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ボビー・キーズ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ボビー・キーズ
Bobby Keys
ボビー・キーズ(2009ねん
基本きほん情報じょうほう
出生しゅっしょうめい Robert Henry Keys
生誕せいたん (1943-12-18) 1943ねん12月18にち
出身しゅっしん アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく テキサスしゅう
死没しぼつ (2014-12-02) 2014ねん12月2にち(70さいぼつ
ジャンル ロックジャズ
職業しょくぎょう セッション・ミュージシャン
担当たんとう楽器がっき サクソフォーン
活動かつどう期間きかん 1956ねん - 2014ねん
共同きょうどう作業さぎょうしゃ ローリング・ストーンズレーナード・スキナードバディ・ホリーエルヴィス・プレスリーキース・リチャーズエリック・クラプトンデラニー&ボニージョージ・ハリスンリンゴ・スターウォーレン・ジヴォンジョー・コッカー、ジョー・エリー、シェリル・クロウジョン・レノンレオン・ラッセルプラスティック・オノ・バンドハリー・ニルソン、カール・カールトン・アンド・ザ・ソングドッグズ

ボビー・キーズBobby Keys1943ねん12月18にち - 2014ねん12月2にち[1])は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくテキサスしゅう出身しゅっしんのミュージシャン。ローリング・ストーンズ以下いか、ストーンズ)のサポート・メンバーとして有名ゆうめいどうバンドの代表だいひょうきょくブラウン・シュガー」でのソロは名演めいえんである。

来歴らいれき

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おさなころからサックス演奏えんそうけており、15、6さいバディ・ホリーのバック・バンドでの演奏えんそう経験けいけんするなど、1950年代ねんだいからプロとして活動かつどうしロックかいではもっと活動かつどうれきなが人物じんぶつ一人ひとりである。その様々さまざまなバンドをわたあるき、レオン・ラッセルい、デラニー&ボニーのバンドに参加さんか

ブラウン・シュガー」など、ストーンズの数々かずかず楽曲がっきょく録音ろくおん参加さんかするようになり、1970ねん以降いこう長年ながねんにわたってストーンズのコンサート・ツアーにレギュラー・メンバーとして参加さんかした。ただし、1975ねんから1978ねんはゲスト出演しゅつえんのみで、自身じしん伝記でんきによればストーンズのファミリー離脱りだつ、キースとは生年月日せいねんがっぴおなじであるため、とくなかかったといわれる。このためか、ストーンズ以外いがいでも度々たびたび共演きょうえんしていて、1979ねんロン・ウッドがキースとともんだニュー・バーバリアンズのツアーや、キース自身じしんによる1988ねんと1992ねんのソロ・ツアーにおいてである。また、ストーンズ以外いがいにもおおくのミュージシャンと共演きょうえんしており、ジョン・レノンエリック・クラプトンジョージ・ハリスンザ・フーなどの大物おおもの共演きょうえんしている。

2014ねん12月2にちテネシーしゅうフランクリンにある自宅じたくにて肝臓かんぞうがんにより死去しきょ。70さいぼつ

ストーンズとの関係かんけい 

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ストーンズのメンバーとは1960年代ねんだいい、1969ねんのアルバム『レット・イット・ブリード』でのはつ参加さんか以降いこう、1970年代ねんだいとおしておおくのアルバムのレコーディングに参加さんかしている。1972ねんから1973ねんにかけておこなわれたツアーよりサポート・メンバーとして参加さんかするが、ツアー終盤しゅうばん宿泊しゅくはくしていたフランスのホテルの風呂ふろドン・ペリニヨンを100ほん以上いじょう、あるいは200ほん以上いじょう浴槽よくそうたし、風俗ふうぞくじょうをはべらせるという珍事ちんじこしたため、一時いちじてきにファミリーから離脱りだつさせられた。プロモーターからは、このドンペリだい請求せいきゅうのために契約けいやくきん支払しはらわれないことになったという。このため、以降いこう1970年代ねんだいのライブにおいて「ブラウン・シュガー」でのサックス・ソロはギター・ソロにえられたが、ボビーによれば、これはアルコールやドラッグによる影響えいきょうだったとかたっている。ただし、ゲスト・プレイヤーとして度々どど共演きょうえんしているほかロン・ウッドびかけで結成けっせいされたニュー・バーバリアンズにはメンバーとして、またメンバーのソロ・アルバムへの参加さんかなど、メンバー各人かくじんとの関係かんけいつづいていた。ツアーのサポート・メンバーとして復帰ふっきするのは、1989ねんからである。きっかけは、1979ねんのニュー・バーバリアンズ、1988ねんキース・リチャーズ&エクスペンシヴ・ワイノーズで活動かつどうともにしたキースによれば「バンドにもどすために、リハーサルでボビーにらないうちにませてソロをかせた」ためで、おどろいたミックがこれをり、ボビーのくソロの重要じゅうようせいづいて参加さんかさせることにまった。また、このときにミックは「これは反論はんろんのしようなどない」とこたえたという。

ボビーのもっと著名ちょめいなサックス・ソロをおさめた「ブラウン・シュガー」では、間奏かんそうをどうするかという意見いけんされたさいみずか志願しがんするかたちでソロがとられることとなった。キースによれば「だし、ほんのすう音符おんぷいただけで素晴すばらしいものだとおもった」という。また、「ブラウン・シュガー」がおさめられたアルバム『スティッキー・フィンガーズ』の収録しゅうろくきょく「キャン・ユー・ヒア・ミー・ノッキング」でも本来ほんらい前半ぜんはんのボーカル部分ぶぶんのみのであるはずだったが、後半こうはんのジャムがおさめられることになったのはボビーのソロの出来栄できばえがかったためだったという。なお、どうきょく長年ながねんライブでは演奏えんそうされなかったが、バンド40周年しゅうねんのツアー「リックス・ツアー」にてはじめて演奏えんそうされ、どうツアーのハイライトのひとつとなっている。

対人たいじん関係かんけい悪化あっかより解散かいさん危機ききにあったストーンズが見事みごとカムバックをたした直後ちょくごからおこなわれたワールド・ツアーからは、以降いこうすべてのツアーでサポート・メンバーとして「ブラウン・シュガー」や「ミス・ユー」といったナンバーでサックス・ソロをかせ、会場かいじょうおおいにかせるのが恒例こうれいとなっていた。しかし、2012ねんから2014ねんにかけておこなわれているツアーにも参加さんかしていたものの、延期えんきされていたオセアニア公演こうえんには体調たいちょう不良ふりょうのため参加さんかできなかった。

また、キースはボビーのバンドへの貢献こうけんについて「ボビーはギターバンドであるストーンズのサウンドに自分じぶん才能さいのう馴染なじませるすご才能さいのうっていた」とかたっている。

脚注きゃくちゅう

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