リチャード・ジャクリーン・マーシャル (Richard Jaquelin Marshall, 1895年 ねん 6月16日 にち - 1973年 ねん 8月 がつ 3日 にち )は、アメリカ陸軍 りくぐん の軍人 ぐんじん 、最終 さいしゅう 階級 かいきゅう は少将 しょうしょう 。
主 しゅ として需品 じゅひん 部門 ぶもん を歩 あゆ み[ 2] 、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう は第 だい 1歩兵 ほへい 師団 しだん に属 ぞく して戦 たたか い、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん では太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん で活躍 かつやく 。フィリピン 時代 じだい からダグラス・マッカーサー 陸軍 りくぐん 元帥 げんすい の幕僚 ばくりょう 、いわゆる「バターン・ギャング 」[ 注釈 ちゅうしゃく 1] の一人 ひとり としてつき従 したが い、戦争 せんそう 終結 しゅうけつ 後 ご の日本 にっぽん における占領 せんりょう 行政 ぎょうせい にも短期間 たんきかん ながらかかわった。
リチャード・ジャクリーン・マーシャルは1895年 ねん 6月 がつ 16日 にち 、バージニア州 しゅう フォークワイアー郡 ぐん マークハムに、父 ちち マリオン・ルイス・マーシャルと母 はは レベッカ・コーク・マーシャルの子 こ として生 う まれる[ 3] 。母方 ははかた の祖父 そふ であるリチャード・コーク・マーシャルは第 だい 4代 だい 連邦 れんぽう 最高 さいこう 裁判所 さいばんしょ 長官 ちょうかん を務 つと めたジョン・マーシャル の孫 まご で、南北戦争 なんぼくせんそう では南 みなみ 軍 ぐん に大佐 たいさ として従軍 じゅうぐん した経験 けいけん を有 ゆう していた。また、アメリカ陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう 、国務 こくむ 長官 ちょうかん および国防 こくぼう 長官 ちょうかん を歴任 れきにん したジョージ・マーシャル 元帥 げんすい は遠戚 えんせき にあたる[ 4] [ 5] 。弟 おとうと には、中部 ちゅうぶ 太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん で活躍 かつやく したサンジュリアン・ラヴェネル・マーシャル海兵 かいへい 准 じゅん 将 しょう がいる[ 6] 。
成長 せいちょう したマーシャルは、1907年 ねん から1911年 ねん までの間 あいだ はノーフォーク のノーフォーク・アカデミー (英語 えいご 版 ばん ) で学 まな んだ[ 7] 。
1911年 ねん 、マーシャルはバージニア州 しゅう レキシントン のバージニア軍 ぐん 学校 がっこう (英語 えいご 版 ばん ) に入学 にゅうがく し、1915年 ねん に56名 めい 中 ちゅう 8番目 ばんめ の成績 せいせき をもって、電気 でんき 工学 こうがく の理 り 学士 がくし 号 ごう を修 おさ めた上 うえ で卒業 そつぎょう した[ 8] 。卒業 そつぎょう 後 ご はメリーランド州 しゅう ボルチモア にある電力 でんりょく 会社 かいしゃ に就職 しゅうしょく し、副 ふく 技師 ぎし として勤務 きんむ することとなる[ 9] 。ボルチモアでの勤務 きんむ の一方 いっぽう でマーシャルは州兵 しゅうへい に志願 しがん し、第 だい 4メリーランド師団 しだん に籍 せき を置 お く。翌 よく 1916年 ねん 6月 がつ 18日 にち 、師団 しだん はアメリカとメキシコ の間 あいだ での国境 こっきょう 紛争 ふんそう (アメリカ=メキシコ国境 こっきょう 戦争 せんそう (英語 えいご 版 ばん ) )に出動 しゅつどう することとなり、マーシャルは中尉 ちゅうい に任官 にんかん して大隊 だいたい 付 づけ 副官 ふっかん の任務 にんむ を与 あた えられた。次 つ いで1916年 ねん 8月 がつ 、マーシャルはテキサス州 しゅう イーグルパス (英語 えいご 版 ばん ) にて正規 せいき 軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) への編入 へんにゅう 手続 てつづ きが行 おこな われ、11月には改 あらた めて野戦 やせん 砲 ほう 兵隊 へいたい の少尉 しょうい に位置付 いちづ けられる。1917年 ねん 3月 がつ にはフォート・ブリス (英語 えいご 版 ばん ) 駐屯 ちゅうとん の第 だい 8野戦 やせん 砲 ほう 兵隊 へいたい (英語 えいご 版 ばん ) に配属 はいぞく された[ 3] [ 8] 。
1917年 ねん 4月 がつ 、アメリカは第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に参戦 さんせん 。正規 せいき 軍 ぐん の規模 きぼ も拡大 かくだい され、マーシャルのいる第 だい 8野戦 やせん 砲 ほう 兵隊 へいたい もオクラホマ州 しゅう フォート・シル (英語 えいご 版 ばん ) に屯所 とんしょ が移 うつ り、同地 どうち の第 だい 14野戦 やせん 砲 ほう 兵隊 へいたい (英語 えいご 版 ばん ) と合同 ごうどう する。5月に入 はい り、マーシャルはアリゾナ州 しゅう ダグラス (英語 えいご 版 ばん ) に駐屯 ちゅうとん していた、正規 せいき 軍 ぐん の中 なか でも古参 こさん の第 だい 6野戦 やせん 砲 ほう 兵隊 へいたい (英語 えいご 版 ばん ) に移 うつ り、ここで第 だい 1歩兵 ほへい 師団 しだん に組 く み込 こ まれてアメリカ軍 ぐん ヨーロッパ派遣 はけん 部隊 ぶたい (英語 えいご 版 ばん ) のヨーロッパ戦線 せんせん への進出 しんしゅつ に備 そな えることとなった。この時 とき 、第 だい 1歩兵 ほへい 師団 しだん にはリチャード・サザランド がおり、以降 いこう 親 した しくなる[ 2] 。
ジョン・パーシング 大将 たいしょう 指揮 しき の下 した 、ヨーロッパ戦線 せんせん に進出 しんしゅつ した派遣 はけん 部隊 ぶたい とともにマーシャルも大西洋 たいせいよう を渡 わた り、ソワソンの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) (1918年 ねん 7月 がつ )、サン・ミッシェルの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) (1918年 ねん 9月 がつ )およびミューズ=アルゴンヌ戦線 せんせん (英語 えいご 版 ばん ) と転戦 てんせん するが、1918年 ねん 11月1日 にち にドイツ軍 ぐん の砲撃 ほうげき を受 う けて負傷 ふしょう し、1919年 ねん 3月 がつ までフランスの陸軍 りくぐん 病院 びょういん で療養 りょうよう することとなったが、その間 あいだ 、負傷 ふしょう から10日 にち 後 ご に大戦 たいせん は終結 しゅうけつ 。マーシャルは大佐 たいさ に戦時 せんじ 昇進 しょうしん し、第 だい 6野戦 やせん 砲 ほう 兵隊 へいたい の司令 しれい 官 かん となった[ 3] [ 8] 。
アメリカに戻 もど ったマーシャルは、アメリカ陸軍 りくぐん 需品 じゅひん 科 か に配属 はいぞく される。需品 じゅひん 科 か でのマーシャルはコロラド州 しゅう デンバー にフィッツシモンズ病院 びょういん を建設 けんせつ し、1924年 ねん にはジョージア州 しゅう のフォート・ベニングに勤務 きんむ 。1926年 ねん には需品 じゅひん 学校 がっこう に入学 にゅうがく し、1927年 ねん に卒業 そつぎょう してニュージャージー州 しゅう のフォート・モンマスに移 うつ った。
1929年 ねん 、マーシャルはフィリピンに派遣 はけん され、スービック湾 わん 防衛 ぼうえい 部隊 ぶたい の需品 じゅひん 担当 たんとう となった。コレヒドール島 とう のフォート・ミルズに居 きょ を構 かま え、西部 せいぶ からのマリンタ・トンネル (英語 えいご 版 ばん ) の掘削 くっさく 工事 こうじ を担当 たんとう した。このトンネルは日本 にっぽん 軍 ぐん のフィリピン攻撃 こうげき の際 さい 、マッカーサーの指揮 しき 所 しょ として活用 かつよう された。フィリピンでの任期 にんき を終 お えて1932年 ねん にアメリカ本国 ほんごく に戻 もど り、カンザス州 しゅう フォート・レブンワース のアメリカ陸軍 りくぐん 指揮 しき 幕僚 ばくりょう 大学 だいがく とワシントンD.C. の陸軍 りくぐん 産業 さんぎょう 大学 だいがく での受講 じゅこう 期間 きかん を1935年 ねん に終 お えたあと、第 だい 1軍 ぐん 勤務 きんむ を経 へ て1936年 ねん にはアメリカ陸軍 りくぐん 大 だい 学校 がっこう 勤務 きんむ となる。その後 ご は水上 すいじょう 輸送 ゆそう 部隊 ぶたい の監督 かんとく も務 つと めた。
マーシャルはこの戦 せん 間 あいだ 期 き に、ネル・B・ムターと結婚 けっこん する。2人 ふたり の子 こ をもうけたが、リチャード・J・マーシャル・ジュニアは第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか の1943年 ねん 2月 がつ 2日 にち に亡 な くなった。ハリエット・マーシャルはバターン死 し の行進 こうしん の生 い き残 のこ りの一人 ひとり であるジョン・E・オルソン (英語 えいご 版 ばん ) と結婚 けっこん した。しかし、ネルとは1934年 ねん と死別 しべつ し、1935年 ねん 12月28日 にち にアラバマ州 しゅう モンゴメリー でイザベル・クラムと再婚 さいこん する。イザベルは子持 こも ちであり、義理 ぎり の娘 むすめ ドロシーと義理 ぎり の息子 むすこ ケネス・ロスコー・ラムスを家族 かぞく に迎 むか え入 い れたが、ラムスは1943年 ねん 3月 がつ 28日 にち に死去 しきょ した[ 3] [ 5] [ 9] 。
1939年 ねん 、マーシャルはマッカーサーの要請 ようせい により、再 ふたた びフィリピンに赴 おもむ く。マッカーサーの要請 ようせい をマーシャルに伝 つた えたのは旧知 きゅうち のサザランドであり、マーシャル自身 じしん も最初 さいしょ のフィリピン時代 じだい にマッカーサーとは少 すく なからず顔 かお を合 あ わせていた[ 10] 。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ した9月にマニラ に着任 ちゃくにん したマーシャルは、需品 じゅひん 部門 ぶもん 担当 たんとう のほかフィリピン軍 ぐん 幹部 かんぶ の養成 ようせい も担当 たんとう した[ 11] 。当時 とうじ マッカーサーの参謀 さんぼう 長 ちょう を務 つと めていたのは、のちの大統領 だいとうりょう ドワイト・D・アイゼンハワー であったが1939年 ねん 末 まつ に帰国 きこく し、その後任 こうにん にサザランドが就任 しゅうにん すると幕僚 ばくりょう 部 ぶ 次席 じせき となる[ 2] 。1941年 ねん 7月 がつ にアメリカ極東 きょくとう 陸軍 りくぐん が創設 そうせつ されると参謀 さんぼう 次長 じちょう となり[ 2] 、「司令 しれい 官 かん :マッカーサー、参謀 さんぼう 長 ちょう :サザランド、参謀 さんぼう 次長 じちょう :マーシャル」というこの組 く み合 あ わせは後年 こうねん の日本 にっぽん 占領 せんりょう 時代 じだい 初期 しょき まで崩 くず れることはなかった。10月には一時 いちじ 的 てき に大佐 たいさ に昇進 しょうしん し、また世界 せかい 情勢 じょうせい の緊迫 きんぱく 化 か に伴 ともな って家族 かぞく を帰国 きこく させた[ 2] 。
1941年 ねん 12月8日 にち の真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき のあと、マーシャルは准 じゅん 将 しょう に昇進 しょうしん し、引 ひ き続 つづ き参謀 さんぼう 次長 じちょう の任 にん にあたる。開戦 かいせん 直後 ちょくご から日本 にっぽん 軍 ぐん は空 そら に陸 ろく に極東 きょくとう 陸軍 りくぐん を圧迫 あっぱく し、マニラは風前 ふうぜん の灯 ともしび となった。これより先 さき 、マッカーサーはマニラを無防備 むぼうび 都市 とし としたうえで極東 きょくとう 陸軍 りくぐん をバターン半島 はんとう とコレヒドール島 とう に籠 こも らせる計画 けいかく を立 た て、マニュエル・ケソン のフィリピン・コモンウェルス もコレヒドール島 とう に移転 いてん することとなった[ 12] 。12月24日 にち には退去 たいきょ は完了 かんりょう し、12月26日 にち にはマニラの無 む 防備 ぼうび 都市 とし 宣言 せんげん が出 だ された[ 13] 。
マーシャルは連絡 れんらく と輸送 ゆそう 作業 さぎょう の督戦 とくせん のため、日本 にっぽん 軍 ぐん が文字通 もじどお り指呼 しこ の間 あいだ に迫 せま った1942年 ねん 1月 がつ 1日 にち [ 注釈 ちゅうしゃく 2] までマニラに残留 ざんりゅう ののちコレヒドール島 とう に脱出 だっしゅつ [ 14] 。マーシャルの督戦 とくせん の甲斐 かい あって、マニラの主 おも だった交通 こうつう 機関 きかん はバターン半島 はんとう への味方 みかた 部隊 ぶたい の輸送 ゆそう に全力 ぜんりょく を挙 あ げることができた[ 14] 。1月5日 にち にはマリベレス (英語 えいご 版 ばん ) に軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ を建設 けんせつ [ 15] 。バターン半島 はんとう に籠 こめ る極東 きょくとう 陸軍 りくぐん とフィリピン軍 ぐん が日本 にっぽん 軍 ぐん の攻勢 こうせい を完全 かんぜん に止 と めるほど大 だい 善戦 ぜんせん していたものの、次第 しだい に余力 よりょく も尽 つ き果 は てていった。マッカーサーは「英雄 えいゆう 的 てき 抵抗 ていこう 」[ 16] に気炎 きえん を上 あ げ、指揮 しき 下部 かぶ 隊 たい とともに運命 うんめい を共 とも にするつもりでいたが[ 17] 、度重 たびかさ なるワシントンからの指示 しじ などもあり、オーストラリア への脱出 だっしゅつ を決心 けっしん する。
脱出 だっしゅつ はジョン・D・バルクリー 海軍 かいぐん 中尉 ちゅうい が指揮 しき する魚雷 ぎょらい 艇 てい 隊 たい が使用 しよう され、マッカーサーとジーン夫人 ふじん 、息子 むすこ のアーサー 、サザランドらがPT-41 (英語 えいご 版 ばん ) に、マーシャルはPT-34 にフランシス・W・ロックウェル (英語 えいご 版 ばん ) 海軍 かいぐん 少将 しょうしょう らとともに乗 の り込 こ み、3月11日 にち 夜 よる にコレヒドール島 とう を脱出 だっしゅつ した[ 18] 。一 いち 行 ぎょう は2日 にち 後 ご にミンダナオ島 みんだなおとう に到達 とうたつ して航空機 こうくうき に乗 の り換 か え、3月17日 にち にオーストラリアのダーウィン に到着 とうちゃく した[ 19] 。
ダーウィンから先 さき の移動 いどう は、ジーンが航空機 こうくうき での移動 いどう に気 き が滅入 めい っていたため列車 れっしゃ が使用 しよう されることとなり[ 20] [ 21] 、またマーシャルはフィリピンへの帰還 きかん のための兵力 へいりょく と物資 ぶっし の見積 みつ もりのために先行 せんこう した。アデレード に到着 とうちゃく 後 ご 、マーシャルはマッカーサーの特別 とくべつ 列車 れっしゃ を待 ま ち受 う け、今 いま の時点 じてん ではフィリピン奪還 だっかん のための十分 じゅうぶん な兵力 へいりょく がないことを伝 つた えた[ 1] 。この光景 こうけい は、1977年 ねん 公開 こうかい の映画 えいが 『マッカーサー 』でも再現 さいげん された。1942年 ねん 4月 がつ 18日 にち 、マッカーサーを最高 さいこう 司令 しれい 官 かん とする南西 なんせい 太平洋 たいへいよう 方面 ほうめん 軍 ぐん が創設 そうせつ され、サザランドやマーシャルら、マッカーサーのフィリピン脱出 だっしゅつ (英語 えいご 版 ばん ) に同行 どうこう した、いわゆる「バターン・ギャング」の面々 めんめん がそのまま方面 ほうめん 軍 ぐん の幕僚 ばくりょう にコレヒドール島 とう 時代 じだい の地位 ちい のまま収 おさ まった[ 22] 。マッカーサーはこののち、ニューギニアの戦 たたか い を経 へ てフィリピン帰還 きかん を達成 たっせい するが、その間 あいだ マーシャルは一貫 いっかん して従前 じゅうぜん のように参謀 さんぼう 次長 じちょう の地位 ちい を占 し め、参謀 さんぼう 長 ちょう のサザランドが所用 しょよう で不在 ふざい の時 とき は参謀 さんぼう 長 ちょう 代理 だいり として軍 ぐん ナンバー2の仕事 しごと に就 つ いた[ 2] 。フィリピン奪還 だっかん がおおむね終 お わった1945年 ねん 4月 がつ 3日 にち 付 づけ でマッカーサーは太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん の全 ぜん 陸軍 りくぐん 部隊 ぶたい の総 そう 司令 しれい 官 かん に就任 しゅうにん したが[ 23] 、ナンバー2にサザランド、ナンバー3にマーシャルという顔 かお 付 づけ に変化 へんか はなかった。
1945年 ねん 8月 がつ 15日 にち に日本 にっぽん が降伏 ごうぶく し、9月2日 にち に戦艦 せんかん 「ミズーリ 」艦上 かんじょう で日本 にっぽん の降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ 調印 ちょういん 式 しき が行 おこな われ、マーシャルも出席 しゅっせき した。調印 ちょういん 式 しき は午前 ごぜん 中 ちゅう であったが、午後 ごご に入 はい り、マーシャルは横浜 よこはま 税関 ぜいかん の連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ に終戦 しゅうせん 連絡 れんらく 事務 じむ 局 きょく 横浜 よこはま 事務 じむ 局長 きょくちょう の鈴木 すずき 九 きゅう 萬 まん を呼 よ び出 だ し、「三権 さんけん を連合 れんごう 軍 ぐん の支配 しはい 下 か に置 お き、制限 せいげん 解除 かいじょ までは英語 えいご を公用 こうよう 語 ご とする」、「司法 しほう 権 けん を連合 れんごう 軍 ぐん に属 ぞく させ、違反 いはん 者 しゃ は軍事 ぐんじ 裁判 さいばん に回 まわ され極刑 きょっけい もありうる」、「日本円 にほんえん は廃止 はいし 、B円 えん を日本 にっぽん 法定 ほうてい 通貨 つうか とする」の、事実 じじつ 上 じょう 直接 ちょくせつ 軍政 ぐんせい を導入 どうにゅう することを示唆 しさ した3つの条項 じょうこう の履行 りこう を要求 ようきゅう する、いわゆる「三 さん 布告 ふこく 」を通告 つうこく した[ 24] 。重光 しげみつ 葵 まもる 外務 がいむ 大臣 だいじん 、終戦 しゅうせん 連絡 れんらく 中央 ちゅうおう 事務 じむ 局 きょく 長官 ちょうかん 岡崎 おかざき 勝男 かつお らの再三 さいさん の要請 ようせい で、布告 ふこく は表現 ひょうげん を多少 たしょう 改 あらた められて直接 ちょくせつ 軍政 ぐんせい は一応 いちおう は撤回 てっかい されたが、館山 たてやま 市 し が9月 がつ 3日 にち から7日 にち にかけて軍政 ぐんせい 下 か に置 お かれた。この「三 さん 布告 ふこく 」をめぐるやり取 と りが、マーシャルの日本 にっぽん での最初 さいしょ の仕事 しごと となった。
間 ま もなく連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (GHQ) の組織 そしき 整備 せいび が行 おこな われ、マッカーサーとサザランドの地位 ちい は不変 ふへん だったが、GHQと南西 なんせい 太平洋 たいへいよう 方面 ほうめん 軍 ぐん が「同居 どうきょ 」していた名残 なごり で参謀 さんぼう 次長 じちょう の役目 やくめ が二分 にぶん されることとなり、マーシャルが南西 なんせい 太平洋 たいへいよう 方面 ほうめん 軍 ぐん 部門 ぶもん の参謀 さんぼう 次長 じちょう となって、GHQ部門 ぶもん の参謀 さんぼう 次長 じちょう には、オーストラリアからマッカーサー一行 いっこう に加 くわ わったステファン・チェンバリン (英語 えいご 版 ばん ) 少将 しょうしょう が就任 しゅうにん した[ 25] 。12月に入 はい り、かねてから不倫 ふりん 問題 もんだい を抱 かか え、健康 けんこう もすぐれなかったサザランドが参謀 さんぼう 長 ちょう を辞 じ してアメリカに帰国 きこく すると、その後任 こうにん としてマーシャルがマッカーサーの参謀 さんぼう 長 ちょう となった[ 2] 。しかし、このころにはコートニー・ホイットニー ら新 あたら しい世代 せだい の人物 じんぶつ が台頭 たいとう してきたこともあって、参謀 さんぼう 長 ちょう として特 とく に目立 めだ った才幹 さいかん をふるう場面 ばめん はあまりなかった[ 26] 。翌 よく 1946年 ねん 5月 がつ 、マーシャルは母校 ぼこう であるバージニア軍 ぐん 学校 がっこう 校長 こうちょう のポジションを打診 だしん され内諾 ないだく し、日本 にっぽん を離 はな れた[ 2] 。
ホイットニーはマーシャルについて、マーシャルはサザランドほど権威 けんい があるわけでもないし積極 せっきょく 的 てき なタイプでもなく、むしろ無愛想 ぶあいそう ではあったが、それが彼 かれ の性格 せいかく であったと回想 かいそう している[ 2] 。
マーシャルは1946年 ねん 11月30日 にち に少将 しょうしょう の地位 ちい で陸軍 りくぐん を退役 たいえき し、以降 いこう はバージニア軍 ぐん 学校 がっこう の第 だい 7代 だい 校長 こうちょう として1952年 ねん 6月 がつ までその地位 ちい にあった。離任 りにん の際 さい 、マーシャルはワシントン・アンド・リー大学 だいがく から法学 ほうがく 博士 はかせ (LL.D.) の名誉 めいよ 学位 がくい を授与 じゅよ された。また、ハリー・S・トルーマン 大統領 だいとうりょう からはフィリピンの経済 けいざい 調査 ちょうさ を行 おこな う「ベル・ミッション」担当 たんとう の、無任所 むにんしょ 大臣 だいじん 的 てき な副官 ふっかん に任 にん ぜられた。
バージニア軍 ぐん 学校 がっこう 校長 こうちょう としての最後 さいご の年 とし 、マーシャルはバージニア州 しゅう から様々 さまざま な便宜 べんぎ を図 はか られた。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 終結 しゅうけつ 後 ご 、マーシャルはバージニア軍 ぐん 学校 がっこう から10万 まん ドルから60万 まん ドルほどの基金 ききん の供与 きょうよ を受 う け、これを元手 もとで に6年間 ねんかん で受 う け入 い れる士官 しかん 候補 こうほ 生 せい の数 かず を300名 めい から950名 めい に拡大 かくだい し、軍事 ぐんじ 面 めん のみならず非 ひ 軍事 ぐんじ 面 めん の教育 きょういく も充実 じゅうじつ された。士官 しかん 候補 こうほ 生 せい の増加 ぞうか に伴 ともな って教員 きょういん の数 かず も増加 ぞうか し、人員 じんいん 増加 ぞうか に伴 ともな う新 あら たな兵舎 へいしゃ も建設 けんせつ され、これはマーシャルの在任 ざいにん 中 ちゅう に完成 かんせい した。
1952年 ねん 、マーシャルは脳 のう 血管 けっかん 障害 しょうがい を患 わずら って公的 こうてき な活動 かつどう からは引退 いんたい し、以降 いこう はフロリダ州 しゅう で引退 いんたい 生活 せいかつ を過 す ごした。1973年 ねん 8月 がつ 3日 にち 、マーシャルはフロリダ州 しゅう フォートローダーテールで死去 しきょ [ 27] 。78歳 さい 没 ぼつ 。アーリントン国立 こくりつ 墓地 ぼち 第 だい 7区画 くかく に埋葬 まいそう され[ 7] 、同 おな じ第 だい 7区画 くかく には弟 おとうと のサンジュリアンも埋葬 まいそう されている[ 6] 。
マーシャルの軍 ぐん 歴 れき の中 なか における受賞 じゅしょう 歴 れき は、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん での功績 こうせき でシルバースター を授与 じゅよ され、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん では殊勲 しゅくん 十 じゅう 字 じ 章 あきら 、陸軍 りくぐん 殊勲 しゅくん 章 あきら (英語 えいご 版 ばん ) および2個 こ のオークリーフ・クラスター (英語 えいご 版 ばん ) が授 さづ けられた[ 7] 。また、フランスからはレジオンドヌール勲章 くんしょう オフィシエ 、オランダからはオラニエ=ナッサウ勲章 くんしょう グランドオフィサー (英語 えいご 版 ばん ) 、フィリピンからは殊勲 しゅくん 星章 せいしょう とオークリーフ・クラスターがそれぞれ授与 じゅよ された[ 7] 。
^ #マンチェスター (上 うえ ) p.318 などでの呼称 こしょう 。「バターン・ボーイズ」などの呼称 こしょう もある(#増田 ますだ p.17)。
^ この日 ひ の未明 みめい に、捜索 そうさく 第 だい 16連隊 れんたい がマニラに到達 とうたつ している(#増田 ますだ p.101)。
ウィリアム・マンチェスター『ダグラス・マッカーサー』 上 じょう 、鈴木 すずき 主 しゅ 悦 えつ 、高山 たかやま 圭 けい (訳 わけ )、河出書房新社 かわでしょぼうしんしゃ 、1985年 ねん 。ISBN 4-309-22115-7 。
河原 かわはら 匡 ただし 喜 き 『マッカーサーが来 き た日 ひ 8月 がつ 15日 にち からの20日間 にちかん 』光人 みつひと 社 しゃ NF文庫 ぶんこ 、2005年 ねん 。ISBN 4-7698-2470-X 。
増田 ますだ 弘 ひろし 『マッカーサー フィリピン統治 とうち から日本 にっぽん 占領 せんりょう へ 』中公新書 ちゅうこうしんしょ 、2009年 ねん 。ISBN 978-4-12-101992-9 。
Couper, William (1952). History of the Shenandoah Valley . New York: Lewis Historical
McGill, John (1956). The Beverley Family of Virginia: Descendants of Major Robert Beverley, 1641-1687, and allied families . Columbia, South Carolina: R.L. Bryan