バージニア州 しゅう にあるヘンリエッタ・ラックスの記念 きねん 碑 ひ
ヘンリエッタ・ラックス (Henrietta Lacks )の名 な で知 し られるヘンリエッタ・リーン・ラックス (Henrietta Leanne Lacks 、1920年 ねん 8月 がつ 1日 にち - 1951年 ねん 10月4日 にち )は、アフリカ系 けい アメリカ人 じん 女性 じょせい で、彼女 かのじょ から無断 むだん 採取 さいしゅ された子宮 しきゅう 頸がん細胞 さいぼう が没後 ぼつご も細胞 さいぼう 株 かぶ として世界 せかい 各地 かくち で様々 さまざま な医学 いがく 的 てき 研究 けんきゅう に使 つか われ、のちにHeLa細胞 さいぼう と呼 よ ばれるようになったことで知 し られる[1] 。ジョンズ・ホプキンス大学 だいがく 病院 びょういん において手術 しゅじゅつ で彼女 かのじょ から切除 せつじょ された癌 がん 性 せい 腫瘍 しゅよう から取 と り出 だ された細胞 さいぼう は、同 どう 大学 だいがく の生物 せいぶつ 学者 がくしゃ であるジョージ・オットー・ゲイ によって培養 ばいよう され[1] 、不死 ふし 化 か (英語 えいご 版 ばん ) した細胞 さいぼう 株 かぶ の確立 かくりつ に至 いた った。
これにより、当人 とうにん の知 し らないところで、その死後 しご にドナーとして著名 ちょめい になった[2] 。本人 ほんにん の同意 どうい がない細胞 さいぼう の採取 さいしゅ ・培養 ばいよう やHeLa細胞 さいぼう ゲノム の一部 いちぶ の公開 こうかい は、その後 ご に重視 じゅうし されるようになった医療 いりょう 倫理 りんり に反 はん するとの批判 ひはん を受 う け、アメリカ国立 こくりつ 衛生 えいせい 研究所 けんきゅうじょ (NIH)がラックス家 か とゲノム利用 りよう について事前 じぜん 承認 しょうにん を得 え ることなどを定 さだ めたルールをつくった[1] 。
ヘンリエッタ・プレザント (Henrietta Pleasant ) として1920年 ねん 8月 がつ 1日 にち に[3] 、バージニア州 しゅう ロアノーク で、母 はは イライザ(Eliza、1886年 ねん – 1924年 ねん )[4] と父 ちち ジョン・ランドル・プレザント1世 せい (John Randall Pleasant I、1881年 ねん – 1969年 ねん )[5] [6] の間 あいだ に生 う まれた。イライザは、1924年 ねん に末子 まっし を生 う んだ際 さい に死 し んでいる。母 はは イライザの死後 しご 、妻 つま を亡 な くした父 ちち ジョン・プレザントは、母方 ははかた の親戚 しんせき に子 こ どもたちをしばしば預 あづ けており、子 こ どもたちはそこで育 そだ てられた。ジョンは鉄道 てつどう 員 いん で制動 せいどう 手 しゅ として働 はたら いていた[7] 。
ヘンリエッタは、実 み のいとこ であったデヴィッド・ラックス1世 せい (David Lacks I、1915年 ねん – 2002年 ねん )とバージニア州 しゅう ハリファックス郡 ぐん で結婚 けっこん した。北部 ほくぶ で仕事 しごと を探 さが しに行 い くようデヴィッドを説 と き伏 ふ せた彼女 かのじょ は、夫 おっと の後 のち から、1943年 ねん に子 こ どもたちを連 つ れて北部 ほくぶ へ移 うつ った。デヴィッドは、メリーランド州 しゅう スパローズ・ポイント (英語 えいご 版 ばん ) の造船 ぞうせん 所 しょ で仕事 しごと を見 み つけ、現在 げんざい のメリーランド州 しゅう ボルチモア郡 ぐん ダンドーク (英語 えいご 版 ばん ) の一部 いちぶ にあたる、当時 とうじ のターナーズ・ステーションのニュー・ピッツバーグ・アヴェニュー (New Pittsburgh Avenue) に家 いえ を構 かま えた。この地区 ちく は、当時 とうじ のボルチモア郡 ぐん におよそ40ほどあったとされる当時 とうじ のアフリカ系 けい アメリカ人 じん コミュニティの中 なか でも最 もっと も大 だい 規模 きぼ なものの一 ひと つでありであり、また最 もっと も新 あたら しいものの一 ひと つでもあった[8] [9] 。
ヘンリエッタとデヴィッドの間 あいだ には5人 にん の子 こ どもが生 う まれた。末子 まっし ジョセフ・ラックス (Joseph Lacks) は、1950年 ねん 11月にジョンズ・ホプキンズ大学 だいがく の付属 ふぞく 病院 びょういん であるジョンズ・ホプキンズ病院 びょういん で生 う まれたが、それはヘンリエッタが癌 がん と診断 しんだん される4ヶ月 かげつ 半 はん 前 まえ のことであった。
『デトロイト・フリー・プレス (英語 えいご 版 ばん ) 』紙 し のマイケル・ロジャース (Michael Rogers)、『ローリング・ストーン 』誌 し 、レベッカ・スクルート (英語 えいご 版 ばん ) などによると、1951年 ねん 2月 がつ 1日 にち 、ニューヨーク でポリオ(急性 きゅうせい 灰 はい 白 しろ 髄 ずい 炎 えん ) の根絶 こんぜつ を求 もと める大 だい 行進 こうしん が行 おこな われた数日 すうじつ 後 ご 、ヘンリエッタ・ラックスはジョンズ・ホプキンズ病院 びょういん に行 い き、子宮 しきゅう 頸部 と膣 ちつ に痛 いた みを伴 ともな う「瘤 こぶ 」が出来 でき ていると訴 うった えた[10] 。このとき彼女 かのじょ は子宮 しきゅう 頸癌 に罹患 りかん していたのだが、診察 しんさつ した医師 いし はこの癌 がん を診 み た経験 けいけん がなかった。
最初 さいしょ の治療 ちりょう が施 ほどこ される前 まえ に、ラックス本人 ほんにん の知 し らないうちに無断 むだん で、研究 けんきゅう 目的 もくてき で癌腫 がんしゅ から細胞 さいぼう が取 と り出 だ された。ラックスは、1951年 ねん 当時 とうじ の標準 ひょうじゅん 治療 ちりょう であったラジウム ・チューブの膣 ちつ への挿入 そうにゅう と縫合 ほうごう を施 ほどこ された。数日 すうじつ 後 ご 、チューブは膣 ちつ から取 と り除 のぞ かれて、ラックスはジョンズ・ホプキンズ病院 びょういん から退院 たいいん し、その後 ご はX線 せん 治療 ちりょう のために通院 つういん するよう指示 しじ された。ラックスはX線 せん 治療 ちりょう のために通院 つういん を始 はじ めたが、施術 しじゅつ によって放射線 ほうしゃせん で身体 しんたい を焼 や かれることになってしまう。容態 ようだい は悪化 あっか し、病院 びょういん の医師 いし たちはそれが何 なん らかの隠 かく れた性病 せいびょう によるものだと判断 はんだん して抗生 こうせい 物質 ぶっしつ を与 あた えた。強 つよ い痛 いた みと改善 かいぜん しない容態 ようだい を抱 かか え、ラックスは再 さい 入院 にゅういん を求 もと めて病院 びょういん へ行 い ったが、治療 ちりょう と輸血 ゆけつ を受 う けたものの、尿毒症 にょうどくしょう を引 ひ き起 お こして1951年 ねん 10月4日 にち に31歳 さい で死亡 しぼう した[11] 。その後 ご の部分 ぶぶん 的 てき な検死 けんし によって、癌 がん が体内 たいない 各所 かくしょ に転移 てんい していたことが分 わ かった。ラックスは、墓石 はかいし もなくラックスタウン(後述 こうじゅつ )の家族 かぞく 墓地 ぼち に埋葬 まいそう された。このため、正確 せいかく な埋葬 まいそう の場所 ばしょ は分 わ からなくなっているが、家族 かぞく はそれが、母 はは イライザの墓 はか から数 かず フィート も離 はな れていない場所 ばしょ であると信 しん じている。
ラックスタウン (Lackstown) は、バージニア州 しゅう ハリファックス郡 ぐん クローバー (英語 えいご 版 ばん ) の一部 いちぶ である。ラックスタウンという地名 ちめい はこの土地 とち を所有 しょゆう してきた家族 かぞく の名 な にちなむものでおり、奴隷 どれい 主 おも であったラックス (Lax) という人物 じんぶつ から土地 とち を譲 ゆず り受 う けた奴隷 どれい たちやその子孫 しそん の一族 いちぞく が、ラックス (Lacks) 家 か と名乗 なの ったことに由来 ゆらい している。ラックスタウンの家族 かぞく 墓地 ぼち には5つの墓 はか があるが、墓石 はかいし があるのはヘンリエッタの母 はは イライザ・プレザントだけである[11] [12] 。
本人 ほんにん の死後 しご 、研究 けんきゅう 者 しゃ たちは「(ヘンリエッタから取 と り出 だ された)細胞 さいぼう が、これまで見 み たこともないことをしていると気 き づいた。細胞 さいぼう は生 い き続 つづ け、成長 せいちょう をし続 つづ けることができたのである。」[13] 『デトロイト・フリー・プレス (英語 えいご 版 ばん ) 』紙 し のマイケル・ロジャース記者 きしゃ によると、ヘンリエッタから取 と り出 だ されたHeLa細胞 さいぼう は、その後 ご 成長 せいちょう し、ジョンズ・ホプキンズ病院 びょういん がポリオ根絶 こんぜつ を求 もと める声 こえ に応 おう じる上 うえ で、大 おお いに役立 やくだ つことになった。1954年 ねん には、ジョナス・ソーク によってポリオ・ワクチン の開発 かいはつ にHeLa細胞 さいぼう が用 もち いられた[11] 。
1996年 ねん 、ジョージア州 しゅう アトランタ のモアハウス大学 だいがく とアトランタ市長 しちょう ビル・キャンベル (英語 えいご 版 ばん ) は、ヘンリエッタ・ラックスの家族 かぞく に対 たい して、物故 ぶっこ 者 しゃ 顕彰 けんしょう を行 おこな った[14] 。その後 ご 、1997年 ねん から、ターナーズ・ステーションの住民 じゅうみん たちは、彼女 かのじょ を顕彰 けんしょう する行事 ぎょうじ を数 すう 年 ねん にわたって毎年 まいとし 行 おこな った[15] 。このターナーズ・ステーションにおける、ヘンリエッタ・ラックスとその家族 かぞく 、彼女 かのじょ の科学 かがく への貢献 こうけん に対 たい する最初 さいしょ の顕彰 けんしょう 行事 ぎょうじ が行 おこな われた直後 ちょくご 、米国 べいこく 議会 ぎかい 下院 かいん では、当時 とうじ のメリーランド州 しゅう 選出 せんしゅつ 下院 かいん 議員 ぎいん だったロバート・アーリック (英語 えいご 版 ばん ) の提案 ていあん によって、ヘンリエッタ・ラックスの栄誉 えいよ を称 たた える決議 けつぎ が採択 さいたく された[16] 。
1997年 ねん 、アダム・カーティス (英語 えいご 版 ばん ) 監督 かんとく による、ヘンリエッタ・ラックスとHeLa細胞 さいぼう を取 と り上 あ げたドキュメンタリー『Modern Times: The Way of All Flesh 』が、サンフランシスコ国際 こくさい 映画 えいが 祭 さい で最優秀 さいゆうしゅう 科学 かがく ・自然 しぜん ドキュメンタリー賞 しょう を受賞 じゅしょう した。1997年 ねん にこれがテレビ放映 ほうえい されると、『ボルティモア・サン (英語 えいご 版 ばん ) 』紙 し のジャックス・ケリー記者 きしゃ によって、HeLa細胞 さいぼう や、ラックスとその家族 かぞく に関 かん する記事 きじ が、公刊 こうかん された。1950年代 ねんだい 以来 いらい 、ラックスとHeLa細胞 さいぼう に関 かん するニュースは、世界中 せかいじゅう の新聞 しんぶん 、雑誌 ざっし 、学術 がくじゅつ 誌 し 、書籍 しょせき 、その他 た の学術 がくじゅつ 出版 しゅっぱん 物 ぶつ で取 と り上 あ げられてきたが、ボルチモア市 し とボルチモア郡 ぐん では、1990年代 ねんだい に至 いた って地元 じもと 紙 し 『Dundalk Eagle 』がラックスについて最初 さいしょ に記事 きじ に取 と り上 あ げ、その後 ご も地元 じもと における顕彰 けんしょう 事業 じぎょう を継続 けいぞく 的 てき に報 ほう じてきた。ラックス家 か はスミソニアン博物館 はくぶつかん からも顕彰 けんしょう されている。全米 ぜんべい がん研究 けんきゅう 財団 ざいだん (英語 えいご 版 ばん ) は、2001年 ねん 7月 がつ 18日 にち にプレスリリース を出 だ して、同年 どうねん 9月14日 にち に、「癌 がん 研究 けんきゅう と現代 げんだい 医学 いがく への貢献 こうけん に対 たい し、故 こ ヘンリエッタ・ラックスさんを」顕彰 けんしょう する旨 むね の発表 はっぴょう をした[17] 。しかし、2001年 ねん 9月11日 にち に起 お きたアメリカ同時 どうじ 多発 たはつ テロ事件 じけん の影響 えいきょう で、式典 しきてん の日程 にってい は変更 へんこう された。
ヘンリエッタ・ラックスについての書籍 しょせき 『The Immortal Life of Henrietta Lacks 』[18] を書 か いたレベッカ・スクルート (英語 えいご 版 ばん ) は、ヘンリエッタの細胞 さいぼう が取 と り出 だ された生体 せいたい 組織 そしき 検査 けんさ (バイオプシー) の後 のち 、家族 かぞく に起 お きたことの影響 えいきょう についても記録 きろく している。夫 おっと デヴィッド・ラックスは、ヘンリエッタの死後 しご 、ほとんど何 なに も事情 じじょう を知 し らされなかった。人種 じんしゅ 差別 さべつ 的 てき な南部 なんぶ の土壌 どじょう もあって疑惑 ぎわく が取 と りざたされ、そこには階級 かいきゅう や教育 きょういく の問題 もんだい も絡 から んでいた。科学 かがく 界 かい においてHeLa細胞 さいぼう は科学 かがく の前進 ぜんしん を主導 しゅどう するヒトの細胞 さいぼう 組織 そしき として見 み られていたが、ラックスは死後 しご も、家族 かぞく にとっては妻 つま であり、姉妹 しまい であり、母 はは であった。当初 とうしょ 、ラックス家 か の人々 ひとびと は、ヘンリエッタに由来 ゆらい する細胞 さいぼう 株 かぶ の存在 そんざい については何 なに も知 し らされていなかった。その存在 そんざい が明 あき らかになったとき、家族 かぞく はなぜこのようなことが起 お きたのか困惑 こんわく し、また、HeLa細胞 さいぼう の存在 そんざい が彼 かれ らの母親 ははおや の死 し と不死 ふし にどう関 かか わるのかについて不安 ふあん をもった。HeLa細胞 さいぼう をめぐっては、倫理 りんり 上 じょう の論争 ろんそう が生 しょう じたが、ラックス家 か は医師 いし たちが無断 むだん で細胞 さいぼう 組織 そしき を取 と り出 だ したことに対 たい して、また、HeLa細胞 さいぼう を他 た の研究 けんきゅう 者 しゃ へ分 わ け与 あた えたり、細胞 さいぼう 株 かぶ を売買 ばいばい したりしたことに対 たい して、怒 いか りを高 こう じさせることになった。
^ a b c 不死 ふし 細胞 さいぼう 隠 かく れたヒロイン/医学 いがく に貢献 こうけん 無断 むだん 採取 さいしゅ の「悲劇 ひげき 」 『日本経済新聞 にほんけいざいしんぶん 』朝刊 ちょうかん 2021年 ねん 1月 がつ 31日 にち (サイエンス面 めん )2021年 ねん 1月 がつ 17日 にち 閲覧 えつらん
^ “A Lasting Gift to Medicine That Wasn’t Really a Gift” . New York Times . (2010年 ねん 2月 がつ 1日 にち ). http://www.nytimes.com/2010/02/02/health/02seco.html?ref=science 2010年 ねん 2月 がつ 1日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Skloot 2010, p.18.
^ 墓碑 ぼひ によれば、イライザは1886年 ねん 7月 がつ 12日 にち 生 なま 、1924年 ねん 10月28日 にち 没 ぼつ である。
^ 社会 しゃかい 保険 ほけん 死亡 しぼう 登録 とうろく 簿 ぼ によれば、ジョン・ランドル・プレザント1世 せい は1881年 ねん 3月2日 にち 生 なま 、1969年 ねん 1月 がつ にバージニア州 しゅう チェロキー郡 ぐん サックス (Saxe) で没 ぼっ したとある。
^ 1930年 ねん の合衆国 がっしゅうこく 国勢調査 こくせいちょうさ によれば、イライザとジョンは1906年 ねん に結婚 けっこん しており、ヘンリエッタの兄弟 きょうだい 姉妹 しまい は、10人 にん ほどいたらしい。
^ 1930年 ねん の合衆国 がっしゅうこく 国勢調査 こくせいちょうさ による。
^ http://resources.baltimorecountymd.gov/Documents/Planning/historic/survey_districts/turners_station.pdf Turner’s Station African American Survey District Dundalk, Baltimore County 1900-1950
^ http://resources.baltimorecountymd.gov/Documents/Planning/historic/aathematic.pdf BALTIMORE COUNTY ARCHITECTURAL SURVEY African American Thematic Study
^ Skloot 2010, p.13-17.
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^ Rebecca Skloot (英語 えいご 版 ばん ) (2000年 ねん ). “Henrietta's Dance ”. Johns Hopkins University . 2007年 ねん 2月 がつ 14日 にち 閲覧 えつらん 。
^ How One Woman's Cells Changed Medicine
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