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パレスチナ分割ぶんかつ決議けつぎ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
国際こくさい連合れんごう総会そうかい
決議けつぎ181 (II)
日付ひづけ 1947ねん11月29にち
形式けいしき 総会そうかい決議けつぎ
会合かいごう 128かい
コード: A/RES/181(II)
文書ぶんしょ 英語えいご

投票とうひょう 賛成さんせい: 33 反対はんたい: 13 棄権きけん: 10
投票とうひょう結果けっか パレスチナを委任いにん統治とうちするイギリスおよび国連こくれん加盟かめいこくへ、パレスチナの独立どくりつ分割ぶんかつおよび経済けいざい同盟どうめい提案ていあん採用さいよう実施じっしするよう勧告かんこくする決議けつぎ採択さいたく[1]

UNSCOP(1947ねん9がつ3にち)と国連こくれん臨時りんじ委員いいんかい(1947ねん11月25にち) による分割ぶんかつあん国連こくれん臨時りんじ委員いいんかいあん決議けつぎにかけられた。

パレスチナ分割ぶんかつ決議けつぎ(パレスチナぶんかつけつぎ 、えい: United Nations Partition Plan for Palestine)は、当時とうじのパレスチナ問題もんだい解決かいけつするためにされた国連こくれん決議けつぎあん。このあんは「経済けいざい同盟どうめいともな分割ぶんかつあん(Plan of Partition with Economic Union)」とべられ、イギリスの委任いにん統治とうちわらせアラブじんユダヤじん国家こっか創出そうしゅつし、エルサレム特別とくべつ都市としコーパス・セパラタム英語えいごばん)とすることとなっていた。1947ねん11月29にち国際こくさい連合れんごう総会そうかいにおいて、このあん採用さいよう実施じっし勧告かんこくする決議けつぎ決議けつぎ181ごう(II)として採択さいたくされた[1]

決議けつぎあんのIこうには、「委任いにん統治とうち終了しゅうりょう分割ぶんかつ独立どくりつ」にかんする条文じょうぶんふくまれていた。委任いにん統治とうちすみやかに終了しゅうりょうし、おそくとも1948ねん8がつ1にちまでにはイギリスパレスチナから撤収てっしゅうすることとなった。あたらしい国家こっか撤収てっしゅうから2ヵ月かげつ成立せいりつする予定よていであった。シオニズムとしてられるユダヤじん民族みんぞく主義しゅぎとシオニズムのまえから先住せんじゅうしていたアラブじん民族みんぞく主義しゅぎ競合きょうごう相反あいはんするため、これに対処たいしょすべく分割ぶんかつ提案ていあんされた。決議けつぎあんのIIこうでは国境こっきょうせんについての提案ていあんがなされている[2]。またしん国家こっか経済けいざい同盟どうめいとなることと、宗教しゅうきょうてき少数しょうすう権利けんり保護ほごするようもとめた。

このあんはユダヤじんがわには一部いちぶのぞれられたが[3]、アラブ諸国しょこくおよびパレスチナのアラブじん指導しどうしゃたちは一部いちぶのぞ拒絶きょぜつした[4]

総会そうかい決議けつぎ採択さいたくされるとすぐに内戦ないせん勃発ぼっぱつ[5]分割ぶんかつあん実現じつげんしなかった[6]

分割ぶんかつ提案ていあん以前いぜん

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国際こくさい連盟れんめいだい1世界せかい大戦たいせんのちオスマン帝国ていこく分割ぶんかつ一環いっかんとしてイギリスのパレスチナ委任いにん統治とうちみとめた。1918ねん実施じっししたイギリスの人口じんこう調査ちょうさではアラブじんは700,000にん、ユダヤじん56,000にん推計すいけいしている[7]

1917ねんバルフォア宣言せんげんでイギリスの外務がいむ大臣だいじんは「パレスチナでのユダヤじん居住きょじゅう(ナショナル・ホーム)建設けんせつ好意こういせており…(中略ちゅうりゃく)…パレスチナのユダヤけい住民じゅうみん市民しみんけんおよび宗教しゅうきょうてき権利けんりがいすることがあってはならない…(後略こうりゃく)」と政府せいふ見解けんかいしめしている[7]。この時点じてんでは居住きょじゅう獲得かくとく手段しゅだんとして分割ぶんかつ国家こっか樹立じゅりつ言及げんきゅうされてはいなかった。バルフォアの後任こうにん外相がいしょうカーゾン侯爵こうしゃくは、1500ねん大半たいはん時期じきパレスチナを占有せんゆうしてきたアラブけい住民じゅうみんはどうなるか、そしてユダヤじん移民いみんのために土地とちげることも、からたもののために土地とちひらいてきただけになることもかれらには納得なっとくがいかないだろうと懸念けねんしメモにのこしている[7]

1936ねんパレスチナのアラブ反乱はんらん勃発ぼっぱつしてユダヤじんとアラブじんこうそう激化げきかすると、1937ねんピール委員いいんかい英語えいごばんはパレスチナをアラブ国家こっかちいさなユダヤ国家こっか(15%程度ていど)、国際こくさい地域ちいき分割ぶんかつする提案ていあんおこなった。アラブがわ指導しどうしゃはこの提案ていあん拒絶きょぜつ。ユダヤの指導しどうしゃハイム・ヴァイツマンベン=グリオン今後こんご交渉こうしょう土台どだいとして、条件じょうけんきでこの提案ていあん承認しょうにんするようシオニスト会議かいぎ納得なっとくさせた[8][9][10][11]。この提案ていあんには、ローザンヌ条約じょうやくギリシャとトルコあいだでの住民じゅうみん交換こうかんをモデルに、アラブ住民じゅうみんをユダヤじん国家こっか国境こっきょうがい移転いてんすることにかんする条文じょうぶんふくまれていた。やはりこれにかんしてもアラブがわからは拒否きょひされた。

イギリスのウッドヘッド委員いいんかいはいくつかの分割ぶんかつあん考案こうあんした。しかしこの提案ていあん実現じつげんするのは困難こんなんであった。1938ねんのイギリス政府せいふ政策せいさく要綱ようこうでは「パレスチナにアラブじんとユダヤじん独立どくりつ国家こっか創出そうしゅつする提案ていあんかんする政治せいじてき行政ぎょうせいてき財政ざいせいてき困難こんなん非常ひじょうおおきく、問題もんだい解決かいけつ不可能ふかのうである」とべた。アラブじんとユダヤじん代表だいひょうをロンドン会議かいぎまねいたが問題もんだい解決かいけつにはいたらなかった[12]

1939ねん5がつマクドナルド白書はくしょ英語えいごばん(39ねん白書はくしょ)では、イギリス政府せいふはパレスチナをユダヤじん国家こっかにすべきという方針ほうしんはとっていないこと、またパレスチナへのユダヤじん移民いみん制限せいげんするかんがえをしめした。これにたいしユダヤがわ拒否きょひ反応はんのうせた。イギリス政府せいふ移民いみん制限せいげんくすよう要請ようせいし、またアリヤー・ベートばれる違法いほう移民いみん発生はっせいした。強硬きょうこうレヒ組織そしきした。かれらはイギリスに抵抗ていこうするユダヤじんテロ組織そしきであり、一時いちじはナチスと協力きょうりょくすることもかんがえた[13]。しかしレヒはメンバーが100めい以下いかであり調査ちょうさ結果けっかナチスは興味きょうみうしなっていった。結局けっきょくこの時代じだいにはすべてが解決かいけつのままであった。

国連こくれんパレスチナ特別とくべつ委員いいんかい

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背景はいけい

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1945ねん3がつ31にち時点じてんでのユダヤじん占有せんゆう共有きょうゆうふくむ。そう面積めんせきの6%をめ、そのうち半分はんぶん以上いじょうがユダヤ民族みんぞく基金ききんとパレスチナユダヤじん入植にゅうしょく協会きょうかいによるものである[14]

だい世界せかい大戦たいせん、イギリスはホロコーストのこったユダヤじんのパレスチナへの移民いみんみとめるようせまられていたが、1939ねん白書はくしょしたがい、ユダヤじん移民いみん制限せいげんしていた。ユダヤじん移民いみん制限せいげん拒否きょひ武装ぶそう抵抗ていこう開始かいしした。かれらとアメリカ移民いみん制限せいげん政策せいさく廃止はいしせまり、えいべい調査ちょうさ委員いいんかい英語えいごばん設立せつりついたった。1946ねん4がつ委員いいんかい全会ぜんかい一致いっちで、ヨーロッパからパレスチナへの100,000にんものユダヤじん難民なんみん即時そくじれを承認しょうにん。しかし、この勧告かんこくにおいてもアラブじん国家こっか、ユダヤじん国家こっかについて言及げんきゅうはなされていなかった。イギリスのパレスチナ当局とうきょくはこの提案ていあん拒否きょひ。パレスチナにおいてアラブじん、ユダヤじん双方そうほう武装ぶそう組織そしき活動かつどうし、公共こうきょう秩序ちつじょみだしているあいだはそのような移民いみん到底とうていれられないとべた[15]アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく戦争せんそうしょうはアラブじん反乱はんらんたいべいぐん300,000にん期限きげん動員どういんする必要ひつようがあると報告ほうこくしている[16]

1947ねん2がつ7にち、イギリスはパレスチナの委任いにん統治とうち終了しゅうりょうする意向いこう発表はっぴょう。1947ねん4がつ2にちにイギリスは国際こくさい連合れんごうにパレスチナ問題もんだいかんする勧告かんこく正式せいしき要請ようせいした[17]。このころユダヤじんはんえいテロは過激かげきさをしており、前年ぜんねんの7がつにもキング・デイヴィッド・ホテル爆破ばくは事件じけん発生はっせい。アラブじん41めい、イギリスじん28めい、ユダヤじん17めいふく死者ししゃ91めいだい惨事さんじとなった。

1947ねん5がつ15にち国連こくれんは11カ国かこく代表だいひょうからなる国連こくれんパレスチナ特別とくべつ委員いいんかい英語えいごばん(UNSCOP)を組織そしきした。委員いいんかい中立ちゅうりつせいたかめるためメンバーは列強れっきょう諸国しょこく以外いがいからえらばれた。UNSCOPは公聴こうちょうかいやパレスチナ情勢じょうせい全般ぜんぱんてき調査ちょうさを3ヶ月かげつあいだわた実施じっしすることとなった。

イギリスかんひだり)に強制きょうせいてき誘導ゆうどうされるエクソダスごうみぎ

1947ねん7がつ18にちエクソダスごう英語えいごばんは4,515にんもの移民いみん希望きぼうしゃせパレスチナへかっていた。イギリス海軍かいぐんはこれをかまえ、乗客じょうきゃくフランスきのふね強制きょうせいてきえさせた。乗客じょうきゃくはパレスチナへの移民いみん主張しゅちょうしフランスでの下船げせん拒否きょひ最終さいしゅうてき乗客じょうきゃくドイツハンブルク強制きょうせいてきろされた。この騒動そうどうはイギリスにとてつもない悪評あくひょうをもたらし、国際こくさい世論せろん後押あとおしもありUNSCOPはより一層いっそう問題もんだい解決かいけつけてんだ。

委員いいんかい報告ほうこくしょ

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1947ねん9がつ3にち委員いいんかい国連こくれん総会そうかい報告ほうこくしょ提出ていしゅつした。報告ほうこくしょは8しょうまでありだい5しょうからだい7しょう委員いいんかいからの提案ていあんがある。「だい5しょう提案ていあん(I)」は全部ぜんぶで12の提案ていあんがあり、セクションAには委員いいん全員ぜんいん賛同さんどうした11けん提案ていあんがある。セクションBにはだい多数たすう賛同さんどうした提案ていあんで、2人ふたり委員いいん反対はんたいし、1人ひとり意見いけん表明ひょうめいしていない。「だい6しょう提案ていあん(II)」では「経済けいざい同盟どうめいともな分割ぶんかつ」が提案ていあんされており、7にん委員いいんカナダチェコスロバキアグアテマラオランダペルースウェーデンウルグアイ)が支持しじした。「だい7しょう提案ていあん(III)」ではパレスチナの連邦れんぽう国家こっか樹立じゅりつ提案ていあんされており、インドイランユーゴスラビア委員いいんがこれを支持しじした。

総括そうかつすると、委任いにん統治とうちわらせパレスチナを独立どくりつさせることについてはぜん委員いいん意見いけん一致いっちしているが、独立どくりつかんして1つの連邦れんぽうせい国家こっかとすべきか(提案ていあん(III)、少数しょうすうあん)、2つの国家こっかとすべきか(提案ていあん(II)、多数たすうあん)は意見いけんかれている。また、パレスチナ問題もんだい解決かいけつをユダヤじん問題もんだい解決かいけつるかについても意見いけん一致いっちていない[18]

提案ていあん(I)

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提案ていあん(I)は12けん提案ていあんからなる。セクションAはぜん委員いいん意見いけん一致いっちした11の提案ていあんで、セクションBは3めい賛意さんいしめしていない。

  • セクションA
1. 委任いにん統治とうち終了しゅうりょう
パレスチナの委任いにん統治とうち可能かのうかぎすみやかに終了しゅうりょうすること。
2. 独立どくりつ
パレスチナができるかぎはや独立どくりつすること。
3. 移行いこう期間きかん
独立どくりつには自立じりつ準備じゅんびするための移行いこう期間きかんをおき、可能かのうかぎみじか期間きかんであること。
4. 移行いこう期間きかんちゅう国連こくれん責任せきにん
移行いこう期間きかんちゅう国連こくれんがパレスチナを管理かんりし、独立どくりつ準備じゅんびにも責任せきにんつ。
5. 聖地せいちおよび宗教しゅうきょうてき権益けんえき
A. 礼拝れいはい巡礼じゅんれいなどの宗教しゅうきょうてき権利けんりキリスト教徒きりすときょうと、ユダヤ教徒きょうと、ムスリム、すべてにおいてまもられなければならない。またこれはパレスチナ在住ざいじゅうしゃのみならず海外かいがい在住ざいじゅうしゃ権利けんりについても同様どうようである。
B. 既存きそん宗教しゅうきょうコミュニティーの権利けんりがいされることがあってはならない。
C. 宗教しゅうきょうてき紛争ふんそう公平こうへい解決かいけつできるシステムを構築こうちくすること。
D. 聖地せいち宗教しゅうきょうかんする規定きてい独立どくりつしたしん国家こっか憲法けんぽうむこと。
6. ユダヤじん難民なんみん
ヨーロッパに存在そんざいする25まんにんちかくのしいたげられたユダヤじんたいし、国連こくれんなんらかの手立てだてを緊急きんきゅう手配てはいする。
7. 民主みんしゅ主義しゅぎ原則げんそく社会しゃかいてき少数しょうすう保護ほご
A. 言論げんろん信教しんきょうなどの自由じゆう基本きほんてき人権じんけん尊重そんちょう
B. 社会しゃかいてき少数しょうすう財産ざいさん権利けんりについて保護ほごされなければならない。
8. 平和へいわてき関係かんけい
A. 国際こくさいてき紛争ふんそう平和へいわてき手段しゅだんによって解決かいけつされなければならない。
B. 領土りょうど保全ほぜん政治せいじてき独立どくりつなどについて、武力ぶりょくによる威嚇いかくまたは行使こうし、および国連こくれん目的もくてきはんした行動こうどう自粛じしゅくすること。
9. 経済けいざいてき結合けつごう
パレスチナ問題もんだい解決かいけつするまでは、そこに人々ひとびと生活せいかつ発展はってんのためにパレスチナは経済けいざいてき一丸いちがんとならなければならない。
10. 治外法権ちがいほうけん
かつてパレスチナで特権とっけん享受きょうじゅしてきたくにはそれを放棄ほうきすること。
11. 暴力ぼうりょく行為こういたいする表明ひょうめい
パレスチナでおこなわれている暴力ぼうりょく行為こういすみやかにくすよう国連こくれん最大限さいだいげん努力どりょくおこなうこと。
  • セクションB
12. 一般いっぱんてきなユダヤじん問題もんだい
パレスチナ問題もんだい解決かいけつがユダヤじん問題もんだい全般ぜんぱん解決かいけつすることにはつながらない。

提案ていあん(II)

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提案ていあん(II)は3こうかれている。この提案ていあんは7めい委員いいん支持しじしている。

Iこう 経済けいざい同盟どうめいともな分割ぶんかつ
パレスチナをアラブじん国家こっか、ユダヤじん国家こっか、エルサレムの3つに分割ぶんかつする。
パレスチナにおいてアラブじん、ユダヤじん双方そうほう主張しゅちょう相容あいいれないものであり、現実げんじつてき手段しゅだんとして、また双方そうほう民族みんぞく主義しゅぎのためにも分割ぶんかつ提案ていあんする。
分割ぶんかつ提案ていあん現実げんじつてき提案ていあんであり、連邦れんぽう国家こっかせいはアラブじんもしくはユダヤじんのどちらかが支配しはいするような状況じょうきょうでないかぎ機能きのうしないとおもわれる。
また、政治せいじてき経済けいざいてき自立じりつ責任せきにんうながてんにおいても連邦れんぽう国家こっかせいすぐれる。
分割ぶんかつについてアラブじんつよ反対はんたいしていることは認識にんしきしているが、移民いみん制限せいげんされてきたユダヤじん心情しんじょうおよび窮状きゅうじょう考慮こうりょするものである。アラブじん不安ふあんのぞくためにもユダヤじん国家こっか拡張かくちょうたいしては国連こくれん制裁せいさいともなうものとする。
領地りょうちてき資源しげんてき限定げんていされているパレスチナにおいては、創出そうしゅつされる2国家こっか経済けいざいてき共同きょうどうたいとなることが必須ひっすである。政治せいじてき統一とういつされるのは不可能ふかのうであっても経済けいざいてきには可能かのうであるとかんがえられる。
IIこう 国境こっきょうせん
アラブじん国家こっかは、西にしガリラヤ、エルサレムのぞくユダヤ・サマリアの丘陵きゅうりょう地帯ちたいおよび、アシュドッドからエジプト国境こっきょういた海岸かいがん沿いの平野へいやふくまれる。
ユダヤじん国家こっかは、ひがしガリラヤ、エスドラエロン平原ひらはら海岸かいがん沿いの平野へいや大半たいはんおよびネゲブ地方ちほうとする。
IIIこう エルサレム
エルサレム国連こくれんほどこせ政権せいけんしゃとした信託しんたく統治とうちとする。このキリスト教きりすときょう、ユダヤきょうイスラム教いすらむきょう聖地せいちであり、宗教しゅうきょうてき平和へいわおよび海外かいがいからの巡礼じゅんれいしゃへの利便りべん不都合ふつごうがあってはならない。

提案ていあん(III)

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提案ていあん(III)は提案ていあん(II)に相対そうたいするもので、3めい委員いいんがこれを支持しじしている。

連邦れんぽうせい国家こっか
アラブじん、ユダヤじんともにパレスチナに歴史れきしてき文化ぶんかてき背景はいけいち、このてんからパレスチナにたい両者りょうしゃ平等びょうどう権利けんりつ。
パレスチナ問題もんだい解決かいけつはユダヤじん問題もんだい解決かいけつすることにはならず、ユダヤじん民族みんぞく主義しゅぎ国家こっか樹立じゅりつという要求ようきゅうたすよりも、ユダヤじん幸福こうふく生活せいかつおくることがなによりも重要じゅうようである。
連邦れんぽう国家こっかせいるならば分割ぶんかつあんのように経済けいざいをコントロールする必要ひつようはなく、社会しゃかいてき少数しょうすうしいたげることにもならず、国際こくさい連合れんごう憲章けんしょう基本きほん原則げんそく合致がっちする。
アラブじんとユダヤじん潜在せんざいてき対立たいりつ回避かいひするために1つの国家こっか忠誠ちゅうせいしん愛国心あいこくしんをともにすることが平和へいわ実現じつげんへのみちである。
分割ぶんかつあんはんアラブ主義しゅぎとみなされるが、連邦れんぽうあんはんユダヤ主義しゅぎではない。
アラブじんとユダヤじんあいだ協力きょうりょく関係かんけい現在げんざいのパレスチナでもられ、おたがいの協力きょうりょく体制たいせい実現じつげん可能かのうであると推測すいそくする。

分割ぶんかつ提案ていあん

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土地とち所有しょゆうじょうきょう
人口じんこう分布ぶんぷ
分割ぶんかつあん作成さくせいするじょう国連こくれんだいしょう委員いいんかいは2つの地図ちず考慮こうりょした。

分割ぶんかつ提案ていあんでは、アラブじん国家こっか西にしガリラヤ地域ちいき、ユダヤ・サマリアの丘陵きゅうりょう地帯ちたいアッコまち(アッコンとしてもられる歴史れきしのあるみなとまち分割ぶんかつあんではアラブじん国家こっか貿易ぼうえき拠点きょてんになることを想定そうていしている)、現在げんざいガザ地区ちくふくむアシュドッドからエジプト国境こっきょう沿いの地域ちいきふくまれていた。ユダヤじん国家こっかハイファからレホヴォトひろがる地域ちいきひがしガリラヤとネゲヴ地方ちほうふく[19]。エルサレム特別とくべつコーパス・セパラタム英語えいごばん)はエルサレムベツレヘム周辺しゅうへん地域ちいきふくまれる。

アラブじん国家こっか委任いにん統治とうちりょうやく43%であり[20]、ユダヤじん国家こっか委任いにん統治とうちりょうやく56%とわずかにおおきい。これはユダヤじん将来しょうらい移民いみん対応たいおうするためであった[20]。ユダヤじん国家こっかにはシャロン平原ひらはらイズレエル渓谷けいこく、ヨルダン渓谷けいこくといった肥沃ひよく土地とちふくまれるが、だい部分ぶぶん砂漠さばくひろがるネゲヴである[19]。またユダヤじん国家こっかには紅海こうかいへのアクセスが可能かのうエイラートあたえられた。

報告ほうこくしょには1946ねんまつまでの公式こうしき統計とうけいもと推定すいていされた人口じんこう統計とうけいふくまれている。分割ぶんかつあんではユダヤじん国家こっか可能かのうかぎりユダヤじん収容しゅうようするようになっている。したがってアラブじん国家こっかにはユダヤじん極少きょくしょうすうしか存在そんざいしない。ぎゃくにユダヤじん国家こっかにはアラブじん多数たすうふくまれている。ユダヤじん国家こっかむユダヤじんとアラブじんはユダヤじん国家こっか市民しみんとなり、アラブじん国家こっかむユダヤじんとアラブじんはアラブじん国家こっか市民しみんとなる予定よていだった。

アラブじんとその ユダヤじん
帰属きぞく 人口じんこう 国内こくない比率ひりつ 人口じんこう 国内こくない比率ひりつ 人口じんこう合計ごうけい
アラブ国家こっか 725,000 99% 10,000 1% 735,000
ユダヤ国家こっか 407,000 45% 498,000 55% 905,000
信託しんたく統治とうち 105,000 51% 100,000 49% 205,000
合計ごうけい 1,237,000 67% 608,000 33% 1,845,000
1947ねん9がつ3にち提出ていしゅつされたUNSCOPの報告ほうこくしょだい4しょう A COMMENTARY ON PARTITION より

臨時りんじ委員いいんかい

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1947年の分割案による国境線と1949年の休戦ライン比較図
1947ねん国連こくれん分割ぶんかつあんもとづく国境こっきょうせん:

  ユダヤじん国家こっか
    アラブじん国家こっか
    エルサレム周辺しゅうへん特別とくべつ地域ちいき

1949ねん休戦きゅうせんライン:

    1967ねんまでエジプト・ヨルダンが支配しはいした地域ちいき
      イスラエル

1947ねん9がつ23にち国連こくれん総会そうかいはUNSCOPの報告ほうこくしょ検討けんとうするパレスチナ問題もんだい臨時りんじ委員いいんかい(アド・ホック委員いいんかい、Ad Hoc Committee)を設立せつりつした。アラブ高等こうとう委員いいんかい(Arab Higher Committee)とユダヤ機関きかん代表だいひょう招待しょうたいされ委員いいんかい出席しゅっせきした[21]

イギリス政府せいふはアラブじん、ユダヤじん双方そうほうれられないのならどのような合意ごうい意味いみをなさないとかんじていた。そのような場合ばあいには国連こくれん総会そうかい代替だいたいあんすべきだと要求ようきゅうしていた。

アラブ高等こうとう委員いいんかいはUNSCOPの連邦れんぽうあん分割ぶんかつあんともに拒否きょひした。かれらは「歴史れきし調査ちょうさ結果けっかからシオニストの主張しゅちょうには法的ほうてき道徳どうとくてき根拠こんきょ存在そんざいしないと結論けつろんするにいたった。」とべた。パレスチナではアラブじん国家こっかのみが国連こくれん憲章けんしょう合致がっちするだろうと主張しゅちょうした。

ユダヤ機関きかんはUNSCOPの勧告かんこく大半たいはんについては支持しじ表明ひょうめいしたが、提案ていあんされた国境こっきょうせんとく西にしガリラヤと西にしエルサレムについてはユダヤじん国家こっかふくまれるべきであると主張しゅちょうした。そのような問題もんだいてんはあったにせよかれらはこのあんれた。なぜなら移民いみん主権しゅけんてき管理かんりすることはユダヤじん国家こっか再建さいけんすることにつながるだろうとかんがえたのである。

しょう委員いいんかい

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UNSCOPの報告ほうこくしょ精査せいさするためふたつのしょう委員いいんかい設立せつりつされた。だいいちしょう委員いいんかい分割ぶんかつあんいわゆる多数たすうあん検討けんとうし、だいしょう委員いいんかい連邦れんぽう国家こっかあん少数しょうすうあん検討けんとうすることとなった[22][23]

だいしょう委員いいんかいはパレスチナ問題もんだいには法的ほうてき問題もんだいがあるとして国際こくさい司法しほうあづけるべきではないかと提起ていきした。また、国連こくれんやその加盟かめいこくはパレスチナの今後こんごについて提案ていあん勧告かんこくする、もしくは強制きょうせいする権限けんげんはあるのだろうか、とくにパレスチナの住民じゅうみん意向いこうはんする、ないしは同意どうい分割ぶんかつ提案ていあんをすることについていかけた。国連こくれん審議しんぎをすることそのものへの提案ていあんであるため、まずさきだいしょう委員いいんかい提案ていあん臨時りんじ委員いいんかい審議しんぎされた。これらの提案ていあん否決ひけつされ、まただいしょう委員いいんかい提案ていあんした連邦れんぽうあんについても賛成さんせい12反対はんたい29棄権きけん14で否決ひけつされた[24]

つぎ臨時りんじ委員いいんかいだいいちしょう委員いいんかい提案ていあん議決ぎけつにかけた。まず国境こっきょうせん修正しゅうせいあん審議しんぎされ、以前いぜんはユダヤじん国家こっかまれていたアラブじんおおヤッファはアラブじん国家こっかとなった。またアラブじん国家こっか国境こっきょうせんはベエルシェバとエジプト国境こっきょう沿いのネゲブ砂漠さばく一部いちぶふくむように変更へんこうされた[19]。そして、経済けいざい同盟どうめいともな分割ぶんかつあん投票とうひょうにかけられ、賛成さんせい25、反対はんたい13、棄権きけん17、欠席けっせき2で可決かけつされた[24]

この臨時りんじ委員いいんかい結果けっかもと総会そうかい決議けつぎあん提出ていしゅつされた。

投票とうひょう

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パレスチナ問題もんだい重要じゅうよう問題もんだいとしてあつかわれていたので国連こくれん総会そうかい決議けつぎ採択さいたくされるためには、57ヶ国かこく加盟かめいこくのうち棄権きけん欠席けっせきのぞいて3ぶんの2の賛成さんせい必要ひつようであった。11月26にちにシオニストが議事ぎじ妨害ぼうがいおこない、投票とうひょうは3日間にちかん延期えんきされた[25]複数ふくすう情報じょうほうでは、もし投票とうひょう予定よていおこなわれていたら過半数かはんすうたにせよ、3ぶんの2はられなかったとられている[26][27]。ニューヨークのシオニズムの支援しえんしゃたちは支持しじ表明ひょうめいしていない国家こっか工作こうさくおこなうため、この延期えんき利用りようした[25]

投票とうひょうたいする工作こうさく

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賛成さんせい工作こうさく

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分割ぶんかつあん支持しじしゃ賛成さんせい投票とうひょうするよう工作こうさくおこなったとされる。26めいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく上院じょういん議員ぎいん署名しょめいした電報でんぽうは、海外かいがい援助えんじょをちらつかせ、賛否さんぴまよっている国家こっか分割ぶんかつあん賛成さんせいするようおくられた[28]おおくのくに工作こうさくがあったことを報告ほうこくしている。

  • アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく賛成さんせい): トルーマン大統領だいとうりょうのちに「いままでたことがないような国連こくれんをうごめく工作こうさくだけでなく、ホワイトハウスでも工作こうさく活動かつどうおこなわれたというのが事実じじつである。わたし自分じぶん工作こうさくおこなったり、ホワイトハウスでプロパガンダおこなったとはおもわない。少数しょうすう極端きょくたんなシオニストの指導しどうしゃ、つまり政治せいじてき動機どうき政治せいじてき脅迫きょうはくおこなうものは、わずらわしく迷惑めいわくだった。」とかたった[29]
  • インド(反対はんたい):インドの首相しゅしょうネルー国連こくれんでの投票とうひょうについていかりと侮蔑ぶべつをあらわにしている。シオニストはインドを買収ばいしゅうしようとたくらみ、同時どうじのち国連こくれん総会そうかい議長ぎちょうとなるかれいもうとヴィジャヤ・ラクシュミー・パンディットにたいしインドが賛成さんせいしなければいのちいと毎日まいにち警告けいこくおこなっていたとかれかたっている[30]。インドの国連こくれん代表だいひょうだんであったパンディットは時折ときおりイシューブ支持しじをほのめかした。しかし代表だいひょうだんべつものはインドにはムスリムがおおく、ユダヤがわ行動こうどうっているがそれでもアラブがわ投票とうひょうするだろうとかたった[31]
  • リベリア(賛成さんせい):リベリアの大使たいしはアメリカにたいし、アメリカの代表だいひょうだん複数ふくすうくにたい援助えんじょ削減さくげんする脅迫きょうはくをしているとうったえた[32]。リベリアに拠点きょてんつFirestone Natural Rubber Companyの社長しゃちょうであるアメリカじんのHarvey S. Firestone, Jr.もまたリベリア政府せいふ圧力あつりょくをかけた[26][28]
  • フィリピン(賛成さんせい):フィリピン代表だいひょうだんカルロス・P・ロムロ投票とうひょう以前いぜんに「これはモラルの問題もんだいである。パレスチナの人々ひとびとにとってあきらかに不快ふかい施策しさくおこなってしまったら、国連こくれん責任せきにんをとれるのだろうか。フィリピン政府せいふ国連こくれんがそのような責任せきにんをあえて必要ひつようはないと確信かくしんする。」とべた。アメリカ政府せいふからフィリピン政府せいふへの電話でんわのち、ロムロは召還しょうかんされ、フィリピンは賛成さんせいひょうとうじた[28]
  • ハイチ(賛成さんせい):500まんドルの融資ゆうし約束やくそくしていなければハイチの賛成さんせいひょうはいらなかったかもしれない[33]
  • フランス(賛成さんせい):投票とうひょう直前ちょくぜんバーナード・バルークがフランスの国連こくれん代表だいひょうおとずれた。バルークはながきにわたりユダヤじん支援しえんしてきた民主みんしゅ党員とういんであり、さき大戦たいせんちゅうルーズベルト大統領だいとうりょう経済けいざい顧問こもんのちにトルーマンからあたらしく設立せつりつされた国連こくれん原子力げんしりょく委員いいんかい(UNAEC、1946ねん設立せつりつ、1952ねん解散かいさん)のアメリカ代表だいひょうとして指名しめいされた人物じんぶつであった。かれひそかにユダヤじん武装ぶそう組織そしきイルグン、およびそのフロント組織そしきであるAmerican League for a Free Palestineを支援しえんしていた。バルークはフランスがこの決議けつぎあん支持しじしない場合ばあい、アメリカのたいフランス支援しえん計画けいかくくなるかもしれないといいふくめた。フランス経済けいざいかたむいており、アメリカの支援しえん復興ふっこうにどうしても必要ひつようであった。以前いぜんはアラブけい植民しょくみん配慮はいりょ分割ぶんかつあん支持しじ表明ひょうめいしていなかったが、結局けっきょくフランスは決議けつぎ賛成さんせいひょうとうじた。フランスの近隣きんりんこくのベルギー、ルクセンブルク、オランダもまた賛成さんせいひょうれた[25]

反対はんたい工作こうさく

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ベニー・モリス英語えいごばんによればアラブ高等こうとう委員いいんかいのワシフ・カマルは国連こくれん代表だいひょうだん、おそらくはロシアじん買収ばいしゅうしようとした[34]

アラブ諸国しょこくではユダヤじんたいする警告けいこくあるいは直接的ちょくせつてき脅迫きょうはく多数たすうおこなわれた。

  • イラクの首相しゅしょうヌーリー・アッ=サイードは「我々われわれじゅうにそのくにたたつぶし、ユダヤじんかくれている場所ばしょるだろう。」とかたった。ヌーリーはまた、イギリスの外交がいこうかん国連こくれん解決かいけつさく満足まんぞくのいくものではなかったら、アラブじんくにぜんユダヤじんにはきびしい措置そちられるだろうとかたった[35]
  • 11月24にち国連こくれん総会そうかいのエジプト代表だいひょうだんのムハンマド・フセイン・ヘイカル=パシャは、ユダヤじん国家こっか樹立じゅりつすればイスラムのくにむ100まんにんのユダヤじん危険きけんさらされるだろうとべた[36]
  • 1947ねん11月28にち、ニューヨークのフラッシング・メドウにある総会そうかいホールにおいて、イラク外相がいしょうFadel Jamallはスピーチをした。「この分割ぶんかつだい多数たすう人間にんげん意思いしはんして実施じっしされ、中東ちゅうとう平和へいわ調和ちょうわ危険きけんさらします。パレスチナのアラブじんによる蜂起ほうき予想よそうされるだけでなく、アラブ世界せかい民衆みんしゅうがるでしょう。アラブ世界せかいでのアラブじんとユダヤじん関係かんけいおおきくそこなわれます。ユダヤじんはパレスチナよりもパレスチナ以外いがいのアラブ世界せかいにたくさんいます。イラクだけでも15まんにんのユダヤじん存在そんざいし、かれらはムスリムやキリスト教徒きりすときょうと政治せいじてき経済けいざいてき権利けんりっています。ムスリムとキリスト教徒きりすときょうととユダヤじんなか上手うまくいっています。しかしパレスチナのアラブじんせられた正義せいぎはユダヤじんユダヤじん調和ちょうわみだすことになり、宗教しゅうきょうてき偏見へんけん憎悪ぞうおします[37]。」
  • 1947ねん11月24にちおこなわれた国連こくれんパレスチナ臨時りんじ委員いいんかいだい29かいでエジプト代表だいひょうだんのHeytal Pashaは「国連こくれんがユダヤじん国家こっか創出そうしゅつするためにパレスチナを分割ぶんかつしようというのなら、そこにながれるのをめることができるものは地上ちじょうにはいないだろう。…(中略ちゅうりゃく)…ユダヤじんはアラブ世界せかいのあらゆるところでかならながされることになるだろう。」とべた[38]

アラブ諸国しょこく西側にしがわ列強れっきょうたい分割ぶんかつあん賛同さんどうすれば、石油せきゆ禁輸きんゆとアラブ諸国しょこく東側ひがしがわ編入へんにゅうのどちらか、もしくは両方りょうほうおこなわれるだろうと警告けいこくしている[34]

投票とうひょう結果けっか

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1947ねん11月29にち国連こくれん総会そうかいでの投票とうひょう賛成さんせい33ひょう反対はんたい13ひょう棄権きけん10ひょう欠席けっせき1で分割ぶんかつあん採択さいたくされた。投票とうひょう結果けっか下記かきとおり。

賛成さんせい(33ヶ国かこく、72%)

ラテンアメリカおよびカリブ(13ヶ国かこく
 ウルグアイ  エクアドル  グアテマラ  コスタリカ  ドミニカ共和国どみにかきょうわこく
 ニカラグア  ハイチ  パナマ  パラグアイ
 ブラジル  ベネズエラ  ペルー  ボリビア
西側にしがわ諸国しょこく(12ヶ国かこく
 アイスランド  アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく  オーストラリア  オランダ
 カナダ  スウェーデン  デンマーク  ニュージーランド
 ノルウェー  フランス  ベルギー  ルクセンブルク
東側ひがしがわ諸国しょこく(5ヶ国かこく
 ウクライナSSR  ソビエト連邦れんぽう  チェコスロバキア
 はくロシアSSR  ポーランド
アフリカ(2ヶ国かこく
 リベリア  みなみアフリカ共和きょうわこく
アジア(1ヶ国かこく
 フィリピン

反対はんたい(13ヶ国かこく、28%)

アジア(10ヶ国かこく
 アフガニスタン  イエメン  イラク  イラン  インド
 サウジアラビア  シリア  トルコ  パキスタン  レバノン
西にしヨーロッパ(1ヶ国かこく
 ギリシャ
アフリカ(1ヶ国かこく
 エジプト
ラテンアメリカおよびカリブ(1ヶ国かこく
 キューバ

棄権きけん(10ヶ国かこく

ラテンアメリカおよびカリブ(6ヶ国かこく
 アルゼンチン  エルサルバドル  コロンビア  チリ  ホンジュラス
 メキシコ
アジア(1ヶ国かこく
 中華民国ちゅうかみんこく
アフリカ(1ヶ国かこく
 エチオピア
西側にしがわ諸国しょこく(1ヶ国かこく
 イギリス
東側ひがしがわ諸国しょこく(1ヶ国かこく
 ユーゴスラビア

欠席けっせき(1ヶ国かこく

アジア(1ヶ国かこく
 タイ

賛否さんぴ変更へんこう

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臨時りんじ委員いいんかいでの投票とうひょう総会そうかいでの投票とうひょう変更へんこうがあったものは下記かきとおりである[24][39]

賛成さんせいから(1/25ヶ国かこく
 チリ 棄権きけん
反対はんたいから(1/13ヶ国かこく
 タイ王国おうこく 欠席けっせき
棄権きけんから(8/17ヶ国かこく
 ギリシャ 反対はんたい  オランダ 賛成さんせい  ニュージーランド 賛成さんせい  ハイチ 賛成さんせい
 フランス 賛成さんせい  ベルギー 賛成さんせい  リベリア 賛成さんせい  ルクセンブルク 賛成さんせい
欠席けっせきから(2/2ヶ国かこく
 パラグアイ 賛成さんせい  フィリピン 賛成さんせい

反応はんのう

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ユダヤじん

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パレスチナおよび世界せかい各地かくちのユダヤじんのほとんどは国連こくれん決議けつぎ満足まんぞくしたが、そうではないものもいた。ヨーロッパからの移民いみん問題もんだい領土りょうど限界げんかい存在そんざいすることに不満ふまんいだきながらもユダヤ機関きかん決議けつぎれた[40]。シオニスト指導しどうしゃ主流しゅりゅうは、ユダヤじん国家こっか現代げんだい復活ふっかつさせる「おも責任せきにん」を強調きょうちょうし、この地域ちいきほか住民じゅうみん平和へいわ共存きょうぞんしていくことを約束やくそくした[41][42]。アメリカではユダヤじん国連こくれん対応たいおう歓迎かんげいした。ほとんどがこのあん歓迎かんげいしたが、問題もんだい解決かいけつしていないとかんじるものもいた[43]

アラブ近隣きんりん諸国しょこくとのあいだ平和へいわ協調きょうちょう関係かんけい確立かくりつすることが我々われわれさい優先ゆうせん課題かだいである[44]

修正しゅうせい主義しゅぎシオニストたちは分割ぶんかつあん合法ごうほうてきにユダヤじん領土りょうど放棄ほうきさせるものとして拒絶きょぜつした[43]メナヘム・ベギンのイルグンとレヒ、かれ過激かげき分割ぶんかつあん拒否きょひした。ベギンはアラブじんんでくるので平和へいわおとずれないと警告けいこくした。そして「戦争せんそうにおいては自分じぶんたちのちからかわなければならない。自分じぶんたちの存在そんざい未来みらいをかけた戦争せんそうなのだから[45]。」とべた。また「我々われわれ祖国そこくを2つにけることはゆるされないことである。それをみとめるようなことはありえない[46]。」ともべた。ベギンには確信かくしんがあった。ユダヤじん国家こっか創設そうせつできれば領土りょうど拡張かくちょう可能かのうになるだろう、「おおくのながれることになるが[47]。」

シオニストが妥協だきょうして分割ぶんかつあんれたことによって、パレスチナ全土ぜんどへの野心やしんて、自分じぶんたちのくににおけるパレスチナじん権利けんりみとめたなどとかんがえるのはただの幻想げんそうであるとシムハ・フラパンはべる。かれ研究けんきゅう結果けっか、パレスチナじん国家こっか建国けんこく妨害ぼうがいし、ユダヤじん国家こっか領域りょういきやす作戦さくせん一環いっかんにすぎないとかんがえている[48]

分割ぶんかつあん投票とうひょうから数日すうじつしてイスラエル労働ろうどうそう同盟どうめいヒスタドルート英語えいごばん)の中央ちゅうおう委員いいん指名しめいされたベン=グリオンはその不安ふあん胸中きょうちゅう吐露とろしている。

建国けんこく当時とうじのユダヤじん国家こっかそう人口じんこうはおそらく100まんにんほどで、40%ぐらいはユダヤじんだった。この人口じんこう比率ひりつ安定あんていした国家こっかにはいていなかった。この事実じじつあきらかに重大じゅうだい問題もんだいだった。このままではユダヤじん支配しはいけんにぎつづけるのは確実かくじつとはいえない。…(中略ちゅうりゃく)…たかだか60%の多数たすうでは安定あんていてき力強ちからづよ国家こっかながたもつことはできない[49]。」

アラブじん

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ごくわずかな例外れいがいのぞいて、アラブの指導しどうしゃ政府せいふ分割ぶんかつ決議けつぎあん拒否きょひし、そのどのような分割ぶんかつあん拒否きょひする姿勢しせいせた。

UNSCOPが報告ほうこくしょ提出ていしゅつしてからすう週間しゅうかん、ユダヤけい商店しょうてんシナゴーグ破壊はかいなどのはんユダヤ主義しゅぎ行為こうい非難ひなんする人物じんぶつられた[50]アラブ連盟れんめい事務じむ総長そうちょうアザム・パシャ英語えいごばん言葉ことばがエジプトの新聞しんぶん掲載けいさいされた。「個人こじんてきにはわたし我々われわれ戦争せんそういることをやめてほしいとユダヤじんのぞむ、なぜなら排除はいじょのための戦争せんそうになり、モンゴルだい虐殺ぎゃくさつ十字軍じゅうじぐん戦争せんそうおな危険きけん虐殺ぎゃくさつになってしまうからだ。わたしはパレスチナのそとからやってくる義勇ぎゆうへいはパレスチナの人口じんこうえるとおも[51][52]。1947ねん10がつのこの声明せいめいはもっとおそい1948ねん5がつ15にちだいいち中東ちゅうとう戦争せんそう勃発ぼっぱつした)にされたとよく間違まちがってつたわっている[53]

アラブ高等こうとう委員いいんかいはパレスチナのアラブじん国家こっかむユダヤじんのうち大半たいはんは、イギリス委任いにん統治とうちりょう時代じだいんでいなかったので市民しみんけんあたえるべきではないとべた[35]。アラブ連盟れんめいはパレスチナのアラブじん国家こっかからすべきユダヤじん存在そんざいするとかたった[54]

1948ねん2がつ16にち国連こくれんパレスチナ委員いいんかい安全あんぜん保障ほしょう理事りじかいに「強大きょうだいなアラブの勢力せいりょくがパレスチナの内外ないがいにおいて総会そうかい決議けつぎかるんじて、その結果けっかちからずくでえようとたくらんでいる。」と報告ほうこくした[55]。アラブがわはエルサレムを国際こくさい管理かんりにすることにも反対はんたいした。

シリアの大統領だいとうりょうシュクリー・アル=クーワトリー国民こくみんに「シオニズムを根絶こんぜつしなければならない」とった。アミーン・フサイニーは1948ねん3がつにヤッファの日刊にっかんAl Sarihのインタビュアーに「アラブじん分割ぶんかつ阻止そししただけではわらず、シオニストが全滅ぜんめつするまでたたかつづけるだろう。」とこたえた[56]

アザム・パシャはちからずくで分割ぶんかつ阻止そししようと脅迫きょうはくつづけていた。そのようななか分割ぶんかつ支持しじする声明せいめいはじめてしたのはエジプトの影響えいきょうりょくつよ日刊にっかんAl Mokattamだった。「分割ぶんかつあんはパレスチナ問題もんだいたいする最善さいぜん解決かいけつさくであるとしんじるがゆえに我々われわれ賛意さんい表明ひょうめいする。分割ぶんかつあん拒否きょひすることはさらなる問題もんだいこし、シオニストにたたかいの準備じゅんびをする時間じかんてき猶予ゆうよあたえる。1ねんおくれはアラブじん利益りえきにはならずユダヤじんする。イギリスがってしまったのちではそれは顕著けんちょになるだろう[57]。」

アラブじんはユダヤじん少数しょうすう権利けんり尊重そんちょうすることを約束やくそくした[58]。1948ねん5がつ20日はつか、アザムは報道ほうどういんに「我々われわれはアラブ・パレスチナのためにたたかう。どのような結果けっかになろうとも、アラブじんはアラブ・パレスチナにいるユダヤじんにアラブじんおな市民しみんけんあたえることにこだわるだろう。ユダヤじん優勢ゆうせい地域ちいきなら完全かんぜん自治じちけんることにもなるだろう。」とべた[59]

イギリス政府せいふ

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アーネスト・ベヴィン分割ぶんかつあんると、イギリスはこれをアラブに強制きょうせいすることがないように決定けっていした[60][61]分割ぶんかつあんはイギリス議会ぎかい精力せいりょくてき議論ぎろんされた。

1947ねん12月4にちにイギリスの閣僚かくりょう会議かいぎ委任いにん統治とうちわらすことが決定けっていされた[62]。1947ねん12月11にちにイギリス政府せいふは1948ねん5がつ14にち深夜しんや委任いにん統治とうち終了しゅうりょうし、1948ねん8がつ1にちまでに完全かんぜん撤退てったいすることを公表こうひょうした[63]。イギリスの撤退てったい期間きかんちゅうあたらしくできる政権せいけんにスムーズに領土りょうど権限けんげんわたせるようパレスチナの管理かんり国連こくれん移行いこうするようもとめられたが、イギリス政府せいふ拒否きょひした[64][65]

影響えいきょう

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分割ぶんかつあん完全かんぜん実施じっしされなかった。イギリスのパレスチナ委任いにん統治とうち完了かんりょうする1948ねん5がつ14にちにユダヤ人民じんみん評議ひょうぎかいはテルアビブ美術館びじゅつかんあつまりエレッツ・イスラエルにユダヤじん国家こっか樹立じゅりつ宣言せんげん、すなわちイスラエルの独立どくりつ宣言せんげんされた[66]。アラブ諸国しょこくはパレスチナに介入かいにゅうするため侵攻しんこう、1948ねん5がつ15にちだいいち中東ちゅうとう戦争せんそう勃発ぼっぱつした[67]

パレスチナじん国家こっか法的ほうてき根拠こんきょとして

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1988ねんパレスチナ解放かいほう機構きこう決議けつぎ181ごう根拠こんきょパレスチナの独立どくりつ宣言せんげん決議けつぎ失効しっこうしておらずパレスチナの人々ひとびと主権しゅけん国家こっかとして独立どくりつすることには国際こくさいてき正当せいとうせいがあると主張しゅちょうした[68]なにめいもの学者がくしゃがこの見解けんかい支持しじしている[69][70][71][72][73]

2003ねん国連こくれん総会そうかいはイスラエルの分離ぶんりかべ建設けんせつひがしエルサレムをふく領地りょうち占拠せんきょについて、勧告かんこくてき意見いけんもとめる決議けつぎおこない、法的ほうてき問題もんだいてん国際司法裁判所こくさいしほうさいばんしょたずねた。アブドゥル・コロマ判事はんじは「国際こくさいほうした確立かくりつされみとめられた権利けんりとして自己じこ決定けっていけんはパレスチナの領地りょうち人々ひとびとにも適用てきようされると裁判所さいばんしょかんがえる。それゆえパレスチナの人々ひとびとはそのような権利けんり行使こうしによって、もと決議けつぎ181ごう(II)で想定そうていされ確認かくにんされたかれ自身じしん国家こっか資格しかくゆうする。パレスチナ領土りょうどにおけるかべ建設けんせつはそのような権利けんり実現じつげんさまたげ、したがって違法いほうであると裁判所さいばんしょかんがえる。」と意見いけんしめした[74]。これをけてPaul De Waart教授きょうじゅは、1922ねん国際こくさい連盟れんめいのパレスチナ委任いにん統治とうちと1947ねん分割ぶんかつあん合法ごうほうであることを裁判所さいばんしょはきっぱりとしめしたとかたった[75]

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参考さんこう文献ぶんけん

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