ヤン・コハノフスキ

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ヤン・コハノフスキ
Jan Kochanowski
誕生たんじょう 1530ねん??つき??
ポーランドの旗 ポーランドシツィナ英語えいごばん
死没しぼつ (1584-08-22) 1584ねん8がつ22にち(54さいぼつ
ポーランドの旗 ポーランドルブリン
職業しょくぎょう 詩人しじん
国籍こくせき ポーランドの旗 ポーランド
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ヤン・コハノフスキJan Kochanowski1530ねん シツィナ英語えいごばん - 1584ねん8がつ22にち ルブリン)はルネサンス時代じだいポーランド詩人しじん王室おうしつ秘書官ひしょかん折衷せっちゅう主義しゅぎ哲学てつがくストア主義しゅぎエピクロス主義しゅぎ、ルネサンスしんプラトン主義しゅぎ、そして古代こだいキリスト教きりすときょうむすびつけたかみへのふか信心しんじん融合ゆうごう)の代表だいひょうてき人物じんぶつでもある。

コルヴィン英語えいごばん紋章もんしょうシュラフタ階級かいきゅうのコハノフスキだしで、サンドミェシュ英語えいごばん地方ちほう裁判官さいばんかん(Sędzia ziemski)ピョトルをちちに、(おなじくシュラフタの)オドロヴォンシュのアンナ・ビャワチョフスカをははつ。おとうとミコワイもルネサンス詩人しじん一人ひとりであり、おとうとのアンジェイはヴェルギリウスの「アエネーイス」をポーランド翻訳ほんやくしたことでられる。バロックにはおいのピョトルも翻訳ほんやく仕事しごと従事じゅうじした。

出生しゅっしょう[編集へんしゅう]

ヤンの正確せいかく生年月日せいねんがっぴ不明ふめいである。ズヴォレンにあるこの詩人しじん墓碑ぼひに、1584ねん8がつ22にちに54さいぼつとあるため、おそらくは1530ねんまれたものとされている。しかしながら1612ねんかれ伝記でんきでは、「『ギリシャ使節しせつ辞去じきょ』の作者さくしゃは1532ねんにシツィナ(Sycyna)でまれた」としている。いでスタニスワフ・ニェゴシェフスキの1584ねん作品さくひん「ピョトル・ミスコフスキのために~ヤン・コハノフスキのエピグラム~」ではコハノフスキが42さいぼっしたと公表こうひょうしている。20世紀せいきのポーランド文学ぶんがく学者がくしゃヤヌシュ・ペルツが2001ねん刊行かんこうした『コハノフスキ、ポーランド文学ぶんがくにおけるルネサンスの頂点ちょうてん』によればこれらのなかもっと確実かくじつなのは1530ねんであるという。

ヤンのちちはピョトル・コハノフスキはそこそこ裕福ゆうふく地主じぬしであり、ラドム初代しょだい執達吏しったつり(komornik)をつとめ、のちにサンドミェシュの地方ちほう裁判官さいばんかんとなった。詩人しじんははアンナ・ビャワチョフスカはルネサンスの人文じんぶん学者がくしゃウカシュ・グルニツキの「ポーランドの宮内くないかん」のなかきはあるがはなは身持みもちのよくない女性じょせいとしてえがかれている。兄弟きょうだいにはカスペル、ピョトル、ミコワイ、アンジェイ、ヤクプ、スタニスワフ、そして姉妹しまいにはカタジナ、エルジュビエタ、アンナ、ヤドヴィガがおり、腹違はらちがいの兄弟きょうだいちちにはアンナのまえつまがおり、ヤン・ザサダのむすめでゾフィアといった)ドルズヤンナとスタニスワフがいた。ちちピョトルは1547ねんぼっしている。

両親りょうしんいえたか知性ちせい水準すいじゅん支配しはいしていたことはただにヤン・コハノフスキのみならずミコワイやアンジェイといったおとうとたちまでもが文学ぶんがく興味きょうみしめしたという事実じじつ影響えいきょうしたことは確実かくじつである。このてんでコハノフスキ近隣きんりんのシュラフタ階級かいきゅう背景はいけいことにしていた。

教育きょういく旅行りょこう[編集へんしゅう]

りのシナノキのしたのヤン・コハノフスキ。19世紀せいき図版ずはんより
ヤン・マテイコ、「(愛娘まなむすめ)ウルスラの遺骸いがいせっするコハノフスキ」

ヤンの初等しょとう教育きょういくかんする情報じょうほう残存ざんそんしていない。このテーマについての最初さいしょ言及げんきゅうがなされるのは1544ねんである。かれ姓名せいめいヤギェウォ大学だいがくクラクフ)の新入生しんにゅうせい名簿めいぼ署名しょめいされている(ヤンは当時とうじおそらく14さいであった)。研究けんきゅうしゃ推測すいそくするに、おそくとも1547ねんには学芸がくげい学部がくぶ学位がくいることなしにはなれている。学業がくぎょうをやめようと決心けっしんしたことには2つの原因げんいんかんがえられる。1つは伝染でんせんびょう蔓延まんえんによる1547ねん6がつ12にち講義こうぎ延期えんき、そしてもう1つは父親ちちおや健康けんこう状態じょうたいにまつわるわるらせ(上述じょうじゅつとおちちはついにこのとしぼっすることになる。日付ひづけさだかではないが、4がつ18にちから10がつ14にちまでのあいだであろうと推測すいそくされる)によるものである。

1547ねんから1550ねんあいだどこかドイツの大学だいがくまなんでいたか、だい貴族きぞく邸宅ていたくひとつにせていたようである。1551ねんから1552ねんにかけて、ケーニヒスベルク現在げんざいのカリーニングラード、ポーランドめいクルレヴィエツ)のアルベルトゥス大学だいがくまなんだ。しょうセネカの「悲劇ひげきしゅう」の版本はんぽんに2箇所かしょみがあったことが、将来しょうらい詩人しじんとなるコハノフスキがここにいたことの唯一ゆいいつ証拠しょうこである。かれ最初さいしょ手書てがきは作品さくひんはじめに位置いちし、はつ詩人しじんとしての試作しさくラテン語らてんごよんぎょう)であり、友人ゆうじんスタニスワフ・グジェプスキ(のヤギェウォ大学だいがく教授きょうじゅ幾何きかがく教科書きょうかしょいたことでられる)への献呈けんてい役割やくわりたしている。コハノフスキはイニシャル「I.K.」と署名しょめいし、おくさきにはしたに1552ねん4がつ9にちしるしている。2箇所かしょみは「悲劇ひげきしゅう」の版本はんぽん最後さいごさつにあり、そのみの略語りゃくご暗号あんごうくのは容易よういではないが、おそらくコハノフスキとグジェプスキのあいだ了解りょうかいられる符牒ふちょうであろう。版本はんぽんワルシャワ国民こくみん図書館としょかんにある。 ラテン語らてんごでの記念きねん献呈けんていぶん友人ゆうじんとのわかれの言葉ことばイタリアへの旅行りょこう予告よこくであった。1552ねん将来しょうらい詩人しじんパドヴァ(コハノフスキのった学生がくせい名簿めいぼ残存ざんそんしている)にたどりついた。最初さいしょころパドヴァ大学だいがく学芸がくげい学部がくぶで(1554ねん7がつにはポーランドの大学だいがく合同ごうどう相談役そうだんやくとなり、独立どくりつ論争ろんそうについてドイツまずしい学生がくせいたちとはなっている)それは1555ねんまでつづいた。そのころコハノフスキは学業がくぎょう中断ちゅうだんし、ヤン・クシシュトフ・タルノフスキ(シュラフタ)と友人ゆうじんミコワイ・ミェレツキ(シュラフタ、軍人ぐんじん政治せいじ)をともなってローマナポリ旅行りょこうかけ、いでポーランドに帰還きかんした。この学業がくぎょう中断ちゅうだん理由りゆうとしては、コハノフスキに財政ざいせいてき問題もんだいしょうじ、メセナさがもとめる必要ひつようしょうじたことがある。

1555ねんから1556ねんにかけてふたたびケーニヒスベルクでプロイセンこうアルブレヒト・ホーエンツォレルン屋敷やしき滞在たいざいした。アルブレヒトはヤギェウォ系統けいとう人間にんげんであり、ははがポーランドのジグムント1せいむすめであったえんもあり、ポーランドの詩人しじんのメセナであったようである。またかれ自身じしんみずか総長そうちょうとしてひきいていたドイツ騎士きしだん解散かいさんルター改宗かいしゅうたうえで1525ねん伯父おじのジグムント1せい臣従しんじゅうプロイセン公国こうこく宗教しゅうきょうてき寛容かんようであったポーランド王国おうこく臣下しんかでもあった。保守ほしゅてき屋敷やしき会計かいけいがかり態度たいどのせいで1555ねんにはコハノフスキに報酬ほうしゅう支払しはらわれることはなかったが、1556ねんにはすでに50グジヴィエン(四半期しはんきに12.5グジヴィエン、1グジヴィエンとは当時とうじ単位たんいはんポンドであり、現在げんざいでいうおよそ200gである)をっていた。庇護ひごしゃてた詩人しじん手紙てがみもまたのこっている。そのなかでも1556ねん4がつ6にちけの手紙てがみでは、アルブレヒトに、びょう進行しんこう理由りゆうにイタリアに旅立たびだち、そこで大学だいがくもどりたいとねがっているとなみだながらにけている。プロイセンこうは4がつ15にちけの返信へんしんでこれに同意どういし、詩人しじん餞別せんべつとしてさらに50グジヴィエンおくった。

旅行りょこう費用ひよう追加ついか援助えんじょるために、コハノフスキはケーニヒスベルクから実家じっかおもむいた。1556ねん7がつ16にち、イタリア旅行りょこうからすでに帰還きかんしたかれはラドムぐんで、遠縁とおえんのミコワイ・コハノフスキから両親りょうしん土地とち担保たんぽ合計ごうけい70ポーランド・フローレンをりたことを宣言せんげんしている。つづく1557ねん3がつ11にちにはおとうとのピョトルからの100ハンガリー・ドゥカーテンの借用しゃくよう証書しょうしょ裁判所さいばんしょ提出ていしゅつしている。

イタリア旅行りょこうへはピョトル・クウォチョフスキ(のザヴィホスト城主じょうしゅ)と同伴どうはんかけた。詩人しじんはおそらくパドヴァ近郊きんこうにあるアーバノ・テルメ温泉おんせん保養ほようとしてられる)をおとずれていたとみられる。イタリア滞在たいざいは1557ねん2がつまでつづいた。コハノフスキはははらせをけて実家じっかほうもどった。

詩人しじん最後さいごのイタリア旅行りょこう1558ねんふゆのことであった。このとしわりころフランス出立しゅったつした。このくに旅行りょこうしたという唯一ゆいいつ残存ざんそんした証拠しょうこ詩人しじん手紙てがみ形式けいしきかれたエレジーである。読者どくしゃはおそらくこれによって、詩人しじんマルセイユパリにいたこと、このくに南西なんせいにあるアキテーヌおとずれたことをることができる。またロワールがわローヌがわセーヌがわている。コハノフスキのフランス旅行りょこうをガイドしたのはおそらくフラマンの人文じんぶん主義しゅぎしゃカレル・ウテンホーフェ(Karel Utenhove、息子むすこほう)であった。1559ねん5がつをもってポーランドにもどり、永住えいじゅうした。

屋敷やしきでの活動かつどう[編集へんしゅう]

ヤギェウォ大学だいがくのコレギウム・ノヴムにあるステンドグラスにえがかれたコハノフスキ
1571ねんのコハノフスキの自筆じひつメモ

コハノフスキの生涯しょうがいにおいて、1559ねんから1563ねんにかけては不明瞭ふめいりょうなところがおおい。所蔵しょぞうされている法的ほうてき文書ぶんしょもとづいてつきとめることができるのは、1559ねん7がつ11にち詩人しじん両親りょうしん遺産いさん兄弟きょうだいとのあいだ分割ぶんかつされたということである。ヤン・コハノフスキがいだのはチャルノラス(Czarnolas)の半分はんぶん、ルダ(Ruda)、製粉せいふんしょ、いわゆるグロツカかわ沿いのさかなおよびその付属ふぞくぶつであった。チャルノラスのもう半分はんぶんはおじにあたるフィリップがった。一方いっぽう兄弟きょうだいたちはポーランド通貨つうかで400フローレンもの補償ほしょうきん詩人しじん支払しはらわせた。1560ねん3がつ25にち、フィリップとヤンのあいだ協定きょうていわされ、相続そうぞくした所有しょゆう合計ごうけい400フローレンで眷属けんぞく賃貸ちんがしすることとなった。った金銭きんせん兄弟きょうだいへの負債ふさい支弁しべんした。1562ねん12月12にちには、おじと義理ぎり息子むすこあいだいさかいがこり、ピョトルクフにある議会ぎかい王立おうりつ裁判所さいばんしょまれている。

くにでは屋敷やしき、とりわけタルノフスキ、テンチンスキ、ヤン・フィルレイ(貴族きぞくでカルヴァン活動かつどう)、クラクフ司教しきょうフィリプ・パドニェフスキらのかん滞在たいざいしていた。大臣だいじんピョトル・ミシコフスキの支援しえんのおかげでアウグスト・ジグムント2せい屋敷やしきいたのは1564ねんごろで、そこでは王室おうしつ秘書ひしょしょうせられていた。ミシュコフスキのおかげでまた教会きょうかい受給じゅきゅう聖職せいしょく、すなわちキチン教区きょうくポズナンだい聖堂せいどう修道院しゅうどういんちょう機能きのうむすびついている)とズヴォレンの司祭しさいかんれた。

議会ぎかいれているあいだおうつかえ、政略せいりゃく従事じゅうじした痕跡こんせき作品さくひんにうかがえる。1567ねんにはおうのラドシュコヴィツ(ミンスク付近ふきん遠征えんせい戦争せんそうちゅうのロシアにたいして武装ぶそう示威じい行動こうどう)に随行ずいこうした。1568ねんモスクワ遠征えんせい準備じゅんびにかなりの奉仕ほうしをした。

1572ねんまでジグムント2せい屋敷やしきつかえていた。1569ねん7がつ12にちおりしもポーランドとリトアニア連合れんごうしたルブリン合同ごうどうときであったが、プロイセンこうアルブレヒト・フリードリヒがジグムント2せい臣従しんじゅう誓約せいやくおこなったというポーランド共和きょうわこくにとって重要じゅうよう出来事できごとを、コハノフスキは「しょうはた、あるいはプロシアのちかい(Proporzec albo Hołd Pruski)」でつづっている。

ジグムント2せい死後しご、(フランスおうアンリ3せい支持しじしゃとなり(1573ねん選挙せんきょ記名きめいしている)、1574ねんヴァヴェルだい聖堂せいどうでの戴冠たいかんしきにも参列さんれつした。おう逃亡とうぼう屋敷やしきでの生活せいかつをやめてしまった。

のちステファン・バートリ支持しじはしたものの、もはやおう屋敷やしきふたたもどることはなかった。選挙せんきょ議会ぎかい参加さんかし、王室おうしつ書記官しょきかんヤン・ザモイスキ恩恵おんけいけた。このころおうによって指導しどうされた戦争せんそうはいくつかの勝利しょうりの頌歌、また、クシシュトフ・ラジヴィウ・ピョルンおおやけ戦績せんせきせられたちょう「モスクワ旅行りょこう(Jezda do Moskwy)」にも関係かんけいしている。

また、タルノフスキ、テンチンスキ、フィルレイ、ラジヴィウといっただい地主じぬし屋敷やしきとの関係かんけい注目ちゅうもくあたいする。

チャルノラス[編集へんしゅう]

ズヴォレンの教会きょうかいにあるコハノフスキ墓碑銘ぼひめい中央ちゅうおうにヤンの墓標ぼひょうひだり両親りょうしん墓碑ぼひがある。

1576ねん、ドロタ・ポドロドフスカと結婚けっこんした。プシティク出身しゅっしん紋章もんしょうはヤニーナ、サンドミエシュの裁判所さいばんしょ書記官しょきかんむすめで、彼女かのじょから6にんむすめ1人ひとり息子むすこをもうけた。チャルノラスでは地主じぬしらしをしていた。1575ねん7がつ、ステンジツァ(Stężyca)のシュラフタの大会たいかい参加さんかし、しん君主くんしゅ選出せんしゅつについて討議とうぎした。このとしの11月、ワルシャワでの選挙せんきょ議会ぎかいでは、ポーランドの王位おうい立候補りっこうほしたハプスブルクマクシミリアン2せいげる演説えんぜつおこなった。

この時期じき戯曲ぎきょく「ギリシャ使節しせつ辞去じきょ」が、そしてそれにいで「ダヴィドの詩編しへん」のすぐれた翻訳ほんやく1579ねん)がまれている。愛娘まなむすめウルスラをうしなって1579ねんかれた「悲歌ひかしゅう」(19の悲歌ひかからなる)によってもっと人々ひとびと記憶きおくするところとなった。これはうしなったかれかなしみと絶望ぜつぼう言葉ことばだったのである。

1583ねんにはクシシュトフ・ラジヴィウ・ピョルンに献呈けんていされた「モスクワ旅行りょこう」がかれ、ステファン・バートリによるポーランド・ロシア戦争せんそうにおけるロシア深部しんぶへのかれ大胆だいたん遠征えんせい記述きじゅつしている。

ヤン・コハノフスキは1584ねん、ルブリンで心臓しんぞう発作ほっさのためくなった。そこで義弟ぎていヤクバ・ポドロドフスキの殺害さつがいけんについておう告訴こくそじょう提出ていしゅつするところであった。9月20にち、おそらく拝謁はいえつすぐに(あるいは拝謁はいえつちゅうに)気分きぶんわるくなり、2にちくなった。ズヴォレンの十字架じゅうじか称賛しょうさん教会きょうかい(Kościół pw. Podwyższenia Krzyża Świętego)に埋葬まいそうされた。17世紀せいきはじめに詩人しじん家族かぞくがコハノフスキのむねぞうとともに墓碑ぼひえた。

詩人しじん突然とつぜん契機けいきとしてかれ称賛しょうさんする数多すうた文学ぶんがく作品さくひん出版しゅっぱんされた。アンジェイ・トゥシェチェスキ(ポーランド聖書せいしょ翻訳ほんやくられる)の作品さくひんや、セバスティアン・ファビアン・クロノヴィツの13の悲歌ひかのサイクル、スタニスワフ・ニェゴシェフスキのその大勢おおぜいひとによるものであった。1584ねん年代ねんだい作者さくしゃのヨアヒム・ビェルスキがこういている。「コルヴィン紋章もんしょうのヤン・コハノフスキはんだ。このようなポーランドの詩人しじんは、ポーランドにもはやおらず、再来さいらいすることも期待きたいできない」といている。

遺物いぶつ運命うんめい[編集へんしゅう]

1791ねん4がつ29にち歴史れきしタデウシュ・チャツキはかんから頭蓋とうがいし、そのすうねんあいだポリツク(げんウクライナりょうパヴリフカ)に自分じぶん資産しさんとして保管ほかんしていた。1796ねん11月4にち、それをイザベラ・チャルトリスカ公爵こうしゃく夫人ふじん譲渡じょうとし、イザベラは当時とうじプワヴィに設立せつりつされつつあった美術館びじゅつかん蒐集しゅうしゅうひんなかくわえた。11月蜂起ほうき没落ぼつらくしたのち頭蓋とうがいはパリへはこばれ、サン=ルイとうのランベールてい保管ほかんされた。現在げんざいではクラクフのチャルトリスキ美術館びじゅつかんにあるが、これは1874ねん以降いこうまれたものである。しかしながら古人こじんるい学者がくしゃによればこれはほぼ間違まちがいなく女性じょせい頭蓋とうがいだというのである。ひゃくゆずって男性だんせいのものであったとしても、ズヴォレンにある胸像きょうぞうとはあまりにも顔立かおだちがちがいすぎるという。2010ねん考古学こうこがくてき調査ちょうさとコンピュータによるふくがおによって証明しょうめいされたのは、本当ほんとうにコハノフスキの頭蓋とうがいは40さいほどの女性じょせい頭蓋とうがいであり、詩人しじんつまのものであるかもしれないということであった。

1830ねんにズヴォレンの教区きょうく司祭しさいれいやすしょからコハノフスキ一家いっかかんをすべてのぞき、教会きょうかい建物たてものちかくにある家族かぞくよう集団しゅうだん墓地ぼちはこんでいる。1983ねんれいやすしょ正確せいかくには建物たてもの地下ちかにある修復しゅうふくされたれいやすしょ大理石だいりせき石棺せっかんもどされている。1984ねん4がつ21にち、コハノフスキのおいそう記念きねんしきおこなわれた。

語法ごほう[編集へんしゅう]

中世ちゅうせいポーランド学者がくしゃくちをそろえて強調きょうちょうしているのは、ヤン・コハノフスキの作品さくひん言葉ことば技術ぎじゅつてきにおいてもモダンさにおいても、そしてまたさだめられた修辞しゅうじ使用しよう意識いしきするてんにおいても、16世紀せいきほか作家さっかたちちまさっているということである。たとえばミコワイ・レイ(コハノフスキよりすこまえ世代せだい詩人しじん。そこまで語法ごほうてき保守ほしゅてきではない)の言葉ことばくらべてしん時代じだいてきであり、コハノフスキのおおくの小品しょうひん悲歌ひか今日きょうでもたいして苦労くろうもなくまれていることからもわかる。なぜならふる文法ぶんぽうけていて(たとえば著者ちょしゃ当時とうじあたらしい文法ぶんぽうである語尾ごび-achを男性だんせい中性ちゅうせい単数たんすう名詞めいしぜんおけかくもちいている)、そうすうかたち使用しようひかえめにしており、辞書じしょにあるような古風こふう表現ひょうげんもさほどおおくない。

ヤン・コハノフスキは文体ぶんたい種類しゅるいやテーマによってことならせている。悲歌ひかにおいては高尚こうしょうなスタイルであるが、その一方いっぽう小品しょうひんでは「わかりやすいスタイル」(つまり当時とうじ口語こうご要素ようそともなっていること)を志向しこうしている。

言語げんご研究けんきゅうしゃがまた強調きょうちょうするのは、コハノフスキの言語げんご文体ぶんたいはポーランドの文語ぶんご発展はってんおおいに影響えいきょうあたえたことである。18世紀せいきまついたるまでののち作家さっかかれ模範もはんとしている。18世紀せいきわりにでさえイグナツィ・クラシツキ「ポドストリ」のなか自分じぶん書斎しょさいをコハノフスキの作品さくひんめていることが自慢じまんだといている。アダム・ナルシャヴィツ(18世紀せいき詩人しじん歴史れきし)はコハノフスキからいくつかのモチーフ、主題しゅだい、そして語彙ごいすらもいでいる。ザクセンせんみかどこう時代じだい(アウグスト2せいと3せい統治とうちしていた1697ねんから1763ねんにかけてのあいだ)にはなおざりにされてきたポーランドが、啓蒙けいもう時代じだいになってうつくしくただしくあることがもとめられたときになって、コハノフスキの言葉ことばかえりみられるようになった。

引用いんよう[編集へんしゅう]

DO ANAKREONTA.
 Anakreon zdrajca stary,


Niemasz w swym łotrostwie miary.

Wszytko[1] pijesz, a miłujesz,

I mnie przy sobie zepsujesz.

Już cię moje strony[2] znają,

I na biesiadach śpiewają,

Dobra myśl nigdy bez ciebie.

A tak, słyszyszli co w niebie,

Śmiej się: bo twe imię dawne

I dziś między ludźmi sławne.

— アナクレオンへ、Wikisource

主要しゅよう作品さくひん[編集へんしゅう]

  • 「クレトコフスキの墓碑銘ぼひめい(Epitaphium Cretcovii)」 (1558ねん
  • 「スザンナ(Zuzanna)」(1562ねん
  • チェス英語えいごばん』(Szachy; 1562ねんから1566ねんにかけて)
  • サテュロス、または野蛮やばんじん(Satyr albo Dziki mąż)」(1564ねん
  • ギリシャ使節しせつ辞去じきょ英語えいごばん』(Odprawa posłów greckich; 1578ねん) - 古典こてん悲劇ひげき、ワルシャワではじめて印刷いんさつされたほん
  • ダヴィド詩編しへん(Psałterz Dawidów)」(1579ねん)– 旧約きゅうやく聖書せいしょ詩編しへん自由じゆう翻訳ほんやく
  • 悲歌ひか(Treny)」(1580ねん
  • 小品しょうひんしゅう(Fraszki)」(1584ねん
  • かん(Pieśni księgi dwoje)」 (1586ねん遺作いさく) - ホラティウスの「うた選集せんしゅうにちなんだまき
  • うらな」(1587ねん
  • 論文ろんぶん深酒ふかざけ人間にんげんにとってみっともない、あるいはうつくしくないことであるということ(Iż pijaństwo jest rzecz sprosna a nieprzystojna człowiekowi)」(1589ねん
  • 挽歌ばんか(Elegie)」 - ラテン語らてんご
  • アフォリズム選集せんしゅう(zbiór Apoftegmata
  • 翻訳ほんやくアラトス現象げんしょう」、ホメロスイーリアス」の3つのエウリピデス悲劇ひげきアルケスティス」の断片だんぺん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

ポーランドのもの

  • Janusz Pelc: Kochanowski. Szczyt renesansu w literaturze polskiej. Warszawa: Wydawnictwo Naukowe PWN, 2001. ISBN 83-01-13133-0.
  • Jerzy Ziomek: Renesans. Warszawa: Wydawnictwo Naukowe PWN, 1999. ISBN 83-01-11766-4.

日本語にほんごやく[編集へんしゅう]

  • 挽歌ばんか関口せきぐち時正ときまさわけ、「ポーランド文学ぶんがく古典こてん叢書そうしょ未知みちだに、2013ねん
  • うたとフラシュキ(関口せきぐち時正ときまさやく、「ポーランド文学ぶんがく古典こてん叢書そうしょ未知みちだに、2022ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]