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リチャード・マーシャル (軍人ぐんじん)

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リチャード・ジャクリーン・マーシャル
Richard Jaquelin Marshall
リチャード・マーシャル(1946ねん
渾名あだな ディック[1]
生誕せいたん 1895ねん6月16にち
バージニアしゅう フォークワイアーぐんマークハム
死没しぼつ (1973-08-03) 1973ねん8がつ3にち(78さいぼつ
フロリダしゅう フォートローダーデール
所属しょぞく組織そしき アメリカ合衆国陸軍の旗 アメリカ陸軍りくぐん
ぐんれき 1915 - 1946
最終さいしゅう階級かいきゅう 陸軍りくぐん少将しょうしょう
戦闘せんとう だいいち世界せかい大戦たいせん
だい世界せかい大戦たいせん
除隊じょたい バージニアぐん学校がっこう校長こうちょう
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リチャード・ジャクリーン・マーシャル(Richard Jaquelin Marshall, 1895ねん6月16にち - 1973ねん8がつ3にち)は、アメリカ陸軍りくぐん軍人ぐんじん最終さいしゅう階級かいきゅう少将しょうしょう

しゅとして需品じゅひん部門ぶもんあゆ[2]だいいち世界せかい大戦たいせんちゅうだい1歩兵ほへい師団しだんぞくしてたたかい、だい世界せかい大戦たいせんでは太平洋たいへいよう戦線せんせん活躍かつやくフィリピン時代じだいからダグラス・マッカーサー陸軍りくぐん元帥げんすい幕僚ばくりょう、いわゆる「バターン・ギャング[注釈ちゅうしゃく 1]一人ひとりとしてつきしたがい、戦争せんそう終結しゅうけつ日本にっぽんにおける占領せんりょう行政ぎょうせいにも短期間たんきかんながらかかわった。

生涯しょうがい

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だいいち大戦たいせん終結しゅうけつまで

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リチャード・ジャクリーン・マーシャルは1895ねん6がつ16にちバージニアしゅうフォークワイアーぐんマークハムに、ちちマリオン・ルイス・マーシャルとははレベッカ・コーク・マーシャルのとしてまれる[3]母方ははかた祖父そふであるリチャード・コーク・マーシャルはだい4だい連邦れんぽう最高さいこう裁判所さいばんしょ長官ちょうかんつとめたジョン・マーシャルまごで、南北戦争なんぼくせんそうではみなみぐん大佐たいさとして従軍じゅうぐんした経験けいけんゆうしていた。また、アメリカ陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょう国務こくむ長官ちょうかんおよび国防こくぼう長官ちょうかん歴任れきにんしたジョージ・マーシャル元帥げんすい遠戚えんせきにあたる[4][5]おとうとには、中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう戦線せんせん活躍かつやくしたサンジュリアン・ラヴェネル・マーシャル海兵かいへいじゅんしょうがいる[6]

成長せいちょうしたマーシャルは、1907ねんから1911ねんまでのあいだノーフォークノーフォーク・アカデミー英語えいごばんまなんだ[7]

1911ねん、マーシャルはバージニアしゅうレキシントンバージニアぐん学校がっこう英語えいごばん入学にゅうがくし、1915ねんに56めいちゅう8番目ばんめ成績せいせきをもって、電気でんき工学こうがく学士がくしごうおさめたうえ卒業そつぎょうした[8]卒業そつぎょうメリーランドしゅうボルチモアにある電力でんりょく会社かいしゃ就職しゅうしょくし、ふく技師ぎしとして勤務きんむすることとなる[9]。ボルチモアでの勤務きんむ一方いっぽうでマーシャルは州兵しゅうへい志願しがんし、だい4メリーランド師団しだんせきく。よく1916ねん6がつ18にち師団しだんはアメリカとメキシコあいだでの国境こっきょう紛争ふんそうアメリカ=メキシコ国境こっきょう戦争せんそう英語えいごばん)に出動しゅつどうすることとなり、マーシャルは中尉ちゅうい任官にんかんして大隊だいたいづけ副官ふっかん任務にんむあたえられた。いで1916ねん8がつ、マーシャルはテキサスしゅうイーグルパス英語えいごばんにて正規せいきぐん英語えいごばんへの編入へんにゅう手続てつづきがおこなわれ、11月にはあらためて野戦やせんほう兵隊へいたい少尉しょうい位置付いちづけられる。1917ねん3がつにはフォート・ブリス英語えいごばん駐屯ちゅうとんだい8野戦やせんほう兵隊へいたい英語えいごばん配属はいぞくされた[3][8]

1917ねん4がつ、アメリカはだいいち世界せかい大戦たいせん参戦さんせん正規せいきぐん規模きぼ拡大かくだいされ、マーシャルのいるだい8野戦やせんほう兵隊へいたいオクラホマしゅうフォート・シル英語えいごばん屯所とんしょうつり、同地どうちだい14野戦やせんほう兵隊へいたい英語えいごばん合同ごうどうする。5月にはいり、マーシャルはアリゾナしゅうダグラス英語えいごばん駐屯ちゅうとんしていた、正規せいきぐんなかでも古参こさんだい6野戦やせんほう兵隊へいたい英語えいごばんうつり、ここでだい1歩兵ほへい師団しだんまれてアメリカぐんヨーロッパ派遣はけん部隊ぶたい英語えいごばんのヨーロッパ戦線せんせんへの進出しんしゅつそなえることとなった。このときだい1歩兵ほへい師団しだんにはリチャード・サザランドがおり、以降いこうしたしくなる[2]

ジョン・パーシング大将たいしょう指揮しきした、ヨーロッパ戦線せんせん進出しんしゅつした派遣はけん部隊ぶたいとともにマーシャルも大西洋たいせいようわたり、ソワソンのたたか英語えいごばん(1918ねん7がつ)、サン・ミッシェルのたたか英語えいごばん(1918ねん9がつ)およびミューズ=アルゴンヌ戦線せんせん英語えいごばん転戦てんせんするが、1918ねん11月1にちにドイツぐん砲撃ほうげきけて負傷ふしょうし、1919ねん3がつまでフランスの陸軍りくぐん病院びょういん療養りょうようすることとなったが、そのあいだ負傷ふしょうから10にち大戦たいせん終結しゅうけつ。マーシャルは大佐たいさ戦時せんじ昇進しょうしんし、だい6野戦やせんほう兵隊へいたい司令しれいかんとなった[3][8]

せんあいだ

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アメリカにもどったマーシャルは、アメリカ陸軍りくぐん需品じゅひん配属はいぞくされる。需品じゅひんでのマーシャルはコロラドしゅうデンバーにフィッツシモンズ病院びょういん建設けんせつし、1924ねんにはジョージアしゅうのフォート・ベニングに勤務きんむ。1926ねんには需品じゅひん学校がっこう入学にゅうがくし、1927ねん卒業そつぎょうしてニュージャージーしゅうのフォート・モンマスにうつった。

1929ねん、マーシャルはフィリピンに派遣はけんされ、スービックわん防衛ぼうえい部隊ぶたい需品じゅひん担当たんとうとなった。コレヒドールとうのフォート・ミルズにきょかまえ、西部せいぶからのマリンタ・トンネル英語えいごばん掘削くっさく工事こうじ担当たんとうした。このトンネルは日本にっぽんぐんのフィリピン攻撃こうげきさい、マッカーサーの指揮しきしょとして活用かつようされた。フィリピンでの任期にんきえて1932ねんにアメリカ本国ほんごくもどり、カンザスしゅうフォート・レブンワースアメリカ陸軍りくぐん指揮しき幕僚ばくりょう大学だいがくワシントンD.C.陸軍りくぐん産業さんぎょう大学だいがくでの受講じゅこう期間きかんを1935ねんえたあと、だい1ぐん勤務きんむて1936ねんにはアメリカ陸軍りくぐんだい学校がっこう勤務きんむとなる。その水上すいじょう輸送ゆそう部隊ぶたい監督かんとくつとめた。

マーシャルはこのせんあいだに、ネル・B・ムターと結婚けっこんする。2人ふたりをもうけたが、リチャード・J・マーシャル・ジュニアはだい世界せかい大戦たいせんなかの1943ねん2がつ2にちくなった。ハリエット・マーシャルはバターン行進こうしんのこりの一人ひとりであるジョン・E・オルソン英語えいごばん結婚けっこんした。しかし、ネルとは1934ねん死別しべつし、1935ねん12月28にちアラバマしゅうモンゴメリーでイザベル・クラムと再婚さいこんする。イザベルは子持こもちであり、義理ぎりむすめドロシーと義理ぎり息子むすこケネス・ロスコー・ラムスを家族かぞくむかれたが、ラムスは1943ねん3がつ28にち死去しきょした[3][5][9]

1939ねん、マーシャルはマッカーサーの要請ようせいにより、ふたたびフィリピンにおもむく。マッカーサーの要請ようせいをマーシャルにつたえたのは旧知きゅうちのサザランドであり、マーシャル自身じしん最初さいしょのフィリピン時代じだいにマッカーサーとはすくなからずかおわせていた[10]だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつした9月にマニラ着任ちゃくにんしたマーシャルは、需品じゅひん部門ぶもん担当たんとうのほかフィリピンぐん幹部かんぶ養成ようせい担当たんとうした[11]当時とうじマッカーサーの参謀さんぼうちょうつとめていたのは、のちの大統領だいとうりょうドワイト・D・アイゼンハワーであったが1939ねんまつ帰国きこくし、その後任こうにんにサザランドが就任しゅうにんすると幕僚ばくりょう次席じせきとなる[2]。1941ねん7がつアメリカ極東きょくとう陸軍りくぐん創設そうせつされると参謀さんぼう次長じちょうとなり[2]、「司令しれいかん:マッカーサー、参謀さんぼうちょう:サザランド、参謀さんぼう次長じちょう:マーシャル」というこのわせは後年こうねん日本にっぽん占領せんりょう時代じだい初期しょきまでくずれることはなかった。10月には一時いちじてき大佐たいさ昇進しょうしんし、また世界せかい情勢じょうせい緊迫きんぱくともなって家族かぞく帰国きこくさせた[2]

太平洋戦争たいへいようせんそう

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1941ねん12月8にち真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきのあと、マーシャルはじゅんしょう昇進しょうしんし、つづ参謀さんぼう次長じちょうにんにあたる。開戦かいせん直後ちょくごから日本にっぽんぐんそらろく極東きょくとう陸軍りくぐん圧迫あっぱくし、マニラは風前ふうぜんともしびとなった。これよりさき、マッカーサーはマニラを無防備むぼうび都市としとしたうえで極東きょくとう陸軍りくぐんバターン半島はんとうとコレヒドールとうこもらせる計画けいかくて、マニュエル・ケソンフィリピン・コモンウェルスもコレヒドールとう移転いてんすることとなった[12]。12月24にちには退去たいきょ完了かんりょうし、12月26にちにはマニラの防備ぼうび都市とし宣言せんげんされた[13]

マーシャルは連絡れんらく輸送ゆそう作業さぎょう督戦とくせんのため、日本にっぽんぐん文字通もじどお指呼しこあいだせまった1942ねん1がつ1にち[注釈ちゅうしゃく 2]までマニラに残留ざんりゅうののちコレヒドールとう脱出だっしゅつ[14]。マーシャルの督戦とくせん甲斐かいあって、マニラのおもだった交通こうつう機関きかんはバターン半島はんとうへの味方みかた部隊ぶたい輸送ゆそう全力ぜんりょくげることができた[14]。1月5にちにはマリベレス英語えいごばんぐん司令しれい建設けんせつ[15]。バターン半島はんとうこめ極東きょくとう陸軍りくぐんとフィリピンぐん日本にっぽんぐん攻勢こうせい完全かんぜんめるほどだい善戦ぜんせんしていたものの、次第しだい余力よりょくてていった。マッカーサーは「英雄えいゆうてき抵抗ていこう[16]気炎きえんげ、指揮しき下部かぶたいとともに運命うんめいともにするつもりでいたが[17]度重たびかさなるワシントンからの指示しじなどもあり、オーストラリアへの脱出だっしゅつ決心けっしんする。

脱出だっしゅつジョン・D・バルクリー海軍かいぐん中尉ちゅうい指揮しきする魚雷ぎょらいていたい使用しようされ、マッカーサーとジーン夫人ふじん息子むすこアーサー、サザランドらがPT-41英語えいごばんに、マーシャルはPT-34フランシス・W・ロックウェル英語えいごばん海軍かいぐん少将しょうしょうらとともにみ、3月11にちよるにコレヒドールとう脱出だっしゅつした[18]いちぎょうは2にちミンダナオ島みんだなおとう到達とうたつして航空機こうくうきえ、3月17にちにオーストラリアのダーウィン到着とうちゃくした[19]

ダーウィンからさき移動いどうは、ジーンが航空機こうくうきでの移動いどう滅入めいっていたため列車れっしゃ使用しようされることとなり[20][21]、またマーシャルはフィリピンへの帰還きかんのための兵力へいりょく物資ぶっし見積みつもりのために先行せんこうした。アデレード到着とうちゃく、マーシャルはマッカーサーの特別とくべつ列車れっしゃけ、いま時点じてんではフィリピン奪還だっかんのための十分じゅうぶん兵力へいりょくがないことをつたえた[1]。この光景こうけいは、1977ねん公開こうかい映画えいがマッカーサー』でも再現さいげんされた。1942ねん4がつ18にち、マッカーサーを最高さいこう司令しれいかんとする南西なんせい太平洋たいへいよう方面ほうめんぐん創設そうせつされ、サザランドやマーシャルら、マッカーサーのフィリピン脱出だっしゅつ英語えいごばん同行どうこうした、いわゆる「バターン・ギャング」の面々めんめんがそのまま方面ほうめんぐん幕僚ばくりょうにコレヒドールとう時代じだい地位ちいのままおさまった[22]。マッカーサーはこののち、ニューギニアのたたかフィリピン帰還きかん達成たっせいするが、そのあいだマーシャルは一貫いっかんして従前じゅうぜんのように参謀さんぼう次長じちょう地位ちいめ、参謀さんぼうちょうのサザランドが所用しょよう不在ふざいとき参謀さんぼうちょう代理だいりとしてぐんナンバー2の仕事しごといた[2]。フィリピン奪還だっかんがおおむねわった1945ねん4がつ3にちづけでマッカーサーは太平洋たいへいよう戦線せんせんぜん陸軍りくぐん部隊ぶたいそう司令しれいかん就任しゅうにんしたが[23]、ナンバー2にサザランド、ナンバー3にマーシャルというかおづけ変化へんかはなかった。

日本にっぽん占領せんりょう

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1945ねん8がつ15にち日本にっぽん降伏ごうぶくし、9月2にち戦艦せんかんミズーリ艦上かんじょう日本にっぽん降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういんしきおこなわれ、マーシャルも出席しゅっせきした。調印ちょういんしき午前ごぜんちゅうであったが、午後ごごはいり、マーシャルは横浜よこはま税関ぜいかん連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれい終戦しゅうせん連絡れんらく事務じむきょく横浜よこはま事務じむ局長きょくちょう鈴木すずききゅうまんし、「三権さんけん連合れんごうぐん支配しはいき、制限せいげん解除かいじょまでは英語えいご公用こうようとする」、「司法しほうけん連合れんごうぐんぞくさせ、違反いはんしゃ軍事ぐんじ裁判さいばんまわされ極刑きょっけいもありうる」、「日本円にほんえん廃止はいしBえん日本にっぽん法定ほうてい通貨つうかとする」の、事実じじつじょう直接ちょくせつ軍政ぐんせい導入どうにゅうすることを示唆しさした3つの条項じょうこう履行りこう要求ようきゅうする、いわゆる「さん布告ふこく」を通告つうこくした[24]重光しげみつまもる外務がいむ大臣だいじん終戦しゅうせん連絡れんらく中央ちゅうおう事務じむきょく長官ちょうかん岡崎おかざき勝男かつおらの再三さいさん要請ようせいで、布告ふこく表現ひょうげん多少たしょうあらためられて直接ちょくせつ軍政ぐんせい一応いちおう撤回てっかいされたが、館山たてやまが9がつ3にちから7にちにかけて軍政ぐんせいかれた。この「さん布告ふこく」をめぐるやりりが、マーシャルの日本にっぽんでの最初さいしょ仕事しごととなった。

もなく連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい(GHQ)組織そしき整備せいびおこなわれ、マッカーサーとサザランドの地位ちい不変ふへんだったが、GHQと南西なんせい太平洋たいへいよう方面ほうめんぐんが「同居どうきょ」していた名残なごり参謀さんぼう次長じちょう役目やくめ二分にぶんされることとなり、マーシャルが南西なんせい太平洋たいへいよう方面ほうめんぐん部門ぶもん参謀さんぼう次長じちょうとなって、GHQ部門ぶもん参謀さんぼう次長じちょうには、オーストラリアからマッカーサー一行いっこうくわわったステファン・チェンバリン英語えいごばん少将しょうしょう就任しゅうにんした[25]。12月にはいり、かねてから不倫ふりん問題もんだいかかえ、健康けんこうもすぐれなかったサザランドが参謀さんぼうちょうしてアメリカに帰国きこくすると、その後任こうにんとしてマーシャルがマッカーサーの参謀さんぼうちょうとなった[2]。しかし、このころにはコートニー・ホイットニーあたらしい世代せだい人物じんぶつ台頭たいとうしてきたこともあって、参謀さんぼうちょうとしてとく目立めだった才幹さいかんをふるう場面ばめんはあまりなかった[26]よく1946ねん5がつ、マーシャルは母校ぼこうであるバージニアぐん学校がっこう校長こうちょうのポジションを打診だしんされ内諾ないだくし、日本にっぽんはなれた[2]

ホイットニーはマーシャルについて、マーシャルはサザランドほど権威けんいがあるわけでもないし積極せっきょくてきなタイプでもなく、むしろ無愛想ぶあいそうではあったが、それがかれ性格せいかくであったと回想かいそうしている[2]

戦後せんご受賞じゅしょうれき

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マーシャルは1946ねん11月30にち少将しょうしょう地位ちい陸軍りくぐん退役たいえきし、以降いこうはバージニアぐん学校がっこうだい7だい校長こうちょうとして1952ねん6がつまでその地位ちいにあった。離任りにんさい、マーシャルはワシントン・アンド・リー大学だいがくから法学ほうがく博士はかせ (LL.D.) の名誉めいよ学位がくい授与じゅよされた。また、ハリー・S・トルーマン大統領だいとうりょうからはフィリピンの経済けいざい調査ちょうさおこなう「ベル・ミッション」担当たんとうの、無任所むにんしょ大臣だいじんてき副官ふっかんにんぜられた。

バージニアぐん学校がっこう校長こうちょうとしての最後さいごとし、マーシャルはバージニアしゅうから様々さまざま便宜べんぎはかられた。だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつ、マーシャルはバージニアぐん学校がっこうから10まんドルから60まんドルほどの基金ききん供与きょうよけ、これを元手もとでに6年間ねんかんれる士官しかん候補こうほせいかずを300めいから950めい拡大かくだいし、軍事ぐんじめんのみならず軍事ぐんじめん教育きょういく充実じゅうじつされた。士官しかん候補こうほせい増加ぞうかともなって教員きょういんかず増加ぞうかし、人員じんいん増加ぞうかともなあらたな兵舎へいしゃ建設けんせつされ、これはマーシャルの在任ざいにんちゅう完成かんせいした。

1952ねん、マーシャルはのう血管けっかん障害しょうがいわずらって公的こうてき活動かつどうからは引退いんたいし、以降いこうはフロリダしゅう引退いんたい生活せいかつごした。1973ねん8がつ3にち、マーシャルはフロリダしゅうフォートローダーテールで死去しきょ[27]。78さいぼつアーリントン国立こくりつ墓地ぼちだい7区画くかく埋葬まいそうされ[7]おなだい7区画くかくにはおとうとのサンジュリアンも埋葬まいそうされている[6]

マーシャルのぐんれきなかにおける受賞じゅしょうれきは、だいいち世界せかい大戦たいせんでの功績こうせきシルバースター授与じゅよされ、だい世界せかい大戦たいせんでは殊勲しゅくんじゅうあきら陸軍りくぐん殊勲しゅくんあきら英語えいごばんおよび2オークリーフ・クラスター英語えいごばんさづけられた[7]。また、フランスからはレジオンドヌール勲章くんしょうオフィシエ、オランダからはオラニエ=ナッサウ勲章くんしょうグランドオフィサー英語えいごばん、フィリピンからは殊勲しゅくん星章せいしょうとオークリーフ・クラスターがそれぞれ授与じゅよされた[7]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ #マンチェスター (うえ) p.318 などでの呼称こしょう。「バターン・ボーイズ」などの呼称こしょうもある(#増田ますだ p.17)。
  2. ^ この未明みめいに、捜索そうさくだい16連隊れんたいがマニラに到達とうたつしている(#増田ますだ p.101)。

出典しゅってん

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  1. ^ a b #マンチェスター (うえ) p.310
  2. ^ a b c d e f g h i #増田ますだ p.23
  3. ^ a b c d VMI Archives”. Virginia Military Institute. 2012ねん11月6にち閲覧えつらん
  4. ^ Marshall Family”. Rootsweb. 2012ねん11月6にち閲覧えつらん
  5. ^ a b #McGill pp.151-152
  6. ^ a b St. Julien Ravenel Marshall”. Arlington National Cemetery Website. 2012ねん11月6にち閲覧えつらん
  7. ^ a b c d Richard Jaquelin Marshall”. Arlington National Cemetery Website. 2012ねん11月6にち閲覧えつらん
  8. ^ a b c “Gen. Marshall, Retired, Lives in Leesburg, Fla.”. The VMI Cadet. (6 March 1959) 
  9. ^ a b #Couper pp.8-9
  10. ^ #増田ますだ p.22
  11. ^ #増田ますだ pp.22-23
  12. ^ #増田ますだ pp.77-78
  13. ^ #増田ますだ pp.81-82, p.84
  14. ^ a b #増田ますだ p.97
  15. ^ #増田ますだ p.97,105
  16. ^ #増田ますだ p.110
  17. ^ #増田ますだ p.139
  18. ^ #増田ますだ p.162,165
  19. ^ #増田ますだ p.187,191,195
  20. ^ #増田ますだ p.193
  21. ^ #マンチェスター (うえ) pp.308-309
  22. ^ #増田ますだ pp.243-244
  23. ^ #増田ますだ p.305
  24. ^ #河原かわはら p.326
  25. ^ #増田ますだ p.243,323
  26. ^ #増田ますだ p.327
  27. ^ “Gen. Marshall succumbs”. The VMI Cadet. (7 September 1973) 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • ウィリアム・マンチェスター『ダグラス・マッカーサー』 じょう鈴木すずきしゅえつ高山たかやまけいわけ)、河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、1985ねんISBN 4-309-22115-7 
  • 河原かわはらただし『マッカーサーが 8がつ15にちからの20日間にちかん光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ、2005ねんISBN 4-7698-2470-X 
  • 増田ますだひろし『マッカーサー フィリピン統治とうちから日本にっぽん占領せんりょう中公新書ちゅうこうしんしょ、2009ねんISBN 978-4-12-101992-9 
  • Couper, William (1952). History of the Shenandoah Valley. New York: Lewis Historical 
  • McGill, John (1956). The Beverley Family of Virginia: Descendants of Major Robert Beverley, 1641-1687, and allied families. Columbia, South Carolina: R.L. Bryan 

外部がいぶリンク

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関連かんれん項目こうもく

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