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リュドヴィート・シュトゥール

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
リュドヴィート・シュトゥール
Ľudovít Štúr
スロバキアレヴォチャにあるシュトゥールの彫像ちょうぞう
生誕せいたん (1815-10-28) 1815ねん10月28にち
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ていこく
ハンガリー王国おうこくウルベク
死没しぼつ (1856-01-12) 1856ねん1がつ12にち(40さいぼつ
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ていこく
ハンガリー王国おうこくモドラ
署名しょめい
プロジェクト:人物じんぶつでん
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リュドヴィート・シュトゥールのレリーフ
リュドヴィート・シュトゥールの肖像しょうぞう

リュドヴィート・シュトゥール(Ľudovít Štúr, 1815ねん10月28にち - 1856ねん1がつ12にち)は、ハプスブルク君主くんしゅこくうちハンガリー王国おうこく出身しゅっしんスロバキア言語げんごがくもの詩人しじん哲学てつがくしゃ活動かつどう政治せいじ[1][2][3][4]

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福音ふくいんルターだった教師きょうしならびにオルガニストちちサムエルとははアンナのあいだに、現在げんざいスロバキア共和きょうわこくトレンチーンけんUhrovecむら誕生たんじょうした(なお出生しゅっしょう当時とうじは、ハンガリー王国おうこくうちで「上部じょうぶ北部ほくぶ)ハンガリー」とばれる地域ちいきぞくしていた)。福音ふくいんルーテル教会きょうかい洗礼せんれいけ、ちちからラテン語らてんごならった。ハンガリー北西ほくせいジェール[2]にある学校がっこうかよい、歴史れきしがくハンガリードイツ古典こてんギリシャなどをまなんだ。のちルターリセ入学にゅうがく[4]、そのころチェコスラブかい会員かいいんになった[1]。1831ねんにはじめて創作そうさくしている。

シュトゥールは1834ねんに、研究けんきゅう不足ふそく生活せいかつなん研究けんきゅう一時いちじ中断ちゅうだんして故郷こきょうもどKároly Zay伯爵はくしゃくいえはたらいたが、同年どうねん研究けんきゅう再開さいかいして歴史れきし文芸ぶんげいのサークルで活躍かつやくした。かつて学生がくせいとして在学ざいがくした福音ふくいんルターのリセで文学ぶんがく、スラヴやスラヴ文学ぶんがく生徒せいとおしえた[4]つづけ、はじめて詩集ししゅう印刷いんさつして出版しゅっぱんした。チェコスラブかい会員かいいんすうえずして増加ぞうかした。

1837ねん4がつ、チェコスラブかい福音ふくいんルターのリセに在籍ざいせきする学生がくせいによるさわぎが原因げんいん活動かつどう禁止きんしされたが、1週間しゅうかん再開さいかい並行へいこうしてチェコスロバキア言語げんご文学ぶんがくかんする研究所けんきゅうじょ設立せつりつした。そのころ、シュトゥールはチェコクロアチアポーランドなどの新聞しんぶん雑誌ざっし記事きじ寄稿きこうした。1838ねん9がつポジョニげん・ブラチスラヴァ)をドイツハレかうが途中とちゅうプラハで1ヶ月かげつ以上いじょうごした。それからハレにあるマルティン・ルター大学だいがくハレ・ヴィッテンベルク言語げんごがく歴史れきし哲学てつがくなどをまなんだ[1]。とくに哲学てつがくしゃゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル[1]ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー影響えいきょうけた[1]。このころ、かれよる思索しさく」はチェコの定期ていき刊行かんこうぶつ「Květy」に掲載けいさいされた。1839ねんはる、ドイツ東部とうぶにあるラウジッツ北部ほくぶ南部なんぶながたびして、おおくのスラヴじん交流こうりゅうした。1839ねんにチェコ旅行りょこう「1839ねんはる、ラウジッツへのたび」をあらわした。

言語げんご改革かいかく政治せいじ活動かつどう

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1840ねんにプラハを経由けいゆしてポジョニ(ブラチスラヴァ)に帰還きかんした。 同年どうねん10がつ福音ふくいんルターのリセで文法ぶんぽうやスラブおしえ、そしてチェコスロバキア言語げんご研究所けんきゅうじょ研究けんきゅう活動かつどうつづけた。1841ねん文芸ぶんげい「Tatranka」を共同きょうどう編集へんしゅうした。 また、スロバキアの政治せいじ新聞しんぶん発行はっこうした。1841ねん8がつ16にち友人ゆうじん一緒いっしょにスロバキア文化ぶんか象徴しょうちょうであるやまクリヴァンの頂上ちょうじょうまでのぼった。シュトゥールは1843ねんにポジョニで、地方ちほうごとに多様たよう方言ほうげんなかから「中央ちゅうおうスロバキア方言ほうげん[2]もとづいた標準ひょうじゅん文章ぶんしょう[5]体系たいけいする決意けついをした[2]。シュトゥールはのちにハンガリー政府せいふからチェコスロバキア言語げんご研究所けんきゅうじょわれることになる。1843ねん7がつ、ハンガリー王国おうこくでは著作ちょさく出版しゅっぱんできなかったため、ドイツのライプツィヒ出版しゅっぱんした。同年どうねん、スロバキア西部せいぶむらでスロバキア国民こくみん運動うんどう指導しどうしゃヨゼフ・ミロスラフ・フルバン英語えいごばん[2]あたらしい標準ひょうじゅんスロバキア導入どうにゅうすることについて合意ごういした[2]。7月17にち作家さっかヤーン・ホリー英語えいごばん訪問ほうもん[2]標準ひょうじゅんスロバキア導入どうにゅうについてつたえた[2]同年どうねん10がつ11にち、ハンガリー当局とうきょくによって講義こうぎ停止ていしするようにめいじられたが、講義こうぎつづけた。 同年どうねん12がつ31にち、シュトゥールはしょく剥奪はくだつされた[1]結果けっかよく1844ねん3がつに22にんおし抗議こうぎのためポジョニをち、そのうち13にんレヴォチャにある福音ふくいん学院がくいんまなつづけた[4]おし一人ひとりに、のちのスロバキア共和きょうわこく国歌こっか作詞さくししゃヤンコ・マトゥーシュカ英語えいごばんもいた[4]

1844ねん、スロバキアの作家さっからは徐々じょじょあたらしい標準ひょうじゅんスロバキア使用しようはじめた。シュトゥールは同年どうねん8がつ27にち最初さいしょのスロバキア協会きょうかい創立そうりつ大会たいかい参加さんかした。1845ねん8がつ1にちあたらしいスロバキアかれたスロバキア民族みんぞく新聞しんぶん創刊そうかんごう発行はっこうされた[2]徐々じょじょ政治せいじてき段取だんどりをかたちづくった。かれはスロバキア独自どくじ言語げんご文化ぶんか教育きょういく、ハンガリーないにおける政治せいじてき自治じちけん獲得かくとくおよびスロバキア議会ぎかい開設かいせつ目指めざした。ドイツかれたしょう冊子さっしウィーン発行はっこう、また、著作ちょさく「スロバキア理論りろん」をポジョニで出版しゅっぱんあたらしい標準ひょうじゅんスロバキアについて説明せつめいした。1847ねん8がつ、タトリーン協会きょうかいだい4かい大会たいかいカトリックがわプロテスタントがわ双方そうほうともあらたに体系たいけいされた標準ひょうじゅんスロバキア使用しようすることについて合意ごういたっした。このシュトゥールの標準ひょうじゅんスロバキア現在げんざいのスロバキアの公用こうようとしてのこっている。

国会こっかい議員ぎいん請願せいがん

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スロバキアの国会こっかい議事堂ぎじどうにあるリュドヴィート・シュトゥールの銅像どうぞう

1847ねん10がつ30にち、シュトゥールはポジョニ(ブラチスラヴァ)にかれていたハンガリー議会ぎかい議員ぎいん選出せんしゅつされた[1]。1847ねん11月17にちから翌年よくねん3がつ13にちにかけて議会ぎかいでスロバキアじん市民しみんけん導入どうにゅう小学校しょうがっこうでスロバキア使用しようすることなど5つの重要じゅうよう議会ぎかい演説えんぜつおこなった。1848ねん5がつ請願せいがんしょ「スロバキア民族みんぞく要求ようきゅう」をげた。 そのなかで、スロバキア議会ぎかい開設かいせつ公用こうようにスロバキアくわえ、小学校しょうがっこうから大学だいがくまでスロバキア使用しようすること、自治じちけん拡大かくだい要求ようきゅうした。また、普通ふつう選挙せんきょ報道ほうどう自由じゆう集会しゅうかい自由じゆう民主みんしゅてき権利けんりもとめた。さらに農民のうみん圧政あっせいから解放かいほうして土地とち返還へんかんすることを要求ようきゅうした。しかし、ハンガリー政府せいふは1848ねん5がつ12にちにスロバキア運動うんどう指導しどうしゃについて逮捕たいほじょう発行はっこうした[1]。シュトゥールはハンガリーの官憲かんけんからわれたため1848ねん5がつ31にちにプラハへとのがれた。6月に同地どうち開催かいさいされたスラブ会議かいぎ参加さんかしたが、スラブ会議かいぎ中断ちゅうだん、シュトゥールは同年どうねん6がつ19にちクロアチアザグレブおもむき、クロアチアの雑誌ざっし「Slavenski Jug」の編集へんしゅうしゃになった。

武装ぶそう蜂起ほうき

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シュトゥールはセルビアじんから資金しきん援助えんじょけてハンガリー政府せいふたいしてスロバキア武装ぶそう蜂起ほうき決意けついした。はじめ1848ねん9がつにシュトゥールはウィーンにおもむいてスロバキア国民こくみん会議かいぎ旗揚はたあげしてスロバキア武装ぶそう蜂起ほうき準備じゅんびりかかった。スロバキア国民こくみん会議かいぎ所属しょぞくするヨゼフ・ミロスラフ・フルバンミハエル・ミロスラフ・ホジャからなる政治せいじ部門ぶもん、そしてまた軍事ぐんじ部隊ぶたいをウィーンで結成けっせいした。 同年どうねん9がつ19にちにスロバキア国民こくみん会議かいぎはハンガリー王国おうこくから独立どくりつ宣言せんげんして、スロバキアじん武装ぶそう蜂起ほうき参加さんかするようびかけた。さらなる武装ぶそう蜂起ほうきについて議論ぎろんするため1848ねん10がつ7にちにプラハで会合かいごうした。これにたいしてハンガリー政府せいふ大量たいりょう検挙けんきょはげしい弾圧だんあつくわえる。スロバキア義勇ぎゆうへいは1849ねん初頭しょとう武装ぶそう蜂起ほうきして現在げんざいのスロバキアの主要しゅよう都市としにあたるコシツェプレショフ占拠せんきょ成功せいこうしたが、そのハンガリーぐん衝突しょうとつして敗走はいそうした。シュトゥールはウィーンにもどったあと、1849ねん3がつ北部ほくぶハンガリーを横断おうだんしてスロバキア義勇ぎゆうへいつのる。スロバキアの要求ようきゅうについてウィーンで交渉こうしょうしたが、進展しんてんせず交渉こうしょう決裂けつれつして、最終さいしゅうてきに1849ねん11月21にちにスロバキア義勇ぎゆうへい部隊ぶたいかいたいした。

蜂起ほうき挫折ざせつ不慮ふりょ

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スロバキア蜂起ほうき挫折ざせつ、シュトゥールはスラブ民俗みんぞくがく研究けんきゅう執筆しっぴつ専念せんねんした。1850ねんあき、シュトゥールはスロバキア全国ぜんこく発行はっこうについてハンガリー政府せいふから拒否きょひされた。同年どうねん12がつにスロバキアの学校がっこうやタトリーン協会きょうかい問題もんだいについてはなうためウィーンにかったが交渉こうしょう失敗しっぱいわった。よく1851ねん10がつ標準ひょうじゅんスロバキア体系たいけい改革かいかくかんするブラチスラヴァ会議かいぎ参加さんかした。時期じき前後ぜんごして、1851ねん1がつ13にちおとうとカロルが死去しきょ同年どうねん7がつ27にちちちサムエルが死没しぼつした、やく2ねんの1853ねん3がつ18にち恋人こいびとアデラがウィーンで死去しきょし、同年どうねん8がつ28にちははアンナが死去しきょした。1855ねん12月22にちふゆ土曜日どようびにシュトゥールはモドラ近郊きんこう狩猟しゅりょうちゅうあやまって銃弾じゅうだんによって負傷ふしょうして、そのきずがもとで翌年よくねん1がつ12にちよる9死去しきょした[3]

著作ちょさく

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  • Klagen und Beschwerden der Slovaken wider die Uebergriffe der Magyaren 1843
  • Das neunzehnte Jahrhundert und der Magyarismus 1845
  • Slovenskje národňje novini 1845
  • Nárečja Slovenskuo alebo potreba písaňja v tomto nárečí 1846
  • Nauka reči Slovenskej 1846
  • Das Slawenthum und die Welt der Zukunft 1851
  • O národních písních a pověstech plemen slovanských 1852
  • Das Slawenthum und die Welt der Zukunft 1853
  • Spevy a piesne 1854

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h Ľudovít Štúr(* 1815 Uhrovec — † 1856 Modra)— kodifikátor spisovnej slovenčiny, politik, estetik, pedagóg, básnik a publicista, jedna z ústredných osobností slovenského kultúrno-politického života polovice 19. storočiaRead more: http://zlatyfond.sme.sk/autor/53/Ludovit-Stur/#ixzz36Xy7o2TH”. 2014ねん7がつ5にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g h i Ľudovít Štúr – kodifikátor spisovnej slovenčiny, básnik, politik, publicista, redaktor, pedagóg”. 2014ねん7がつ5にち閲覧えつらん
  3. ^ a b Dňa 12. januára 1856 zomrel Ľudovít Štúr. Pokojne skonal, „po velkých bolestech a mnohém krvácení“ . Životom vyplnil štyridsať rokov, dva mesiace a štrnásť dní.”. 2014ねん7がつ5にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d e Životopis Ľudovíta Štúra”. 2014ねん7がつ5にち閲覧えつらん
  5. ^ 当時とうじ、やや先行せんこうしてアントン・ベルノラークが考案こうあんした「ベルノラーク」、そして古典こてんてきな「聖書せいしょチェコ」の改良かいりょうばん標準ひょうじゅんさだめる2つのうごきが並行へいこうしていた。稲野いなのつよし「スロヴァキアにおけるスラヴ思想しそう変遷へんせん過程かてい:1848ねんのチェコ・スロヴァキア問題もんだい前提ぜんていとして」『東欧とうおう研究けんきゅう』3ごう、1980ねん、22-37ページ。

ウィキメディア・コモンズ

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外部がいぶリンク

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