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ぐみ

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ぐみ(かちぐみ)とは、だい世界せかい大戦たいせん日本にっぽん降伏ごうぶくこうも、日本にっぽん敗北はいぼくしんじず、「日本にっぽん戦争せんそうった」としんじていた在外ざいがい日本人にっぽんじんのグループのこと[1][2]

1945ねん8がつ日本にっぽんポツダム宣言せんげん受諾じゅだくして太平洋戦争たいへいようせんそう終結しゅうけつしたのちも、ブラジルおもとした南米なんべい諸国しょこく米国べいこくハワイしゅうなどの日系にっけいじん社会しゃかいおよび外国がいこく抑留よくりゅうされていた日本人にっぽんじんなかには、敗戦はいせんという現実げんじつれられずに、「日本にっぽん連合れんごうこくった」としんじていた人々ひとびとがいた[2]。こうした人々ひとびとは「ぐみ」、戦勝せんしょうなどとばれた[1][2]一方いっぽうで、敗戦はいせん事実じじつ認識にんしきし、戦勝せんしょう納得なっとくさせようとしたひとたちは、認識にんしきぐみなどとばれた[1][2]

ブラジル

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ブラジルでは、1946ねん3がつ以降いこう戦勝せんしょう過激かげき分子ぶんしとくぎょうたい[3][4]による、認識にんしきねらったテロ事件じけん頻発ひんぱつ同年どうねん7がつまつには日本人にっぽんじんブラジルじんあいだ騒乱そうらん事件じけんきて戦勝せんしょう組織そしきしんどう連盟れんめい会員かいいん検挙けんきょされ、ブラジル国民こくみんたい日本人にっぽんじん感情かんじょう悪化あっかした[2]認識にんしきはアメリカ総領事館そうりょうじかんつうじて戦勝せんしょう日本にっぽん親類しんるい友人ゆうじんにはがきの送付そうふ依頼いらいし、また中立ちゅうりつこくスウェーデン政府せいふ、アメリカ国務省こくむしょうGHQおよび日本にっぽん政府せいふ協力きょうりょくして、日本にっぽん新聞しんぶん映像えいぞうフィルムをせるなどした結果けっか、1947ねん1がつ暗殺あんさつ事件じけんのち対立たいりつ沈静ちんせいかった[2][5]

のち両国りょうこく国交こっこう回復かいふくし、特命とくめい全権ぜんけん大使たいしリオ・デ・ジャネイロ再度さいど赴任ふにんしたのちの1950年代ねんだい初頭しょとうに、教育きょういく程度ていどひく地方ちほうおおかった「ぐみ」にたいして大使たいしみずからが説明せつめいおこなうにいたるまで、両者りょうしゃあいだ対立たいりつつづくこととなった。[2][6]

戦勝せんしょう」のおもみの原因げんいんについて、諏訪すわ (2010, pp. 65–67)は、

  • 1931ねん満州まんしゅう事変じへんのち、ブラジルでは「日本にっぽんからブラジルへの移民いみんには侵略しんりゃくてき意図いとがある」との警戒けいかいかんひろがり、排日はいにちろんたかまって、ヴァルガス政権せいけんの1934ねん日本にっぽん移民いみん制限せいげんする規定きてい連邦れんぽうしん憲法けんぽうまれ、またコンセッソン契約けいやく[7]連邦れんぽう議会ぎかい上院じょういん許可きょか必要ひつようになり、1938ねんには移民いみん同化どうかうながす「外国がいこくじん入国にゅうこくほう」(Decreto-Lei nº 406)が施行しこうされて日本人にっぽんじん学校がっこう閉鎖へいさされるなど、日系にっけいじんはブラジル社会しゃかいなか抑圧よくあつてき立場たちばにおかれ、日本にっぽん戦争せんそう勝利しょうりして抑圧よくあつから解放かいほうされることへの期待きたいかんがあったこと
  • (1942ねんの)日本にっぽんとブラジルの国交こっこう断絶だんぜつ日本にっぽん領事館りょうじかん職員しょくいん移民いみん会社かいしゃ社員しゃいん帰国きこくしてしまっていたことから、1945ねん8がつ終戦しゅうせん日本人にっぽんじん社会しゃかい統制とうせい機関きかんいていたこと、精神せいしんてき不安定ふあんてい状態じょうたいかれたこと

げている。また国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん (2009)は、

  • 1941ねん6がつ日本語にほんご新聞しんぶん廃刊はいかんされたのちポルトガルのメディアは連合れんごうこくのプロパガンダだとして信用しんようしなかった人々ひとびとは、(日本にっぽんのプロパガンダがふくまれるにもかかわらず)情報じょうほうげん日本にっぽん短波たんぱ放送ほうそうだけにたよってしまっていたことから、デマがひろがりやすくなっていたこと

げている。また高木たかぎ俊朗としろう (1991, p. 397)は、

  • ぐみ人々ひとびと基本きほん思想しそうには、異郷いきょう孤立こりつし、戦争せんそう迫害はくがいされた移民いみんしんささえとして存在そんざいしていた、大和やまと民族みんぞくもっと優秀ゆうしゅう民族みんぞくとするかんがえや信念しんねんがあったことをげている。
  • 狂信きょうしんだい1かんにおいて、ぐみなかには、実際じっさいには敗戦はいせんにより値打ねうちをうしなった日本にっぽんきゅうえん紙幣しへいだましてりつけることをねらったものもいて、そういったもの認識にんしきへの殺害さつがい・テロにおよんだことを指摘してきしている[8]。(後述こうじゅつ詐欺さぎ事件じけん参照さんしょう。)

ぐみ一般いっぱん狂信きょうしんさのげんわれと理解りかいされることもおおいが、いわゆるぐみといわれるグループのなかにも「いろいろ日本にっぽんわれているのは残念ざんねんなことであるが」として、それでも平和へいわ以上いじょう自身じしんらがたたかっていた双方そうほう国々くにぐにはしとなることひとし冷静れいせい対応たいおううったえる人々ひとびともいた。ぎゃくにいえば、事実じじつ気付きづいていても、テロのために「日本にっぽんけた」とは表立おもてだって言明げんめいしにくい状態じょうたいであったことがうかがえる。また、むしろ「ぐみ」のものきゅう日本円にほんえんぐみものだましてっていたためにいかりをかって殺害さつがい事件じけんとうこったのだとする、「ぐみ」(この場合ばあいは、実質じっしつてきには「もとぐみ」というべきか)からの主張しゅちょうもみられた。

なお、高度こうど経済けいざい成長せいちょうすえの1973ねんにブラジルから日本にっぽん帰国きこくした「ぐみ」の家族かぞく3くみが、「ほらろ、日本にっぽんはこんなにゆたかになっている、やっぱり日本にっぽんったんだ。」といった趣旨しゅし発言はつげんをしていたという[9]

詐欺さぎ事件じけん

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1946ねん昭和しょうわ21)1がつしんえん切替きりかえかみくずとなったきゅう紙幣しへいぐみたいしてだましてりつける事件じけん頻発ひんぱつした[2]きゅうえん紙幣しへい購入こうにゅうするために農場のうじょうったものなどもおり、だまされたとかったのち自殺じさつ一家いっか離散りさんなどの悲劇ひげき相次あいついだ。ブラジルに大量たいりょうきゅうえん紙幣しへいんだもの正体しょうたいかっておらず、上海しゃんはい香港ほんこん大量たいりょうきゅうえん紙幣しへいあつめていた児玉こだま機関きかん関与かんようたがわれたが証拠しょうこ見出みいだされていない[10]

岡安おかやす (1952, p. 90)は、ペルーでは1945ねん8がつ15にち以降いこうぐみぐみ対立たいりつこり、1952ねん3-5月に岡安おかやす現地げんち訪問ほうもんしたときにも、ペルーの在留ざいりゅう日本人にっぽんじん7,000-10,000にんなかぐみひとがなお700-800にんのこっていて、ペルーを訪問ほうもんした岡安おかやすのもとへぐみひと面会めんかいたが、事情じじょう説明せつめいしても日本にっぽんけたことに納得なっとくしないひともいた、と報告ほうこくしている。

同書どうしょでは、ぐみまれた原因げんいんとして、終戦しゅうせんころ上海しゃんはい方面ほうめんから、しゅとしてユダヤじん日本にっぽん紙幣しへい売込うりこみにて、日本にっぽん紙幣しへいわせるために当時とうじ大本営だいほんえい発表はっぴょう誇張こちょうして日本にっぽん勝利しょうりするかのようにつたえ、日本にっぽん軍艦ぐんかん日系にっけいじんむかえにやってるなど吹聴ふいちょうしたことをげている[11]

ぐみ人々ひとびとは、紀元節きげんせついわ教育きょういく勅語ちょくごむなど戦前せんぜんのままの思想しそう教育きょういくつづけており、ペルー政府せいふからも懸念けねんされていたという[11]

日本人にっぽんじん捕虜ほりょ収容しゅうようしょ

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各地かくち捕虜ほりょ収容しゅうようしょでは情報じょうほうすくなかったこともあり、連合れんごう国軍こくぐん説明せつめいする「終戦しゅうせん」をしんじないもの相当そうとうすう存在そんざいした。1945ねん12月2にち、インド政府せいふ沢田さわだれんさんもとビルマ大使たいし磯田いそだ三郎さぶろうもと陸軍りくぐん中将ちゅうじょうをデオリ収容しゅうようしょアジュメール近郊きんこう)に派遣はけんして説明せつめいにあたらせたが、沢田さわだ磯田いそだ偽物にせものとしてうたがものあらわ収拾しゅうしゅうがつかなくなった。やがて収容しゅうよう所内しょないで「ぐみ」と「ぐみ」にかれたこうそうはじまり、1946ねん2がつ25にちには、騒乱そうらん状態じょうたいになった「ぐみ」にたいして警備けいびへいによる発砲はっぽうおこなわれ17にん死亡しぼうした[12]

関連かんれんメディア

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  • 丸山まるやま, 浩明ひろあき ちょ丸山まるやま浩明ひろあき へん『ブラジルにちけい移民いみんひゃくねん軌跡きせき明石書店あかししょてん、2010ねんISBN 4750332372 仁平にだいら (2010)書評しょひょう
  • プロジェクト (2010ねん). “jp2br.net”. 「ブラジル日本人にっぽんじん移民いみんひゃくねん軌跡きせき – ブラジルにおける日系にっけい移民いみん資料しりょう分析ぶんせき保存ほぞんとデジタルアーカイブ構築こうちく」プロジェクト. 2016ねん7がつ16にち閲覧えつらん仁平にだいら (2010, p. 655)で紹介しょうかいされている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 諏訪すわ 2010, p. 68.
  2. ^ a b c d e f g h 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん 2009.
  3. ^ 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん (2009)は、日本にっぽんからの短波たんぱ放送ほうそうによって「トッコウタイ」(=とくおさむたい)という言葉ことば発音はつおんだけをき、それに「とくくだりたい」という漢字かんじてたものだと説明せつめいしている。
  4. ^ 諏訪すわ (2010, p. 68)は、「フルネーム」は「特別とくべつ行動こうどうたい」としている。
  5. ^ 諏訪すわ (2010, p. 68)では、どう時期じきサンパウロしゅうツパーン英語えいごばん日本人にっぽんじん青年せいねん7にんがある農家のうかにやってきたブラジルの「官憲かんけん首領しゅりょう」を殺害さつがいしたことがぐみぐみの「こうそう」のきっかけだった、としている。
  6. ^ 岡安おかやす (1952, p. 90)では、岡安おかやすがブラジルを訪問ほうもんした1952ねん3-5がつごろには、対立たいりつすでおさまっていた、としている。
  7. ^ 日本にっぽんかくけんがブラジルの農地のうちげ、かくけん出身しゅっしん日系にっけい移民いみん土地とちてるために締結ていけつしていた契約けいやく諏訪すわ 2010, pp. 66–67)
  8. ^ 「ノンフィクション 高木たかぎ俊朗としろうの「狂信きょうしん」」『読売新聞よみうりしんぶん』1970ねん9がつ2にち、5めん
  9. ^ 高木たかぎ 1991, p. あとがき.
  10. ^ ブラジルにちけい移民いみん 「コダマ」によみがえる悪夢あくむ 敗戦はいせん日本円にほんえんった黒幕くろまく朝日新聞あさひしんぶん』1976ねん3がつ8にち夕刊ゆうかん、3はん、9めん
  11. ^ a b 岡安おかやす 1952, p. 90.
  12. ^ 終戦しゅうせんあいだもないインド収容しゅうようしょ 邦人ほうじん17にんころされる『朝日新聞あさひしんぶん』1976ねん昭和しょうわ51ねん)5がつ31にち朝刊ちょうかん、13はん、3めん

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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