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リュドミラ・ツリシチェワ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
リュドミラ・ツリシチェワ
1972ねん、ミュンヘン五輪ごりんにて
選手せんしゅ情報じょうほう
フルネーム ロシア: Людми́ла Ива́новна Тури́щева
国籍こくせき ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう
生年月日せいねんがっぴ (1952-07-10) 1952ねん7がつ10日とおか(71さい
生誕せいたん ソビエト連邦れんぽうグロズヌイ
種目しゅもく 体操たいそう競技きょうぎ
獲得かくとくメダル
体操たいそう競技きょうぎ
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう
夏季かきオリンピック
きむ 1968ねん 団体だんたい総合そうごう
きむ 1972ねん 団体だんたい総合そうごう
きむ 1972ねん 個人こじん総合そうごう
きむ 1976ねん 団体だんたい総合そうごう
ぎん 1972ねん ゆか
ぎん 1976ねん 跳馬ちょうば
ぎん 1976ねん ゆか
どう 1972ねん 跳馬ちょうば
どう 1976ねん 個人こじん総合そうごう
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リュドミラ・イワーノヴナ・ツリシチェワロシア: Людми́ла Ива́новна Тури́щева英語えいご: Ludmilla Ivanovna Tourischevaグロズヌイ出身しゅっしん1952ねん7がつ10日とおか - )は、オリンピックで9のメダルを獲得かくとくしたソビエト連邦れんぽうもと女子じょし体操たいそう選手せんしゅ

来歴らいれき[編集へんしゅう]

ツリシチェワは1965ねんから体操たいそう競技きょうぎはじめ、1967ねんにははやくもソ連それん代表だいひょうきそうまでになった。彼女かのじょのちナタリア・シャポシュニコワナタリア・ユルチェンコのコーチもつとめたウラジスラフ・ラストロツキー指導しどうけ、ちょうど16さい誕生たんじょうのちに1968ねんメキシコシティオリンピックソ連それん代表だいひょうえらばれ、団体だんたい総合そうごうきんメダルを獲得かくとくし、個人こじん総合そうごうでは24はいった。

2ねんにはツリシチェワはソ連それん代表だいひょうのリーダーになっていた。1970ねんから1974ねんまで、彼女かのじょはほとんどすべての主要しゅよう国際こくさい試合しあい君臨くんりんし、1970ねん1974ねん世界せかい選手権せんしゅけん、1971ねんと1973ねんのヨーロッパ選手権せんしゅけん、1975ねんワールドカップ個人こじん総合そうごうきんメダルをった。彼女かのじょ古典こてんてきなソビエトスタイルの体現たいげんしゃなされていた。洗練せんれんされて優雅ゆうがもうぶんのない表現ひょうげん確固かっこたる技術ぎじゅつ

1972ねんミュンヘンオリンピックでツリシチェワはメダルの本命ほんめいであったが、彼女かのじょ自身じしんはテレビきで彗星すいせいのごとく人気にんきしゃとなった、チームメイトのオルガ・コルブトによってかげうすくなっていること気付きづいていた。コルブトが段違だんちが平行棒へいこうぼうから落下らっかし、ツリシチェワは個人こじん総合そうごうきんメダルを獲得かくとくしたが、種目しゅもくべつでは2つのメダルを獲得かくとくしたものの、ぎんどうにとどまった。ツリシチェワは国際こくさい試合しあいにおいてゆかで2きょくべつ音楽おんがく使つかけたはつ女子じょし体操たいそう選手せんしゅ1人ひとりであった。団体だんたい総合そうごうでは映画えいが『サーカス (Circus)』からイサーク・ドゥナエフスキー作曲さっきょくのマーチを、個人こじん総合そうごうではフランツ・グローテによる映画えいがゆめ乙女おとめ (Die Frau meiner Träume)』のきょく使用しようした。

ツリシチェワは1975ねんのヨーロッパ選手権せんしゅけん個人こじん総合そうごうでは無冠むかんわった。ルーマニアの13さいナディア・コマネチ個人こじん総合そうごう段違だんちが平行棒へいこうぼう平均へいきんだい跳馬ちょうばせいした。ツリシチェワのチームメイト、ネリー・キムは、個人こじん総合そうごうで2にくいみ、ゆかでもきんメダルを獲得かくとくした。それでもツリシチェワは同年どうねんのワールドカップには圧勝あっしょうし、なおりをせた。

ツリシチェワは背中せなか怪我けがたたかったのち自身じしん3度目どめとなる1976ねんモントリオールオリンピック出場しゅつじょうし、団体だんたい総合そうごうでは3つとなるきんメダルを獲得かくとくした。しかし個人こじん総合そうごうではコマネチとキムにおくれをとり、どうメダルにわった。種目しゅもくべつ跳馬ちょうばとゆかではキムにはやぶれたが、コマネチをおさえてぎんメダルを獲得かくとくした。彼女かのじょのオリンピックにおけるメダルのそう獲得かくとくすうかね4・ぎん3・どう2となった。

1980ねんイギリスのジャーナリスト、デヴィッド・フンは「けっしてライバルたちのようなしのつよさはかったが、きというてん彼女かのじょ最高さいこうだった」とツリシチェワについていている[1]実際じっさい彼女かのじょ試合しあいでの冷静れいせい沈着ちんちゃくたたずまいで有名ゆうめいであった。ツリシチェワのもっと有名ゆうめい演技えんぎの1つであるロンドンウェンブリー・スタジアムおこなわれた1975ねんのワールドカップにおける段違だんちが平行棒へいこうぼうでは、そこにいたすべての人々ひとびとはケーブルをささえていた金属きんぞくフックがこわれるおおきなおとおどろいた。まさ彼女かのじょ演技えんぎえ、着地ちゃくちしたと同時どうじ段違だんちが平行棒へいこうぼう文字通もじどお破壊はかいされ、ゆかめんくずちた。ツリシチェワは審判しんぱん会釈えしゃくし、器具きぐ残骸ざんがいるためにかえことすらせずに、しずかにそのはなれた。彼女かのじょはそのまま個人こじん総合そうごうすべての種目しゅもくきんメダルを獲得かくとくした。長年ながねんのち彼女かのじょはその瞬間しゅんかんについて1つのことしかおぼえていないとかたった。 - 彼女かのじょ自分じぶん演技えんぎ完遂かんすいしなければならず、「それだけをかんがえていました」[2]。コーチであるウラジスラフ・ラストロツスキーは彼女かのじょについて「リュドミラはどんな状況じょうきょうでもぬまでたたかいます」とった[3]

ツリシチェワは礼儀れいぎただしい態度たいどでもられていた。1976ねんのモントリオールオリンピックでは、彼女かのじょ自分じぶん自身じしんのメダルをまえに、個人こじんてき優勝ゆうしょうしゃナディア・コマネチ祝福しゅくふく握手あくしゅするために壇上だんじょうあゆった[4]

1977ねん彼女かのじょ陸上りくじょう短距離たんきょり選手せんしゅで1972ねんミュンヘンオリンピックの100mと200mのかねメダリストであるワレリー・ボルゾフ結婚けっこんした。1981ねんには国際こくさい体操たいそう連盟れんめい女子じょし体操たいそう技術ぎじゅつ委員いいん選任せんにんされた[5]。ツリシチェワはコーチとして、国際こくさい審判しんぱんいんとして、ウクライナ体操たいそう連盟れんめい役員やくいんとして体操たいそう競技きょうぎかかわりつづけている。彼女かのじょおし1人ひとりに1996ねんアトランタオリンピック個人こじん総合そうごうかねメダリストとなったリリア・ポドコパエワがいる。

ツリシチェワは体操たいそう競技きょうぎにおける功績こうせきにより、国際こくさいオリンピック委員いいんかいからのウィメン・イン・スポーツしょうなどすうおおくの栄誉えいよけた。1998ねんには国際こくさい体操たいそう殿堂でんどうりをたしている[6]

戦績せんせき(オリンピック以外いがい[編集へんしゅう]

とし 大会たいかい 個人こじん 団体だんたい VT UB BB FX
1967 ソビエト連邦れんぽうはい きむ
1968 ソビエト連邦れんぽうはい どう
1969 ヨーロッパ選手権せんしゅけん どう どう どう
ソビエト連邦れんぽう選手権せんしゅけん どう ぎん ぎん ぎん
ソビエト連邦れんぽうはい きむ
1970 世界せかい選手権せんしゅけん きむ きむ どう ぎん きむ
ソビエト連邦れんぽう選手権せんしゅけん きむ きむ
ソビエト連邦れんぽうはい どう
1971 ヨーロッパ選手権せんしゅけん きむ きむ ぎん ぎん きむ
ソビエト連邦れんぽう選手権せんしゅけん ぎん どう ぎん
ソビエト連邦れんぽうはい きむ
1972 ソビエト連邦れんぽう選手権せんしゅけん きむ きむ きむ
ソビエト連邦れんぽうはい ぎん
1973 ヨーロッパ選手権せんしゅけん きむ きむ きむ きむ きむ
ソビエト連邦れんぽう選手権せんしゅけん きむ きむ
ソビエト連邦れんぽうはい きむ
1974 世界せかい選手権せんしゅけん きむ きむ ぎん どう きむ きむ
ソビエト連邦れんぽう選手権せんしゅけん きむ
ソビエト連邦れんぽうはい きむ
1975 ワールド・カップ きむ きむ きむ きむ きむ
ヨーロッパ選手権せんしゅけん どう
ソビエト連邦れんぽう選手権せんしゅけん どう きむ
1976 ソビエト連邦れんぽうはい ぎん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Hunn, David; (1980). The Complete Book of Gymnastics. London: Ward Lock Ltd. ISBN 978-9990396324 
  2. ^ “And the steel was broken”. Olympic Panorama (3): 33–34. (1990-07). 
  3. ^ “National Property”. Novaya sportivnaya gazeta. (2003ねん3がつ26にち) 
  4. ^ Comăneci, Nadia (2003). Letters to a young gymnast. New York: Basic Books. ISBN 978-0465012763 
  5. ^ “Within International Federations” (英語えいご) (PDF). Olympic Review (162): 253. (April 1981). http://www.aafla.org/OlympicInformationCenter/OlympicReview/1981/ore162/ORE162x.pdf 2008ねん12月15にち閲覧えつらん. 
  6. ^ LUDMILLA TOURISCHEVA” (英語えいご). International Gymnastics Hall of Fame. 2008ねん12月15にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]