国際 こくさい 連合 れんごう 総会 そうかい 決議 けつぎ 181 (II)
日付 ひづけ :
1947年 ねん 11月29日 にち
形式 けいしき :
総会 そうかい 決議 けつぎ
会合 かいごう :
128回 かい
コード:
A/RES/181(II)
文書 ぶんしょ :
英語 えいご
投票 とうひょう :
賛成 さんせい : 33 反対 はんたい : 13 棄権 きけん : 10
投票 とうひょう 結果 けっか :
パレスチナを委任 いにん 統治 とうち するイギリスおよび国連 こくれん 加盟 かめい 国 こく へ、パレスチナの独立 どくりつ と分割 ぶんかつ および経済 けいざい 同盟 どうめい の提案 ていあん を採用 さいよう 、実施 じっし するよう勧告 かんこく する決議 けつぎ を採択 さいたく [1] 。
UNSCOP(1947年 ねん 9月 がつ 3日 にち )と国連 こくれん 臨時 りんじ 委員 いいん 会 かい (1947年 ねん 11月25日 にち ) による分割 ぶんかつ 案 あん 。国連 こくれん 臨時 りんじ 委員 いいん 会 かい の案 あん が決議 けつぎ にかけられた。
パレスチナ分割 ぶんかつ 決議 けつぎ (パレスチナぶんかつけつぎ 、英 えい : United Nations Partition Plan for Palestine )は、当時 とうじ のパレスチナ問題 もんだい を解決 かいけつ するために出 だ された国連 こくれん 決議 けつぎ 案 あん 。この案 あん は「経済 けいざい 同盟 どうめい を伴 ともな う分割 ぶんかつ 案 あん (Plan of Partition with Economic Union)」と述 の べられ、イギリスの委任 いにん 統治 とうち を終 お わらせアラブ人 じん とユダヤ人 じん の国家 こっか を創出 そうしゅつ し、エルサレム を特別 とくべつ な都市 とし (コーパス・セパラタム (英語 えいご 版 ばん ) )とすることとなっていた。1947年 ねん 11月29日 にち 国際 こくさい 連合 れんごう 総会 そうかい において、この案 あん の採用 さいよう と実施 じっし を勧告 かんこく する決議 けつぎ が決議 けつぎ 181号 ごう (II)として採択 さいたく された[1] 。
決議 けつぎ 案 あん のI項 こう には、「委任 いにん 統治 とうち の終了 しゅうりょう 、分割 ぶんかつ と独立 どくりつ 」に関 かん する条文 じょうぶん が含 ふく まれていた。委任 いにん 統治 とうち を速 すみ やかに終了 しゅうりょう し、遅 おそ くとも1948年 ねん 8月 がつ 1日 にち までにはイギリス はパレスチナ から撤収 てっしゅう することとなった。新 あたら しい国家 こっか は撤収 てっしゅう から2ヵ月 かげつ 後 ご に成立 せいりつ する予定 よてい であった。シオニズム として知 し られるユダヤ人 じん の民族 みんぞく 主義 しゅぎ とシオニズムの前 まえ から先住 せんじゅう していたアラブ人 じん の民族 みんぞく 主義 しゅぎ は競合 きょうごう し相反 あいはん するため、これに対処 たいしょ すべく分割 ぶんかつ が提案 ていあん された。決議 けつぎ 案 あん のII項 こう では国境 こっきょう 線 せん についての提案 ていあん がなされている[2] 。また新 しん 国家 こっか は経済 けいざい 同盟 どうめい となることと、宗教 しゅうきょう 的 てき 少数 しょうすう 派 は の権利 けんり を保護 ほご するよう求 もと めた。
この案 あん はユダヤ人 じん 側 がわ には一部 いちぶ を除 のぞ き受 う け入 い れられたが[3] 、アラブ諸国 しょこく およびパレスチナのアラブ人 じん 指導 しどう 者 しゃ たちは一部 いちぶ を除 のぞ き拒絶 きょぜつ した[4] 。
総会 そうかい で決議 けつぎ が採択 さいたく されるとすぐに内戦 ないせん が勃発 ぼっぱつ し[5] 、分割 ぶんかつ 案 あん は実現 じつげん しなかった[6] 。
国際 こくさい 連盟 れんめい は第 だい 1次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 のち にオスマン帝国 ていこく 分割 ぶんかつ の一環 いっかん としてイギリスのパレスチナ委任 いにん 統治 とうち を認 みと めた。1918年 ねん に実施 じっし したイギリスの人口 じんこう 調査 ちょうさ ではアラブ人 じん は700,000人 にん 、ユダヤ人 じん 56,000人 にん と推計 すいけい している[7] 。
1917年 ねん のバルフォア宣言 せんげん でイギリスの外務 がいむ 大臣 だいじん は「パレスチナでのユダヤ人 じん 居住 きょじゅう 地 ち (ナショナル・ホーム)建設 けんせつ に好意 こうい を寄 よ せており…(中略 ちゅうりゃく )…パレスチナの非 ひ ユダヤ系 けい 住民 じゅうみん の市民 しみん 権 けん および宗教 しゅうきょう 的 てき 権利 けんり を害 がい することがあってはならない…(後略 こうりゃく )」と政府 せいふ の見解 けんかい を示 しめ している[7] 。この時点 じてん では居住 きょじゅう 地 ち 獲得 かくとく の手段 しゅだん として分割 ぶんかつ も国家 こっか の樹立 じゅりつ も言及 げんきゅう されてはいなかった。バルフォアの後任 こうにん 外相 がいしょう カーゾン侯爵 こうしゃく は、1500年 ねん の大半 たいはん の時期 じき パレスチナを占有 せんゆう してきたアラブ系 けい 住民 じゅうみん はどうなるか、そしてユダヤ人 じん 移民 いみん のために土地 とち を取 と り上 あ げることも、後 ご から来 き たもののために土地 とち を切 き り開 ひら いてきただけになることも彼 かれ らには納得 なっとく がいかないだろうと懸念 けねん しメモに残 のこ している[7] 。
1936年 ねん にパレスチナのアラブ反乱 はんらん が勃発 ぼっぱつ してユダヤ人 じん とアラブ人 じん の抗 こう 争 そう が激化 げきか すると、1937年 ねん 、ピール委員 いいん 会 かい (英語 えいご 版 ばん ) はパレスチナをアラブ国家 こっか と小 ちい さなユダヤ国家 こっか (15%程度 ていど )、国際 こくさい 地域 ちいき に分割 ぶんかつ する提案 ていあん を行 おこな った。アラブ側 がわ の指導 しどう 者 しゃ はこの提案 ていあん を拒絶 きょぜつ 。ユダヤの指導 しどう 者 しゃ ハイム・ヴァイツマン とベン=グリオン は今後 こんご の交渉 こうしょう の土台 どだい として、条件 じょうけん 付 つ きでこの提案 ていあん を承認 しょうにん するようシオニスト会議 かいぎ を納得 なっとく させた[8] [9] [10] [11] 。この提案 ていあん には、ローザンヌ条約 じょうやく のギリシャとトルコ間 あいだ での住民 じゅうみん 交換 こうかん をモデルに、アラブ住民 じゅうみん をユダヤ人 じん 国家 こっか の国境 こっきょう 外 がい へ移転 いてん することに関 かん する条文 じょうぶん が含 ふく まれていた。やはりこれに関 かん してもアラブ側 がわ からは拒否 きょひ された。
イギリスのウッドヘッド委員 いいん 会 かい はいくつかの分割 ぶんかつ 案 あん を考案 こうあん した。しかしこの提案 ていあん を実現 じつげん するのは困難 こんなん であった。1938年 ねん のイギリス政府 せいふ の政策 せいさく 要綱 ようこう では「パレスチナにアラブ人 じん とユダヤ人 じん の独立 どくりつ 国家 こっか を創出 そうしゅつ する提案 ていあん に関 かん する政治 せいじ 的 てき 、行政 ぎょうせい 的 てき 、財政 ざいせい 的 てき 困難 こんなん は非常 ひじょう に大 おお きく、問題 もんだい の解決 かいけつ は不可能 ふかのう である」と述 の べた。アラブ人 じん とユダヤ人 じん の代表 だいひょう をロンドン会議 かいぎ に招 まね いたが問題 もんだい 解決 かいけつ には至 いた らなかった[12] 。
1939年 ねん 5月 がつ のマクドナルド白書 はくしょ (英語 えいご 版 ばん ) (39年 ねん 白書 はくしょ )では、イギリス政府 せいふ はパレスチナをユダヤ人 じん 国家 こっか にすべきという方針 ほうしん はとっていないこと、またパレスチナへのユダヤ人 じん 移民 いみん を制限 せいげん する考 かんが えを示 しめ した。これに対 たい しユダヤ側 がわ は拒否 きょひ 反応 はんのう を見 み せた。イギリス政府 せいふ に移民 いみん 制限 せいげん を無 な くすよう要請 ようせい し、またアリヤー・ベート と呼 よ ばれる違法 いほう 移民 いみん が発生 はっせい した。強硬 きょうこう 派 は はレヒ を組織 そしき した。彼 かれ らはイギリスに抵抗 ていこう するユダヤ人 じん テロ組織 そしき であり、一時 いちじ はナチスと協力 きょうりょく することも考 かんが えた[13] 。しかしレヒはメンバーが100名 めい 以下 いか であり調査 ちょうさ の結果 けっか ナチスは興味 きょうみ を失 うしな っていった。結局 けっきょく この時代 じだい には全 すべ てが未 み 解決 かいけつ のままであった。
1945年 ねん 3月 がつ 31日 にち の時点 じてん でのユダヤ人 じん 占有 せんゆう 地 ち 。共有 きょうゆう 地 ち も含 ふく む。総 そう 面積 めんせき の6%を占 し め、そのうち半分 はんぶん 以上 いじょう がユダヤ民族 みんぞく 基金 ききん とパレスチナユダヤ人 じん 入植 にゅうしょく 協会 きょうかい によるものである[14] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、イギリスはホロコースト を生 い き残 のこ ったユダヤ人 じん のパレスチナへの移民 いみん を認 みと めるよう迫 せま られていたが、1939年 ねん の白書 はくしょ に従 したが い、ユダヤ人 じん の移民 いみん を制限 せいげん していた。ユダヤ人 じん は移民 いみん 制限 せいげん を拒否 きょひ し武装 ぶそう 抵抗 ていこう を開始 かいし した。彼 かれ らとアメリカ は移民 いみん 制限 せいげん 政策 せいさく の廃止 はいし を迫 せま り、英 えい 米 べい 調査 ちょうさ 委員 いいん 会 かい (英語 えいご 版 ばん ) の設立 せつりつ に至 いた った。1946年 ねん 4月 がつ 委員 いいん 会 かい は全会 ぜんかい 一致 いっち で、ヨーロッパからパレスチナへの100,000人 にん ものユダヤ人 じん 難民 なんみん の即時 そくじ 受 う け入 い れを承認 しょうにん 。しかし、この勧告 かんこく においてもアラブ人 じん 国家 こっか 、ユダヤ人 じん 国家 こっか について言及 げんきゅう はなされていなかった。イギリスのパレスチナ当局 とうきょく はこの提案 ていあん を拒否 きょひ 。パレスチナにおいてアラブ人 じん 、ユダヤ人 じん 双方 そうほう の武装 ぶそう 組織 そしき が活動 かつどう し、公共 こうきょう の秩序 ちつじょ を乱 みだ している間 あいだ はそのような移民 いみん は到底 とうてい 受 う け入 い れられないと述 の べた[15] 。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 戦争 せんそう 省 しょう はアラブ人 じん の反乱 はんらん に対 たい し米 べい 軍 ぐん 300,000人 にん を無 む 期限 きげん で動員 どういん する必要 ひつよう があると報告 ほうこく している[16] 。
1947年 ねん 2月 がつ 7日 にち 、イギリスはパレスチナの委任 いにん 統治 とうち を終了 しゅうりょう する意向 いこう を発表 はっぴょう 。1947年 ねん 4月 がつ 2日 にち にイギリスは国際 こくさい 連合 れんごう にパレスチナ問題 もんだい に関 かん する勧告 かんこく を正式 せいしき に要請 ようせい した[17] 。この頃 ころ ユダヤ人 じん の反 はん 英 えい テロは過激 かげき さを増 ま しており、前年 ぜんねん の7月 がつ にもキング・デイヴィッド・ホテル爆破 ばくは 事件 じけん が発生 はっせい 。アラブ人 じん 41名 めい 、イギリス人 じん 28名 めい 、ユダヤ人 じん 17名 めい を含 ふく む死者 ししゃ 91名 めい の大 だい 惨事 さんじ となった。
1947年 ねん 5月 がつ 15日 にち 、国連 こくれん は11カ国 かこく の代表 だいひょう からなる国連 こくれん パレスチナ特別 とくべつ 委員 いいん 会 かい (英語 えいご 版 ばん ) (UNSCOP)を組織 そしき した。委員 いいん 会 かい の中立 ちゅうりつ 性 せい を高 たか めるためメンバーは列強 れっきょう 諸国 しょこく 以外 いがい から選 えら ばれた。UNSCOPは公聴 こうちょう 会 かい やパレスチナ情勢 じょうせい の全般 ぜんぱん 的 てき な調査 ちょうさ を3ヶ月 かげつ 間 あいだ に渡 わた り実施 じっし することとなった。
イギリス艦 かん (左 ひだり )に強制 きょうせい 的 てき に誘導 ゆうどう されるエクソダス号 ごう (右 みぎ )
1947年 ねん 7月 がつ 18日 にち 、エクソダス号 ごう (英語 えいご 版 ばん ) は4,515人 にん もの移民 いみん 希望 きぼう 者 しゃ を乗 の せパレスチナへ向 む かっていた。イギリス海軍 かいぐん はこれを待 ま ち構 かま え、乗客 じょうきゃく をフランス 行 い きの船 ふね へ強制 きょうせい 的 てき に乗 の り換 か えさせた。乗客 じょうきゃく はパレスチナへの移民 いみん を主張 しゅちょう しフランスでの下船 げせん を拒否 きょひ 、最終 さいしゅう 的 てき に乗客 じょうきゃく はドイツ のハンブルク で強制 きょうせい 的 てき に降 お ろされた。この騒動 そうどう はイギリスにとてつもない悪評 あくひょう をもたらし、国際 こくさい 世論 せろん の後押 あとお しもありUNSCOPはより一層 いっそう 問題 もんだい 解決 かいけつ に向 む けて取 と り組 く んだ。
1947年 ねん 9月 がつ 3日 にち 、委員 いいん 会 かい は国連 こくれん 総会 そうかい に報告 ほうこく 書 しょ を提出 ていしゅつ した。報告 ほうこく 書 しょ は8章 しょう まであり第 だい 5章 しょう から第 だい 7章 しょう に委員 いいん 会 かい からの提案 ていあん がある。「第 だい 5章 しょう :提案 ていあん (I)」は全部 ぜんぶ で12の提案 ていあん があり、セクションAには委員 いいん 全員 ぜんいん が賛同 さんどう した11件 けん の提案 ていあん がある。セクションBには大 だい 多数 たすう が賛同 さんどう した提案 ていあん で、2人 ふたり の委員 いいん が反対 はんたい し、1人 ひとり は意見 いけん を表明 ひょうめい していない。「第 だい 6章 しょう :提案 ていあん (II)」では「経済 けいざい 同盟 どうめい を伴 ともな う分割 ぶんかつ 」が提案 ていあん されており、7人 にん の委員 いいん (カナダ 、チェコスロバキア 、グアテマラ 、オランダ 、ペルー 、スウェーデン 、ウルグアイ )が支持 しじ した。「第 だい 7章 しょう :提案 ていあん (III)」ではパレスチナの連邦 れんぽう 国家 こっか の樹立 じゅりつ が提案 ていあん されており、インド 、イラン 、ユーゴスラビア の委員 いいん がこれを支持 しじ した。
総括 そうかつ すると、委任 いにん 統治 とうち を終 お わらせパレスチナを独立 どくりつ させることについては全 ぜん 委員 いいん の意見 いけん が一致 いっち しているが、独立 どくりつ に関 かん して1つの連邦 れんぽう 制 せい 国家 こっか とすべきか(提案 ていあん (III)、少数 しょうすう 派 は 案 あん )、2つの国家 こっか とすべきか(提案 ていあん (II)、多数 たすう 派 は 案 あん )は意見 いけん が分 わ かれている。また、パレスチナ問題 もんだい の解決 かいけつ をユダヤ人 じん 問題 もんだい の解決 かいけつ と見 み るかについても意見 いけん の一致 いっち を見 み ていない[18] 。
提案 ていあん (I)は12件 けん の提案 ていあん からなる。セクションAは全 ぜん 委員 いいん の意見 いけん が一致 いっち した11の提案 ていあん で、セクションBは3名 めい が賛意 さんい を示 しめ していない。
1. 委任 いにん 統治 とうち の終了 しゅうりょう
パレスチナの委任 いにん 統治 とうち は可能 かのう な限 かぎ り速 すみ やかに終了 しゅうりょう すること。
2. 独立 どくりつ
パレスチナができる限 かぎ り早 はや く独立 どくりつ すること。
3. 移行 いこう 期間 きかん
独立 どくりつ には自立 じりつ を準備 じゅんび するための移行 いこう 期間 きかん をおき、可能 かのう な限 かぎ り短 みじか い期間 きかん であること。
4. 移行 いこう 期間 きかん 中 ちゅう の国連 こくれん の責任 せきにん
移行 いこう 期間 きかん 中 ちゅう は国連 こくれん がパレスチナを管理 かんり し、独立 どくりつ の準備 じゅんび にも責任 せきにん を持 も つ。
5. 聖地 せいち および宗教 しゅうきょう 的 てき 権益 けんえき
A. 礼拝 れいはい 、巡礼 じゅんれい などの宗教 しゅうきょう 的 てき 権利 けんり はキリスト教徒 きりすときょうと 、ユダヤ教徒 きょうと 、ムスリム、全 すべ てにおいて守 まも られなければならない。またこれはパレスチナ在住 ざいじゅう 者 しゃ のみならず海外 かいがい 在住 ざいじゅう 者 しゃ の権利 けんり についても同様 どうよう である。
B. 既存 きそん の宗教 しゅうきょう コミュニティーの権利 けんり が害 がい されることがあってはならない。
C. 宗教 しゅうきょう 的 てき な紛争 ふんそう を公平 こうへい に解決 かいけつ できるシステムを構築 こうちく すること。
D. 聖地 せいち や宗教 しゅうきょう に関 かん する規定 きてい を独立 どくりつ した新 しん 国家 こっか の憲法 けんぽう に盛 も り込 こ むこと。
6. ユダヤ人 じん 難民 なんみん
ヨーロッパに存在 そんざい する25万 まん 人 にん 近 ちか くの虐 しいた げられたユダヤ人 じん に対 たい し、国連 こくれん は何 なん らかの手立 てだ てを緊急 きんきゅう に手配 てはい する。
7. 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の原則 げんそく と社会 しゃかい 的 てき 少数 しょうすう 派 は の保護 ほご
A. 言論 げんろん や信教 しんきょう などの自由 じゆう と基本 きほん 的 てき 人権 じんけん の尊重 そんちょう 。
B. 社会 しゃかい 的 てき 少数 しょうすう 派 は は財産 ざいさん や権利 けんり について保護 ほご されなければならない。
8. 平和 へいわ 的 てき 関係 かんけい
A. 国際 こくさい 的 てき な紛争 ふんそう は平和 へいわ 的 てき 手段 しゅだん によって解決 かいけつ されなければならない。
B. 領土 りょうど 保全 ほぜん や政治 せいじ 的 てき 独立 どくりつ などについて、武力 ぶりょく による威嚇 いかく または行使 こうし 、および国連 こくれん の目的 もくてき に反 はん した行動 こうどう を自粛 じしゅく すること。
9. 経済 けいざい 的 てき 結合 けつごう
パレスチナ問題 もんだい が解決 かいけつ するまでは、そこに住 す む人々 ひとびと の生活 せいかつ と発展 はってん のためにパレスチナは経済 けいざい 的 てき に一丸 いちがん とならなければならない。
10. 治外法権 ちがいほうけん
かつてパレスチナで特権 とっけん を享受 きょうじゅ してきた国 くに はそれを放棄 ほうき すること。
11. 暴力 ぼうりょく 行為 こうい に対 たい する表明 ひょうめい
パレスチナで行 おこな われている暴力 ぼうりょく 行為 こうい を速 すみ やかに無 な くすよう国連 こくれん は最大限 さいだいげん 努力 どりょく を行 おこな うこと。
12. 一般 いっぱん 的 てき なユダヤ人 じん の問題 もんだい
パレスチナ問題 もんだい の解決 かいけつ がユダヤ人 じん の問題 もんだい 全般 ぜんぱん を解決 かいけつ することにはつながらない。
提案 ていあん (II)は3項 こう に分 わ かれている。この提案 ていあん は7名 めい の委員 いいん が支持 しじ している。
I項 こう 経済 けいざい 同盟 どうめい を伴 ともな う分割 ぶんかつ
パレスチナをアラブ人 じん 国家 こっか 、ユダヤ人 じん 国家 こっか 、エルサレム市 し の3つに分割 ぶんかつ する。
パレスチナにおいてアラブ人 じん 、ユダヤ人 じん 、双方 そうほう の主張 しゅちょう は相容 あいい れないものであり、現実 げんじつ 的 てき な手段 しゅだん として、また双方 そうほう の民族 みんぞく 主義 しゅぎ のためにも分割 ぶんかつ を提案 ていあん する。
分割 ぶんかつ 提案 ていあん は現実 げんじつ 的 てき な提案 ていあん であり、連邦 れんぽう 国家 こっか 制 せい はアラブ人 じん もしくはユダヤ人 じん のどちらかが支配 しはい するような状況 じょうきょう でない限 かぎ り機能 きのう しないと思 おも われる。
また、政治 せいじ 的 てき 、経済 けいざい 的 てき な自立 じりつ と責任 せきにん を促 うなが す点 てん においても連邦 れんぽう 国家 こっか 制 せい に優 すぐ れる。
分割 ぶんかつ についてアラブ人 じん が強 つよ く反対 はんたい していることは認識 にんしき しているが、移民 いみん 制限 せいげん されてきたユダヤ人 じん の心情 しんじょう および窮状 きゅうじょう を考慮 こうりょ するものである。アラブ人 じん の不安 ふあん を取 と り除 のぞ くためにもユダヤ人 じん 国家 こっか の拡張 かくちょう に対 たい しては国連 こくれん の制裁 せいさい を伴 ともな うものとする。
領地 りょうち 的 てき 資源 しげん 的 てき に限定 げんてい されているパレスチナにおいては、創出 そうしゅつ される2国家 こっか は経済 けいざい 的 てき 共同 きょうどう 体 たい となることが必須 ひっす である。政治 せいじ 的 てき に統一 とういつ されるのは不可能 ふかのう であっても経済 けいざい 的 てき には可能 かのう であると考 かんが えられる。
II項 こう 国境 こっきょう 線 せん
アラブ人 じん 国家 こっか は、西 にし ガリラヤ 、エルサレム市 し を除 のぞ くユダヤ・サマリアの丘陵 きゅうりょう 地帯 ちたい および、アシュドッド からエジプト国境 こっきょう に至 いた る海岸 かいがん 沿 ぞ いの平野 へいや 部 ぶ が含 ふく まれる。
ユダヤ人 じん 国家 こっか は、東 ひがし ガリラヤ、エスドラエロン 平原 ひらはら 、海岸 かいがん 沿 ぞ いの平野 へいや 部 ぶ の大半 たいはん およびネゲブ 地方 ちほう とする。
III項 こう エルサレム市 し
エルサレム市 し を国連 こくれん を施 ほどこせ 政権 せいけん 者 しゃ とした信託 しんたく 統治 とうち とする。この地 ち はキリスト教 きりすときょう 、ユダヤ教 きょう 、イスラム教 いすらむきょう の聖地 せいち であり、宗教 しゅうきょう 的 てき 平和 へいわ および海外 かいがい からの巡礼 じゅんれい 者 しゃ への利便 りべん に不都合 ふつごう があってはならない。
提案 ていあん (III)は提案 ていあん (II)に相対 そうたい するもので、3名 めい の委員 いいん がこれを支持 しじ している。
連邦 れんぽう 制 せい 国家 こっか
アラブ人 じん 、ユダヤ人 じん ともにパレスチナに歴史 れきし 的 てき 文化 ぶんか 的 てき な背景 はいけい を持 も ち、この点 てん からパレスチナに対 たい し両者 りょうしゃ は平等 びょうどう な権利 けんり を持 も つ。
パレスチナ問題 もんだい の解決 かいけつ はユダヤ人 じん の問題 もんだい を解決 かいけつ することにはならず、ユダヤ人 じん の民族 みんぞく 主義 しゅぎ と国家 こっか の樹立 じゅりつ という要求 ようきゅう を満 み たすよりも、ユダヤ人 じん が幸福 こうふく に生活 せいかつ を送 おく ることが何 なに よりも重要 じゅうよう である。
連邦 れんぽう 国家 こっか 制 せい を採 と るならば分割 ぶんかつ 案 あん のように経済 けいざい をコントロールする必要 ひつよう はなく、社会 しゃかい 的 てき 少数 しょうすう 派 は を虐 しいた げることにもならず、国際 こくさい 連合 れんごう 憲章 けんしょう の基本 きほん 原則 げんそく に合致 がっち する。
アラブ人 じん とユダヤ人 じん の潜在 せんざい 的 てき 対立 たいりつ を回避 かいひ するために1つの国家 こっか で忠誠 ちゅうせい 心 しん 、愛国心 あいこくしん をともにすることが平和 へいわ 実現 じつげん への道 みち である。
分割 ぶんかつ 案 あん は反 はん アラブ主義 しゅぎ とみなされるが、連邦 れんぽう 案 あん は反 はん ユダヤ主義 しゅぎ ではない。
アラブ人 じん とユダヤ人 じん の間 あいだ で協力 きょうりょく 関係 かんけい が現在 げんざい のパレスチナでも見 み られ、お互 たが いの協力 きょうりょく 体制 たいせい は実現 じつげん 可能 かのう であると推測 すいそく する。
分割 ぶんかつ 案 あん を作成 さくせい する上 じょう で国連 こくれん 第 だい 二 に 小 しょう 委員 いいん 会 かい は2つの地図 ちず を考慮 こうりょ した。
分割 ぶんかつ 提案 ていあん では、アラブ人 じん 国家 こっか は西 にし ガリラヤ地域 ちいき 、ユダヤ・サマリアの丘陵 きゅうりょう 地帯 ちたい 、アッコ の町 まち (アッコンとしても知 し られる歴史 れきし のある港 みなと 町 まち 、分割 ぶんかつ 案 あん ではアラブ人 じん 国家 こっか の貿易 ぼうえき 拠点 きょてん になることを想定 そうてい している)、現在 げんざい のガザ地区 ちく を含 ふく むアシュドッドからエジプト国境 こっきょう 沿 ぞ いの地域 ちいき が含 ふく まれていた。ユダヤ人 じん 国家 こっか はハイファ からレホヴォト に広 ひろ がる地域 ちいき と東 ひがし ガリラヤとネゲヴ 地方 ちほう を含 ふく む[19] 。エルサレム特別 とくべつ 区 く (コーパス・セパラタム (英語 えいご 版 ばん ) )はエルサレム とベツレヘム 周辺 しゅうへん 地域 ちいき が含 ふく まれる。
アラブ人 じん 国家 こっか は委任 いにん 統治 とうち 領 りょう の約 やく 43%であり[20] 、ユダヤ人 じん 国家 こっか は委任 いにん 統治 とうち 領 りょう の約 やく 56%とわずかに大 おお きい。これはユダヤ人 じん の将来 しょうらい の移民 いみん に対応 たいおう するためであった[20] 。ユダヤ人 じん 国家 こっか にはシャロン 平原 ひらはら 、イズレエル 渓谷 けいこく 、ヨルダン渓谷 けいこく といった肥沃 ひよく な土地 とち が含 ふく まれるが、大 だい 部分 ぶぶん は砂漠 さばく の広 ひろ がるネゲヴ である[19] 。またユダヤ人 じん 国家 こっか には紅海 こうかい へのアクセスが可能 かのう なエイラート も与 あた えられた。
報告 ほうこく 書 しょ には1946年 ねん 末 まつ までの公式 こうしき 統計 とうけい を基 もと に推定 すいてい された人口 じんこう 統計 とうけい が含 ふく まれている。分割 ぶんかつ 案 あん ではユダヤ人 じん 国家 こっか に可能 かのう な限 かぎ りユダヤ人 じん を収容 しゅうよう するようになっている。したがってアラブ人 じん 国家 こっか にはユダヤ人 じん は極少 きょくしょう 数 すう しか存在 そんざい しない。逆 ぎゃく にユダヤ人 じん 国家 こっか にはアラブ人 じん が多数 たすう 含 ふく まれている。ユダヤ人 じん 国家 こっか に住 す むユダヤ人 じん とアラブ人 じん はユダヤ人 じん 国家 こっか の市民 しみん となり、アラブ人 じん 国家 こっか に住 す むユダヤ人 じん とアラブ人 じん はアラブ人 じん 国家 こっか の市民 しみん となる予定 よてい だった。
アラブ人 じん とその他 た
ユダヤ人 じん
帰属 きぞく
人口 じんこう
国内 こくない 比率 ひりつ
人口 じんこう
国内 こくない 比率 ひりつ
人口 じんこう 合計 ごうけい
アラブ国家 こっか
725,000
99%
10,000
1%
735,000
ユダヤ国家 こっか
407,000
45%
498,000
55%
905,000
信託 しんたく 統治 とうち
105,000
51%
100,000
49%
205,000
合計 ごうけい
1,237,000
67%
608,000
33%
1,845,000
1947年 ねん 9月 がつ 3日 にち に提出 ていしゅつ されたUNSCOPの報告 ほうこく 書 しょ の第 だい 4章 しょう A COMMENTARY ON PARTITION より
1947年 ねん の国連 こくれん 分割 ぶんかつ 案 あん に基 もと づく国境 こっきょう 線 せん : ユダヤ人 じん 国家 こっか
アラブ人 じん 国家 こっか
エルサレム周辺 しゅうへん の特別 とくべつ 地域 ちいき
1949年 ねん の休戦 きゅうせん ライン: 1967年 ねん までエジプト・ヨルダンが支配 しはい した地域 ちいき
イスラエル
1947年 ねん 9月 がつ 23日 にち に国連 こくれん 総会 そうかい はUNSCOPの報告 ほうこく 書 しょ を検討 けんとう するパレスチナ問題 もんだい の臨時 りんじ 委員 いいん 会 かい (アド・ホック委員 いいん 会 かい 、Ad Hoc Committee)を設立 せつりつ した。アラブ高等 こうとう 委員 いいん 会 かい (Arab Higher Committee)とユダヤ機関 きかん の代表 だいひょう が招待 しょうたい され委員 いいん 会 かい に出席 しゅっせき した[21] 。
イギリス政府 せいふ はアラブ人 じん 、ユダヤ人 じん 双方 そうほう が受 う け入 い れられないのならどのような合意 ごうい も意味 いみ をなさないと感 かん じていた。そのような場合 ばあい には国連 こくれん 総会 そうかい は代替 だいたい 案 あん を出 だ すべきだと要求 ようきゅう していた。
アラブ高等 こうとう 委員 いいん 会 かい はUNSCOPの連邦 れんぽう 案 あん 、分割 ぶんかつ 案 あん ともに拒否 きょひ した。彼 かれ らは「歴史 れきし 調査 ちょうさ の結果 けっか からシオニストの主張 しゅちょう には法的 ほうてき 、道徳 どうとく 的 てき 根拠 こんきょ は存在 そんざい しないと結論 けつろん するに至 いた った。」と述 の べた。パレスチナではアラブ人 じん の国家 こっか のみが国連 こくれん 憲章 けんしょう と合致 がっち するだろうと主張 しゅちょう した。
ユダヤ機関 きかん はUNSCOPの勧告 かんこく の大半 たいはん については支持 しじ を表明 ひょうめい したが、提案 ていあん された国境 こっきょう 線 せん 、特 とく に西 にし ガリラヤと西 にし エルサレム についてはユダヤ人 じん 国家 こっか に含 ふく まれるべきであると主張 しゅちょう した。そのような問題 もんだい 点 てん はあったにせよ彼 かれ らはこの案 あん を受 う け入 い れた。なぜなら移民 いみん を主権 しゅけん 的 てき に管理 かんり することはユダヤ人 じん 国家 こっか を再建 さいけん することにつながるだろうと考 かんが えたのである。
UNSCOPの報告 ほうこく 書 しょ を精査 せいさ するため二 ふた つの小 しょう 委員 いいん 会 かい が設立 せつりつ された。第 だい 一 いち 小 しょう 委員 いいん 会 かい は分割 ぶんかつ 案 あん いわゆる多数 たすう 派 は 案 あん を検討 けんとう し、第 だい 二 に 小 しょう 委員 いいん 会 かい は連邦 れんぽう 国家 こっか 案 あん 、少数 しょうすう 派 は 案 あん を検討 けんとう することとなった[22] [23] 。
第 だい 二 に 小 しょう 委員 いいん 会 かい はパレスチナ問題 もんだい には法的 ほうてき 問題 もんだい があるとして国際 こくさい 司法 しほう に預 あづ けるべきではないかと提起 ていき した。また、国連 こくれん やその加盟 かめい 国 こく はパレスチナの今後 こんご について提案 ていあん を勧告 かんこく する、もしくは強制 きょうせい する権限 けんげん はあるのだろうか、特 とく にパレスチナの住民 じゅうみん の意向 いこう に反 はん する、ないしは同意 どうい の無 な い分割 ぶんかつ 提案 ていあん をすることについて問 と いかけた。国連 こくれん で審議 しんぎ をすることそのものへの提案 ていあん であるため、まず先 さき に第 だい 二 に 小 しょう 委員 いいん 会 かい の提案 ていあん が臨時 りんじ 委員 いいん 会 かい で審議 しんぎ された。これらの提案 ていあん は否決 ひけつ され、また第 だい 二 に 小 しょう 委員 いいん 会 かい の提案 ていあん した連邦 れんぽう 案 あん についても賛成 さんせい 12反対 はんたい 29棄権 きけん 14で否決 ひけつ された[24] 。
次 つぎ に臨時 りんじ 委員 いいん 会 かい は第 だい 一 いち 小 しょう 委員 いいん 会 かい の提案 ていあん を議決 ぎけつ にかけた。まず国境 こっきょう 線 せん の修正 しゅうせい 案 あん が審議 しんぎ され、以前 いぜん はユダヤ人 じん 国家 こっか に組 く み込 こ まれていたアラブ人 じん が多 おお く住 す むヤッファ はアラブ人 じん 国家 こっか の飛 と び地 ち となった。またアラブ人 じん 国家 こっか の国境 こっきょう 線 せん はベエルシェバとエジプト国境 こっきょう 沿 ぞ いのネゲブ砂漠 さばく の一部 いちぶ を含 ふく むように変更 へんこう された[19] 。そして、経済 けいざい 同盟 どうめい を伴 ともな う分割 ぶんかつ 案 あん が投票 とうひょう にかけられ、賛成 さんせい 25、反対 はんたい 13、棄権 きけん 17、欠席 けっせき 2で可決 かけつ された[24] 。
この臨時 りんじ 委員 いいん 会 かい の結果 けっか を元 もと に総会 そうかい 決議 けつぎ 案 あん が提出 ていしゅつ された。
パレスチナ問題 もんだい は重要 じゅうよう 問題 もんだい として扱 あつか われていたので国連 こくれん 総会 そうかい で決議 けつぎ が採択 さいたく されるためには、57ヶ国 かこく の加盟 かめい 国 こく のうち棄権 きけん 、欠席 けっせき を除 のぞ いて3分 ぶん の2の賛成 さんせい が必要 ひつよう であった。11月26日 にち にシオニストが議事 ぎじ 妨害 ぼうがい を行 おこな い、投票 とうひょう は3日間 にちかん 延期 えんき された[25] 。複数 ふくすう の情報 じょうほう では、もし投票 とうひょう が予定 よてい 日 び に行 おこな われていたら過半数 かはんすう は得 え たにせよ、3分 ぶん の2は得 え られなかったと見 み られている[26] [27] 。ニューヨークのシオニズムの支援 しえん 者 しゃ たちは支持 しじ を表明 ひょうめい していない国家 こっか へ工作 こうさく を行 おこな うため、この延期 えんき を利用 りよう した[25] 。
分割 ぶんかつ 案 あん の支持 しじ 者 しゃ は賛成 さんせい を投票 とうひょう するよう工作 こうさく を行 おこな ったとされる。26名 めい のアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 上院 じょういん 議員 ぎいん が署名 しょめい した電報 でんぽう は、海外 かいがい 援助 えんじょ をちらつかせ、賛否 さんぴ を迷 まよ っている国家 こっか へ分割 ぶんかつ 案 あん を賛成 さんせい するよう送 おく られた[28] 。多 おお くの国 くに が工作 こうさく があったことを報告 ほうこく している。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく (賛成 さんせい ): トルーマン 大統領 だいとうりょう は後 のち に「今 いま まで見 み たことがないような国連 こくれん をうごめく工作 こうさく だけでなく、ホワイトハウス でも工作 こうさく 活動 かつどう が行 おこな われたというのが事実 じじつ である。私 わたし は自分 じぶん が工作 こうさく を行 おこな ったり、ホワイトハウスでプロパガンダ を行 おこな ったとは思 おも わない。少数 しょうすう の極端 きょくたん なシオニストの指導 しどう 者 しゃ 、つまり政治 せいじ 的 てき な動機 どうき を持 も ち政治 せいじ 的 てき な脅迫 きょうはく を行 おこな うものは、煩 わずら わしく迷惑 めいわく だった。」と語 かた った[29] 。
インド(反対 はんたい ):インドの首相 しゅしょう ネルー は国連 こくれん での投票 とうひょう について怒 いか りと侮蔑 ぶべつ をあらわにしている。シオニストはインドを買収 ばいしゅう しようと企 たくら み、同時 どうじ に後 のち に国連 こくれん 総会 そうかい 議長 ぎちょう となる彼 かれ の妹 いもうと ヴィジャヤ・ラクシュミー・パンディットに対 たい しインドが賛成 さんせい しなければ命 いのち が無 な いと毎日 まいにち 警告 けいこく を行 おこな っていたと彼 かれ は語 かた っている[30] 。インドの国連 こくれん 代表 だいひょう 団 だん であったパンディットは時折 ときおり イシューブ の支持 しじ をほのめかした。しかし代表 だいひょう 団 だん の別 べつ の者 もの はインドにはムスリムが多 おお く、ユダヤ側 がわ の行動 こうどう は知 し っているがそれでもアラブ側 がわ に投票 とうひょう するだろうと語 かた った[31] 。
リベリア(賛成 さんせい ):リベリアの大使 たいし はアメリカに対 たい し、アメリカの代表 だいひょう 団 だん は複数 ふくすう の国 くに に対 たい し援助 えんじょ を削減 さくげん する脅迫 きょうはく をしていると訴 うった えた[32] 。リベリアに拠点 きょてん を持 も つFirestone Natural Rubber Companyの社長 しゃちょう であるアメリカ人 じん のHarvey S. Firestone, Jr.もまたリベリア政府 せいふ に圧力 あつりょく をかけた[26] [28] 。
フィリピン(賛成 さんせい ):フィリピン代表 だいひょう 団 だん のカルロス・P・ロムロ は投票 とうひょう 以前 いぜん に「これはモラルの問題 もんだい である。パレスチナの人々 ひとびと にとって明 あき らかに不快 ふかい な施策 しさく を行 おこな ってしまったら、国連 こくれん は責任 せきにん をとれるのだろうか。フィリピン政府 せいふ は国連 こくれん がそのような責任 せきにん をあえて持 も つ必要 ひつよう はないと確信 かくしん する。」と述 の べた。アメリカ政府 せいふ からフィリピン政府 せいふ への電話 でんわ の後 のち 、ロムロは召還 しょうかん され、フィリピンは賛成 さんせい に票 ひょう を投 とう じた[28] 。
ハイチ(賛成 さんせい ):500万 まん ドルの融資 ゆうし を約束 やくそく していなければハイチの賛成 さんせい 票 ひょう は入 はい らなかったかもしれない[33] 。
フランス(賛成 さんせい ):投票 とうひょう 直前 ちょくぜん 、バーナード・バルーク がフランスの国連 こくれん 代表 だいひょう を訪 おとず れた。バルークは長 なが きに渡 わた りユダヤ人 じん を支援 しえん してきた民主 みんしゅ 党員 とういん であり、先 さき の大戦 たいせん 中 ちゅう はルーズベルト 大統領 だいとうりょう の経済 けいざい 顧問 こもん 、後 のち にトルーマンから新 あたら しく設立 せつりつ された国連 こくれん 原子力 げんしりょく 委員 いいん 会 かい (UNAEC、1946年 ねん 設立 せつりつ 、1952年 ねん 解散 かいさん )のアメリカ代表 だいひょう として指名 しめい された人物 じんぶつ であった。彼 かれ は密 ひそ かにユダヤ人 じん 武装 ぶそう 組織 そしき のイルグン 、およびそのフロント組織 そしき であるAmerican League for a Free Palestineを支援 しえん していた。バルークはフランスがこの決議 けつぎ 案 あん を支持 しじ しない場合 ばあい 、アメリカの対 たい フランス支援 しえん 計画 けいかく が無 な くなるかもしれないとい含 いふく めた。フランス経済 けいざい は傾 かたむ いており、アメリカの支援 しえん は復興 ふっこう にどうしても必要 ひつよう であった。以前 いぜん はアラブ系 けい 植民 しょくみん 地 ち に配慮 はいりょ し分割 ぶんかつ 案 あん の支持 しじ は表明 ひょうめい していなかったが、結局 けっきょく フランスは決議 けつぎ に賛成 さんせい 票 ひょう を投 とう じた。フランスの近隣 きんりん 国 こく のベルギー、ルクセンブルク、オランダもまた賛成 さんせい 票 ひょう を入 い れた[25] 。
ベニー・モリス (英語 えいご 版 ばん ) によればアラブ高等 こうとう 委員 いいん 会 かい のワシフ・カマルは国連 こくれん 代表 だいひょう 団 だん 、おそらくはロシア人 じん を買収 ばいしゅう しようとした[34] 。
アラブ諸国 しょこく ではユダヤ人 じん に対 たい する警告 けいこく あるいは直接的 ちょくせつてき な脅迫 きょうはく が多数 たすう 行 おこな われた。
イラクの首相 しゅしょう ヌーリー・アッ=サイード は「我々 われわれ は銃 じゅう を手 て にその国 くに を叩 たた き潰 つぶ し、ユダヤ人 じん が隠 かく れている場所 ばしょ を消 け し去 さ るだろう。」と語 かた った。ヌーリーはまた、イギリスの外交 がいこう 官 かん に国連 こくれん の解決 かいけつ 策 さく が満足 まんぞく のいくものではなかったら、アラブ人 じん の国 くに に住 す む全 ぜん ユダヤ人 じん には厳 きび しい措置 そち が取 と られるだろうと語 かた った[35] 。
11月24日 にち に国連 こくれん 総会 そうかい のエジプト代表 だいひょう 団 だん のムハンマド・フセイン・ヘイカル=パシャは、ユダヤ人 じん 国家 こっか が樹立 じゅりつ すればイスラムの国 くに に住 す む100万 まん 人 にん のユダヤ人 じん は危険 きけん に晒 さら されるだろうと述 の べた[36] 。
1947年 ねん 11月28日 にち 、ニューヨークのフラッシング・メドウにある総会 そうかい ホールにおいて、イラク外相 がいしょう Fadel Jamallはスピーチをした。「この分割 ぶんかつ は大 だい 多数 たすう の人間 にんげん の意思 いし に反 はん して実施 じっし され、中東 ちゅうとう の平和 へいわ と調和 ちょうわ を危険 きけん に晒 さら します。パレスチナのアラブ人 じん による蜂起 ほうき が予想 よそう されるだけでなく、アラブ世界 せかい の民衆 みんしゅう も立 た ち上 あ がるでしょう。アラブ世界 せかい でのアラブ人 じん とユダヤ人 じん の関係 かんけい は大 おお きく損 そこ なわれます。ユダヤ人 じん はパレスチナよりもパレスチナ以外 いがい のアラブ世界 せかい にたくさんいます。イラクだけでも15万 まん 人 にん のユダヤ人 じん が存在 そんざい し、彼 かれ らはムスリムやキリスト教徒 きりすときょうと と政治 せいじ 的 てき 、経済 けいざい 的 てき な権利 けんり を分 わ け合 あ っています。ムスリムとキリスト教徒 きりすときょうと とユダヤ人 じん の仲 なか は上手 うま くいっています。しかしパレスチナのアラブ人 じん に課 か せられた不 ふ 正義 せいぎ はユダヤ人 じん と非 ひ ユダヤ人 じん の調和 ちょうわ を乱 みだ すことになり、宗教 しゅうきょう 的 てき な偏見 へんけん と憎悪 ぞうお を産 う み出 だ します[37] 。」
1947年 ねん 11月24日 にち に行 おこな われた国連 こくれん パレスチナ臨時 りんじ 委員 いいん 会 かい の第 だい 29回 かい でエジプト代表 だいひょう 団 だん のHeytal Pashaは「国連 こくれん がユダヤ人 じん 国家 こっか を創出 そうしゅつ するためにパレスチナを分割 ぶんかつ しようというのなら、そこに血 ち が流 なが れるのを止 と めることができるものは地上 ちじょう にはいないだろう。…(中略 ちゅうりゃく )…ユダヤ人 じん の血 ち はアラブ世界 せかい のあらゆるところで必 かなら ず流 なが されることになるだろう。」と述 の べた[38] 。
アラブ諸国 しょこく は西側 にしがわ 列強 れっきょう に対 たい し分割 ぶんかつ 案 あん に賛同 さんどう すれば、石油 せきゆ 禁輸 きんゆ とアラブ諸国 しょこく の東側 ひがしがわ 編入 へんにゅう のどちらか、もしくは両方 りょうほう が行 おこな われるだろうと警告 けいこく している[34] 。
1947年 ねん 11月29日 にち 、国連 こくれん 総会 そうかい での投票 とうひょう は賛成 さんせい 33票 ひょう 、反対 はんたい 13票 ひょう 、棄権 きけん 10票 ひょう 、欠席 けっせき 1で分割 ぶんかつ 案 あん が採択 さいたく された。投票 とうひょう 結果 けっか は下記 かき の通 とお り。
賛成 さんせい (33ヶ国 かこく 、72%)
反対 はんたい (13ヶ国 かこく 、28%)
西 にし ヨーロッパ(1ヶ国 かこく )
ギリシャ
ラテンアメリカおよびカリブ(1ヶ国 かこく )
キューバ
棄権 きけん (10ヶ国 かこく )
西側 にしがわ 諸国 しょこく (1ヶ国 かこく )
イギリス
欠席 けっせき (1ヶ国 かこく )
アジア(1ヶ国 かこく )
タイ
臨時 りんじ 委員 いいん 会 かい での投票 とうひょう と総会 そうかい での投票 とうひょう で変更 へんこう があったものは下記 かき の通 とお りである[24] [39] 。
賛成 さんせい から(1/25ヶ国 かこく )
チリ 棄権 きけん へ
パレスチナおよび世界 せかい 各地 かくち のユダヤ人 じん のほとんどは国連 こくれん 決議 けつぎ に満足 まんぞく したが、そうではないものもいた。ヨーロッパからの移民 いみん の問題 もんだい と領土 りょうど の限界 げんかい が存在 そんざい することに不満 ふまん を抱 いだ きながらもユダヤ機関 きかん は決議 けつぎ を受 う け入 い れた[40] 。シオニスト指導 しどう 者 しゃ の主流 しゅりゅう 派 は は、ユダヤ人 じん 国家 こっか を現代 げんだい に復活 ふっかつ させる「重 おも い責任 せきにん 」を強調 きょうちょう し、この地域 ちいき の他 ほか の住民 じゅうみん と平和 へいわ に共存 きょうぞん していくことを約束 やくそく した[41] [42] 。アメリカではユダヤ人 じん は国連 こくれん の対応 たいおう を歓迎 かんげい した。ほとんどがこの案 あん を歓迎 かんげい したが、問題 もんだい が解決 かいけつ していないと感 かん じるものもいた[43] 。
アラブ
近隣 きんりん 諸国 しょこく との
間 あいだ に
平和 へいわ と
協調 きょうちょう の
関係 かんけい を
確立 かくりつ することが
我々 われわれ の
最 さい 優先 ゆうせん 課題 かだい である
[44] 。
修正 しゅうせい 主義 しゅぎ シオニストたちは分割 ぶんかつ 案 あん は合法 ごうほう 的 てき にユダヤ人 じん の領土 りょうど を放棄 ほうき させるものとして拒絶 きょぜつ した[43] 。メナヘム・ベギン のイルグンとレヒ、彼 かれ ら過激 かげき 派 は も分割 ぶんかつ 案 あん を拒否 きょひ した。ベギンはアラブ人 じん が攻 せ め込 こ んでくるので平和 へいわ は訪 おとず れないと警告 けいこく した。そして「戦争 せんそう においては自分 じぶん たちの力 ちから で立 た ち向 む かわなければならない。自分 じぶん たちの存在 そんざい と未来 みらい をかけた戦争 せんそう なのだから[45] 。」と述 の べた。また「我々 われわれ の祖国 そこく を2つに分 わ けることは許 ゆる されないことである。それを認 みと めるようなことはありえない[46] 。」とも述 の べた。ベギンには確信 かくしん があった。ユダヤ人 じん 国家 こっか が創設 そうせつ できれば領土 りょうど 拡張 かくちょう が可能 かのう になるだろう、「多 おお くの血 ち が流 なが れることになるが[47] 。」
シオニストが妥協 だきょう して分割 ぶんかつ 案 あん を受 う け入 い れたことによって、パレスチナ全土 ぜんど への野心 やしん を捨 す て、自分 じぶん たちの国 くに におけるパレスチナ人 じん の権利 けんり を認 みと めたなどと考 かんが えるのはただの幻想 げんそう であるとシムハ・フラパンは述 の べる。彼 かれ は研究 けんきゅう の結果 けっか 、パレスチナ人 じん 国家 こっか の建国 けんこく を妨害 ぼうがい し、ユダヤ人 じん 国家 こっか の領域 りょういき を増 ふ やす作戦 さくせん の一環 いっかん にすぎないと考 かんが えている[48] 。
分割 ぶんかつ 案 あん の投票 とうひょう から数日 すうじつ してイスラエル労働 ろうどう 総 そう 同盟 どうめい (ヒスタドルート (英語 えいご 版 ばん ) )の中央 ちゅうおう 委員 いいん に指名 しめい されたベン=グリオンはその不安 ふあん な胸中 きょうちゅう を吐露 とろ している。
「建国 けんこく 当時 とうじ のユダヤ人 じん 国家 こっか の総 そう 人口 じんこう はおそらく100万 まん 人 にん ほどで、40%ぐらいは非 ひ ユダヤ人 じん だった。この人口 じんこう 比率 ひりつ は安定 あんてい した国家 こっか には向 む いていなかった。この事実 じじつ は明 あき らかに重大 じゅうだい な問題 もんだい だった。このままではユダヤ人 じん が支配 しはい 権 けん を握 にぎ り続 つづ けるのは確実 かくじつ とはいえない。…(中略 ちゅうりゃく )…たかだか60%の多数 たすう 派 は では安定 あんてい 的 てき で力強 ちからづよ い国家 こっか を長 なが く保 たも つことはできない[49] 。」
極 ごく わずかな例外 れいがい を除 のぞ いて、アラブの指導 しどう 者 しゃ と政府 せいふ は分割 ぶんかつ 決議 けつぎ 案 あん を拒否 きょひ し、その他 た どのような分割 ぶんかつ 案 あん も拒否 きょひ する姿勢 しせい を見 み せた。
UNSCOPが報告 ほうこく 書 しょ を提出 ていしゅつ してから数 すう 週間 しゅうかん 後 ご 、ユダヤ系 けい の商店 しょうてん やシナゴーグ の破壊 はかい などの反 はん ユダヤ主義 しゅぎ 行為 こうい を非難 ひなん する人物 じんぶつ で知 し られた[50] アラブ連盟 れんめい の事務 じむ 総長 そうちょう アザム・パシャ (英語 えいご 版 ばん ) の言葉 ことば がエジプトの新聞 しんぶん に掲載 けいさい された。「個人 こじん 的 てき には私 わたし は我々 われわれ に戦争 せんそう を強 し いることをやめてほしいとユダヤ人 じん に望 のぞ む、なぜなら排除 はいじょ のための戦争 せんそう になり、モンゴル の大 だい 虐殺 ぎゃくさつ や十字軍 じゅうじぐん の戦争 せんそう と同 おな じ危険 きけん な虐殺 ぎゃくさつ になってしまうからだ。私 わたし はパレスチナの外 そと からやってくる義勇 ぎゆう 兵 へい はパレスチナの人口 じんこう を超 こ えると思 おも う[51] [52] 。1947年 ねん 10月 がつ のこの声明 せいめい はもっと遅 おそ い1948年 ねん 5月 がつ 15日 にち (第 だい 一 いち 次 じ 中東 ちゅうとう 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ した日 ひ )に出 だ されたとよく間違 まちが って伝 つた わっている[53] 。
アラブ高等 こうとう 委員 いいん 会 かい はパレスチナのアラブ人 じん 国家 こっか に住 す むユダヤ人 じん のうち大半 たいはん は、イギリス委任 いにん 統治 とうち 領 りょう 時代 じだい に住 す んでいなかったので市民 しみん 権 けん を与 あた えるべきではないと述 の べた[35] 。アラブ連盟 れんめい はパレスチナのアラブ人 じん 国家 こっか から追 お い出 だ すべきユダヤ人 じん も存在 そんざい すると語 かた った[54] 。
1948年 ねん 2月 がつ 16日 にち に国連 こくれん パレスチナ委員 いいん 会 かい は安全 あんぜん 保障 ほしょう 理事 りじ 会 かい に「強大 きょうだい なアラブの勢力 せいりょく がパレスチナの内外 ないがい において総会 そうかい 決議 けつぎ を軽 かる んじて、その結果 けっか を力 ちから ずくで変 か えようとたくらんでいる。」と報告 ほうこく した[55] 。アラブ側 がわ はエルサレムを国際 こくさい 管理 かんり にすることにも反対 はんたい した。
シリアの大統領 だいとうりょう シュクリー・アル=クーワトリー は国民 こくみん に「シオニズムを根絶 こんぜつ しなければならない」と言 い った。アミーン・フサイニー は1948年 ねん 3月 がつ にヤッファの日刊 にっかん 紙 し Al Sarihのインタビュアーに「アラブ人 じん は分割 ぶんかつ を阻止 そし しただけでは終 お わらず、シオニストが全滅 ぜんめつ するまで戦 たたか い続 つづ けるだろう。」と答 こた えた[56] 。
アザム・パシャは力 ちから ずくで分割 ぶんかつ を阻止 そし しようと脅迫 きょうはく を続 つづ けていた。そのような中 なか 、分割 ぶんかつ を支持 しじ する声明 せいめい を初 はじ めて出 だ したのはエジプトの影響 えいきょう 力 りょく の強 つよ い日刊 にっかん 紙 し Al Mokattamだった。「分割 ぶんかつ 案 あん はパレスチナ問題 もんだい に対 たい する最善 さいぜん の解決 かいけつ 策 さく であると信 しん じるがゆえに我々 われわれ は賛意 さんい を表明 ひょうめい する。分割 ぶんかつ 案 あん を拒否 きょひ することはさらなる問題 もんだい を引 ひ き起 お こし、シオニストに戦 たたか いの準備 じゅんび をする時間 じかん 的 てき 猶予 ゆうよ を与 あた える。1年 ねん の遅 おく れはアラブ人 じん の利益 りえき にはならずユダヤ人 じん に利 り する。イギリスが出 で て行 い ってしまった後 のち ではそれは顕著 けんちょ になるだろう[57] 。」
アラブ人 じん はユダヤ人 じん 少数 しょうすう 派 は の権利 けんり を尊重 そんちょう することを約束 やくそく した[58] 。1948年 ねん 5月 がつ 20日 はつか 、アザムは報道 ほうどう 員 いん に「我々 われわれ はアラブ・パレスチナのために戦 たたか う。どのような結果 けっか になろうとも、アラブ人 じん はアラブ・パレスチナにいるユダヤ人 じん にアラブ人 じん と同 おな じ市民 しみん 権 けん を与 あた えることにこだわるだろう。ユダヤ人 じん が優勢 ゆうせい な地域 ちいき なら完全 かんぜん な自治 じち 権 けん を得 え ることにもなるだろう。」と述 の べた[59] 。
アーネスト・ベヴィン は分割 ぶんかつ 案 あん を受 う け取 と ると、イギリスはこれをアラブに強制 きょうせい することがないように決定 けってい した[60] [61] 。分割 ぶんかつ 案 あん はイギリス議会 ぎかい で精力 せいりょく 的 てき に議論 ぎろん された。
1947年 ねん 12月4日 にち にイギリスの閣僚 かくりょう 会議 かいぎ で委任 いにん 統治 とうち を終 お わらすことが決定 けってい された[62] 。1947年 ねん 12月11日 にち にイギリス政府 せいふ は1948年 ねん 5月 がつ 14日 にち 深夜 しんや で委任 いにん 統治 とうち を終了 しゅうりょう し、1948年 ねん 8月 がつ 1日 にち までに完全 かんぜん に撤退 てったい することを公表 こうひょう した[63] 。イギリスの撤退 てったい 期間 きかん 中 ちゅう 、新 あたら しくできる政権 せいけん にスムーズに領土 りょうど や権限 けんげん を引 ひ き渡 わた せるようパレスチナの管理 かんり を国連 こくれん に移行 いこう するよう求 もと められたが、イギリス政府 せいふ は拒否 きょひ した[64] [65] 。
分割 ぶんかつ 案 あん は完全 かんぜん に実施 じっし されなかった。イギリスのパレスチナ委任 いにん 統治 とうち が完了 かんりょう する1948年 ねん 5月 がつ 14日 にち にユダヤ人民 じんみん 評議 ひょうぎ 会 かい はテルアビブ美術館 びじゅつかん に集 あつ まりエレッツ・イスラエルにユダヤ人 じん 国家 こっか の樹立 じゅりつ を宣言 せんげん 、すなわちイスラエルの独立 どくりつ が宣言 せんげん された [66] 。アラブ諸国 しょこく はパレスチナに介入 かいにゅう するため侵攻 しんこう 、1948年 ねん 5月 がつ 15日 にち に第 だい 一 いち 次 じ 中東 ちゅうとう 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ した[67] 。
パレスチナ人 じん 国家 こっか の法的 ほうてき 根拠 こんきょ として[ 編集 へんしゅう ]
1988年 ねん 、パレスチナ解放 かいほう 機構 きこう は決議 けつぎ 181号 ごう を根拠 こんきょ にパレスチナの独立 どくりつ を宣言 せんげん 。決議 けつぎ は失効 しっこう しておらずパレスチナの人々 ひとびと が主権 しゅけん 国家 こっか として独立 どくりつ することには国際 こくさい 的 てき な正当 せいとう 性 せい があると主張 しゅちょう した[68] 。何 なに 名 めい もの学者 がくしゃ がこの見解 けんかい を支持 しじ している[69] [70] [71] [72] [73] 。
2003年 ねん 国連 こくれん 総会 そうかい はイスラエルの分離 ぶんり 壁 かべ 建設 けんせつ と東 ひがし エルサレムを含 ふく む領地 りょうち の占拠 せんきょ について、勧告 かんこく 的 てき 意見 いけん を求 もと める決議 けつぎ を行 おこな い、法的 ほうてき な問題 もんだい 点 てん を国際司法裁判所 こくさいしほうさいばんしょ に尋 たず ねた。アブドゥル・コロマ判事 はんじ は「国際 こくさい 法 ほう の下 した で確立 かくりつ され認 みと められた権利 けんり として自己 じこ 決定 けってい 権 けん はパレスチナの領地 りょうち と人々 ひとびと にも適用 てきよう されると裁判所 さいばんしょ は考 かんが える。それゆえパレスチナの人々 ひとびと はそのような権利 けんり の行使 こうし によって、元 もと は決議 けつぎ 181号 ごう (II)で想定 そうてい され確認 かくにん された彼 かれ ら自身 じしん の国家 こっか を持 も つ資格 しかく を有 ゆう する。パレスチナ領土 りょうど における壁 かべ の建設 けんせつ はそのような権利 けんり の実現 じつげん を妨 さまた げ、したがって違法 いほう であると裁判所 さいばんしょ は考 かんが える。」と意見 いけん を示 しめ した[74] 。これを受 う けてPaul De Waart教授 きょうじゅ は、1922年 ねん の国際 こくさい 連盟 れんめい のパレスチナ委任 いにん 統治 とうち と1947年 ねん の分割 ぶんかつ 案 あん が合法 ごうほう であることを裁判所 さいばんしょ はきっぱりと示 しめ したと語 かた った[75] 。
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