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ヘンリク2せい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヘンリク2せい
Henryk II
ポーランド大公たいこう
在位ざいい 1238ねん - 1241ねん

出生しゅっしょう 1196ねんころ
死去しきょ 1241ねん4がつ9にち
配偶はいぐうしゃ アンナ・プシェミシリトカ
子女しじょ 一覧いちらん参照さんしょう
家名かめい シロンスク・ピャスト
王朝おうちょう ピャストあさ
父親ちちおや ヘンリク1せい
母親ははおや ヤドヴィガ
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ヘンリク2せいポボジュヌィポーランド:Henryk II Pobożny;ドイツ:Heinrich II der Fromme、1196ねんごろ - 1241ねん4がつ9にち)は、ピャストあさポーランド大公たいこう在位ざいい1238ねん - 1241ねん)。シロンスクヴロツワフクラクフヴィエルコポルスカ南部なんぶおおやけでもあった(在位ざいいどう)。また1238ねんから1239ねんまでサンドミェシュおよオポーレラチブシュの2公国こうこく摂政せっしょうつとめた。ヴロツワフこうヘンリク1せいひげこう)の息子むすこで、はははメラーノおおやけベルトルト4せいむすめヤドヴィガのちにシロンスクの守護しゅご聖人せいじん)。敬虔けいけんこう(the Pious :Pobożny)とばれた。

生涯しょうがい

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共同きょうどう統治とうちしゃ

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シロンスクのヘンリク父子ふし王国おうこく

ヴロツワフ公爵こうしゃく夫妻ふさい次男じなんとしてまれたが、あにボレスワフが1206ねんわかくしてんだため公爵こうしゃく跡継あとつぎとなった。その7ねん1213ねんおとうとコンラト狩猟しゅりょうちゅう事故じこ悲劇ひげきてきをとげたため、兄弟きょうだいなくなったヘンリクは低地ていちシロンスク全域ぜんいき相続そうぞくしゃとなった。1218ねんちちヘンリク1せい息子むすこボヘミアおうオタカル1せい王女おうじょアンナ結婚けっこんさせ、義父ぎふとの同盟どうめい関係かんけいによってヘンリクは国政こくせいへの発言はつげんけんつようになった。

ヘンリク1せい唯一ゆいいつのこっている息子むすこ自分じぶんのもつぜん財産ざいさんがせようとし、1222ねん以後いごわかいヘンリクはちちとも文書ぶんしょ署名しょめいするようになり、2ねんには独自どくじ印璽いんじ書記しょきをもつようになっていた。1227ねん開催かいさいされたゴンサヴァでの諸公しょこう会議かいぎでヘンリク1せいレシェク1せいはくこう)はだまちにい、レシェク1せい暗殺あんさつされヘンリク1せい深手ふかでった。このときわかいヘンリクのはじめて国家こっか統治とうちゆだねられた。2ねん1229ねんにもふたた同様どうよう事件じけんき、ヘンリク1せいマゾフシェおおやけコンラト1せいとらえられた。

ちちしゅうちゅうであった時期じきのヘンリクの統治とうちは、はやいうちからちち国家こっか統治とうちまかされていた経験けいけんのおかげで、万全ばんぜんなものであった。1229ねんから1230ねんにかけ、ヘンリクはルブシュ地方ちほうポーランドばんげんルブシュけんのある地方ちほうめい)を回復かいふく確保かくほするための遠征えんせいおこない、1233ねんから1234ねんにかけてつづいたちちプロイセンヴィエルコポルスカへの遠征えんせいをも精力せいりょくてき援護えんごした。ちちとの共同きょうどうでの政治せいじ活動かつどうおおくなってきたことで、1234ねんにヘンリクは公式こうしきちち共同きょうどう統治とうちしゃのるようになった。同時どうじに、父子ふし公的こうてきには権力けんりょく分有ぶんゆうすることになった。ヘンリク1せいはクラクフ(長子ちょうしりょう)とシロンスクのおおやけを、ヘンリク2せいはシロンスクとヴィエルコポルスカのおおやけ名乗なのったのである。ヘンリク2せい単独たんどく統治とうちは1238ねん3がつ19にちにヘンリク1せいくなってからはじまる。

単独たんどく統治とうち

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シロンスクのピャスト紋章もんしょう

ちちんだときヘンリク2せいは40さい前後ぜんこうだったが、いくつかの難題なんだいをもぐことになった。最初さいしょ問題もんだいは、かれ自身じしんちちから権力けんりょく相続そうぞくすることにかんする問題もんだいだった。ヘンリク1せい強大きょうだい権威けんいは、血統けっとうによる世襲せしゅう統治とうち地域ちいきだった低地ていちシロンスクにしかおよんでいなかった。ヴィエルコポルスカ南部なんぶとクラクフは長子ちょうしりょうで、その統治とうちしゃ地位ちいはピャスト諸公しょこうたちなかからえらばれるまりだった(かつてのヴィエルコポルスカおよびクラクフこうだったヴワディスワフ3せい領地りょうちすべてをヘンリク1せいゆず内容ないよう遺言ゆいごんじょうのこしていたが、マゾフシェこうコンラト1せいヴワディスワフ・オドニツはこれを無視むしした)。

オポーレラチブシュサンドミェシュについては、この地域ちいき統治とうちしゃであるミェシュコ2せいボレスワフ5せい未成年みせいねんだったおかげで摂政せっしょうとしての権威けんい維持いじすることが出来できた。1ねん1239ねんにヘンリク2せい摂政せっしょう地位ちいわれたものの、オポーレとサンドミェシュの2人ふたり公爵こうしゃくとは良好りょうこう関係かんけいたもち、カリシュヴィエルニ領有りょうゆうつづけた。しかし北部ほくぶでの情勢じょうせい複雑ふくざつだった。ブランデンブルク辺境へんきょうはくオットー3せいはヘンリク1せい好機こうきて、サントク要塞ようさい奪取だっしゅしてルブシュを包囲ほういした。ヘンリク2せいはこれを解放かいほうするためのルブシュのたたかいにやぶれ、サントクを喪失そうしつした。

この騒動そうどう一方いっぽうで、ヘンリク2せいちち約束やくそくしていた補償ほしょう支払しはらいをせまるマゾフシェこうコンラト1せい、ヴワディスワフ・オドニツおよグニェズノ大司教だいしきょうペウカにひきいられた教会きょうかい勢力せいりょくとのいざこざをもかかえていた。しかしヘンリク2せいにとっては幸運こううんなことに、この苦境くきょうは1239ねん6がつ5にちにヴワディスワフ・オドニツが2人ふたりおさな息子むすこボレスワフプシェミスウ1せいのこしてると同時どうじ一変いっぺんした。この状況じょうきょう利用りようして、ヘンリク2せいはグニェズノをふくむオドニツののこりょうだい部分ぶぶんうばり、オドニツの息子むすこたちにはナクウォ・ナド・ノテチョンウィシチェのみを安堵あんどした。

ヘンリク2せいつぎなる計画けいかく挑戦ちょうせんてきなものだった。かれ一族いちぞく代々だいだいつづけてきた神聖しんせいローマ皇帝こうていであるホーエンシュタウフェンとの同盟どうめい関係かんけい破棄はきし、教皇きょうこうグレゴリウス9せいむすぶことで、教会きょうかいとの軋轢あつれきただちに収拾しゅうしゅうした。さらにコンラト1せいとのあらそいをわらせ、2人ふたりむすめをコンラト1せい息子むすこたちとつがせた。長女ちょうじょのゲルトルダをボレスワフ1せいと、次女じじょコンスタンツィアをカジミェシュ1せいとそれぞれ結婚けっこんさせたのである。

モンゴルの侵攻しんこう戦死せんし

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ヘンリク敬虔けいけんこう印璽いんじ
レグニツァのたたかにおけるヘンリク2せいヤン・マテイコ

ヘンリク2せいにとってむずかしい時期じきったかにえたが、最悪さいあく出来事できごとはそのにやってた。東方とうほうからモンゴル帝国ていこくせまってきたのである。

バトゥひきいられたモンゴルぐんはルーシじんたちやぶってキエフ大公たいこうこく破壊はかいかぎりをくしたのちモンゴルのルーシ侵攻しんこう)、ハンガリーつぎ標的ひょうてきとして西にしめのぼってきた。バトゥは賢明けんめいにもハンガリーとたたかうためにはまずポーランドを征服せいふくせねばならないことを理解りかいし、あにオルダ指揮しきの1まんにんへいをポーランドへとけた(モンゴルのポーランド侵攻しんこう)。

1241ねん1がつ、バトゥはルブリンザヴィホスト斥候せっこう派遣はけんしたが、攻撃こうげきはその1かげつ開始かいしされた。マウォポルスカではモンゴルぐんてきはいないも同然どうぜんで、2がつ13にちのトゥルスコのたたかい、3月18にちのタルチェクおよびフミェルニクのたたかいでやぶれたサンドミェシュの貴族きぞくのほとんどがころされ、犠牲ぎせいしゃなかにはクラクフ宮中きゅうちゅうはくヴウォジミェシュ、城代しろだいクレメント・ス・ブジェジュニツァなどがいた。この直後ちょくご、クラクフとサンドミェシュをふくむマウォポルスカ全域ぜんいきがモンゴルの支配しはいかれた。

ヘンリク2せい西側にしがわ諸国しょこくから約束やくそくされた援助えんじょつことなく、レグニツァ地点ちてんてきむかってマウォポルスカの残党ざんとうみずからがようするシロンスクおよびヴィエルコポルスカの軍勢ぐんぜい保持ほじする作戦さくせん集中しゅうちゅうすることにした。ヨーロッパ諸国しょこく統治とうちしゃたち皇帝こうてい教皇きょうこうあらそいに関心かんしん集中しゅうちゅうさせており、ヘンリク2せい救援きゅうえん要請ようせい無視むししていた。外国がいこくから加勢かせいしにきた軍隊ぐんたいはヘンリク2せい義弟ぎていであるヴァーツラフ1せいひきいるボヘミアぐんおよテンプル騎士きしだんひじりヨハネ騎士きしだん混成こんせいぐんだけだった。最終さいしゅうてきかれらの軍勢ぐんぜいはレグニツァ近郊きんこう進軍しんぐんめたが、ここでは簡単かんたんにモンゴルぐん餌食えじきとなってしまうおそれがあった。1241ねん4がつ9にちレグニツァのたたか(ワールシュタットのたたかい)において、ヘンリク2せい大敗たいはいきっし、戦闘せんとうちゅうころされた。

この敗北はいぼくは、支援しえんことわったヨーロッパの諸王しょおうたちと、予期よきせぬ敵陣てきじん逃亡とうぼう面目めんぼくうしなったオポーレ=ラチブシュこうミェシュコ2せいたいする轟々ごうごうたる非難ひなんこした。ヘンリク2せいについてのこしたのはヤン・ドゥゴシュと『タタールの歴史れきし(Historii Tartatorum)』の作者さくしゃC・ド・ブリギアの2人ふたりであるが、前者ぜんしゃ記述きじゅつ現在げんざいではうたがわれており、直接ちょくせつたたかいの当事とうじしゃ取材しゅざいした後者こうしゃ記述きじゅつほうがより信頼しんらいされている。

ポーランドにとっては幸運こううんにも、モンゴルじんはポーランドにたいする占領せんりょう支配しはい意図いとしておらず、かれらはレグニツァのたたかいの直後ちょくごにハンガリーりょうモラヴィアうつり、そこでバトゥのひきいる本隊ほんたいとの合流ごうりゅうった。ヘンリク2せい死体したいくびきちぎられていたうえ全裸ぜんらかれており、未亡人みぼうじんアンナだけが身体しんたいじょう特徴とくちょうからおっと識別しきべつすることが出来できた。ヘンリク2せい左足ひだりあしにはゆびが6ほんあったのである(ゆびしょう)。この事実じじつ1832ねん、ヘンリク2せいかんひらかれたとき確認かくにんされている。遺体いたいはヴロツワフにあるフランチェスコかいせいヤクプ教会きょうかい埋葬まいそうされた。

わずか3年間ねんかんみじか治世ちせいだったにもかかわらず、ヘンリク2せいはヴィエルコポルスカとクラクフの人々ひとびと理想りそうてきキリスト教徒きりすときょうと戦士せんし領主りょうしゅとして記憶きおくされた。しかし、その華々はなばなしい経歴けいれきはやすぎるによってられた。死後しごのこりょう長男ちょうなんボレスワフ2せい継承けいしょうしたが、のち息子むすこたちとの戦争せんそうやぶれて領土りょうど分割ぶんかつシロンスク・ピャスト領土りょうど小規模しょうきぼ国家こっかぐんシロンスク公国こうこくぐん)にかれてしまった。

子女しじょ

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1218ねんまでにボヘミアおうオタカル1せい王女おうじょアンナ(1204ねんごろ - 1265ねん6がつ23にち)と結婚けっこんし、10にん子供こどもをもうけた。

  1. ゲルトルダ(1218ねん/1220ねんごろ - 1247ねん) - 1232ねんマゾフシェこうボレスワフ1せい結婚けっこん
  2. コンスタンツィア(1221ねんごろ - 1257ねんごろ) - 1239ねん、クヤヴィこうカジミェシュ1せい結婚けっこん
  3. ボレスワフ2せい(1220ねん/1225ねんごろ - 1278ねん
  4. ミェシュコ(1223ねん/1227ねんごろ - 1242ねん
  5. ヘンリク3せい(1227ねん/1230ねん - 1266ねん
  6. コンラト(1228ねん/1231ねん – 1274ねんごろ
  7. エルジュビェタ(1232ねん – 1265ねん) - 1244ねん、ヴィエルコポルスカこうプシェミスウ1せい結婚けっこん
  8. アグネシュカ(1236ねんごろ - 1278ねん以後いご) - トシェブニツァせいクララ修道院しゅうどういん院長いんちょう(1277ねん以後いご
  9. ヴワディスワフ(1237ねん – 1270ねん) - 1256ねんから1265ねんまでボヘミアだい法官ほうかん、1265ねんパッサウ司教しきょう、1265ねんより1270ねんまでザルツブルク大司教だいしきょう
  10. ヤドヴィガ(1238ねん/1241ねんごろ – 1318ねん) - トシェブニツァのせいクララ修道院しゅうどういん院長いんちょう

関連かんれん項目こうもく

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