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ポンペイウス劇場げきじょう

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ポンペイウス劇場げきじょう
ポンペイウス劇場げきじょう
所在地しょざいち だい9区域くいき キルクス・フラミニウス
建設けんせつ時期じき 紀元前きげんぜん55ねん
建設けんせつしゃ グナエウス・ポンペイウス
建築けんちく様式ようしき ローマ劇場げきじょう
関連かんれん項目こうもく

共和きょうわせいローマ, マルクス・アントニウス, マルクス・ユニウス・ブルトゥス, マルクス・リキニウス・クラッスス, ユリウス・カエサル暗殺あんさつ, ポンペイウス,

ポンペイウス劇場げきじょう, キケロ, だいいちかいさんとう政治せいじ
ポンペイウス劇場の位置(ローマ内)
ポンペイウス劇場
ポンペイウス劇場げきじょう
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ポンペイウス劇場げきじょうラテン語らてんご: Theatrum Pompeiumイタリア: Teatro di Pompeo)は古代こだいローマ建築けんちくぶつで、共和きょうわせいローマ後期こうき建設けんせつされた。完成かんせいまで7ねんかけ、紀元前きげんぜん61ねん着工ちゃっこうし、竣工しゅんこうまえ紀元前きげんぜん55ねん使用しよう開始かいしとなった[1]。ローマはつ恒久こうきゅうてき木造もくぞうでない)劇場げきじょうであり、なに世紀せいきにもわたって世界せかい最大さいだい劇場げきじょうわれていた。

この建築けんちくぶつローマ劇場げきじょう原形げんけいわれている。それ以前いぜんのギリシアの劇場げきじょう地面じめん円形えんけいかたち構築こうちくされていたが、ポンペイウス劇場げきじょうでははじめて完全かんぜん自立じりつした石造いしづくりの構造こうぞうとなっている。そのマ帝国まていこくない建設けんせつされた劇場げきじょうはこれを手本てほんとし、そこに若干じゃっかん変更へんこうくわえるかたち建設けんせつされた。ポンペイウス劇場げきじょう古代こだいから近代きんだいまでをとおして、世界せかい最大さいだい劇場げきじょうとみなされてきた。

この劇場げきじょう歴史れきしながいが、とくユリウス・カエサル暗殺あんさつされた場所ばしょとして有名ゆうめいである。

歴史れきし

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復元ふくげん

グナエウス・ポンペイウス執政しっせいかん任期にんきちゅうに、政治せいじとしての人気にんきるべくみずからのかんした劇場げきじょう建設けんせつ資金しきんした[2]たんなる劇場げきじょうとしてだけでなく、様々さまざま用途ようと使つかわれた。すべてのローマ劇場げきじょうには "crypta" があるが、この劇場げきじょうのcryptaは非常ひじょうおおきい。舞台ぶたいうしろに位置いちしており、観客かんきゃく上演じょうえん上演じょうえん合間あいまにそこで飲食いんしょくぶつ購入こうにゅうしたり、日差ひざしやあめからのがれるために柱廊ちゅうろう玄関げんかんポルチコ)にくために使つかった(客席きゃくせき屋根やねがないため)。ポンペイウス回廊かいろう (Porticus Pompei) には偉大いだい芸術げいじゅつ俳優はいゆうぞうならんでいた。ながアーケードには絵画かいが彫刻ちょうこく展示てんじされているだけでなく、そのひろ空間くうかん公的こうてき集会しゅうかいてきしていたため、ローマじん観劇かんげき以外いがいにも様々さまざま理由りゆうでそこにおもむいた。

この建築けんちくぶつもっとたか部分ぶぶんウェヌス・ウィクトリクス神殿しんでんであり、ポンペイウス個人こじんかみである(これにたいしてユリウス・カエサル個人こじんかみウェヌス・ゲネトリクスだった)。現代げんだい学者がくしゃなかにはそれが純粋じゅんすい信心しんじんあらわしたものではないとかんがえ、基本きほんてき劇場げきじょう神殿しんでん付属ふぞくしているのは、その建築けんちくぶつ自己じこ宣伝せんでん贅沢ぜいたくなものとられるのをけ、常設じょうせつ劇場げきじょう建築けんちくぶつへの非難ひなんつためだったとわれている[3]

劇場げきじょうつながっていた東側ひがしがわポルチコと4つあった神殿しんでんのうちの3つの遺跡いせきトッレ・アルジェンティーナ広場ひろばにある。これらの神殿しんでんふるくから劇場げきじょう関連付かんれんづけられていた。4つめの神殿しんでんだい部分ぶぶん現代げんだいのローマのとおりのしたねむっている。この遺跡いせきベニート・ムッソリーニいのちによって1920年代ねんだいから1930年代ねんだい発掘はっくつされた。劇場げきじょう本体ほんたい遺構いこうは Via di Grotta Pinta 周辺しゅうへん地下ちかからわずかだけつかっている。付近ふきんのレストランの地下ちかしつにこの劇場げきじょう本来ほんらいヴォールトのこっており、ホテル Albergo Sole al Biscioneかべ一部いちぶもこの劇場げきじょうのものである。このことから、劇場げきじょう建築けんちくぶつ完全かんぜん解体かいたいする以前いぜんから、なに世紀せいきにもわたってその建築けんちくぶつ改造かいぞうして利用りようしてきたことがうかがえる。いちかい部分ぶぶん観客かんきゃくせき一部いちぶ同様どうよう劇場げきじょう基礎きそ部分ぶぶん現存げんそんしているが、そのうえ構造こうぞうなんてかえられ、いまでは現代げんだい建築けんちくぶつ一部いちぶになっている。

紀元前きげんぜん55ねんから1455ねんまでの劇場げきじょうなが歴史れきしなかで、なん火災かさいがあり、そのたび修復しゅうふくされてきた。最終さいしゅうてき修復しゅうふくされなくなると、劇場げきじょう構成こうせいしていたいしさい利用りようする採石さいせきじょうとなった。

トッレ・アルジェンティーナ広場ひろば

建築けんちく

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ローマ劇場げきじょうは、そのもとになったギリシア劇場げきじょう特徴とくちょうている。一般いっぱんにローマの建築けんちくはギリシアの影響えいきょうつよけており、劇場げきじょう構造こうぞう設計せっけいもそのてんでは建物たてものわらない。しかし、ギリシア劇場げきじょう地面じめんったり、おか斜面しゃめん利用りようして建設けんせつされていたのにたいして、ローマ劇場げきじょうたいらな地面じめん基礎きそきずいててられており、すべての方向ほうこうかこわれているというちがいがある。ローマ劇場げきじょうは、ローマはつ常設じょうせつ劇場げきじょうであるポンペイウス劇場げきじょう基本きほん設計せっけい踏襲とうしゅうしている。

この建築けんちくぶつ以前いぜん、ローマでは常設じょうせつ劇場げきじょうてないという不文ふぶんりつがあった。劇場げきじょう多数たすう市民しみんあつめて、演説えんぜつ演技えんぎ群集ぐんしゅう熱狂ねっきょうさせるため危険きけんかんがえられていたからである。そのため、劇場げきじょうもコロシアムも木造もくぞう建築けんちくで、すぐに構築こうちく解体かいたいできるようになっていた。

ポンペイウスがこの劇場げきじょう建設けんせつすることをおもったのには、いくつかの理由りゆうがある。政治せいじてきには、支援しえんしゃ集会しゅうかい場所ばしょとして利用りよう可能かのうだった。また、この建物たてものがきっかけとなって帝政ていせいフォルム建設けんせつされた。実際じっさいユリウス・カエサルはポンペイウス劇場げきじょう自身じしんのフォルム建設けんせつおもち、その歴代れきだい皇帝こうていがフォルムを建設けんせつすることになった。

王政おうせいローマおよび共和きょうわせいローマ前期ぜんきには、ローマ周辺しゅうへんのこの場所ばしょにはいくつかの聖域せいいきがあり、そこに神殿しんでんアンフィテアトルム集会しゅうかいしょてられていた。そういった場所ばしょであったことと同時どうじに、ポンペイウスがミティリーニのギリシア劇場げきじょうあこがれていたことが、劇場げきじょう建設けんせつ理由りゆう一部いちぶとなっている。

ポンペイウス劇場げきじょうは、地面じめんコンクリート基礎きそつくり、そのうえてられている。観客かんきゃくせきしたヴォールトかた廊下ろうかつくられ、観客かんきゃくせきかく部分ぶぶん素早すばや移動いどうできるようにし、上層じょうそうせきまで迅速じんそくかつ制御せいぎょされた方法ほうほう観客かんきゃく安全あんぜんせきにつき、かつ退場たいじょうできるようにした。このため、円形えんけい外観がいかんアーチ多用たようしている。この工夫くふうによってよりおおきな建築けんちくぶつてられるようになった。これにより観客かんきゃくせき自体じたい構造こうぞうつようになり、たん斜面しゃめん座席ざせきならべたものではなくなった。ローマ劇場げきじょうすべてこのような構造こうぞうてられたわけではなく、たいらな土地とちにもこの方式ほうしき劇場げきじょうてられるようになったとえる。

舞台ぶたい部分ぶぶん観客かんきゃくせき部分ぶぶんつながるようにてられており、全体ぜんたいとしてあらゆる方向ほうこうかこむようになっている。それ以前いぜんのギリシア劇場げきじょうでは、舞台ぶたい観客かんきゃくせき分離ぶんりしていた。これによって音響おんきょうてきにも改善かいぜんでき、同時どうじくち限定げんていされるため、チケットなしで観劇かんげきすることを困難こんなんにした。粘土ねんど陶器とうきせいのチケットも古代こだいローマの発明はつめいである。

この構造こうぞうは、そのマ帝国まていこく各地かくち劇場げきじょうアンフィテアトルムのほとんどで踏襲とうしゅうされた。たとえば、ローマに遺跡いせきとして現存げんそんするコロッセオマルケッルス劇場げきじょうげられる。

ふくあい施設しせつ

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ポンペイウス劇場げきじょうはかなりおおきく、様々さまざま用途ようとかく部分ぶぶん利用りようされた。上演じょうえん期間きかん以外いがいでも、様々さまざま目的もくてき人々ひとびとあつまった。観客かんきゃくせきさい上部じょうぶにウェヌス神殿しんでんがあり、反対はんたいがわにも古代こだい聖域せいいきがあるため、宗教しゅうきょうてきにも重要じゅうよう場所ばしょだった。現在げんざい考古学こうこがくてき作業さぎょう劇場げきじょう部分ぶぶん遺構いこう集中しゅうちゅうしている。しかし、この劇場げきじょうには周囲しゅういかこまれた専用せんよう庭園ていえん劇場げきじょうより広範囲こうはんい美術びじゅつひん展示てんじ空間くうかん集会しゅうかいよう空間くうかんふくまれている。

神殿しんでん

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劇場げきじょう恒久こうきゅうてき石造いしづくりの施設しせつとして建設けんせつするため、セルウィウス城壁じょうへきそと建設けんせつするなど、いくつかの配慮はいりょがなされた。ポンペイウスは、劇場げきじょう自身じしん個人こじんてきかみであるウェヌス・ウィクトリクスささげ、観客かんきゃくせき中央ちゅうおうにその神殿しんでんもうけ、建物たてもの全体ぜんたい巨大きょだい神殿しんでんとなるようにした。また、「聖域せいいき (Sacred Area)」とばれふるくから4つの神殿しんでんがあった部分ぶぶん敷地しきちないんでおり、そこがいまではトッレ・アルジェンティーナ広場ひろばばれている。ふくあい施設しせつ全体ぜんたいが、そのふる領域りょういき保存ほぞんするようなかたち配置はいちされ、建設けんせつされている。こうすることで、施設しせつ全体ぜんたい宗教しゅうきょうてきにも意味いみのあるものとされた。

聖域せいいき」の神殿しんでん

A紀元前きげんぜん3世紀せいき建設けんせつされた神殿しんでんで、ガイウス・ルタティウス・カトゥルス紀元前きげんぜん241ねんカルタゴ勝利しょうりしたことを記念きねんしててた「ユートゥルナ神殿しんでん」とわれている[4]

B円形えんけい神殿しんでんで6ほんはしらのこっている。紀元前きげんぜん101ねんQuintus Lutatius Catulus がキンブリじん勝利しょうりしたことを記念きねんしててたものである。Aedes Fortunae Huiusce Diei今日きょう幸運こううん)とばれ、フォルトゥーナまつっていた。発掘はっくつ巨大きょだい女神めがみぞう出土しゅつどし、カピトリーノ美術館びじゅつかん収蔵しゅうぞうされた。女神めがみぞうは、頭部とうぶうであしだけが大理石だいりせきで、衣服いふくおおわれたほか部分ぶぶん青銅せいどうせいである。

Cなかでももっとふるく、紀元前きげんぜん4世紀せいきから紀元前きげんぜん3世紀せいきにかけてのものとされる。豊穣ほうじょう女神めがみフェーローニア神殿しんでんではないかとわれている。この神殿しんでん紀元きげん80ねん火災かさい再建さいけんされており、内部ないぶられるしろくろのモザイクはこの修復しゅうふくのものである。

Dは4つのなかもっとおおきく、紀元前きげんぜん2世紀せいきのものだが、共和きょうわせい後期こうき修復しゅうふくされている。ラレース航海こうかい守護神しゅごじん Lares Permarini)の神殿しんでんだが、そのほとんどは道路どうろしたにあり、一部いちぶしか発掘はっくつされていない。

ポンペイウス回廊かいろう

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この劇場げきじょうふくあい施設しせつは、当時とうじ様々さまざま芸術げいじゅつ成果せいかのために設計せっけいされた。舞台ぶたいのすぐうしろにながポルチコびていて庭園ていえんかこみ、その庭園ていえん噴水ふんすい彫像ちょうぞうがあった。庭園ていえんかこむアーケードには、絵画かいが彫像ちょうぞうなどの様々さまざま芸術げいじゅつひん展示てんじされていた。そのおおくはローマの様々さまざま美術館びじゅつかん博物館はくぶつかん収蔵しゅうぞうされている。この部分ぶぶんを "crypta" ともび、のローマ劇場げきじょうにもある。

元老げんろういん議事堂ぎじどう、カエサル暗殺あんさつ

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ユリウス・カエサルはポンペイウス劇場げきじょう元老げんろういん議事堂ぎじどう暗殺あんさつされた。

ポンペイウス劇場げきじょうは、舞台ぶたい後方こうほうのポンペイウス回廊かいろう有名ゆうめい殺人さつじんおこなわれたことでもよくられている。その広大こうだい庭園ていえんない聖域せいいきちか劇場げきじょう本体ほんたいからとお部分ぶぶん元老げんろういん議事堂ぎじどうとしても使つかわれた集会しゅうかいしょがあった。

紀元前きげんぜん44ねんの3がつ15にちローマれき)、カエサルは元老げんろういん出席しゅっせきする予定よていがあった。前夜ぜんや暗殺あんさつだん一味いちみであるセルウィリウス・カスカから暗殺あんさつ計画けいかく概要がいようったマルクス・アントニウスは、最悪さいあく事態じたいおそれ、カエサルが議事堂ぎじどうはいるのを阻止そしすべくかまえていた。しかし、元老げんろういん議員ぎいん一団いちだんがポンペイウス劇場げきじょうからてきたカエサルに東側ひがしがわのポルチコに隣接りんせつする部屋へやくよう指示しじした[5]

プルタルコスによれば、カエサルが到着とうちゃくすると同時どうじ暗殺あんさつだん一味いちみである ティッリウス・キンベルってきて、追放ついほうされた兄弟きょうだい復帰ふっき請願せいがんはじめた[6]。それをきっかけとして、共謀きょうぼうしゃらがカエサルのまわりにむらがった。プルタルコスとスエトニウスによれば、カエサルはキンベルをはらったが、キンベルはカエサルのかたをつかみ、かれチュニックをひっぱった。カエサルはキンベルにたいして「これは暴力ぼうりょくだぞ! ("Ista quidem vis est!")」とさけんだ[7]同時どうじに、前述ぜんじゅつしたカスカが短剣たんけんしてカエサルのくびめがけて一閃いっせんさせたがあさく、カエサルは素早すばやかえり、カスカの短剣たんけんをつかむとラテン語らてんごで「カスカ、悪人あくにんめ!なにをする?」とった[8]。おびえたカスカはギリシアで「たすけてくれ、兄弟きょうだい」("ἀδελφέ, βοήθει!", "adelphe, boethei!")とさけんだ。その瞬間しゅんかんにブルトゥスをふく暗殺あんさつだん全員ぜんいんがカエサルにおそかった。カエサルはげようとしたが、はいってえず、つまずいてたおれた。ポルチコの階段かいだんしたほう無防備むぼうびとなったカエサルを一団いちだんふたたつづけた。エウトロピウスによれば、60にん以上いじょう暗殺あんさつ関与かんよしたという。カエサルは23カ所かしょされていた[9]。スエトニウスによれば、のち医師いし致命傷ちめいしょうはそのうちの1カ所かしょむねきず)だけだったと診断しんだんしたという[10]

古代こだいローマ史上しじょうもっと重要じゅうよう事件じけんであり、共和きょうわせいローマからマ帝国まていこくへの移行いこう遠因えんいんとなった事件じけんだった。

カエサルが暗殺あんさつされた場所ばしょは、元老げんろういん議事堂ぎじどうがあったほか場所ばしょ混同こんどうされて文献ぶんけんしるされていることがある。最初さいしょ議事堂ぎじどう紀元前きげんぜん7世紀せいきトゥッルス・ホスティリウス建設けんせつしたクリア・ホスティリアで、紀元前きげんぜん80ねんルキウス・コルネリウス・スッラ拡張かくちょうしている。この議事堂ぎじどう火災かさい焼失しょうしつしたため、カエサルがあらたに建設けんせつさせていたのがクリア・ユリアで、暗殺あんさつには完成かんせいだった。

ポンペイウス劇場げきじょうない議事堂ぎじどうがあった場所ばしょは、いま道路どうろしたにある。ただし、そのすぐちかくの「聖域せいいき」のかべ一部いちぶはムッソリーニが発掘はっくつさせた。

現在げんざい

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現在げんざいのローマの地図ちずとポンペイウス劇場げきじょう位置いちかさねたもの(うえ方角ほうがく西にし

のちにポンペイウス劇場げきじょう破損はそん状態じょうたいおちいり、そのほとんどはローマちゅう建設けんせつ資材しざいとして使つかうために解体かいたいされていった。中世ちゅうせい一時期いちじきにはその場所ばしょとりできずかれていた。現存げんそんする遺構いこうは、周辺しゅうへんのホテル、住居じゅうきょ、レストランの地下ちかしつ流用りゅうようされているものがおおい。

ポンペイウス劇場げきじょうからされた断片だんぺんは、彫刻ちょうこく出土しゅつどひんふくめ、ローマちゅう分散ぶんさんしている。ポンペイウス劇場げきじょうから採取さいしゅしたいろつきのトラバーチン多用たようした建築けんちくぶつとしてカンチェッレリアみやがある。また、あか灰色はいいろ円柱えんちゅう中庭なかにわ使つかっているが、それらもポンペイウス劇場げきじょう観客かんきゃくせき下部かぶのポルチコにあったもので、当初とうしょ教会きょうかい (San Lorenzo in Damaso) のバシリカ使つかわれていたはしらだった[11]

カンプス・マルティウス位置いちし、周辺しゅうへんから建物たてものてられ、うようになっていった。いまでは後世こうせいてられた建物たてものとおりでおおわれている。しかし航空こうくう写真しゃしんなどでると、劇場げきじょう観客かんきゃくせき半円はんえんがた形状けいじょう沿って建物たてものてられていることがわかる。これは、一部いちぶ建物たてもの劇場げきじょう基礎きそをそのままもちいててられたためである。

この場所ばしょでの限定げんていてき発掘はっくつ作業さぎょうにはなが年月としつきがかかった。初期しょき発掘はっくつについては文献ぶんけんのこっていないが、なかにはフォルマ・ウルビス・ロマエばれる平和へいわ神殿しんでんかざっていた大理石だいりせきせい地図ちず断片だんぺんから、古代こだい建築けんちくぶつ配置はいち推定すいていしようとするこころみもなされている。

ルイジ・カニーナ(1795ねん - 1856ねん)は、ポンペイウス劇場げきじょうについて重要じゅうよう研究けんきゅうおこなった最初さいしょ人物じんぶつである。フォルマ・ウルビスの破片はへんからポンペイウス劇場げきじょうえがかれた部分ぶぶんつけたのはカニーナであり、はじめて遺構いこう調査ちょうさ研究けんきゅうしたのもカニーナだった。かれはポンペイウス劇場げきじょう正確せいかく位置いちはじめて推定すいていした。Martin Blazeby は近年きんねん、カニーナののこした図面ずめんもとづいてポンペイウス劇場げきじょうの3次元じげんイメージを製作せいさくした[12]

21世紀せいきはいっても研究けんきゅうすすめられている。劇場げきじょうあとてられている建物たてものとおり、それに付随ふずいする配管はいかん電線でんせんなどもあり、劇場げきじょうあと発掘はっくつすることにはつね困難こんなんともなう。それでも最近さいきんのプロジェクトで劇場げきじょう位置いち推定すいていはより正確せいかくになっている。

考古学こうこがく

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フォルマ・ウルビスにはポンペイウス劇場げきじょう観覧席かんらんせきえがかれている。

劇場げきじょう使つかわれていたいし円柱えんちゅうはほとんどが略奪りゃくだつされ、のこっていない。しかし、観客かんきゃくせき下部かぶ地階ちかいおよび地下ちかかい構造こうぞう後世こうせい建物たてもの土台どだいとして使つかわれ、現存げんそんしている。ローマでは、古代こだい建築けんちくぶつ基礎きそ部分ぶぶんをそのまま流用りゅうようして土地とち所有しょゆうしゃあらたな建物たてもの建設けんせつし、建設けんせつ費用ひようおさえた。マルケッルス劇場げきじょう場合ばあいは、遺跡いせきうえとりできずかれ、それがいま集合しゅうごう住宅じゅうたくとして使つかわれている。

ルネサンス以降いこうから18世紀せいきまでにその地域ちいきでの建設けんせつ工事こうじでポンペイウス劇場げきじょう構造こうぞう一部いちぶつかり、この劇場げきじょうくわしく調査ちょうさしたいという興味きょうみまれた。

ルイジ・カニーナははじめて「フォルマ・ウルビス」の研究けんきゅうおこない、既知きち遺構いこうから劇場げきじょう再現さいげんしようとこころみた。19世紀せいき初頭しょとうかれえがいたポンペイウス劇場げきじょう図面ずめんには、1837ねんにフランスじん建築けんちく Victoire Baltard が修正しゅうせいほどこした。Baltardは周辺しゅうへん地域ちいきで2かい発掘はっくつおこない、外装がいそう一部いちぶ舞台ぶたい背景はいけい構成こうせいするかべ (scaenae frons) の一部いちぶ発見はっけんした。

1865ねんどう地域ちいきあらたな建物たてもの基礎きそ工事こうじのために地面じめんらせていた Pietro Righetti(当時とうじ Palazzo Pio所有しょゆうしていた)は、ウェヌス・ウィクトリクス神殿しんでん一部いちぶ発見はっけんした。

その、1997ねんまでだい規模きぼ発掘はっくつおこなわれなかった。1997ねんウォーリック大学だいがくのチームがポンペイウス劇場げきじょう遺構いこう状態じょうたいについて包括ほうかつてき調査ちょうさ開始かいしした。2002ねんには、Palazzo Pio での発掘はっくつ開始かいしされた。

2002ねんから Antonio Monterroso がおこなっている研究けんきゅうでは、ウェヌス・ウィクトリクスの神殿しんでんがカニーナのえがいたものとはまったことなっていたことをあきらかにしている。

同様どうようしき現存げんそんするローマ劇場げきじょう

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オランジュのローマ劇場げきじょうは、規模きぼちいさいがポンペイウス劇場げきじょうている。

ポンペイウス劇場げきじょう建物たてものとしては現存げんそんしていないが、ヨーロッパやアフリカには多数たすう類似るいじ建物たてもの現存げんそんしている。それらを研究けんきゅうすることで、古代こだいのポンペイウス劇場げきじょうがどういうものだったか、この建物たてものマ帝国まていこく全体ぜんたいにどういう影響えいきょうあたえたかを理解りかいするたすけとなる。保存ほぞん状態じょうたいのよいものはイタリア国外こくがいにある。フランスのオランジュにある劇場げきじょうThéâtre antique d'Orangeばれている。この劇場げきじょう外観がいかん保存ほぞん状態じょうたいがよいが、おか斜面しゃめん建設けんせつされているため観客かんきゃくせき下部かぶ構造こうぞうはない。スペインやアフリカにも保存ほぞん状態じょうたいのよいローマ劇場げきじょう遺跡いせきがある。

火山かざん噴火ふんか破壊はかいされたポンペイにも劇場げきじょう遺跡いせきがあるが[13]、ローマのポンペイウス劇場げきじょうほう規模きぼおおきかった。ポンペイの劇場げきじょうにはポンペイウス劇場げきじょう同様どうよう背後はいご庭園ていえんがあった。ポンペイの劇場げきじょうおおくの現存げんそんするローマ劇場げきじょう同様どうよう実際じっさい劇場げきじょうとして使つかわれている。

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう出典しゅってん

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  1. ^ Boatwright; et al.. The Romans, From Village to Empire. p. 227. ISBN 9780195118766 
  2. ^ History of the Theatre - Antiquity
  3. ^ Theatrum Pompeii in Platner & Ashby
  4. ^ ユーノー神殿しんでんとするせつもあるが、オウィディウス (Fasti I) が "Te quoque lux eadem Turni soror aede recepit/Hic, ubi Virginea Campus obitur aqua" としるしていることから、ユートゥルナの神殿しんでんアグリッパ浴場よくじょう終点しゅうてんとするヴィルゴ水道すいどう経路けいろ付近ふきんにあったとされている。
  5. ^ Theatrum Pompei”. Oxford University Press. 2008ねん8がつ28にち閲覧えつらん
  6. ^ Plutarch - Life of Brutus
  7. ^ Suetonius, Life of the Caesars, Julius trans. J C Rolfe
  8. ^ Plutarch, Life of Caesar, ch. 66: "μみゅーεいぷしろんνにゅー πληγείς, Ῥωμαιστί· 'Μιαρώτατε Κάσκα, τί πぱいοおみくろんιいおたεいぷしろんῖς;'"
  9. ^ Woolf Greg (2006), Et Tu Brute? - The Murder of Caesar and Political Assassination, 199 pages - ISBN 1-8619-7741-7
  10. ^ Suetonius, Julius, c. 82.
  11. ^ Middleton, John Henry (1892). Remains of Ancient Rome, volume 2. Adamant Media Corporation. p. 69. ISBN 140217473X 
  12. ^ Site Documentation The Pompey Project
  13. ^ Theatre of Pompeii”. AncientWorlds LLC. 2008ねん5がつ13にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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座標ざひょう: 北緯ほくい4153ふん42びょう 東経とうけい1228ふん26びょう / 北緯ほくい41.895 東経とうけい12.474 / 41.895; 12.474