ヤン・コハノフスキ (Jan Kochanowski 、1530年 ねん シツィナ (英語 えいご 版 ばん ) - 1584年 ねん 8月 がつ 22日 にち ルブリン )はルネサンス 時代 じだい のポーランド の詩人 しじん 、王室 おうしつ 秘書官 ひしょかん 。折衷 せっちゅう 主義 しゅぎ 哲学 てつがく (ストア主義 しゅぎ 、エピクロス主義 しゅぎ 、ルネサンス期 き の新 しん プラトン主義 しゅぎ 、そして古代 こだい とキリスト教 きりすときょう を結 むす びつけた神 かみ への深 ふか い信心 しんじん の融合 ゆうごう )の代表 だいひょう 的 てき な人物 じんぶつ でもある。
コルヴィン (英語 えいご 版 ばん ) の紋章 もんしょう を持 も つシュラフタ 階級 かいきゅう のコハノフスキ家 か の出 だし で、サンドミェシュ (英語 えいご 版 ばん ) の地方 ちほう 裁判官 さいばんかん (Sędzia ziemski)ピョトルを父 ちち に、(同 おな じくシュラフタの)オドロヴォンシュ家 か のアンナ・ビャワチョフスカを母 はは に持 も つ。弟 おとうと ミコワイもルネサンス詩人 しじん の一人 ひとり であり、次 じ 弟 おとうと のアンジェイはヴェルギリウス の「アエネーイス 」をポーランド語 ご に翻訳 ほんやく したことで知 し られる。バロック 期 き には甥 おい のピョトルも翻訳 ほんやく の仕事 しごと に従事 じゅうじ した。
ヤンの正確 せいかく な生年月日 せいねんがっぴ は不明 ふめい である。ズヴォレンにあるこの詩人 しじん の墓碑 ぼひ に、1584年 ねん 8月 がつ 22日 にち に54歳 さい で没 ぼつ とあるため、おそらくは1530年 ねん に生 う まれたものとされている。しかしながら1612年 ねん に出 で た彼 かれ の伝記 でんき では、「『ギリシャ使節 しせつ の辞去 じきょ 』の作者 さくしゃ は1532年 ねん にシツィナ(Sycyna)で生 う まれた」としている。次 つ いでスタニスワフ・ニェゴシェフスキの1584年 ねん の作品 さくひん 「ピョトル・ミスコフスキのために~ヤン・コハノフスキのエピグラム~」ではコハノフスキが42歳 さい で没 ぼっ したと公表 こうひょう している。20世紀 せいき のポーランド文学 ぶんがく 史 し 学者 がくしゃ ヤヌシュ・ペルツが2001年 ねん に刊行 かんこう した『コハノフスキ、ポーランド文学 ぶんがく におけるルネサンスの頂点 ちょうてん 』によればこれらの中 なか で最 もっと も確実 かくじつ なのは1530年 ねん であるという。
ヤンの父 ちち はピョトル・コハノフスキはそこそこ裕福 ゆうふく な地主 じぬし であり、ラドム の初代 しょだい 執達吏 しったつり (komornik)を務 つと め、後 のち にサンドミェシュの地方 ちほう 裁判官 さいばんかん となった。詩人 しじん の母 はは アンナ・ビャワチョフスカはルネサンスの人文 じんぶん 学者 がくしゃ ウカシュ・グルニツキの「ポーランドの宮内 くない 官 かん 」の中 なか で落 お ち着 つ きはあるが甚 はなは だ身持 みも ちのよくない女性 じょせい として描 えが かれている。兄弟 きょうだい にはカスペル、ピョトル、ミコワイ、アンジェイ、ヤクプ、スタニスワフ、そして姉妹 しまい にはカタジナ、エルジュビエタ、アンナ、ヤドヴィガがおり、腹違 はらちが いの兄弟 きょうだい (父 ちち にはアンナの前 まえ に妻 つま がおり、ヤン・ザサダの娘 むすめ でゾフィアといった)ドルズヤンナとスタニスワフがいた。父 ちち ピョトルは1547年 ねん に没 ぼっ している。
両親 りょうしん の家 いえ で高 たか い知性 ちせい の水準 すいじゅん が支配 しはい していたことはただにヤン・コハノフスキのみならずミコワイやアンジェイといった弟 おとうと たちまでもが文学 ぶんがく に興味 きょうみ を示 しめ したという事実 じじつ に影響 えいきょう したことは確実 かくじつ である。この点 てん でコハノフスキ家 か は近隣 きんりん のシュラフタ階級 かいきゅう と背景 はいけい を異 こと にしていた。
教育 きょういく と旅行 りょこう [ 編集 へんしゅう ]
お気 き に入 い りのシナノキの下 した のヤン・コハノフスキ。19世紀 せいき の図版 ずはん より
ヤン・マテイコ 画 が 、「(愛娘 まなむすめ )ウルスラの遺骸 いがい に接 せっ するコハノフスキ」
ヤンの初等 しょとう 教育 きょういく に関 かん する情報 じょうほう は残存 ざんそん していない。このテーマについての最初 さいしょ の言及 げんきゅう がなされるのは1544年 ねん である。彼 かれ の姓名 せいめい がヤギェウォ大学 だいがく (クラクフ )の新入生 しんにゅうせい 名簿 めいぼ に署名 しょめい されている(ヤンは当時 とうじ おそらく14歳 さい であった)。研究 けんきゅう 者 しゃ が推測 すいそく するに、遅 おそ くとも1547年 ねん には学芸 がくげい 学部 がくぶ を学位 がくい を得 え ることなしに離 はな れている。学業 がくぎょう をやめようと決心 けっしん したことには2つの原因 げんいん が考 かんが えられる。1つは伝染 でんせん 病 びょう の蔓延 まんえん による1547年 ねん 6月 がつ 12日 にち の講義 こうぎ 延期 えんき 、そしてもう1つは父親 ちちおや の健康 けんこう 状態 じょうたい にまつわる悪 わる い知 し らせ(上述 じょうじゅつ の通 とお り父 ちち はついにこの年 とし に没 ぼっ することになる。日付 ひづけ は定 さだ かではないが、4月 がつ 18日 にち から10月 がつ 14日 にち までの間 あいだ であろうと推測 すいそく される)によるものである。
1547年 ねん から1550年 ねん の間 あいだ どこかドイツの大学 だいがく で学 まな んでいたか、大 だい 貴族 きぞく の邸宅 ていたく の一 ひと つに身 み を寄 よ せていたようである。1551年 ねん から1552年 ねん にかけて、ケーニヒスベルク (現在 げんざい のカリーニングラード、ポーランド語 ご 名 めい クルレヴィエツ)のアルベルトゥス大学 だいがく で学 まな んだ。小 しょう セネカ の「悲劇 ひげき 集 しゅう 」の版本 はんぽん に2箇所 かしょ の書 か き込 こ みがあったことが、将来 しょうらい 詩人 しじん となるコハノフスキがここにいたことの唯一 ゆいいつ の証拠 しょうこ である。彼 かれ の最初 さいしょ の手書 てが きは作品 さくひん の始 はじ めに位置 いち し、初 はつ の詩人 しじん としての試作 しさく (ラテン語 らてんご の四 よん 行 ぎょう 詩 し )であり、友人 ゆうじん スタニスワフ・グジェプスキ(後 ご のヤギェウォ大学 だいがく 教授 きょうじゅ 、幾何 きか 学 がく の教科書 きょうかしょ を書 か いたことで知 し られる)への献呈 けんてい の役割 やくわり を果 は たしている。コハノフスキはイニシャル「I.K.」と署名 しょめい し、贈 おく り先 さき には詩 し の下 した に1552年 ねん 4月 がつ 9日 にち と記 しる している。2箇所 かしょ 目 め の書 か き込 こ みは「悲劇 ひげき 集 しゅう 」の版本 はんぽん の最後 さいご の札 さつ にあり、その書 か き込 こ みの略語 りゃくご の暗号 あんごう を解 と くのは容易 ようい ではないが、おそらくコハノフスキとグジェプスキの間 あいだ で了解 りょうかい を得 え られる符牒 ふちょう であろう。版本 はんぽん はワルシャワ の国民 こくみん 図書館 としょかん にある。
ラテン語 らてんご での記念 きねん の献呈 けんてい 文 ぶん は友人 ゆうじん との別 わか れの言葉 ことば とイタリア への旅行 りょこう の予告 よこく であった。1552年 ねん 、将来 しょうらい の詩人 しじん はパドヴァ (コハノフスキの名 な の載 の った学生 がくせい 名簿 めいぼ が残存 ざんそん している)にたどりついた。最初 さいしょ の頃 ころ はパドヴァ大学 だいがく の学芸 がくげい 学部 がくぶ で(1554年 ねん 7月 がつ にはポーランドの大学 だいがく 合同 ごうどう の相談役 そうだんやく となり、独立 どくりつ 論争 ろんそう についてドイツ の貧 まず しい学生 がくせい たちと話 はな し合 あ っている)それは1555年 ねん まで続 つづ いた。その頃 ころ コハノフスキは学業 がくぎょう を中断 ちゅうだん し、ヤン・クシシュトフ・タルノフスキ(シュラフタ)と友人 ゆうじん ミコワイ・ミェレツキ(シュラフタ、後 ご の軍人 ぐんじん 、政治 せいじ 家 か )を伴 ともな ってローマ とナポリ 旅行 りょこう に出 で かけ、次 つ いでポーランドに帰還 きかん した。この学業 がくぎょう の中断 ちゅうだん の理由 りゆう としては、コハノフスキに財政 ざいせい 的 てき な問題 もんだい が生 しょう じ、メセナ を探 さが し求 もと める必要 ひつよう が生 しょう じたことがある。
1555年 ねん から1556年 ねん にかけて再 ふたた びケーニヒスベルクでプロイセン公 こう アルブレヒト・ホーエンツォレルン の屋敷 やしき に滞在 たいざい した。アルブレヒトはヤギェウォ家 か の系統 けいとう の人間 にんげん であり、母 はは がポーランドのジグムント1世 せい の娘 むすめ であった縁 えん もあり、ポーランドの詩人 しじん のメセナであったようである。また彼 かれ 自身 じしん も自 みずか ら総長 そうちょう として率 ひき いていたドイツ騎士 きし 団 だん を解散 かいさん しルター派 は に改宗 かいしゅう たうえで1525年 ねん に伯父 おじ のジグムント1世 せい に臣従 しんじゅう 、プロイセン公国 こうこく は宗教 しゅうきょう 的 てき に寛容 かんよう であったポーランド王国 おうこく の臣下 しんか でもあった。保守 ほしゅ 的 てき な屋敷 やしき の会計 かいけい 係 がかり の態度 たいど のせいで1555年 ねん にはコハノフスキに報酬 ほうしゅう が支払 しはら われることはなかったが、1556年 ねん にはすでに50グジヴィエン(四半期 しはんき に12.5グジヴィエン、1グジヴィエンとは当時 とうじ の単位 たんい で半 はん ポンドであり、現在 げんざい でいうおよそ200gである)を受 う け取 と っていた。庇護 ひご 者 しゃ へ宛 あ てた詩人 しじん の手紙 てがみ もまた残 のこ っている。その中 なか でも1556年 ねん 4月 がつ 6日 にち 付 づ けの手紙 てがみ では、アルブレヒトに、眼 め 病 びょう の進行 しんこう を理由 りゆう にイタリアに旅立 たびだ ち、そこで大学 だいがく に戻 もど りたいと願 ねが っていると涙 なみだ ながらに打 う ち明 あ けている。プロイセン公 こう は4月 がつ 15日 にち 付 づ けの返信 へんしん でこれに同意 どうい し、詩人 しじん に餞別 せんべつ としてさらに50グジヴィエン贈 おく った。
旅行 りょこう 費用 ひよう の追加 ついか 援助 えんじょ を得 え るために、コハノフスキはケーニヒスベルクから実家 じっか に赴 おもむ いた。1556年 ねん 7月 がつ 16日 にち 、イタリア旅行 りょこう からすでに帰還 きかん した彼 かれ はラドム郡 ぐん で、遠縁 とおえん のミコワイ・コハノフスキから両親 りょうしん の土地 とち を担保 たんぽ に合計 ごうけい 70ポーランド・フローレンを借 か りたことを宣言 せんげん している。続 つづ く1557年 ねん 3月 がつ 11日 にち には弟 おとうと のピョトルからの100ハンガリー・ドゥカーテンの借用 しゃくよう 証書 しょうしょ を裁判所 さいばんしょ に提出 ていしゅつ している。
イタリア旅行 りょこう へはピョトル・クウォチョフスキ(後 ご のザヴィホスト城主 じょうしゅ )と同伴 どうはん で出 で かけた。詩人 しじん はおそらくパドヴァ近郊 きんこう にあるアーバノ・テルメ (温泉 おんせん の出 で る保養 ほよう 地 ち として知 し られる)を訪 おとず れていたとみられる。イタリア滞在 たいざい は1557年 ねん 2月 がつ まで続 つづ いた。コハノフスキは母 はは の死 し の知 し らせを受 う けて実家 じっか の方 ほう へ戻 もど った。
詩人 しじん の最後 さいご のイタリア旅行 りょこう は1558年 ねん の冬 ふゆ のことであった。この年 とし の終 お わり頃 ころ にフランス へ出立 しゅったつ した。この国 くに へ旅行 りょこう したという唯一 ゆいいつ の残存 ざんそん した証拠 しょうこ は詩人 しじん の手紙 てがみ の形式 けいしき で書 か かれたエレジー である。読者 どくしゃ はおそらくこれによって、詩人 しじん がマルセイユ とパリ にいたこと、この国 くに の南西 なんせい 部 ぶ にあるアキテーヌ を訪 おとず れたことを知 し ることができる。またロワール川 がわ 、ローヌ川 がわ 、セーヌ川 がわ も見 み ている。コハノフスキのフランス旅行 りょこう をガイドしたのはおそらくフラマンの人文 じんぶん 主義 しゅぎ 者 しゃ カレル・ウテンホーフェ(Karel Utenhove、息子 むすこ の方 ほう )であった。1559年 ねん 5月 がつ をもってポーランドに戻 もど り、永住 えいじゅう した。
屋敷 やしき での活動 かつどう [ 編集 へんしゅう ]
ヤギェウォ大学 だいがく のコレギウム・ノヴムにあるステンドグラスに描 えが かれたコハノフスキ
1571年 ねん のコハノフスキの自筆 じひつ メモ
コハノフスキの生涯 しょうがい において、1559年 ねん から1563年 ねん にかけては不明瞭 ふめいりょう なところが多 おお い。所蔵 しょぞう されている法的 ほうてき 文書 ぶんしょ に基 もと づいてつきとめることができるのは、1559年 ねん 7月 がつ 11日 にち に詩人 しじん の両親 りょうしん の遺産 いさん が兄弟 きょうだい との間 あいだ で分割 ぶんかつ されたということである。ヤン・コハノフスキが受 う け継 つ いだのはチャルノラス(Czarnolas)の半分 はんぶん 、ルダ(Ruda)、製粉 せいふん 所 しょ 、いわゆるグロツカ川 かわ 沿 ぞ いの放 ひ 魚 さかな 池 ち 及 およ びその他 た の付属 ふぞく 物 ぶつ であった。チャルノラスのもう半分 はんぶん はおじにあたるフィリップが受 う け取 と った。一方 いっぽう 、兄弟 きょうだい たちはポーランド通貨 つうか で400フローレンもの補償 ほしょう 金 きん を詩人 しじん に支払 しはら わせた。1560年 ねん 3月 がつ 25日 にち 、フィリップとヤンの間 あいだ に協定 きょうてい が交 か わされ、相続 そうぞく した所有 しょゆう 地 ち を合計 ごうけい 400フローレンで眷属 けんぞく に賃貸 ちんが しすることとなった。受 う け取 と った金銭 きんせん で兄弟 きょうだい への負債 ふさい を支弁 しべん した。1562年 ねん 12月12日 にち には、おじと義理 ぎり の息子 むすこ の間 あいだ に諍 いさか いが起 お こり、ピョトルクフにある議会 ぎかい の王立 おうりつ 裁判所 さいばんしょ に持 も ち込 こ まれている。
国 くに では屋敷 やしき 、とりわけタルノフスキ、テンチンスキ、ヤン・フィルレイ(貴族 きぞく でカルヴァン派 は の活動 かつどう 家 か )、クラクフ司教 しきょう フィリプ・パドニェフスキらの館 かん に滞在 たいざい していた。大臣 だいじん ピョトル・ミシコフスキの支援 しえん のおかげでアウグスト・ジグムント2世 せい の屋敷 やしき に行 い き着 つ いたのは1564年 ねん 頃 ごろ で、そこでは王室 おうしつ 秘書 ひしょ と称 しょう せられていた。ミシュコフスキのおかげでまた教会 きょうかい の受給 じゅきゅう 聖職 せいしょく 、すなわちキチン教区 きょうく (ポズナン 大 だい 聖堂 せいどう の修道院 しゅうどういん 長 ちょう の機能 きのう と結 むす びついている)とズヴォレンの司祭 しさい 館 かん を手 て に入 い れた。
議会 ぎかい が荒 あ れている間 あいだ 王 おう に仕 つか え、政略 せいりゃく に従事 じゅうじ した痕跡 こんせき が作品 さくひん にうかがえる。1567年 ねん には王 おう のラドシュコヴィツ(ミンスク 付近 ふきん )遠征 えんせい (戦争 せんそう 中 ちゅう のロシアに対 たい して武装 ぶそう 示威 じい 行動 こうどう )に随行 ずいこう した。1568年 ねん のモスクワ 遠征 えんせい の準備 じゅんび にかなりの奉仕 ほうし をした。
1572年 ねん までジグムント2世 せい の屋敷 やしき に仕 つか えていた。1569年 ねん 7月 がつ 12日 にち 、折 おり しもポーランドとリトアニア が連合 れんごう したルブリン合同 ごうどう の時 とき であったが、プロイセン公 こう アルブレヒト・フリードリヒがジグムント2世 せい に臣従 しんじゅう の誓約 せいやく を行 おこな ったというポーランド共和 きょうわ 国 こく にとって重要 じゅうよう な出来事 できごと を、コハノフスキは「小 しょう 旗 はた 、あるいはプロシアの誓 ちか い(Proporzec albo Hołd Pruski)」で綴 つづ っている。
ジグムント2世 せい の死後 しご 、(フランス王 おう )アンリ3世 せい の支持 しじ 者 しゃ となり(1573年 ねん に選挙 せんきょ で記名 きめい している)、1574年 ねん のヴァヴェル大 だい 聖堂 せいどう での戴冠 たいかん 式 しき にも参列 さんれつ した。王 おう の逃亡 とうぼう 後 ご 、屋敷 やしき での生活 せいかつ をやめてしまった。
後 のち にステファン・バートリ を支持 しじ はしたものの、もはや王 おう の屋敷 やしき に再 ふたた び戻 もど ることはなかった。選挙 せんきょ 議会 ぎかい に参加 さんか し、王室 おうしつ 書記官 しょきかん ヤン・ザモイスキ の恩恵 おんけい を受 う けた。この頃 ころ 王 おう によって指導 しどう された戦争 せんそう はいくつかの勝利 しょうり の頌歌、また、クシシュトフ・ラジヴィウ・ピョルン 公 おおやけ の戦績 せんせき に寄 よ せられた長 ちょう 詩 し 「モスクワ旅行 りょこう 誌 し (Jezda do Moskwy)」にも関係 かんけい している。
また、タルノフスキ、テンチンスキ、フィルレイ、ラジヴィウといった大 だい 地主 じぬし の屋敷 やしき との関係 かんけい も注目 ちゅうもく に値 あたい する。
ズヴォレンの教会 きょうかい にあるコハノフスキ家 か の墓碑銘 ぼひめい 。中央 ちゅうおう にヤンの墓標 ぼひょう 、左 ひだり に両親 りょうしん の墓碑 ぼひ がある。
1576年 ねん 、ドロタ・ポドロドフスカと結婚 けっこん した。プシティク出身 しゅっしん で紋章 もんしょう はヤニーナ、サンドミエシュの裁判所 さいばんしょ 書記官 しょきかん の娘 むすめ で、彼女 かのじょ から6人 にん の娘 むすめ と1人 ひとり の息子 むすこ をもうけた。チャルノラスでは地主 じぬし 暮 く らしをしていた。1575年 ねん 7月 がつ 、ステンジツァ(Stężyca)のシュラフタの大会 たいかい に参加 さんか し、新 しん 君主 くんしゅ の選出 せんしゅつ について討議 とうぎ した。この年 とし の11月、ワルシャワでの選挙 せんきょ 議会 ぎかい では、ポーランドの王位 おうい に立候補 りっこうほ したハプスブルク家 か のマクシミリアン2世 せい を持 も ち上 あ げる演説 えんぜつ を行 おこな った。
この時期 じき に戯曲 ぎきょく 「ギリシャ使節 しせつ の辞去 じきょ 」が、そしてそれに次 つ いで「ダヴィドの詩編 しへん 」の優 すぐ れた翻訳 ほんやく (1579年 ねん )が生 う まれている。愛娘 まなむすめ ウルスラを失 うしな って1579年 ねん に書 か かれた「悲歌 ひか 集 しゅう 」(19の悲歌 ひか からなる)によって最 もっと も人々 ひとびと の記憶 きおく するところとなった。これは子 こ を失 うしな った彼 かれ の悲 かな しみと絶望 ぜつぼう の言葉 ことば だったのである。
1583年 ねん にはクシシュトフ・ラジヴィウ・ピョルンに献呈 けんてい された「モスクワ旅行 りょこう 誌 し 」が書 か かれ、ステファン・バートリによるポーランド・ロシア戦争 せんそう 時 じ におけるロシア深部 しんぶ への彼 かれ の大胆 だいたん な遠征 えんせい を記述 きじゅつ している。
ヤン・コハノフスキは1584年 ねん 、ルブリンで心臓 しんぞう 発作 ほっさ のため亡 な くなった。そこで義弟 ぎてい ヤクバ・ポドロドフスキの殺害 さつがい の件 けん について王 おう に告訴 こくそ 状 じょう を提出 ていしゅつ するところであった。9月20日 にち 、おそらく拝謁 はいえつ 後 ご すぐに(あるいは拝謁 はいえつ 中 ちゅう に)気分 きぶん が悪 わる くなり、2日 にち 後 ご に亡 な くなった。ズヴォレンの十字架 じゅうじか 称賛 しょうさん 教会 きょうかい (Kościół pw. Podwyższenia Krzyża Świętego)に埋葬 まいそう された。17世紀 せいき 初 はじ めに詩人 しじん の家族 かぞく がコハノフスキの胸 むね 像 ぞう とともに墓碑 ぼひ を据 す えた。
詩人 しじん の突然 とつぜん の死 し を契機 けいき として彼 かれ を称賛 しょうさん する数多 すうた の文学 ぶんがく 作品 さくひん が出版 しゅっぱん された。アンジェイ・トゥシェチェスキ(ポーランド語 ご の聖書 せいしょ 翻訳 ほんやく で知 し られる)の作品 さくひん や、セバスティアン・ファビアン・クロノヴィツの13の悲歌 ひか のサイクル、スタニスワフ・ニェゴシェフスキの詩 し その他 た 大勢 おおぜい の人 ひと によるものであった。1584年 ねん に年代 ねんだい 記 き 作者 さくしゃ のヨアヒム・ビェルスキがこう書 か いている。「コルヴィン紋章 もんしょう のヤン・コハノフスキは死 し んだ。このようなポーランドの詩人 しじん は、ポーランドにもはやおらず、再来 さいらい することも期待 きたい できない」と書 か いている。
1791年 ねん 4月 がつ 29日 にち 、歴史 れきし 家 か タデウシュ・チャツキは棺 かん から頭蓋 とうがい を取 と り出 だ し、その後 ご 数 すう 年 ねん の間 あいだ ポリツク(現 げん ウクライナ 領 りょう パヴリフカ)に自分 じぶん の資産 しさん として保管 ほかん していた。1796年 ねん 11月4日 にち 、それをイザベラ・チャルトリスカ 公爵 こうしゃく 夫人 ふじん に譲渡 じょうと し、イザベラは当時 とうじ プワヴィに設立 せつりつ されつつあった美術館 びじゅつかん の蒐集 しゅうしゅう 品 ひん の中 なか に加 くわ えた。11月蜂起 ほうき で没落 ぼつらく した後 のち 、頭蓋 とうがい はパリへ運 はこ ばれ、サン=ルイ島 とう のランベール邸 てい に保管 ほかん された。現在 げんざい ではクラクフのチャルトリスキ美術館 びじゅつかん にあるが、これは1874年 ねん 以降 いこう に持 も ち込 こ まれたものである。しかしながら古人 こじん 類 るい 学者 がくしゃ によればこれはほぼ間違 まちが いなく女性 じょせい の頭蓋 とうがい だというのである。百 ひゃく 歩 ほ 譲 ゆず って男性 だんせい のものであったとしても、ズヴォレンにある胸像 きょうぞう とはあまりにも顔立 かおだ ちが違 ちが いすぎるという。2010年 ねん に考古学 こうこがく 的 てき 調査 ちょうさ とコンピュータによる復 ふく 顔 がお によって証明 しょうめい されたのは、本当 ほんとう にコハノフスキの頭蓋 とうがい は40歳 さい ほどの女性 じょせい の頭蓋 とうがい であり、詩人 しじん の妻 つま のものであるかもしれないということであった。
1830年 ねん にズヴォレンの教区 きょうく 司祭 しさい が霊 れい 安 やす 所 しょ からコハノフスキ一家 いっか の棺 かん をすべて取 と り除 のぞ き、教会 きょうかい 建物 たてもの の近 ちか くにある家族 かぞく 用 よう の集団 しゅうだん 墓地 ぼち に運 はこ んでいる。1983年 ねん に霊 れい 安 やす 所 しょ 、正確 せいかく には建物 たてもの の地下 ちか にある修復 しゅうふく された霊 れい 安 やす 所 しょ の大理石 だいりせき の石棺 せっかん に戻 もど されている。1984年 ねん 4月 がつ 21日 にち 、コハノフスキの追 おい 葬 そう 記念 きねん 式 しき が行 おこな われた。
中世 ちゅうせい ポーランド語 ご の学者 がくしゃ が口 くち をそろえて強調 きょうちょう しているのは、ヤン・コハノフスキの作品 さくひん の言葉 ことば は技術 ぎじゅつ 的 てき においてもモダンさにおいても、そしてまた定 さだ められた修辞 しゅうじ の使用 しよう を意識 いしき する点 てん においても、16世紀 せいき の他 ほか の作家 さっか 達 たち に立 た ちまさっているということである。例 たと えばミコワイ・レイ (コハノフスキより少 すこ し前 まえ の世代 せだい の詩人 しじん 。そこまで語法 ごほう 的 てき に保守 ほしゅ 的 てき ではない)の言葉 ことば と比 くら べて新 しん 時代 じだい 的 てき であり、コハノフスキの多 おお くの詩 し 、小品 しょうひん 、悲歌 ひか が今日 きょう でも大 たい して苦労 くろう もなく読 よ まれていることからもわかる。なぜなら古 ふる い文法 ぶんぽう が欠 か けていて(例 たと えば著者 ちょしゃ は当時 とうじ 新 あたら しい文法 ぶんぽう である語尾 ごび -achを男性 だんせい ・中性 ちゅうせい 単数 たんすう の名詞 めいし の前 ぜん 置 おけ 格 かく に用 もち いている)、双 そう 数 すう 形 かたち の使用 しよう は控 ひか えめにしており、辞書 じしょ にあるような古風 こふう な表現 ひょうげん もさほど多 おお くない。
ヤン・コハノフスキは文体 ぶんたい を種類 しゅるい やテーマによって異 こと ならせている。詩 し 、悲歌 ひか においては高尚 こうしょう なスタイルであるが、その一方 いっぽう で小品 しょうひん では「わかりやすいスタイル」(つまり当時 とうじ の口語 こうご の要素 ようそ を伴 ともな っていること)を志向 しこう している。
言語 げんご 研究 けんきゅう 者 しゃ がまた強調 きょうちょう するのは、コハノフスキの言語 げんご と文体 ぶんたい はポーランドの文語 ぶんご の発展 はってん に大 おお いに影響 えいきょう を与 あた えたことである。18世紀 せいき 末 まつ に至 いた るまでの後 のち の作家 さっか が彼 かれ を模範 もはん としている。18世紀 せいき 終 お わりにでさえイグナツィ・クラシツキ が詩 し 「ポドストリ氏 し 」の中 なか で自分 じぶん の書斎 しょさい をコハノフスキの作品 さくひん が占 し めていることが自慢 じまん だと書 か いている。アダム・ナルシャヴィツ (18世紀 せいき の詩人 しじん ・歴史 れきし 家 か )はコハノフスキからいくつかのモチーフ、主題 しゅだい 、そして語彙 ごい すらも引 ひ き継 つ いでいる。ザクセン選 せん 帝 みかど 侯 こう 時代 じだい (アウグスト2世 せい と3世 せい の統治 とうち していた1697年 ねん から1763年 ねん にかけての間 あいだ )にはなおざりにされてきたポーランド語 ご が、啓蒙 けいもう 時代 じだい になって美 うつく しく正 ただ しくあることが求 もと められた時 とき になって、コハノフスキの言葉 ことば は顧 かえり みられるようになった。
DO ANAKREONTA. Anakreon zdrajca stary,
Niemasz w swym łotrostwie miary.
Wszytko[1] pijesz, a miłujesz,
I mnie przy sobie zepsujesz.
Już cię moje strony[2] znają,
I na biesiadach śpiewają,
Dobra myśl nigdy bez ciebie.
A tak, słyszyszli co w niebie,
Śmiej się: bo twe imię dawne
I dziś między ludźmi sławne.
— アナクレオンへ、Wikisource
主要 しゅよう な作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
「クレトコフスキの墓碑銘 ぼひめい (Epitaphium Cretcovii)」 (1558年 ねん )
「スザンナ(Zuzanna)」(1562年 ねん )
『チェス (英語 えいご 版 ばん ) 』(Szachy ; 1562年 ねん から1566年 ねん にかけて)
「サテュロス 、または野蛮 やばん 人 じん (Satyr albo Dziki mąż)」(1564年 ねん )
『ギリシャ使節 しせつ の辞去 じきょ (英語 えいご 版 ばん ) 』(Odprawa posłów greckich ; 1578年 ねん ) - 古典 こてん 悲劇 ひげき 、ワルシャワで初 はじ めて印刷 いんさつ された本 ほん 。
「ダヴィド の詩編 しへん (Psałterz Dawidów)」(1579年 ねん )– 旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ の詩編 しへん の自由 じゆう な翻訳 ほんやく 。
「悲歌 ひか (Treny)」(1580年 ねん )
「小品 しょうひん 集 しゅう (Fraszki)」(1584年 ねん )
「二 に 巻 かん の詩 し (Pieśni księgi dwoje)」 (1586年 ねん 、遺作 いさく ) - ホラティウス の「歌 うた 」選集 せんしゅう にちなんだ巻 まき
「占 うらな い師 し 」(1587年 ねん )
「論文 ろんぶん 『深酒 ふかざけ は人間 にんげん にとってみっともない、あるいは美 うつく しくないことであるということ(Iż pijaństwo jest rzecz sprosna a nieprzystojna człowiekowi)」(1589年 ねん )
「挽歌 ばんか (Elegie)」 - ラテン語 らてんご
「アフォリズム 選集 せんしゅう (zbiór Apoftegmata )
翻訳 ほんやく :アラトス 「現象 げんしょう 」、ホメロス 「イーリアス 」の3つの詩 し 、エウリピデス の悲劇 ひげき 「アルケスティス 」の断片 だんぺん
ポーランド語 ご のもの
Janusz Pelc: Kochanowski. Szczyt renesansu w literaturze polskiej. Warszawa: Wydawnictwo Naukowe PWN, 2001. ISBN 83-01-13133-0 .
Jerzy Ziomek: Renesans. Warszawa: Wydawnictwo Naukowe PWN, 1999. ISBN 83-01-11766-4 .
挽歌 ばんか (関口 せきぐち 時正 ときまさ 訳 わけ 、「ポーランド文学 ぶんがく 古典 こてん 叢書 そうしょ 」未知 みち 谷 だに 、2013年 ねん )
歌 うた とフラシュキ(関口 せきぐち 時正 ときまさ 訳 やく 、「ポーランド文学 ぶんがく 古典 こてん 叢書 そうしょ 」未知 みち 谷 だに 、2022年 ねん )
全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 学術 がくじゅつ データベース芸術 げいじゅつ 家 か 人物 じんぶつ その他 た