(Translated by https://www.hiragana.jp/)
中村覚之助 (サッカー指導者) - Wikipedia コンテンツにスキップ

中村なかむらさとしこれすけ (サッカー指導しどうしゃ)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
なかむら かくのすけ

中村なかむら さとしこれすけ
生誕せいたん 1878ねん5月
明治めいじ政府せいふ 和歌山わかやまけん東牟婁ひがしむろぐん那智なちまち
死没しぼつ (1906-07-03) 1906ねん7がつ3にち(28さいぼつ
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく 兵庫ひょうごけん神戸こうべ
記念きねん日本にっぽんサッカーの始祖しそ 中村なかむらさとしじょ 顕彰けんしょう」(那智なちえきまえ
国籍こくせき 大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく
出身しゅっしんこう 和歌山わかやま師範しはん学校がっこう
東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう
著名ちょめい実績じっせき サッカー文献ぶんけん翻訳ほんやくをきっかけに日本にっぽんはつサッカーチームを結成けっせい
日本にっぽんサッカー普及ふきゅう貢献こうけん
テンプレートを表示ひょうじ

中村なかむら さとしこれすけ(なかむら かくのすけ、1878ねん5月 - 1906ねん7がつ3にち)は、明治めいじ時代じだい人物じんぶつ日本にっぽんはじめて本格ほんかくてきサッカー紹介しょうかいし、その普及ふきゅう貢献こうけんした。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

1878ねん明治めいじ11ねん)、和歌山わかやまけん東牟婁ひがしむろぐん浜ノ宮はまのみやげん那智勝浦なちかつうらまち)でまれ、神社じんじゃ氏子うじこつとめる家柄いえがらでもあった。1899ねん明治めいじ32ねん)、和歌山わかやま師範しはん学校がっこうげん和歌山大学わかやまだいがく教育きょういく学部がくぶ)を卒業そつぎょうし、宇久井うぐい尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこうげん宇久井うぐい小学校しょうがっこう)で教師きょうしとなるが、1ねん退職たいしょくした。

1900ねん明治めいじ33ねん)、東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこうげん筑波大学つくばだいがく)に入学にゅうがく1902ねん明治めいじ35ねん)、教授きょうじゅ坪井つぼい玄道げんどうかえったアメリカ[ちゅう 1]ほん「アッソシェーション.フットボール」翻訳ほんやくし、ア式蹴球あしきしゅうきゅうげん筑波大学つくばだいがく蹴球しゅうきゅう)を創設そうせつ。これが日本にっぽん最初さいしょのアしきフットボール(現在げんざいサッカー)のチームであるとされる。中村なかむら選手せんしゅとしてはくわわらず、運営うんえいやルールの指導しどうなどにあたった[1]1903ねん明治めいじ36ねんあきにはその「アッソシェーション.フットボール」を編集へんしゅうして東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう蹴球しゅうきゅう出版しゅっぱんした。日本にっぽん最初さいしょのサッカー指導しどうしょである[2]1904ねん明治めいじ37ねん2がつ6にちには4年生ねんせい中村なかむら企画きかく東京とうきょうだか横浜よこはまカントリー・アンド・アスレティック・クラブ(YC&AC)と日本にっぽん最初さいしょのサッカー対外たいがい試合しあいおこなった[3]

1904ねん明治めいじ37ねん)3がつ東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう卒業そつぎょう翌年よくねんきよし山東さんとうしょうすみみなみ師範しはん学校がっこうくにから派遣はけんされた。1906ねん明治めいじ39ねん)6がつ28にちやまい療養りょうようのために帰国きこくし、神戸こうべ到着とうちゃく1906ねん明治めいじ39ねん)7がつ3にち死去しきょした。

2002ねん平成へいせい14ねん)、和歌山わかやま文化ぶんか協会きょうかいだい53かい先覚せんかく文化ぶんか功労こうろうしゃとして顕彰けんしょう出生しゅっしょうにあたる那智勝浦なちかつうらまち那智なちえきまえ顕彰けんしょうてられた[4]

JFAのシンボルマーク[編集へんしゅう]

日本にっぽんサッカー協会きょうかい(JFA)のシンボルマークであるはち咫烏(やたがらす)は、中村なかむら出身しゅっしんである那智勝浦なちかつうらまちにある熊野くまの那智なち大社たいしゃはち咫烏をヒントにして、東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう現在げんざい筑波大学つくばだいがく)の後輩こうはい漢文かんぶん学者がくしゃ内野台うちのだいみねらの発案はつあんもと1931ねんにち名子なご実三じつぞうがデザインしたとされる[5]。ただし、日本にっぽんサッカー協会きょうかいから発行はっこうされた公式こうしき書籍しょせきなどには中村なかむらとの関連かんれん記載きさいされたことはない。

2021ねん現在げんざい中村なかむら日本にっぽんサッカー殿堂でんどう掲額けいがくされていないが、2011ねん委員いいんかい推薦すいせん掲額けいがくしゃである牛木うしきもと吉郎よしろう中村なかむら特別とくべつ表彰ひょうしょうのこすべきと主張しゅちょうしている[6]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ イギリスとも。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ “「はち咫烏」が日本にっぽんサッカーのシンボルになった理由りゆう 和歌山わかやま出身しゅっしん高等こうとう師範しはん学生がくせい普及ふきゅうそそいだ情熱じょうねつ. 産経さんけいWEST: p. 3. (2015ねん8がつ6にち). https://www.sankei.com/article/20150806-LLH2CVK4QZMUVIA7LVVADKXBJE/3/ 2021ねん2がつ10日とおか閲覧えつらん 
  2. ^ はち咫烏と日本にっぽんサッカーのみのおや 中村なかむらさとしこれすけについて”. 和歌山わかやまけん 那智勝浦なちかつうらまち. 2021ねん2がつ10日とおか閲覧えつらん
  3. ^ 沿革えんかく歴史れきし”. 日本にっぽんサッカー協会きょうかい. 2014ねん9がつ24にち閲覧えつらん
  4. ^ 県民けんみんとも2がつごう”. 和歌山わかやまけん. 2021ねん2がつ10日とおか閲覧えつらん
  5. ^ 「「はち咫烏がルーツ」協会きょうかいマークに名誉めいよ会長かいちょう朝日新聞あさひしんぶん、2002ねん4がつ7にち、2014ねん9がつ24にち閲覧えつらん
  6. ^ 中村なかむらさとしこれすけ殿堂でんどう”. 牛木うしきもと吉郎よしろうのビバ!スポーツ時評じひょう (2011ねん8がつ24にち). 2021ねん2がつ10日とおか閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]