紀せいきるものでなく、12世紀せいき寺院じいん都市としアンコール・ワット様式ようしきのものである[9]。その下層かそうだい4基壇きだんには12のしょう祠堂しどうかこむように[13]

かつてピラミッドの基壇きだんは、漆喰しっくい(スタッコ)のあさ浮彫うきぼ彫刻ちょうこくおおわれていたが、今日きょうはその断片だんぺんのみがのこ[13]。そのたたかいのアスラ阿修羅あしゅら)とおもわれる劇的げきてきいち場面ばめんは、彫刻ちょうこくしつたかさを認識にんしきさせるものである。ゾウの巨石きょせきぞうがピラミッドのだい3基壇きだんより下層かそうかく守護しゅごとして配置はいちされている。また、ライオン(シンハ)のぞうが、かく基壇きだん階段かいだんまもっている[13]

バコンの構造こうぞうは、一般いっぱん初期しょきクメール寺院じいん建築けんちく山岳さんがくがた寺院じいんとされ、階段かいだんピラミッド形態けいたい[19]。このバコン寺院じいんと、ジャワ島じゃわとうボロブドゥール寺院じいん顕著けんちょ類似るいじせい[8]構造こうぞうじょう部分ぶぶんたとえばうえ基壇きだんへの入口いりくち階段かいだんなどにおいて、ボロブドゥールがバコンの手本てほんとなったことをつよ示唆しさしているともされる。その場合ばあい、クメール王国おうこくとジャワのシャイレーンドラあさあいだに、使節しせつだんでなくとも、人的じんてき交流こうりゅうがなければならない。それはたん発想はっそうだけでなく、おく構造こうぞう手法しゅほうのうちアーチがた入口いりくちなど、ボロブドゥールの技術ぎじゅつ建築けんちく設計せっけいもまたカンボジアへとつたわっている[20]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d 波田野はたの直樹なおき『アンコール遺跡いせきたのしむ』(改訂かいていばん連合れんごう出版しゅっぱん、2007ねん、179-180ぺーじISBN 978-4-89772-224-5 
  2. ^ a b c Rooney (2011), p. 276
  3. ^ 石澤いしざわ (1996)、49-50ぺーじ
  4. ^ 石澤いしざわ (2005)、43-51ぺーじ
  5. ^ ダジャンス (2008)、17ぺーじ
  6. ^ Glaize (1993), p.195
  7. ^ Dumarçay et al. (2001), p.50
  8. ^ a b c 伊藤いとう昭司しょうじ『アンコール ワット』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1993ねん、16ぺーじISBN 4-634-64260-3 
  9. ^ a b Freeman, Jacques (2006), p.198 ff.
  10. ^ 石澤いしざわ (2005)、60-61ぺーじ
  11. ^ Tarling (2006), p.324
  12. ^ ダジャンス (2008)、153ぺーじ
  13. ^ a b c d 石澤いしざわ (2005)、60ぺーじ
  14. ^ 石澤いしざわ (2005)、63-73ぺーじ
  15. ^ a b c 石澤いしざわ (2005)、58ぺーじ
  16. ^ 石澤いしざわ (2005)、61ぺーじ
  17. ^ ブリュノ・ダジャンス ちょ中島なかじま節子せつこ やく石澤いしざわ良昭よしあき監修かんしゅう へん『アンコール・ワット』つくもとしゃ、1995ねん、184-189ぺーじISBN 4-422-21098-X 
  18. ^ 石澤いしざわ (2005)、59ぺーじ
  19. ^ 平山ひらやま善吉ぜんきち『アンコールの遺跡いせき連合れんごう出版しゅっぱん、2011ねん、79ぺーじISBN 978-4-89772-262-7 
  20. ^ David G. Marr, Anthony Crothers Milner (1986). Southeast Asia in the 9th to 14th Centuries. Institute of Southeast Asian Studies, Singapore. p. 244. ISBN 9971-988-39-9. https://books.google.co.id/books?id=Lon7gmj040MC&pg=PA244&hl=id&source=gbs_toc_r&cad=4#v=onepage&q&f=false 2015ねん2がつ5にち閲覧えつらん 

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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