バージェン航空こうくう301便びん墜落ついらく事故じこ

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バージェン航空こうくう 301便びん
1995ねん撮影さつえいされた事故じこ(TC-GEN)
出来事できごと概要がいよう
日付ひづけ 1996ねん2がつ6にち
概要がいよう ピトーかん閉塞へいそくによるたい速度そくどけい異常いじょうおよパイロットエラーによる失速しっそく
現場げんば ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国どみにかきょうわこく プエルト・プラタから26km地点ちてん大西おおにしひろし
北緯ほくい1954ふん50びょう 西経せいけい7024ふん20びょう / 北緯ほくい19.91389 西経せいけい70.40556 / 19.91389; -70.40556座標ざひょう: 北緯ほくい1954ふん50びょう 西経せいけい7024ふん20びょう / 北緯ほくい19.91389 西経せいけい70.40556 / 19.91389; -70.40556
乗客じょうきゃくすう 176
乗員じょういんすう 13
負傷ふしょうしゃすう 0
死者ししゃすう 189(全員ぜんいん
生存せいぞんしゃすう 0
機種きしゅ ボーイング757-255
運用うんようしゃ ドミニカ共和国の旗 アラス・ナショナル航空こうくう英語えいごばんトルコの旗 バージェン航空こうくう英語えいごばん便びんとして運航うんこう
機体きたい記号きごう TC-GEN
出発しゅっぱつ ドミニカ共和国の旗 グレゴリオ・ルペロン国際こくさい空港くうこう
だい1経由けいゆ カナダの旗 ガンダー国際こくさい空港くうこう
最終さいしゅう経由けいゆ ドイツの旗 ベルリン・シェーネフェルト国際こくさい空港くうこう
目的もくてき ドイツの旗 フランクフルト国際こくさい空港くうこう
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バージェン航空こうくう301便びん墜落ついらく事故じこ(バージェンこうくう301びんついらくじこ)は、1996ねん2がつ6にち発生はっせいした航空こうくう事故じこである。プエルト・プラタはつガンダーベルリン経由けいゆフランクフルトきだったバージェン航空こうくう301便びんボーイング757-225)が、プエルト・プラタからの離陸りりく直後ちょくご墜落ついらくし、乗員じょういん乗客じょうきゃく189にん全員ぜんいん死亡しぼうした[1][2]

当日とうじつの301便びん[編集へんしゅう]

事故じこ[編集へんしゅう]

インターナショナル・カリビアン・エアウェイズへリースされていたころ事故じこ、ロゴのみが変更へんこうされている

事故じこボーイング757-225(TC-GEN)は、2ロールス・ロイス RB211-535E4搭載とうさいしており、1985ねん2がつイースタン航空こうくうにN516EAとして納入のうにゅうされた。1991ねんにイースタン航空こうくう倒産とうさんし、1ねん以上いじょうあいだモハーヴェ空港くうこう留置りゅうちされていた。1992ねん2がつに、Aeronautics Leasingが事故じこ購入こうにゅうし、同年どうねん5がつからカナダ航空こうくう会社かいしゃであるノリスエア英語えいごばんにリースしていた。翌年よくねんにノリスエアが倒産とうさんし、1993ねん7がつからバージェン航空こうくう英語えいごばんにリースされた。バージェン航空こうくう事故じこを、インターナショナル・カリビアン・エアウェイズにサブリースしていた[3]

事故じこは20日間にちかんあいだ空港くうこうちゅうされていた[4]

航空こうくう会社かいしゃ[編集へんしゅう]

バージェン航空こうくう英語えいごばんは、トルコイスタンブール本社ほんしゃチャちゃ便びん運航うんこう会社かいしゃであった。一方いっぽうアラス・ナショナル航空こうくう英語えいごばんは、ドミニカ共和国どみにかきょうわこくプエルト・プラタ本社ほんしゃいており、ドミニカ共和国どみにかきょうわこくドイツあいだチャちゃ便びん運航うんこうしていた。アラス・ナショナル航空こうくう自社じしゃ機材きざい保有ほゆうしておらず、バージェン航空こうくうボーイング757ボーイング767をそれぞれ1リースしていた[5][6]事故じこ両社りょうしゃとも年内ねんない運航うんこう停止ていしし、倒産とうさんした。

乗員じょういん乗客じょうきゃく[編集へんしゅう]

  • 乗員じょういん

乗員じょういんは11にんのトルコじん2人ふたりのドミニカじん構成こうせいされていた。

  • 操縦そうじゅう[3]:04-08
    • 機長きちょう-62さい男性だんせい。24,750あいだ飛行ひこう経験けいけんがあった。
    • ふく操縦そうじゅう-34さい男性だんせい。3,500あいだ飛行ひこう経験けいけんがあった。
    • リリーフパイロット-51さい男性だんせい。15,000あいだ飛行ひこう経験けいけんがあった。
  • 乗客じょうきゃく[2][7][8]
国籍こくせき 乗客じょうきゃく 乗員じょういん 合計ごうけい 死者ししゃ
ドイツの旗 ドイツ 167 - 167 167
ポーランドの旗 ポーランド 9 - 9 9
トルコの旗 トルコ - 11 11 11
ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国どみにかきょうわこく - 2 2 2
けい 176 13 189 189

事故じこ経緯けいい[編集へんしゅう]

AST2342ふんに301便びん離陸りりく滑走かっそう開始かいししたが、機長きちょうせきがわたい速度そくどけい異常いじょう数値すうち表示ひょうじしていた。しかし機長きちょう離陸りりく滑走かっそう継続けいぞくし、機体きたい正常せいじょう離陸りりくした。パイロットたちふく操縦そうじゅうがわたい速度そくどけい数値すうちうたがったが、表示ひょうじされていた数値すうち墜落ついらくまで正常せいじょうであった[3]:01

4,700フィート (1,400 m)を上昇じょうしょうちゅうに、機長きちょうせきがわたい速度そくどけいが350ノット (650 km/h)を表示ひょうじした。自動じどう操縦そうじゅうは、機長きちょうせきがわたい速度そくどけいもとにしていたため、速度そくどはやすぎると判断はんだんし、速度そくどとすため徐々じょじょ機首きしゅげをおこなはじめた。ふく操縦そうじゅうがわたい速度そくどけいただしい数値すうちである200ノット (370 km/h)を表示ひょうじしており、減速げんそくしていることもしめしていた。しかし、コックピットで速度そくど超過ちょうか警報けいほうはじめた[3]:16

自動じどう操縦そうじゅう限界げんかいたっ解除かいじょされたため、パイロットは手動しゅどう操縦そうじゅうすることになった[3]:18機長きちょう推力すいりょくとしたが、直後ちょくご失速しっそく警報けいほう装置そうち作動さどうした。機長きちょう直前ちょくぜんまで高速こうそく飛行ひこうしすぎているという警報けいほうけていたため、失速しっそく警報けいほう作動さどうでますます混乱こんらんした。ふく操縦そうじゅうとリリーフパイロットは失速しっそく理解りかいしており、機長きちょう失速しっそく認識にんしきさせようと「機首きしゅげ(nose down.)」や「姿勢しせい指示しじ(ADI.)」と発言はつげんしている[3]:19[9]

これにたいして、機長きちょうは「上昇じょうしょうするな?なにをすれば?(not climb? what am I to do?)」とい、ふく操縦そうじゅうは「水平すいへいにして、高度こうど充分じゅうぶんです、高度こうど維持いじ選択せんたくします(you may level off, altitude okay, I am selecting the altitude hold sir.)」と返答へんとうした[9]機長きちょう推力すいりょく全開ぜんかいにすることで失速しっそくから回復かいふくさせようとしたが、機首きしゅ角度かくどたかすぎたため、必要ひつよう空気くうきりょうがエンジンに供給きょうきゅうされず、ひだりエンジンが停止ていしした。一方いっぽうみぎエンジンは推力すいりょく全開ぜんかいになったため、機体きたいはスピン状態じょうたいおちいった[10] 。このとき機長きちょうは、「なにきてる、ああ、なにきてるんだ(what's happening.oh,what's happening.)」とはっしており、状況じょうきょう理解りかいできていないようだった[9]。2347ふん対地たいち接近せっきん警報けいほう装置そうち作動さどうし、8びょう機体きたい大西洋たいせいよう海面かいめん激突げきとつした。墜落ついらくにより乗員じょういん13にん乗客じょうきゃく176にん全員ぜんいん死亡しぼうした。

事故じこ調査ちょうさ[編集へんしゅう]

プエルト・プラタにある追悼ついとう
フランクフルト墓地ぼちにある追悼ついとう

ドミニカ共和国どみにかきょうわこく調査ちょうさ委員いいんかい(Dirección General de Aeronáutica Civil、DGAC)が調査ちょうさおこない、原因げんいんとして以下いかのことを発表はっぴょうした[11]

"パイロットたちが、失速しっそくしスティックシェイカーが作動さどうしていることを認識にんしきせず、適切てきせつ回復かいふく操作そうさおこなわなかったため、機体きたいのコントロールをうしなった"

調査ちょうさ委員いいんかい機長きちょうせきがわピトーかんなんらかの原因げんいんによって閉塞へいそくされたため、異常いじょう数値すうち表示ひょうじしたと推測すいそくしたが、ピトーかん回収かいしゅうされなかったため、閉塞へいそく原因げんいんあきらかできなかった。調査ちょうさ委員いいんかいアナバチ一種いっしゅ(en)がピトー管内かんないつくったという仮説かせつもっと可能かのうせいたかいとしている。このハチは、ドミニカ共和国どみにかきょうわこく生息せいそくしており、円筒えんとうがた構造こうぞうぶつなかつく生態せいたいがあった。最終さいしゅう報告ほうこくしょによれば、事故じこは20日間にちかん空港くうこうちゅうされており、ピトーかんにカバーはいていたものの、つくるのには十分じゅうぶん時間じかんがあった[3]:20[12]。また、バージェン航空こうくうCEO最後さいごの2日間にちかんはエンジンテストのためピトーかんのカバーがはずされていたとべた[13]

報告ほうこくしょでは、おおくの要因よういんがあげられ、手順てじゅんなどの変更へんこう指摘してきされた。パイロットは離陸りりく滑走かっそうちゅうたい速度そくどけい異常いじょうづいたが、通常つうじょう手順てじゅんであればこの時点じてん離陸りりく中断ちゅうだんするべきだった。シミュレーションの結果けっか経験けいけん豊富ほうふなパイロットでも、ほぼ同時どうじ速度そくど超過ちょうか警報けいほう失速しっそく警報けいほう作動さどうするという矛盾むじゅんした情報じょうほうがあると混乱こんらんすることが確認かくにんされた。連邦れんぽう航空局こうくうきょくはパイロットの訓練くんれん内容ないように、ピトーかん閉塞へいそく想定そうていしたものを追加ついかするよう勧告かんこくした。また、ボーイングにたいして警報けいほう改善かいぜんするように勧告かんこくした。

事故じこ[編集へんしゅう]

301便びん墜落ついらく、バージェン航空こうくう経営けいえい悪化あっかし、安全あんぜんせいたいする懸念けねんしょうじたことから同年どうねん10がつ運航うんこう停止ていしし、倒産とうさんした[14]

また、301便びん事故じこは2019ねん現在げんざいドミニカ共和国どみにかきょうわこくうち発生はっせいした航空こうくう事故じこのうち最悪さいあくなものとなっている。

映像えいぞう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Pope, Hugh. "Crash plane may not have been serviced." The Independent. Saturday 10 February 1996. Retrieved on 19 November 2009.
  2. ^ a b "Rescuers call off search in plane crash." CNN. 8 February 1996. Retrieved on 19 November 2009.
  3. ^ a b c d e f g Accident Report on Birgenair Flight 301” (PDF). 2018ねん9がつ24にち閲覧えつらん
  4. ^ TC-GENの登録とうろく情報じょうほう”. 2018ねん9がつ24にち閲覧えつらん
  5. ^ Pope, Hugh and Phil Davison. "Crash plane may not have been serviced." The Independent. Saturday 10 February 1996. Retrieved on 26 June 2010.
  6. ^ Karacs, Imre and Phil Davison. "Bonn grounds 757 as crash mystery grows." The Independent. Friday 9 February 1996. Retrieved on 26 June 2010.
  7. ^ Mike Clary (1996ねん2がつ8にち). “Dominican Jet Crashes in Sea; 189 Feared Dead”. LA Times. 2018ねん2がつ25にち閲覧えつらん
  8. ^ Karacs, Imre. "Bonn grounds 757 as crash mystery grows." The Independent. Friday 9 February 1996. Retrieved on 19 November 2009.
  9. ^ a b c Birgenair Flight 301's CVR”. 2018ねん10がつ20日はつか閲覧えつらん
  10. ^ Tim van Beveren: Runter kommen sie immer, page 258–271, ISBN 3-593-35688-0 as filed with the US Library of Congress
  11. ^ Walters, James M. and Robert L. Sumwalt III. "Aircraft Accident Analysis: Final Reports." McGraw-Hill Professional, 2000. p. 98. Retrieved from Google Books on 11 May 2011. ISBN 0-07-135149-3, 978-0-07-135149-2. "Souffront, Emmanuel T., Presidente, Junta Investigadora de Accidentes Aéreos (JIAA) of the Director General of Civil Aviation (DGAC) of the Dominican Republic. 1996. Aircraft accident information. Dominican Republic Press Release—Factual Information, 1 & 18 March 1996."
  12. ^ Erroneous airspeed indications cited in Boeing 757 control loss”. Flight Safety Foundation. p. 2 (1999ねん10がつ). 2014ねん8がつ27にち閲覧えつらん。 “It had not been flown for 20 days before the accident...Investigators believe that the engine [covers] and pitot covers were not installed before or after the engine ground test.”
  13. ^ Birgenair comments 1996, pp. 16–17. "the aircraft was not on the ground for 20 days, but only for 12 days prior to the ill-fated flight. The pitot-tubes were covered prior to an engine test run which took place 2 days prior to the ill-fated flight. It was known by the BIRGENAIR mechanics that the airplane should be returned to Turkey in a ferry flight within the next 3 days. If therefore the pitot-tubes had not been covered after the engine test run for 2 days, according to the BOEING procedures, set forth in the BOEING Maintenance Manual, this might be justified." ... "Despite these irritating and even conflicting procedures set forth in BOEING's 757 Maintenance Manual and the Maintenance Planning Document, a blockage of the pitot-tube might occur even within any period of stay on the ground and [installation of pitot-covers] should therefore be clearly required for all periods of stay on the ground."
  14. ^ Alfred Roelen: Causal risk models of air transport: comparison of user needs and model capabilities, page 39, ISBN 978-1-58603-933-2, IOS Press