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ブラックフットぞく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベアー・ブル
ブラックフットの活動かつどう領域りょういき

ブラックフットぞく(ブラックフットぞく、Blackfoot)は、きたアメリカ大陸あめりかたいりくの3つの先住民せんじゅうみんぞく総称そうしょう。カナダではサスカチュワンしゅうアルバータしゅうブリティッシュコロンビアしゅうの3しゅうらすファースト・ネーションである。また、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくモンタナしゅうでもネイティブアメリカンの一部いちぶぞくとして存在そんざいする。カナダではシクシカぞく(Siksika)、カイナイぞく(KainaiまたはKainah)、きたピーガンぞくの3つにかれており、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくではみなみピーガンぞくがモンタナしゅうらす。これらの部族ぶぞく連合れんごうはブラックフット連合れんごうまたはNiitsitapiとばれる。

歴史れきしてきには、グレートプレーンズ北部ほくぶ具体ぐたいてきにいうとみじかくさプレーリーのはん乾燥かんそう地域ちいきでバッファロー(アメリカバイソン)を狩猟しゅりょうしたりサケやマスを定住ていじゅう民族みんぞくであった。かれらはバイソンのれをい、アメリカからカナダへ、はるかきたボウがわまで移動いどうした。18世紀せいき前半ぜんはん白人はくじん交易こうえき商人しょうにん同盟どうめい関係かんけいにあったクリーぞくやアシニボインぞくからうま銃器じゅうき入手にゅうしゅした。ブラックフットぞく周辺しゅうへん部族ぶぞく犠牲ぎせいにして領土りょうど拡張かくちょうしていった。うまったことで、ブラックフットぞく平原へいげんらすほか部族ぶぞくはバッファローを範囲はんいひろげることができた。

19世紀せいきになると白人はくじんのハンターにより、営利えいり目的もくてきのバッファローの狩猟しゅりょう組織そしきてきおこなわれた。グレートプレーンズでのネイティブアメリカンの生活せいかつは、かれらの食料しょくりょうげんであったバイソンのれがほぼ絶滅ぜつめつし、もはや十分じゅうぶんでなくなったために永久えいきゅうわってしまった。えや貧困ひんこん期間きかんて、ブラックフットぞく畜産ちくさん農業のうぎょうへの適応てきおうをし、保留ほりゅう定住ていじゅうすることをいられた。1870年代ねんだいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとカナダのりょう政府せいふ条約じょうやくむすび、食料しょくりょう支援しえん医療いりょう扶助ふじょ、さらに農業のうぎょう習得しゅうとく援助えんじょするわりに領域りょういき大半たいはん割譲かつじょうした。それにもかかわらず、アメリカとカナダの両方りょうほう同化どうか政策せいさく直面ちょくめんしながらも伝統でんとうてき言語げんご文化ぶんかまもってきた。

連合れんごう

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アメリカ民俗みんぞくがくきょくのフランシス・デンスモアがマウンテン・チーフの言葉ことば録音ろくおんしている様子ようす

ブラックフットぞく親族しんぞく方言ほうげんをもとにあつまった3つの部族ぶぞくから連合れんごう構成こうせいしていたが、かれらはすべ共通きょうつう言語げんごである、アルゴンキン語族ごぞくブラックフットはなす。その3部族ぶぞくとは、Piikáni(英語えいご資料しりょうではピーガン・ブラックフィートと表記ひょうきされていた)、Káínaa(ブラッドぞく)、Siksikáwa(ブラックフット)である。のちに、ツー・ツィナぞく(サーシーぞく)と同盟どうめいむすび、一時いちじはグロヴァントぞくとも同盟どうめい関係かんけいにあった。

かれらはおおくのバンドにかれており、10から30のティピーに80にんから240にんらすという分散ぶんさんした部族ぶぞくだった。バンドは狩猟しゅりょう防衛ぼうえいのために組織そしきされた基礎きそてき構成こうせい単位たんいであった[1]

ブラックフットぞく連合れんごうなか最大さいだい部族ぶぞくはピーガンぞく(Piegan、PeiganまたはPikuni)である。部族ぶぞくめいはブラックフットのPiikániに由来ゆらいする。ピーガンぞく現在げんざいのアルバータしゅうらすきたピーガン(Aapátohsipikáni、もしくはたんにPiikáni)とモンタナしゅうみなみピーガンまたはピーガン・ブラックフィート(Aamsskáápipikani)にかれている。かつてはInuk'sik[2]という、ちからのあるおおきな部族ぶぞくもモンタナしゅう南西なんせい存在そんざいした。現在げんざいみなみピーガンぞくのバンドのひとつとして存在そんざいするのみである。

現在げんざいのカイナイぞくはブラックフットのKáínaaに由来ゆらいし、「おおくの酋長しゅうちょう部族ぶぞく」という意味いみである。歴史れきしてきにはブラッドぞくばれたが、これは平原へいげんクリーでカイナイぞくあらわすMiko-Ewが「まった」(いいかえれば残虐ざんぎゃく冷酷れいこくな)という意味いみであることに由来ゆらいする。英語えいごではブラッド、またはブラッドぞくという呼称こしょう一般いっぱんてきである。

シクシカぞく(Siksiká)はブラックフットのsik(くろ)とiká(あし)をわせた言葉ことば由来ゆらいである。複数ふくすうがたではSiksikáwaとなる。かれ自身じしんは「平原へいげん部族ぶぞく」という意味いみのSao-kitapiiksiと自称じしょうした。

サーシーぞく自分じぶん自身じしんを「大勢おおぜい人々ひとびと」という意味いみのツー・ツィナとぶ。ブラックフットぞくかれらと対立たいりつしていた初期しょきに「頑固がんこひと」という意味いみのSaahsiまたはSarsiでんだ。サーシーぞく言語げんごてきにはまったちがアサバスカ諸語しょごぞくしている。かれらの大半たいはん北極ほっきょくきたカナダでらしている。

グロヴァントぞくはHaaninin、またはA'aninin(しろ粘土ねんどひと)と自称じしょうした。フランス語ふらんすごでは「ふとったはら」という意味いみのグロヴァント(Gros Ventres)、英語えいごではフォール・インディアンとばれる。ブラックフットぞく長年ながねん敵意てきいから、Piik-siik-sii-naa(へび)やAtsina(クリーぞくのようなひと)とんだ。初期しょき研究けんきゅうしゃは、A'anininはアラパホ関連かんれんがあり、ミズーリしゅう平原へいげんからコロラドしゅうやワイオミングしゅう移動いどうしたとかんがえた[3]。1793ねんごろ〜1861ねんごろまではブラックフットぞく同盟どうめい関係かんけいにあったが、意見いけん相違そういがあり、それ以来いらい敵対てきたいしている。

アメリカとカナダに国境こっきょうかれるまえの19世紀せいき、ブラックフットぞく狩猟しゅりょうをしたり食糧しょくりょうさが領域りょういき占有せんゆうしていた。しかし19世紀せいき後半こうはん両国りょうこく政府せいふかれらの伝統でんとうてき移動いどう生活せいかつをやめさせ、インディアン居留きょりゅう定住ていじゅうすることを強制きょうせいした。みなみピーガンぞくのみがモンタナしゅう定住ていじゅうすることをえらんだ。ブラックフットはなほかの3部族ぶぞくとサーシーぞくはアルバータしゅう定住ていじゅうした。ブラックフット使つか人々ひとびと自分じぶん自身じしんをNiitsítapi(最初さいしょひと)とんだ。グロヴァントぞく連合れんごう離脱りだつしてから、モンタナしゅう居留きょりゅういた。

部族ぶぞく社会しゃかい構造こうぞうは、移動いどう生活せいかつをやめるようにいられたことでわった。以前いぜんはほとんどが民族みんぞくてき連合れんごうであったが、アメリカでは部族ぶぞく(tribe)、カナダではバンドまたはファースト・ネーションという名前なまえで、政府せいふとして制度せいどされた。ピーガンぞくきたピーガンぞくがカナダのアルバータしゅうに、みなみピーガンぞくがアメリカのモンタナしゅうかれた。

歴史れきし

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ブラックフットぞく連合れんごう(Niitsitapi)の領域りょういきは、ノースサスカチュワンがわ沿って現在げんざいエドモントン付近ふきんからモンタナしゅうイエローストーンかわにかけて、さらにロッキー山脈さんみゃくからサウスサスカチュワンがわ沿って、サイプレスヒルズをえてアルバータしゅうとサスカチュワンしゅうしゅうさかい付近ふきんまでひろがっていた。かれらは伝統でんとうてき領域りょういきをNitawahsin-nanni-(われらの土地とち)とんだ。さらにひがしインヌぞくナスカピぞくは、自分じぶんたちの領域りょういきをNitassinan(おなじくわれらの土地とちという意味いみ[4]んでいた。おそらく18世紀せいき前半ぜんはんまでには、平原へいげん活動かつどうしていたほか部族ぶぞくからうまることをまなび、行動こうどう範囲はんい移動いどう能力のうりょくし、狩猟しゅりょうにも有利ゆうりになった。

ブラックフットの基本きほんてき社会しゃかい単位たんい家族かぞくえたバンドからり、そのおおきさは10から30のティピー、人数にんずうは80にんから240にんである。かくグループのおおきさは襲撃しゅうげきからまもったり共同きょうどうりをするには十分じゅうぶんおおきさで、一方いっぽう柔軟じゅうなんせいもあった。バンドはつながりよりも場所ばしょによって定義ていぎされるため、かく個人こじん自由じゆうにバンドをはなれ、または加入かにゅうすることができた。そのうえ、バンドが困難こんなん直面ちょくめんしたならば、そのバンドを分割ぶんかつしてのバンドにくわわることができた。実際じっさいのところ、バンドの形成けいせい解体かいたいかえされてきた。このシステムは柔軟じゅうなんせい最大限さいだいげんたかめ、グレートプレーンズ北西ほくせい狩猟しゅりょう民族みんぞくにふさわしいものであった。

なつあいだ人々ひとびと部族ぶぞく集会しゅうかいあつまった。おおきな集会しゅうかいでは戦士せんし重要じゅうよう役割やくわりえんじた。

『Waiting and Mad』(1899ねんチャールズ・マリオン・ラッセルさく。)ブラックフットぞく女性じょせいえがいた。

1ねんのほぼ半分はんぶんめるなが北部ほくぶふゆあいだかれらは木々きぎしげかわ沿いにふゆ宿営しゅくえい設営せつえいしてごした。おそらくは昼間ひるま活動かつどうし、ひと食料しょくりょうあるいはたきぎ枯渇こかつしないかぎ宿営しゅくえいうごかさなかった。森林しんりんりの対象たいしょうとなる獲物えもの豊富ほうふ場所ばしょには複数ふくすうのバンドが一緒いっしょになっていた。バッファローはあらし吹雪ふぶきをしのぐため、森林地帯しんりんちたいふゆごした。森林しんりんがバッファローの移動いどう邪魔じゃまになり、容易よういらえられた。はるになると、バッファローは食料しょくりょうもとめに新緑しんりょく草原そうげんへとった。ブラックフットはおそ時期じきのブリザードをおそれ、それをすぐにはいかけなかった。乾燥かんそうさせた保存ほぞんしょく獲物えものもいなくなると、バンドは分裂ぶんれつしバッファローをいかけはじめた。

真夏まなつには、かれらにとって重要じゅうよう儀式ぎしきであるサンダンス(Okan)のためにふたた人々ひとびとあつまる。ブラックフットの4部族ぶぞく一堂いちどうかいするのは1ねんでこのときのみであった。儀式ぎしきつうじ、部族ぶぞく一人ひとりいちにんつながり、様々さまざまなグループのあいだでの結束けっそく強固きょうこなものになる。儀式ぎしきではバッファローのした当時とうじはごちそうであった)もわれた。儀式ぎしきのち人々ひとびとはバッファローをいに再度さいどかれた。

あきには、人々ひとびと次第しだいふゆごす場所ばしょへと移動いどうする。おとこたちはバッファローをがけうえめ、らえた。ヘッド-スマッシュト-イン・バッファロー・ジャンプのようなとくりにてきした場所ばしょには複数ふくすうのグループが一緒いっしょになっていたとかんがえられる。なつわりごろから、バッファローは周囲しゅういけた草原そうげんからがけほうへと自然しぜんまれていった。ブラックフットは共同きょうどうでのバッファローの狩猟しゅりょうをうまく実行じっこうしていた。

おんなはバッファローを加工かこうしてにくにし、栄養えいよう風味ふうみくわえるためにドライフルーツをくわえ、ペミカンつくった。ふゆあいだ、または獲物えものがとれない時期じき保存ほぞんしょくでしのいだ。あきわりをげ、ふゆはいるとブラックフットはふゆ宿営しゅくえいへと移動いどうした。おんなたちはバッファローなどの動物どうぶつ毛皮けがわ住居じゅうきょ補強ほきょうするだけでなく、ふくつくった。動物どうぶつけんやり先端せんたんむすぶのに使つかったり、うまくつわうま勒)にもちいた。

ブラックフットはバッファローの狩猟しゅりょう基本きほんとした伝統でんとうてき生活せいかつ様式ようしきを1881ねんごろまで維持いじしてきたが、バッファローがほぼ絶滅ぜつめつ状態じょうたいになったことで、ヨーロッパけい移住いじゅうしゃかれらの子孫しそんわせて生活せいかつえざるをなくなった。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくでは、1851ねんのララミーとりで条約じょうやく署名しょめい領土りょうど制限せいげんされ、1887ねんのスウィートグラス・ヒルズ条約じょうやく保留ほりゅうあたえられた。カナダでは、1877ねんだい7条約じょうやく署名しょめいし、アルバータしゅう南部なんぶ保留ほりゅういた。

これは、かれらにとって大変たいへん苦闘くとう経済けいざいてき苦難くなんなが歴史れきしはじまりだった。ブラックフットはあらたなかた完全かんぜん順応じゅんのうしようとした。かれらはユーラシア大陸たいりくからまれた疫病えきびょうたいしてなん免疫めんえきもなく、たか死亡しぼうりつくるしまされた。

最終さいしゅうてきに、かれらは経済けいざいてき発展はってんせい見込みこめる農業のうぎょう放牧ほうぼく軽工業けいこうぎょうなどを確立かくりつした。現在げんざい人口じんこうはカナダでやく16,000にん、アメリカでやく15,000にんまで増加ぞうかした。

初期しょき歴史れきし

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ブラックフットはモンタナしゅうからカナダのアルバータしゅう、サスカチュワンしゅうにかけてのグレートプレーンズで生活せいかつしていた[5] 。ブラックフットぞく連合れんごう(Niitsitapi)のうち、「ブラックフットぞく」とばれたのは、シクシカぞく別名べつめい一部いちぶぞくのみである。かれらがかわせいモカシンいていたため、このような名前なまえばれた。かれらは一般いっぱんてきに、モカシンのそこくろめるかった。シクシカぞく草原そうげんえたのちはいなかあるき、モカシンのそこくろくなったという伝説でんせつもある[5]

カイナイぞく(ブラッドぞく)の女性じょせいとトラヴォイ

言語げんごてきまたは文化ぶんかてきパターンにより、人類じんるい学者がくしゃはブラックフットが北米ほくべい大陸たいりく中西部ちゅうせいぶのグレートプレーンズに起源きげんつのではなく、北東ほくとうから移動いどうしてきたとかんがえている。現在げんざいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく北東ほくとうらしていたかれらは、ひとつのグループとして連合れんごうしていた。大半たいはんはカナダとアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくメインしゅう国境こっきょう付近ふきん存在そんざいしていた。1200ねんまでに、ブラックフットは西にし移動いどうし、五大ごだいみずうみ北部ほくぶいたが、すで存在そんざいしていた部族ぶぞく資源しげんめぐってあらそいがきた。かれらは五大ごだいみずうみ周辺しゅうへんり、さらに西にしへと移動いどうした[6]

かれらが移動いどうするとき、トラボイとばれるアルファベットのAのかたちをしたそりに荷物にもつせた。18世紀せいきになってうま獲得かくとくするまでは、トラボイはいぬにひかせていた。五大ごだいみずうみ周辺しゅうへんから西にし移動いどうつづけたブラックフットは、最終さいしゅうてきにグレートプレーンズにたどりいた。

グレートプレーンズはきたサスカチュワンがわみなみリオ・グランデがわひがしミシシッピがわ西にしロッキー山脈さんみゃくまで、やく2,000,000km2面積めんせきめている[7]うま使用しよう導入どうにゅうしたことで、18世紀せいき後半こうはんにはグレートプレーンズでもっと強力きょうりょく部族ぶぞくひとつとしての地位ちい確立かくりつし、「The Lords of the Plains(平原へいげんあるじ)」との名声めいせい[8]

バッファローの重要じゅうようせい

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おおかみ扮装ふんそうしたバッファローの狩猟しゅりょうしゃ
「バッファロー・ジャンプ」をえがいた絵画かいが

ブラックフットのおも食料しょくりょうげんアメリカバイソン(バッファロー)であった。北米ほくべい大陸たいりくもっとおおきな哺乳類ほにゅうるいで、体長たいちょうやく3m、体重たいじゅうはオスで910kgにもなる[9]うま導入どうにゅうするまえは、方法ほうほうでバッファローを狩猟しゅりょうする必要ひつようがあった。バッファロー・ジャンプがもっと一般いっぱんてき方法ほうほうであった。ハンターはバッファローをVのがたあつめ、がけめた(おな方法ほうほうプロングホーン狩猟しゅりょうしていた)。その、ハンターたちはがけしたかい、できるだけおおくのにくはこんでキャンプへもどった。かれらはカモフラージュをもちいて狩猟しゅりょうすることもあった[9] 。ハンターたちはバッファローのかわまとうことで、人間にんげんにおいをかくした。巧妙こうみょう手段しゅだんをとることで、ハンターたちはれに接近せっきんできた。十分じゅうぶんちかづくと、弓矢ゆみや攻撃こうげきし、やりなどで獲物えもの狩猟しゅりょうした。

ブラックフットの人々ひとびとはバッファローのからだかわのほとんどすべてをあますことなく使つかった。おんなにく煮込にこみ、ローストし、または乾燥かんそうさせてジャーキーつくった。この処理しょりにより、ながあいだにくくさらずに保存ほぞんでき、かれらはふゆ食料しょくりょうをバッファローのにくたよってごした[10]。ハンターはバッファローを仕留しとめたのち儀式ぎしきとして心臓しんぞうをしばしばべた。おんなかわをなめし、ティピーにかぶせた。ティピーは支柱しちゅうをバッファローのかわなどでおおってつくられていた。ティピーのなかふゆあたたかくなつすずしく、かぜからもまもられた[11]

おんなかわからローブやモカシンなどの衣類いるいつくり、脂肪しぼう石鹸せっけん原料げんりょうとなった。ほねからはばりつくられ、けんものをくくりつけたりしばったりするのに使つかわれた。膀胱ぼうこう洗浄せんじょうされ、液体えきたい貯蔵ちょぞうもちいられた。乾燥かんそうさせたくそ燃料ねんりょうとして利用りようされた。ブラックフットはバッファローを神聖しんせい動物どうぶつかんがえ、かれらの生活せいかつには不可欠ふかけつ存在そんざいであった[12]

うま発見はっけん使用しよう

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うまったブラックフットの戦士せんしカール・ボドマー作品さくひん

1730ねんごろまで、ブラックフットは荷物にもついぬはこばせ、徒歩とほ移動いどうしていた。かれらはこれまでうまたこともなかったが、ショショーニぞくといったすでにうま導入どうにゅうしていたほか部族ぶぞくからうままれた[13]かれらがうま活用かつようしているのをて、ブラックフットもそれをほっするようになった。ブラックフットはうまを「ポノカミタ(ponokamita) 」とんだ[14]うまいぬよりもよりおも荷物にもつはこぶことができ、移動いどう速度そくどはやかった[15]

うまはグレートプレーンズのらしに革命かくめいをもたらし、財産ざいさん尺度しゃくどとしてかんがえられるようになった。戦士せんしもっとうまり、定期ていきてき部族ぶぞくおそった。うま物々交換ぶつぶつこうかん世界せかい共通きょうつう基準きじゅんとしてもひろもちいられた。呪術じゅじゅつうま治療ちりょうほどこした。うまかずえれば個人こじん財産ざいさんえるが、多数たすううま所有しょゆうしたものはいなかった。個人こじん名声めいせい地位ちい他人たにんおくったうまかずにより判断はんだんされた。グレートプレーンズで生活せいかつしていたインディアンにとって、財産ざいさん価値かちおもにそれを他人たにん共有きょうゆうするところにあった[16]

グレートプレーンズ北西ほくせいでショショーニぞくアラパホぞく敵対てきたい関係かんけいになった1800ねんごろから、クリーぞくとの毛皮けがわ交易こうえきめぐってはげしいあらそいがこり、しばしば軍事ぐんじてき戦闘せんとう発展はってんした。どちらの部族ぶぞくも1730ねんごろにはうま導入どうにゅうしており、そのため18世紀せいきなかばまでにはうま十分じゅうぶん供給きょうきゅうのこるための問題もんだいとなっていた。この段階だんかいになると、うま泥棒どろぼう度胸どきょうあかしとしてだけでなく、しばしばのこるための必死ひっし貢献こうけんとなった。

クリーぞくとアシニボインぞくはブラックフットと同盟どうめいむすんでいたグロヴァントぞく(クリーぞく言葉ことばでは「素早すばやひと」を意味いみするPawistiko Iyiniwakとばれた)に対抗たいこうするため、うまつづけた。グロヴァントぞくてき襲撃しゅうげきたいして銃器じゅうき抵抗ていこうした。てき武器ぶき供給きょうきゅうしていたハドソンわん会社かいしゃへの報復ほうふくとして、グロヴァントぞくは1793ねん現在げんざいのサスカチュワンしゅうセントルイス付近ふきんにあった、サウスサスカチュワンがわめんしたサウスブランチハウスを襲撃しゅうげきし、はなった。当時とうじかれらはモンタナしゅうのミルクかわからみなみ移動いどうしていた。ノースサスカチュワンがわとバトルがわかわ名前なまえはこれら2つの対立たいりつした部族ぶぞくたたかったことに由来ゆらいする)にかけての範囲はんいがブラックフットとグロヴァントぞく領域りょういきであった[17]

戦士せんし文化ぶんか

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When Blackfoot and Sioux Meetアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく西部せいぶ美術家びじゅつかチャールズ・マリオン・ラッセル作品さくひん

ブラックフットの戦士せんしたちはすうひゃくマイルもうまって襲撃しゅうげきをしていただろう。少年しょうねんはじめて戦士せんしのバンドにくわわるとき、ばかげた、または軽蔑けいべつてき名前なまえあたえられた。しかし、かれはじめてうまぬすむかてきころせば、名誉めいよのある名前なまえあたえられた。戦士せんしたちはカウンティング・クーとばれた競技きょうぎ勇敢ゆうかんさをせ、社会しゃかいてき地位ちいたかめるために努力どりょくした。クーは以下いかじゅん重要じゅうようだとされた。生存せいぞんしているてきからじゅう獲得かくとくするまたは直接ちょくせつからださわる、やりゆみ獲得かくとくする、てき頭皮とうひぐまたはころす、つながれているてきうま自由じゆうにする、戦士せんしのバンドをひきいる、てきのバンドを偵察ていさつする、はねかざり、だて、パイプをぬすむ、解放かいほうされたうまれてかえ[18]

ブラックフットと敵対てきたい関係かんけいにあった部族ぶぞくはグレートプレーンズではクロウぞくシャイアンぞくスーぞく(ダコタぞく、ラコタぞく、ナコタぞく総称そうしょう)、西にし南西なんせい山岳さんがくではショショーニぞくフラットヘッドぞくカリスペルぞくクーテネイぞくネズ・パースぞくであった。もっと強力きょうりょく危険きけんてきは、政治せいじ軍事ぐんじ交易こうえき連合れんごうしたアイアン連合れんごうであった。連合れんごうはストーニーぞく(ナコダぞく)、ソート―ぞく平原ひらはらオジブワぞく)、メティ構成こうせいされていた。

ショショーニぞくはブラックフットよりもかなりはやうま入手にゅうしゅし、現在げんざいのアルバータしゅう・モンタナしゅう大半たいはん、さらにワイオミングしゅう一部いちぶ占領せんりょうし、度々たびたびブラックフットをおそっていた。ブラックフットがハドソンわん会社かいしゃからクリーぞくやアシニボインぞく経由けいゆしてうまじゅう入手にゅうしゅすると、状況じょうきょうわった。1787ねんまでに、ブラックフットがショショーニぞく領域りょういき完全かんぜん征服せいふくし、ショショーニぞくおんな子供こども度々たびたびらえて強制きょうせいてきにブラックフットに同化どうかさせ、ショショーニぞくたいして優位ゆうい拡大かくだいしていたとデイビッド・トンプソンは報告ほうこくした。トンプソンはまた、1787ねんのブラックフットの領域りょういきは、きたはノースサスカチュワンかわからみなみはミズーリがわまで、東西とうざいはロッキー山脈さんみゃくからひがしに480kmの範囲はんいであったと報告ほうこくした。

1790ねんから1850ねんにかけて、アイアン連合れんごう勢力せいりょく絶頂ぜっちょうにあった。かれらはスーぞくやブラックフットの襲撃しゅうげき対抗たいこうし、かれらの領域りょういき防衛ぼうえい成功せいこうした。バッファロー戦争せんそうばれた1850ねんから1870ねんあいだ、アイアン連合れんごうはバッファローをもとめてブラックフットの領域りょういきによりふか侵入しんにゅうした。そのため、ピーガンぞくはミズーリがわ周辺しゅうへんから退しりぞくことをいられた。カイナイぞくはボウがわベリがわから撤退てったいしたが、シクシカぞくだけはレッドディアがわ沿った伝統でんとうある土地とちまもった。

ヨーロッパじんとの最初さいしょ接触せっしょく毛皮けがわ交易こうえき

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ハドソンわん会社かいしゃのアンソニー・ヘンデイは1754ねん現在げんざいのアルバータでだい規模きぼなブラックフットの集団しゅうだん出会であった。ブラックフットはルイス・クラーク探検たんけんたい出会であう1806ねんまで、カナダじんやイギリスじん交易こうえき商人しょうにん毛皮けがわ交易こうえきをしていた[19] 。ルイスとクラークの探検たんけんたい連邦れんぽう政府せいふのために、ルイジアナとミズーリがわ上流じょうりゅう地図ちず作成さくせい着手ちゃくしゅした。

探検たんけんたい太平洋たいへいようからもど行程こうてい途中とちゅう、ルイスと3にんおとこうまったわかいブラックフットの戦士せんし集団しゅうだん遭遇そうぐうした。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくすべてのインディアン部族ぶぞくとの平和へいわのぞ[20]、また連邦れんぽう政府せいふ指導しどうしゃのインディアン部族ぶぞくとうまく連合れんごう形成けいせいするとルイスは説明せつめいした[19]かれらはとも野営やえいしたが、よるけるとルイスたちているあいだにブラックフットがじゅうぬすんで逃走とうそうしようとしたことが発覚はっかくしたために小競こぜいがきた。そのあらそいで一人ひとり戦士せんし致命ちめいてききずい、さらにルイスの銃弾じゅうだんけ、死亡しぼうしたと推定すいていされる[21]

そのすう年間ねんかん、ブラックフットの領域りょういき活動かつどうしていたマウンテンマン敵意てきいさらされることになった。ルイス・クラーク探検たんけんたいのメンバーであったジョン・コルターはブラックフットの領域りょういきからいのちからがらかえった。1809ねん、コルターとかれ仲間なかまがジェファーソンかわでカヌーにっていたとき、うまったすうひゃくにんのブラックフットの戦士せんしかわりょうきしかこまれた。コルターの仲間なかまであったジョン・ポッツは降伏ごうぶくせず、殺害さつがいされた。コルターは衣服いふくがされ、いのちがけでげるように強制きょうせいされた。かれよるになるまで流木りゅうぼくかビーバーがつくったダムのなかでやりごした。かれは300マイルはなれたとりでまでった[22][23]

うまじゅう普及ふきゅうのために伝統でんとうてき政略せいりゃくわりつつあるという状況じょうきょうで、ブラックフットは当初とうしょルパート・ランドにおいてハドソンわん会社かいしゃ交易こうえき商人しょうにん取引とりひきし、近隣きんりん部族ぶぞく西洋せいようじんとの接触せっしょくめようとこころみた。しかし、ハドソンわん会社かいしゃ活動かつどう領域りょういき最終さいしゅうてきにブリティッシュコロンビアしゅう内陸ないりくまでひろがった。

ハドソンわん会社かいしゃはブラックフットの領域りょういき北端ほくたんのノースサスカチュワンに交易こうえきしょ建設けんせつし、交易こうえきうながした。1830年代ねんだい、ロッキー山脈さんみゃくとサスカチュワン地域ちいきはハドソンわん会社かいしゃにとってもっと利益りえきおおく、ロッキーマウンテンハウスもっと繁盛はんじょうした交易こうえきしょであった。交易こうえきしょおもにピーガンぞくとの取引とりひき使つかわれた。のブラックフットは、フォート・エドモントンのような交易こうえきしょでペミカンやバッファローの毛皮けがわなどの取引とりひきをしていた[24]

一方いっぽうで、1822ねんにアメリカ毛皮けがわ会社かいしゃはミズーリ川上かわかみ流域りゅういきはじめてブラックフットの許可きょかけずに進入しんにゅうした。これにより、平和へいわてき交易こうえきはじまった1830ねんまで緊張きんちょうあらそいがもたらされた。つづいて1831ねんにブラックフットの領域りょういきはじめてのアメリカの交易こうえきしょとなったフォート・ピーガンが、1833ねんにはフォート・マッケンジーが開設かいせつされた。アメリカじんはハドソンわん会社かいしゃよりもバッファローの毛皮けがわつよ興味きょうみち、交易こうえき条件じょうけん提示ていじし、さらにおおくの取引とりひきおこなわれるようになった。ハドソンわん会社かいしゃは1832ねんボウがわちかくにボウとりで建設けんせつしたが、成功せいこうしなかった[25]

1833ねん、ドイツじん探検たんけんマクシミリアン・ツー・ヴィート=ノイヴィートとスイスじんのパートナーカール・ボドマーはブラックフットととも数ヶ月すうかげつごし、かれらの文化ぶんかかんった。ボドマーはかれらの社会しゃかい絵画かいが表現ひょうげんした[21]

ヨーロッパじんとの接触せっしょくによりブラックフットにコレラ天然痘てんねんとうといった伝染でんせんびょうひろがった[26]感染かんせんしょうによって6,000にんのブラックフットが死亡しぼうし、グレートプレーンズでのかれらの支配しはいわりをげた。すでに41ねんまえエドワード・ジェンナー種痘しゅとう開発かいはつしていたため、ハドソンわん会社かいしゃ社員しゃいんには感染かんせんひろがらなかった[27]

インディアン戦争せんそう

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のグレートプレーンズのインディアン部族ぶぞくのように、ブラックフットは白人はくじんたいしてしばしば敵対てきたい関係かんけいにあった。敵対てきたい関係かんけいにあったにもかかわらず、ブラックフットのだい部分ぶぶんはグレートプレーンズでのインディアン戦争せんそうくわわらず、たたかうこともアメリカ陸軍りくぐん偵察ていさつをすることもなかった。しかしながら、1870ねん1がつ23にちにピーガンぞく移住いじゅうしゃへの襲撃しゅうげき鎮圧ちんあつするためのみとしてアメリカ陸軍りくぐんあやまって攻撃こうげきされ、ほぼ全滅ぜんめつした(マライアスの虐殺ぎゃくさつ)。友好ゆうこう関係かんけいにあった王立おうりつカナダ騎馬きば警察けいさつとマライアスの虐殺ぎゃくさつでの蛮行ばんこうったものは、ブラックフットがカナダやアメリカにたいして交戦こうせんするのをおもいとどまらせた。

シャイアンぞくアラパホぞく同盟どうめいしていたラコタがアメリカ陸軍りくぐんたたかっていたとき、ブラックフットに使者ししゃおくどもたたかうようにうながした。ブラックフットでもっと影響えいきょうりょくのあった酋長しゅうちょう一人ひとりであるクロウフットはラコタの使者ししゃ追放ついほうした。かれはもしラコタがきたのブラックフットの領域りょういきふたたれば、北西ほくせい騎馬きば警察けいさつ連合れんごうしてラコタとたたかうとおどした。クロウフットの忠誠ちゅうせいしんオタワからロンドンのヴィクトリア女王じょおうにもられ、かれとブラックフットの忠誠ちゅうせいしん称賛しょうさんした[28]。にもかかわらず、クロウフットはのちリトルビッグホーンのたたかジョージ・アームストロング・カスターたいたおしたのちカナダにのがれてきたシッティング・ブル面会めんかいした。クロウフットはラコタぞくもなく亡命ぼうめいしゃになるとかんがえ、かれらの闘争とうそう同情どうじょうしたが、たたかいに反対はんたいする姿勢しせいえなかった。シッティング・ブルはクロウフットに感心かんしんし、息子むすこ一人ひとりかれちなんで名付なづけられた[29]

ブラックフットはルイ・リエル主導しゅどうしたノースウェストの反乱はんらんにもかかわらないことを選択せんたくした。ルイ・リエルらは政府せいふへの不満ふまん拡大かくだいさせ、強力きょうりょく支持しじしゃようとした。ノースウェストの反乱はんらん参加さんかした大半たいはんはアシニボインぞく平原へいげんクリーぞくのメティであり、ヨーロッパじん侵略しんりゃくとバッファローのれの大量たいりょう殺戮さつりくたいしてたたかった。平原へいげんクリーぞくはブラックフットがもっときらっていたてきひとつであったが、しかしクリーぞく有力ゆうりょく酋長しゅうちょうであるパウンドメーカーをクロウフットがれ、2つの部族ぶぞく和解わかいした。かれたたかいをこばんだが、クロウフットは反乱はんらん共感きょうかんし、とりわけクリーぞくひきいた著名ちょめい酋長しゅうちょうであるパウンドメーカー、ビッグ・ベアー、ワンダリング・スピリット、ファイン・デイにはふか同情どうじょうした[30]

ブラックフットが中立ちゅうりつ状態じょうたいたもっているというらせはカナダ総督そうとくランズダウン侯爵こうしゃくにもとどき、ヴィクトリア女王じょおうわってクロウフットへ再度さいど感謝かんしゃ表明ひょうめいした。ジョン・A・マクドナルド内閣ないかく初代しょだいカナダ首相しゅしょう)もクロウフットへおおきな拍手はくしゅおくった[30]

苦難くなん

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連邦れんぽう政府せいふやとわれたヨーロッパけいアメリカじんがブラックフットの居留きょりゅうのこっていたバッファローを狩猟しゅりょうしたため、1800年代ねんだいなかばのブラックフットの食糧しょくりょう調達ちょうたつはじりひんになっていった。開拓かいたくしゃたちも部族ぶぞく領域りょういき侵入しんにゅうしていた。バッファローをれないので、ブラックフットは連邦れんぽう政府せいふからの食料しょくりょう供給きょうきゅうたよることをいられた[31]。1855ねん、ブラックフットのレイム・ブル酋長しゅうちょう連邦れんぽう政府せいふ平和へいわ条約じょうやくむすんだ。レイム・ブルの条約じょうやく内容ないようは、ブラックフットが居留きょりゅう移動いどうするわりに、年間ねんかん2まんドルの支援しえんをするというものだった[32]

1860ねんには、ごくわずかなバッファローしかのこっておらず、ブラックフットは完全かんぜん政府せいふ食糧しょくりょう援助えんじょ依存いぞんしていた。食糧しょくりょうかれらのもとに到着とうちゃくするまえくさっていたり、またはまったとどかないこともしばしばあった。えと絶望ぜつぼうから、ブラックフットは食糧しょくりょうもとめて白人はくじん襲撃しゅうげきし、双方そうほう無法者むほうものたちによるあらそいがきた。

1867ねんわかいピーガンぞく戦士せんしオウル・チャイルドがアメリカじん商人しょうにんマルコム・クラークからすうとううまぬすんだことががねとなり事件じけんきた。クラークはオウル・チャイルドを追跡ついせきし、報復ほうふくとしてオウル・チャイルドの宿営しゅくえいから丸見まるみえの場所ばしょかれはげしく殴打おうだし、屈辱くつじょくあたえた。ピーガンぞく口述こうじゅつ歴史れきしによれば、クラークはオウル・チャイルドのつま強姦ごうかんしたとされる。しかし、クラークはオウル・チャイルドのいとこでもあるCoth-co-co-naというピーガンぞく女性じょせいながあいだ婚姻こんいん関係かんけいにあった。強姦ごうかんされたおんなはその子供こどもんだが、死産しざんとなったかバンドの年長ねんちょうしゃころされたとされる[33]。2ねんの1869ねん、オウル・チャイルドとかれ仲間なかますうめい夕食ゆうしょくにクラークの農場のうじょう襲撃しゅうげきし、殺害さつがいした。かれ息子むすこホレスも重傷じゅうしょうった。この事件じけんらせをいた人々ひとびとはげしく抗議こうぎし、フィリップ・シェリダン将軍しょうぐん騎兵隊きへいたい派遣はけんすることになった。オウル・チャイルドを追跡ついせきしてらえばっするための騎兵隊きへいたいはユージン・ベーカー少佐しょうさひきいた。

1870ねん1がつ23にち騎馬きばたいはピーガンぞく宿営しゅくえいについての情報じょうほう提供ていきょうけたが、あやまってちがうバンドをてき認識にんしきしてしまった。夜明よあけとともに、200にん前後ぜんこう兵士へいしがキャンプをかこみ、奇襲きしゅう準備じゅんびをした。射撃しゃげき号令ごうれいまえ、ヘビーランナー酋長しゅうちょう宿営しゅくえいうえゆきもったがけ展開てんかいする兵士へいしたちに警戒けいかいしていた。かれ安全あんぜん通行つうこうけん証紙しょうしたずさえ、断崖だんがいほうへとあるいてった。ヘビーランナーとかれのバンドのピーガンぞくはアメリカじん開拓かいたくしゃぐん友好ゆうこうてき関係かんけいきずいていた。 ヘビーランナーはジョー・コベルに銃撃じゅうげきされ殺害さつがいされた。かれ仲間なかまのジョー・キップはあやまりにづき、たいにシグナルをおくった。かれ騎馬きばたい友好ゆうこうてき人々ひとびと攻撃こうげきしたと報告ほうこくされることをおそれた[34]

ヘビーランナーがんだのち兵士へいしたちが宿営しゅくえい襲撃しゅうげきした。173にんのピーガンぞく死亡しぼうしたが、騎兵隊きへいたい死亡しぼうしゃ落馬らくばしてあし骨折こっせつしたのち合併症がっぺいしょう死亡しぼうした1人ひとりだけだった。犠牲ぎせいしゃ大半たいはんは、おんな子供こども老人ろうじんだった。わかおとこたちはほとんどりょうかけていた。140にんのピーガンぞくらえられたが、すぐに解放かいほうされた。宿営しゅくえい所有しょゆうぶつ破壊はかいされたかれらは亡命ぼうめいしゃとなり、フォートベントンかったが、おおくが凍死とうしした。

だい虐殺ぎゃくさつ報告ほうこく徐々じょじょ東部とうぶにも認知にんちされ、連邦れんぽう議会ぎかい議員ぎいんやメディアを憤慨ふんがいさせた。ウィリアム・シャーマン将軍しょうぐん殺害さつがいされたのはほとんどがマウンテン・チーフにひきいられた戦士せんしだと報告ほうこくした。政府せいふ公式こうしき調査ちょうさおこなわれず、だい虐殺ぎゃくさつがあった場所ばしょしめ記念きねん存在そんざいしない。ウンデット・ニーの虐殺ぎゃくさつサンドクリークの虐殺ぎゃくさつ比較ひかくして、マライアスのだい虐殺ぎゃくさつひろられていないままである。しかし、ユリシーズ・グラント大統領だいとうりょう陸軍りくぐんがインディアン事務じむきょくぐことを承認しょうにんせず、インディアン事務じむきょく堕落だらくめるように提案ていあんした。グラント大統領だいとうりょうはネイティブアメリカンとの平和へいわ政策せいさく遂行すいこうするために、多数たすうのクエーカー教徒きょうとをインディアン事務じむきょく任命にんめいした。

クリーぞくとアシニボインぞくもバッファローの減少げんしょうくるしんでいた。1850ねんまでにはバッファローはもっぱらブラックフットの領域りょういきだけにしかられなくなっていた。それゆえ、1870ねんにアイアン同盟どうめい複数ふくすうのバンドは戦闘せんとうはじめることによって、獲物えものつけるための最後さいご努力どりょくをした。かれらは天然痘てんねんとう弱体じゃくたいしたブラックフットをたおし、ウープアップとりでちかくの宿営しゅくえい襲撃しゅうげきすることを期待きたいした。しかし、レスブリッジちかくできたベリーかわたたかいでブラックフットにやぶれ、300にん以上いじょう戦士せんしんだ。ふゆになるとえのためにブラックフットと交渉こうしょうすることを余儀よぎなくされ、最終さいしゅうてきかつ永続えいぞくてき和平わへいむすばれた。

連邦れんぽう政府せいふはブラックフットに不利ふり影響えいきょうあたえる法案ほうあん通過つうかさせた。1874ねん連邦れんぽう議会ぎかいはブラックフットとのはないをせずに居留きょりゅう境界きょうかい変更へんこうすることを投票とうひょう決定けっていした。ブラックフットがうしなった土地とち代替だいたい補償ほしょうけることはなかった。カイナイぞく、シクシカぞく、ピーガンぞくはカナダへ移動いどうし、みなみピーガンぞく(ピクニ)だけがモンタナしゅうのこった[35]

1883ねんから1884ねんにかけてのふゆ政府せいふからの物資ぶっしとどかず、バッファローもいなくなったため、「飢餓きがふゆ」としてられるようになった。ふゆあいだに600にんのブラックフットが餓死がしした[36]

ネイティブアメリカンをヨーロッパけいアメリカじん生活せいかつ様式ようしき同化どうかさせる目的もくてきで、政府せいふは1898ねん部族ぶぞく政府せいふ廃止はいしし、伝統でんとうてき宗教しゅうきょう慣習かんしゅう禁止きんしした。ブラックフットのどもたちはインディアン寄宿きしゅく学校がっこうはいらされ、部族ぶぞく言葉ことばはなすことも、慣習かんしゅうまもることも、伝統でんとうてき衣装いしょうることも禁止きんしされた[37]。1907ねん居留きょりゅう土地とちかく家庭かていあるじあてて、部族ぶぞく共有きょうゆう廃止はいしして家族かぞくごとに農業のうぎょういとなむことを奨励しょうれいする政策せいさく連邦れんぽう政府せいふ承認しょうにんした。かく家庭かていは65ヘクタールの農地のうちり、部族ぶぞく必要ひつよう土地とちより余分よぶんのこりは政府せいふ公表こうひょうし、開拓かいたくのため公売こうばいにかけられた[37]てられた土地とちは、不毛ふもう平原へいげん農業のうぎょうをするにはあまりにせますぎた。1919ねんかんばつでは穀物こくもつれ、うし価格かかく上昇じょうしょうした。おおくのネイティブアメリカンはてられた土地とち売却ばいきゃくすることをいられた[38]

1934ねん、フランクリン・ルーズベルト政権せいけんインディアンさい編成へんせいほう可決かけつし、土地とちてを中止ちゅうしし、部族ぶぞくかれ自身じしん政府せいふ選択せんたくすることを許可きょかした。また、部族ぶぞく文化ぶんかまもることもみとめられた[38]

文化ぶんか

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酋長しゅうちょう選出せんしゅつ

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ブラックフットは家族かぞくをたいへんおもんじている。移動いどうするさいは20にんから30にんのバンドにかれるが、儀式ぎしきのときには団結だんけつした[39]かれらはリーダーシップ能力のうりょく重要じゅうようし、部族ぶぞくかしこうごかせる人物じんぶつ酋長しゅうちょうえらんだ。平和へいわ期間きかんは、人々ひとびとみちびくことができ、部族ぶぞくとの関係かんけい改善かいぜんができる人物じんぶつを「平和へいわ酋長しゅうちょう」にえらんだ。一方いっぽうたたかいの酋長しゅうちょう」は選挙せんきょえらぶことはできず、てきさわるなどの勇敢ゆうかんいが必要ひつようだった[40]。ブラックフットのバンドでは任命にんめいされただい酋長しゅうちょうくわえ、しょう酋長しゅうちょう存在そんざいすることもよくあった。

社会しゃかい

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ブラックフットの部族ぶぞくなかでは、所属しょぞくする人々ひとびとことなる社会しゃかいぞくし、それぞれが部族ぶぞく役割やくわりつ。若者わかもの通過つうか儀礼ぎれいえ、能力のうりょくがあるとみとめられると部族ぶぞく社会しゃかいまねかれる。通過つうか儀礼ぎれい儀式ぎしきれいとして、「ビジョン・クエスト」(Vision quest)というものがある。若者わかものはまずスウェット・ロッジからだきよし[41] 、キャンプのそとて、4日間にちかん一人ひとりきりでまずわずでいのる。かれらが目指めざすのは、将来しょうらい指針ししんとなる啓示けいじることである。啓示けいじのちむらもどり、社会しゃかいくわわる準備じゅんびをする。

戦士せんし社会しゃかいにおいて、おとこたちはたたかいの準備じゅんびをしなければならない。この準備じゅんびというのは、きよしめ、身体しんたい象徴しょうちょうてきなペイントをほどこすことである。たたかいで使用しようするうまにもおなじようにペイントをした。戦士せんし社会しゃかいのリーダーは「クー・スティック」とばれるはねかざりなどで装飾そうしょくされたぼう携行けいこうしていた。戦士せんしたちはてきをスティックではたき、離脱りだつする「カウンティング・クー」で名声めいせいった。

宗教しゅうきょう社会しゃかいぞくするものは、神聖しんせい道具どうぐまもり、宗教しゅうきょうてき儀式ぎしき実施じっしした。かれらはたたかいのまえ戦士せんしたちを祝福しゅくふくした。主要しゅよう儀式ぎしきはサンダンスやメディシンロッジの儀式ぎしきであった。

女性じょせい社会しゃかい部族ぶぞくなか重要じゅうよう責任せきにんになっている。おんなたちは洗練せんれんされたクイル細工ざいく衣服いふく儀式ぎしきもちいるたてつくった。たたかいの準備じゅんび手伝てつだった。どもたちの世話せわをし、部族ぶぞくならわしをおしえた。かわぎ、なめし、衣服いふくなどに利用りようした。食事しょくじ支度したくもした。また、ハンターたちのちからになるために儀式ぎしきえんじた[42]

スマッジング

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スウィートグラスをんだロープをけたブラックフットの男性だんせい

ヤマヨモギスウィートグラスはブラックフットのほかグレートプレーンズで生活せいかつする部族ぶぞくにとって神聖しんせい植物しょくぶつだとかんがえられ、儀式ぎしきもちいられてきた。これらの植物しょくぶついてそのけむりったり、身体しんたいびたりした。この儀式ぎしきはスマッジング(Smudging)としてひろられている。ヤマヨモギはいかりなどのわる感情かんじょうのぞくとわれている。スウィートグラスはいエネルギーをもたらすとわれている。どちらの植物しょくぶつ浄化じょうかする目的もくてき使用しようされる。くさやした天然てんねんかおりやさわやかさはたましいけるとわれる。儀式ぎしきまえ準備じゅんびとしてスウィートグラスのくきたがいにまれ、乾燥かんそうさせられる。

スウィートグラスはクマコケモモやレッドウィローと一緒いっしょに、煙草たばこぜられた。パイプからのぼけむり天上てんじょう創造そうぞうぬしのもとへはこんでくれるとわれる。呪術じゅじゅつはスウィートグラスなどの重要じゅうよう植物しょくぶつを、華麗かれいかざられたおおきなはこれて保存ほぞんした[43]

結婚けっこん

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ブラックフットの文化ぶんかでは、男性だんせい結婚けっこんするパートナーをえら責任せきにんがあるが、女性じょせいはその選択せんたくれるかまたは拒否きょひできる。男性だんせい女性じょせいちちにハンターまたは戦士せんしとしての能力のうりょく披露ひろうする必要ひつようがあった。もし父親ちちおや感心かんしんし、結婚けっこん同意どういすれば、男性だんせい女性じょせいうま衣類いるいをそれぞれおくものとして交換こうかんし、これをもって婚姻こんいん成立せいりつしたとみなされた。結婚けっこんしたカップルは、自分じぶんたち自身じしんのティピーまたはおっと家族かぞくのティピーでらした。男性だんせい複数ふくすうつまつことができたが、一般いっぱんてきには一人ひとりのみをつまえらんだ。二人ふたり以上いじょうつま場合ばあいつま姉妹しまいがよくえらばれた。というのも、つま姉妹しまいならあか他人たにんではないとかんがえられていたからである[44]

ども

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典型てんけいてきなブラックフットの家族かぞくでは、父親ちちおやりにかけ、家族かぞく必要ひつようとしているかもしれない物資ぶっしかえる。母親ははおや住居じゅうきょちかくにまり、父親ちちおやかけているときどもの世話せわをする。どもは成長せいちょうするにつれ、基本きほんてきなサバイバルのスキルやしきたりをおしえてもらう。男子だんし女子じょしも、うまることを習得しゅうとくするのがはやいと一般いっぱんてきわれている。男子だんしりのやりかたならうのに十分じゅうぶん年齢ねんれいになるまで、よく弓矢ゆみやのおもちゃであそんだ[40]

どもはのちにアイスホッケーとしてられるシニーというゲームをしていた。がったなが木製もくせいのスティックでボールをち、ゴールラインをえると得点とくてんになった。ボールはいた粘土ねんどバックスキンおおったものが使つかわれた。女子じょしにはあそぶための人形にんぎょうあたえられ、典型てんけいてき部族ぶぞく衣服いふくえでまなんだり、どもの世話せわ仕方しかたおそわった[45]かれらが成長せいちょうするにつれて、よりおも責任せきにんかたかった。女子じょしはその料理りょうり仕方しかたかわのなめしかた野生やせい植物しょくぶつやベリーるいあつかたおそわった。男子だんし父親ちちおや一緒いっしょりにかけ、食料しょくりょう調達ちょうたつする責任せきにんった[46]

衣服いふく

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典型てんけいてき衣服いふくは、おもにレイヨウやシカのかわやわらかくし、なめしてつくられた。おんな部族ぶぞく全員ぜんいん衣服いふくつくり、装飾そうしょくした。おとこはモカシン、ながいレギンス、腰巻こしまき、ベルトをけていた。時々ときどきはシャツをていたかもしれないが、普通ふつうはバッファローのローブを着用ちゃくようしていた。勇敢ゆうかんさで名高なだかおとこはグリズリーのつめつくられたネックレスをけていた[46]

男子だんし大人おとなおなじようにレギンス、モカシンをき、腰巻こしまき、そして時折ときおりシンプルなシャツをた。さむければだんをとるためにバッファローのローブをかたにかけたりあたまからかぶった。女性じょせい衣服いふくは2〜3とうのシカのかわからつくられた。女性じょせい遠方えんぽう部族ぶぞくとの交易こうえきつうじて入手にゅうしゅした貝殻かいがらのイヤリングやブレスレット、または様々さまざま貴金属ききんぞくけた。時々ときどきかみにビーズでかざったり、かみ一部いちぶあかめたりした。これはどもをめる年齢ねんれいになったということをあらわしていた[46]

ヘッドドレス

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のグレートプレーンズのインディアンとおなじく、ブラックフットは多種たしゅ多様たようなヘッドドレス(あたまかざり)を発展はってんさせてきた。ヘッドドレスにはかれらが重要じゅうようかんがえたもの要素ようそれられ、それぞれがことなる目的もくてきち、ことなる連合れんごう象徴しょうちょうしていた。典型てんけいてきあたまかざりはワシのはねつくられていた。なぜかというとワシは力強ちからづよとりだとかんがえられていたからである。有力ゆうりょく戦士せんし酋長しゅうちょうがそれをけていた。ワシのはねかざりにみられるような、じょういたヘッドドレスはブラックフット独自どくじのものである。はねえん部分ぶぶんからじょうほうけられていた。おおくの場合ばあいはヘッドドレスの前面ぜんめんあかはねかざられ、これまた上方かみがたけられていた。

スプリットホーン(かれたかく)もグレートプレーンズ北部ほくぶのインディアン、とりわけブラックフットでは非常ひじょう人気にんきがあった。おおくの戦士せんし社会しゃかいでは、スプリットホーンのヘッドドレスをけた。スプリットホーンは1とうのバッファローのかくを2つにき、ちいさいサイズのかくつくなおし、最後さいごみがいてつくられた。かくはフェルトせい帽子ぼうしえんけられた。イタチの毛皮けがわあたまかざりのさい上部じょうぶけられ、両側りょうがわからぶらげられた。側面そくめん毛皮けがわは、大抵たいていはヘッドドレスの仕上しあげにけられた。これにたヘッドドレスに、アンテロープ・ホーンとばれるものがあるが、こちらはプロングホーンかくからつくられる。

ブラックフットのおとこ、とりわけ戦士せんしヤマアラシつくられたはねかざりをときどきけた。ヤマアラシのはほとんどの場合ばあいあかめられた。ワシなどのとりはねもしばしばはねかざりにもちいられた。

バッファローの頭皮とうひかくいたままのものもしばしばあった)も着用ちゃくようしていた。動物どうぶつやわらかい毛皮けがわ(ほとんどはカワウソ)でつくられた「ターバン」も一般いっぱんてきであった。これらはふゆ頭部とうぶさむさからまもるためにけられた。

特別とくべつ儀式ぎしきさいには、ブラックフットは伝統でんとうてき衣装いしょうることをつづけている。選出せんしゅつされた酋長しゅうちょうや、様々さまざま伝統でんとう社会しゃかいのメンバー、パウワウのダンサー、宗教しゅうきょうてき指導しどうしゃなどがおも[47]

太陽たいようつき

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シクシカぞく呪術じゅじゅつジョージ・カトリンさく

ブラックフットの伝統でんとうもっと有名ゆうめいなもののひとつが太陽たいようつき神話しんわである。物語ものがたり夫婦ふうふ2人ふたり息子むすこから家族かぞくからはじまる。かれらはベリーなどの食物しょくもつあつめることで生計せいけいて、弓矢ゆみやなどの道具どうぐ所有しょゆうしていなかった。おっとはあるときゆめた。ゆめではナピ(またはナピウ、ナピオア)という創造そうぞうぬしから、「おおきな蜘蛛くもり、それを動物どうぶつたちがあるまわっているみちきなさい。そうすれば動物どうぶつつかまり、石斧せきふ簡単かんたん仕留しとめられるだろう」とのおげをいた。かれはそれを実行じっこうし、ゆめ真実しんじつであったことがかった。

あるかれ新鮮しんせんにくかえると、つま香水こうすいっていることにいた。かれつま恋人こいびとがいるにちがいないとかんがえた。それからかれは、自分じぶん蜘蛛くもうごかしにったことをはなし、そとのこしてきたまえりでったにく木材もくざいってくるようつまたのんだ。つま渋々しぶしぶそとて、おか横切よこぎった。彼女かのじょは3かえったが、おっとおな場所ばしょにいたままだったので、にく回収かいしゅうつづけた。それからおっとは、母親ははおやについてって木材もくざいさがしてくるようにどもにたのんだが、それをしなかった。しかしながら、どもはつまがそれを回収かいしゅうした場所ばしょっていた。おっとかけると、つま愛人あいじんであったガラガラヘビのとともに木材もくざいつけた。かれ木材もくざいをつけ、ヘビをころした。おっとはこうすればつま激怒げきどすることになるとかっていたので、そのままいえかえった。かれどもにげるようにつたえ、ははいかけてきたら使つかうためにぼういしこけあたえた。かれいえにとどまり、玄関げんかん蜘蛛くもおおった。つまかえってきてなかにゅうろうとしたが、身動みうごきがれなくなり、あしとされた。つまはそれからあたまなかとおしたが、おっとがそれをまたとした。からだおっといかけてかわき、あたまどもののちをついてった。あにうしろにあたまがあるのにづき、ぼうげた。ぼうおおきなもりへとわった。あたまはそこをうまくとおけたので、おとうとあにいしげるようにらせた。あにがそうすると、巨大きょだいやまあらわれた。あたまひつじれと出会であい、かれらがやまかくいてけてすすめば、ひつじのボスと結婚けっこんするとった。ボスは承知しょうちし、ひつじたちはかくがすりるまでいたが、まだとおけられないままだった。それから彼女かのじょありにもおな条件じょうけんやまあなすすむようにたのんだ。かれらはのこりのみちのりを完成かんせいさせた。どもははるか前方ぜんぽうにいたが、最終さいしゅうてきにはかれらのうしろにいついた。どもたちはこけらし、そのしずく背後はいごしぼった。すると、かれらがいままでいた場所ばしょみずかこまれた。あたまみずなかころがりみ、おぼじにんだ。かれらはボートをつくり、かえすことにめた。もとの場所ばしょもどると、カラスやヘビに占領せんりょうされていたのを発見はっけんしたので、兄弟きょうだいかれることをめた。

一人ひとりはとても馬鹿ばかで、人間にんげんつくるためにきたかった。もう一人ひとりはとてもかしこく、白人はくじんつくって様々さまざま技能ぎのうおしえた。馬鹿ばかなほうはブラックフットをつくした。かれは「レフトハンド」、のちに「オールドマン」としてブラックフットにられている。つまいまおっといかけつづけている。おんなつきで、おとこ太陽たいようである。彼女かのじょがたとえかれつかまえられたとしても、いつもよるになってしまう[48]

現代げんだいのブラックフット

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今日きょうおおくのブラックフットはカナダの居留きょりゅうんでいる。やく8,500にんがモンタナしゅうひろさ6,100km2居留きょりゅうんでいる。1895ねん、ブラックフットぞくのホワイト・カフ酋長しゅうちょうは、その土地とち合衆国がっしゅうこく公有こうゆうであるかぎりはその土地とち使つかってりをする権利けんりたもつという条件じょうけんをつけたうえで、150まんドルで売却ばいきゃくすることをみとめた。1910ねん、その場所ばしょグレイシャー国立こくりつ公園こうえん指定していされた。ここではたらいているブラックフットもおり、ときには儀式ぎしきおこなわれる[49]

カナダのブラックフットの居留きょりゅう市街地しがいちから隔絶かくぜつしているため、失業しつぎょう難題なんだいとなっている。おおくの人々ひとびと農業のうぎょう従事じゅうじしているが、十分じゅうぶん仕事しごとはない。しょくさがすため、おおくのブラックフットが都市としまち移住いじゅうしてきた。土地とち賃借ちんしゃくしたり、石油せきゆ天然てんねんガスなどの資源しげん採取さいしゅするための代価だいかをブラックフットにたいして支払しはら企業きぎょうもある。部族ぶぞくはペンや鉛筆えんぴつ製造せいぞうしていたブラックフット・ライティング・カンパニーなどの事業じぎょう運営うんえいしていた。会社かいしゃは1972ねん設立せつりつされたが、1990年代ねんだい後半こうはん廃業はいぎょうした。カナダでは、きたピーガンぞく伝統でんとうてき衣装いしょうやモカシンをつくっている。カイナイぞくはショッピングセンターと工場こうじょう運営うんえいしている[49]

ブラックフットの教育きょういく進歩しんぽつづけている。1974ねん、モンタナしゅうブラウニングに、部族ぶぞく大学だいがくのブラックフット・コミュニティカレッジを開設かいせつした。この学校がっこう部族ぶぞく本部ほんぶがある場所ばしょ位置いちしている。1979ねん時点じてんで、モンタナしゅう居留きょりゅううちまたは居留きょりゅう周辺しゅうへん公立こうりつ学校がっこうすべての教師きょうしは、先住民せんじゅうみんぞくについての知識ちしき必要ひつようであった[49]

伝統でんとう継続けいぞく

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ブラックフットはむかしからのおおくの文化ぶんかてき伝統でんとう継続けいぞくし、先祖せんぞ伝統でんとうどもへとひろげていくことをのぞんでいる。かれらはどもに伝統でんとうてき知識ちしきだけでなく、ピクニなどの言語げんごおしえたいとおもっている。20世紀せいき初頭しょとう、フランシス・デンスモアという白人はくじん女性じょせいがブラックフットの言語げんご録音ろくおんするのを手伝てつだった。1950年代ねんだいから60年代ねんだいにかけて、ピクニはなすブラックフットはほとんどいなかった。かれらの言語げんごまもるために、ブラックフット・カウンシルは年長ねんちょうしゃにピクニっていて、それをおしえられるかたずねた。年長ねんちょうしゃたちは言語げんご復活ふっかつ賛成さんせいし、それに成功せいこうした。1994ねんには、ブラックフット・カウンシルはピクニ公用こうようとすることをみとめた。現在げんざいどもたちは学校がっこう家庭かていでピクニまなぶことができる[49]

著名ちょめいなブラックフットぞく

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クロウフット酋長しゅうちょう

その

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  • ジミーとジョルジュ しん欠片かけらさがしてJimmy P) - 2013ねんのフランスのドラマ映画えいが。ハンガリーけいフランスじん精神せいしん分析ぶんせきジョルジュ・ドゥヴルーen)と、戦場せんじょうから帰還きかんしたものの原因げんいん不明ふめいしんやまいなやまされるようになったブラックフットのジミー・ピカードとの対話たいわえがいた作品さくひん原作げんさくはドゥヴルーが1951ねん発表はっぴょうした著書ちょしょゆめ分析ぶんせき:ある平原へいげんインディアンの精神せいしん治療ちりょう記録きろく』。
  • アメリカ先住民せんじゅうみんけい移住いじゅうしゃとの混血こんけつすくない人々ひとびと調しらべるとOがたきわめておおいが、例外れいがいてきにブラックフットぞくにはどう条件じょうけんでもAがた遺伝子いでんし人間にんげんおおられる[50]

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Blackfoot History”. Head Smashed In Buffalo Jump. en:Alberta Culture (May 22, 2012). December 11, 2012閲覧えつらん
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参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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