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上村うえむら孝二こうじ

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上村うえむら 孝二こうじ
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1908-03-14) 1908ねん3月14にち
日本の旗 日本にっぽん佐賀さがけん武雄たけおまち
死没しぼつ 1996ねん3月25にち(1996-03-25)(88さいぼつ
出身しゅっしんこう 九州きゅうしゅう帝国ていこく大学だいがく
子供こども 上村うえむら和也かずや(比較ひかく文学ぶんがく研究けんきゅうしゃ)
上村うえむら直己なおき(ドイツ文学ぶんがく研究けんきゅうしゃ)
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 国語こくごがく
研究けんきゅう機関きかん 奉天ほうてん高等こうとう女学校じょがっこう鹿児島かごしまけん師範しはん学校がっこう鹿児島大学かごしまだいがく鹿児島短期大学かごしまたんきだいがく
学位がくい 文学ぶんがく博士はかせ
テンプレートを表示ひょうじ

上村うえむら 孝二こうじ(かみむら たかじ[1]1908ねん明治めいじ41ねん3月14にち[1][2] - 1996ねん平成へいせい8ねん3月25にち[1][2])は、日本にっぽん国語こくご学者がくしゃ方言ほうげん学者がくしゃ九州きゅうしゅう方言ほうげんがくにおける重鎮じゅうちんだった。文学ぶんがく博士はかせ鹿児島大学かごしまだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ[1]

経歴けいれき

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1908ねん佐賀さがけん武雄たけおまち出生しゅっしょう本籍ほんせき鹿児島かごしまけん上甑かみこしきむらこしきとう列島れっとう現在げんざい薩摩さつま川内せんだい一部いちぶ[1]。しかし、生後せいごすぐははくなったこともあり、上甑かみこしきむら中甑なかこしき上村うえむら養子ようしとなった[2][3]同村どうそん中津なかつ尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこうて、1925ねん大正たいしょう14ねん)に本土ほんど鹿児島かごしま県立けんりつ川内せんだい中学校ちゅうがっこう (旧制きゅうせい)卒業そつぎょう[3]

旧制きゅうせい中学ちゅうがく卒業そつぎょう帰郷ききょう[3]上甑かみこしきむら江石えいし尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこうで1年間ねんかん代用だいよう教員きょういんつとめた[2][3]。その九州きゅうしゅう帝国ていこく大学だいがく法文学部ほうぶんがくぶ国文学こくぶんがく入学にゅうがくしてまなび、1933ねん3がつ卒業そつぎょう

大学だいがく卒業そつぎょう

卒業そつぎょうは、どう1933ねん4がつより満州まんしゅうこく文教ぶんきょう学務がくむちょうしつ勤務きんむ[2][3]よく1934ねん昭和しょうわ9ねん)4がつ11にちづけ満州まんしゅうこくうち奉天ほうてん高等こうとう女学校じょがっこう講師こうしとなり、同年どうねん9がつ5にち教諭きょうゆ昇任しょうにんのち学校がっこうめいは「奉天ほうてん浪速なにわ高等こうとう女学校じょがっこう」と改称かいしょう[2][3]1941ねん3月31にち奉天ほうてん浪速なにわ高等こうとう女学校じょがっこう教諭きょうゆから鹿児島かごしまけん師範しはん学校がっこう教諭きょうゆ転任てんにんとなり帰国きこく[2][3]1943ねん鹿児島かごしまけん師範しはん学校がっこう官立かんりつ鹿児島かごしま師範しはん学校がっこうとなり、つづ教諭きょうゆつとめた[2]1945ねん4がつより鹿児島かごしま師範しはん学校がっこう教授きょうじゅけん教諭きょうゆ[2]

戦後せんご

学制がくせい改革かいかくにより、1949ねん7がつ31にちより新制しんせい鹿児島大学かごしまだいがく助教授じょきょうじゅにんじられた[2][3]1951ねん4がつ1にち鹿児島大学かごしまだいがく文理学部ぶんりがくぶ教授きょうじゅ昇格しょうかく1965ねん4がつ1にちからは学部がくぶ再編さいへんにより法文学部ほうぶんがくぶ教授きょうじゅとなった[2]1972ねん学位がくい論文ろんぶん九州きゅうしゅう西南せいなん方言ほうげんおよ琉球りゅうきゅう地方ちほう方言ほうげん研究けんきゅう[3]九州大学きゅうしゅうだいがく提出ていしゅつして文学ぶんがく博士はかせごう取得しゅとく[4][2]1973ねん4がつ2にち鹿児島大学かごしまだいがく定年ていねん退官たいかんして名誉めいよ教授きょうじゅとなった。

その鹿児島短期大学かごしまたんきだいがく教授きょうじゅ就任しゅうにん[2][3]1974ねん4がつから3年間ねんかん鹿児島短期大学かごしまたんきだいがく図書館としょかんちょうつとめた[3]1982ねん3月31にち鹿児島短期大学かごしまたんきだいがく辞職じしょく[2]1996ねん3月25にち再生さいせい不良ふりょうせい貧血ひんけつ死去しきょ[2][3]同日どうじつづけせいよんじょされる[3]

受賞じゅしょう栄典えいてん

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研究けんきゅう内容ないよう業績ぎょうせき

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鹿児島大学かごしまだいがく在任ざいにんちゅう九州きゅうしゅうかく地方ちほう方言ほうげん採集さいしゅう[3]1949ねん昭和しょうわ24ねん)より国立こくりつ国語こくご研究所けんきゅうじょ地方ちほう研究けんきゅういんつとめた[3]国立こくりつ国語こくご研究所けんきゅうじょによる『日本にっぽん言語げんご地図ちず』の鹿児島かごしま地区ちくかんする部分ぶぶんをすべてがけ、そのろうたいして文化庁ぶんかちょうから表彰状ひょうしょうじょうける[3]。また、1975ねん昭和しょうわ50ねん)4がつ鹿児島かごしま県議会けんぎかい議員ぎいん選挙せんきょ枕崎まくらざき地方ちほうにおいて「佐多さた(さた)」が「さだ」とかれたひょう有効ゆうこうひょうとなるか裁判さいばんあらそわれたさい福岡ふくおか高等こうとう裁判所さいばんしょ宮崎みやざき支部しぶ方言ほうげん学者がくしゃとしてどう地方ちほうかたりちゅうの「た」おと濁音だくおんすることべ、解決かいけつ貢献こうけんした[3][5]著書ちょしょに『九州きゅうしゅう方言ほうげん南島なんとう方言ほうげん研究けんきゅう』(秋山あきやま書店しょてん、1998ねん)があるほか、共著きょうちょしょ多数たすう

家族かぞく親族しんぞく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e 現代げんだい物故ぶっこしゃ事典じてん 1994~1996』(日外にちがいアソシエーツ、1997ねん)「上村うえむら孝二こうじ
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 国語こくご国文こくぶん 薩摩さつま 上村うえむら孝二こうじ先生せんせい追悼ついとうごう』(鹿児島大学かごしまだいがく法文学部ほうぶんがくぶ国語こくご国文学こくぶんがく研究けんきゅうしつ、1997ねん3がつ)「上村うえむら孝二こうじ先生せんせい略歴りゃくれき
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 国語こくご国文こくぶん 薩摩さつま 上村うえむら孝二こうじ先生せんせい追悼ついとうごう』(鹿児島大学かごしまだいがく法文学部ほうぶんがくぶ国語こくご国文学こくぶんがく研究けんきゅうしつ、1997ねん3がつ)1-5ぺーじ上村うえむら孝二こうじ先生せんせいしのぶ」(池之上いけのうえひろし
  4. ^ CiNii(学位がくい論文ろんぶん)
  5. ^ 国語こくご国文こくぶん 薩摩さつま 上村うえむら孝二こうじ先生せんせい追悼ついとうごう』(鹿児島大学かごしまだいがく法文学部ほうぶんがくぶ国語こくご国文学こくぶんがく研究けんきゅうしつ、1997ねん3がつ)11-12ぺーじ上村うえむら孝二こうじ先生せんせいわたし」(藤井ふじい茂利しげとし
  6. ^ 南日本新聞社みなみにほんしんぶんしゃへん郷土きょうどじんけい じょう』(はるえんどう書店しょてん、1969ねん)414ぺーじ
  7. ^ 南日本新聞社みなみにほんしんぶんしゃへん郷土きょうどじんけい じょう』(はるえんどう書店しょてん、1969ねん)446ぺーじみなみ日本にっぽん新聞しんぶん1999ねん9がつ23にち朝刊ちょうかん5ぺーじかごしまじん紀行きこう