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大瀧おおたき道助みちすけ

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大瀧おおたきおおたき 道助みちすけみちすけ
生誕せいたん 1868ねん
日本の旗 日本にっぽん山形やまがたけん米沢よねざわ
死没しぼつ 1911ねん11月24にち
日本の旗 日本にっぽん三重みえけん志摩半島しまはんとう的矢湾まとやわん
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
ぐんれき 1892ねん - 1911ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 海軍かいぐん中佐ちゅうさ
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大瀧おおたき 道助みちすけ(おおたき みちすけ、1868ねん明治めいじ元年がんねん[1] - 1911ねん明治めいじ44ねん11月24にち)は、日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじんだいじゅう水雷すいらいていたい司令しれいとしてだいさんかい旅順りょじゅんこう閉塞へいそく作戦さくせん日本海にほんかい海戦かいせんたたかった。だいじゅう二駆逐隊司令在任中座礁事故で殉職じゅんしょく最終さいしゅう階級かいきゅう海軍かいぐん中佐ちゅうさせいろくくんよんとうこうよんきゅう

生涯しょうがい

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大瀧おおたき分隊ぶんたいとしてにちしん戦争せんそうたたかった「きむつよし

米沢よねざわはん大瀧おおたき義重よししげとしてまれる。海兵かいへい17期生きせいとなる。1890ねん明治めいじ23ねん)7がつに88めいちゅう39ばん[2]成績せいせき海軍兵学校かいぐんへいがっこう卒業そつぎょうした。「きむつよし」または「比叡ひえい」にはいじょうとなって実務じつむ訓練くんれんけ、少尉しょうい任官にんかん1892ねん(明治めいじ25ねん)5がつである。にちしん戦争せんそうでは「きむつよし分隊ぶんたい[3]としてまもるうみ攻略こうりゃくせん参戦さんせんした。

にち戦争せんそう

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松島まつしま分隊ぶんたいちょうて、1903ねん明治めいじ36ねん)9がつだいさん艦隊かんたい所属しょぞくするだいじゅう水雷すいらいていたい司令しれい少佐しょうさ)にされ、麾下きか4せき水雷すいらいていひきいてにち戦争せんそう参戦さんせんする。部下ぶかていちょう戦中せんちゅう異動いどうがあったが、大瀧おおたき開戦かいせんから日本海にほんかい海戦かいせんまで一貫いっかんして指揮しきる。ていちょう一人ひとり水野みずの広徳ひろのりであった。

だいさんかい旅順りょじゅんこう閉塞へいそく作戦さくせん

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だいじゅう水雷すいらいていたい救出きゅうしゅつされた「さんかわまる乗員じょういん指揮しきかん匝瑳そうさたね大尉たいい

1904ねん明治めいじ37ねん)5がつ実施じっしされた旅順りょじゅんこう閉塞へいそく作戦さくせん効果こうか不十分ふじゅうぶん判断はんだんした日本にっぽん海軍かいぐんは、さん度目どめ閉塞へいそく作戦さくせん実施じっしする。閉塞へいそくせん部隊ぶたいはやし三子みつこゆう中佐ちゅうさそう指揮しきかんとして閉塞へいそくせん12せき構成こうせいされたが、だいいち戦隊せんたいだいさん戦隊せんたいよん駆逐くちくたいよん水雷すいらいていたいなどが護衛ごえい収容しゅうよう役割やくわりになっていた[4]大瀧おおたきだいじゅう水雷すいらいていたい閉塞へいそくせんだいいちだい小隊しょうたい右側みぎがわ護衛ごえいした。途中とちゅうから荒天こうてんとなり、閉塞へいそくたい水雷すいらいてい行動こうどうさまたげられたが予定よてい哨区に到達とうたつした。だいじゅう水雷すいらいていたいロシアぐん探海燈たんかいとう砲撃ほうげき実施じっしして偵察ていさつたい行動こうどう援護えんご[5]いで旅順りょじゅんこうから脱出だっしゅつした閉塞へいそく隊員たいいん収容しゅうようおこなった。ロシアぐん迎撃げいげき閉塞へいそくせんのみならずだいじゅう水雷すいらいていたいにもおよび、損傷そんしょうこうむったていもあったが、水野みずの指揮しきするだい41ごう水雷すいらいていは「さんかわまる乗員じょういん18めい救出きゅうしゅつ成功せいこうした[5]だいじゅう水雷すいらいていたいはさらに閉塞へいそく隊員たいいん捜索そうさくつづけたが、発見はっけんすることはできなかった。大瀧おおたきはその旅順りょじゅんこう封鎖ふうさ黄海こうかい海戦かいせんへの参戦さんせんて、日本海にほんかい海戦かいせんむかえる。

日本海にほんかい海戦かいせん

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だいじゅう水雷すいらいていたい構成こうせいしただいさんきゅうごうがた水雷すいらいてい写真しゃしんは1902ねん撮影さつえい

海戦かいせんだいじゅう水雷すいらいていたいは、水雷すいらいていだい43ごうていちょう大瀧おおたき兼務けんむ)、だい40ごうていちょう中原なかはら弥平やへい)、41ごうていちょう水野みずの広徳ひろのり)、だい39ごうてい長大ちょうだいきむみのる)で構成こうせいされた。当時とうじ日本にっぽん海軍かいぐん水雷すいらいていは89tから152tまでのよん種類しゅるいであったが、1905ねん明治めいじ38ねん5月27にち風浪ふうろうはげしく、しょう艦艇かんていである水雷すいらいてい行動こうどうには困難こんなんがあった[6]対馬つしま尾崎おざきわん出撃しゅつげきし、だいろく戦隊せんたい東郷とうごう正路まさじ司令しれいかん)にぞくこうした大瀧おおたきだいじゅう水雷すいらいていたいは、夜間やかんバルチック艦隊かんたい襲撃しゅうげきした。午後ごご930ふん大瀧おおたきみぎ後方こうほうから襲撃しゅうげきしたれいし、かくてい突撃とつげきうつる。大瀧おおたき乗組のりくんだだい43ごう水雷すいらいてい進撃しんげきちゅうおなじく突撃とつげきしていた味方みかた水雷すいらいてい発見はっけん衝突しょうとつけようとした。しかし強風きょうふうのためみさおてい自由じゆうかず接触せっしょくにいたり損傷そんしょうした[7]。このため魚雷ぎょらい発射はっしゃすることはできず、かじ故障こしょうかかえながら竹敷たけしき要港ようこう角田つのだ秀松ひでまつ司令しれいかん)に帰還きかんした。麾下きかの3てい連繋れんけい水雷すいらい投下とうかや、魚雷ぎょらい発射はっしゃ実施じっししている[8][7]が、3ていちょうはいずれも強風きょうふうによるてい動揺どうよう照準しょうじゅんさまたげたと報告ほうこくしている[7]

この戦闘せんとう駆逐くちくかん17せき水雷すいらいてい24せき[* 1]実施じっしされ、混乱こんらんした状況じょうきょうであったが、魚雷ぎょらい54ほん発射はっしゃし、また連繋れんけい機雷きらい投下とうか実施じっししている[9]日本にっぽんがわ被害ひがい水雷すいらいてい3せき喪失そうしつである。迎撃げいげきしたロシアがわ損害そんがい戦艦せんかんナヴァリン沈没ちんぼつ、「シソイ・ヴェリキィー」、巡洋艦じゅんようかん2せき大破たいはであった[9]。この戦闘せんとうにつき、連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん東郷とうごう平八郎へいはちろうだいじゅう水雷すいらいていたいたい感状かんじょう授与じゅよした[10][* 2]

戦後せんご

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大瀧おおたき戦後せんご行賞こうしょうこうよんきゅうじょされた。その大瀧おおたき履歴りれきは「鹿島かしま水雷すいらいちょう、「豊橋とよはし」、「宗谷そうや」、「橋立はしだてかく副長ふくちょう教育きょういく本部ほんぶ副官ふっかんけん部員ぶいんである[11]いで1911ねん明治めいじ44ねん)5がつだいじゅう駆逐くちくたい司令しれいされる。どう駆逐くちくたい佐世保させぼ水雷すいらいだん所属しょぞくしていた。同年どうねん11がつ演習えんしゅう終了しゅうりょう横須賀よこすかから母港ぼこう佐世保させぼかったが、あらし遭遇そうぐうする[12]大瀧おおたき座乗ざじょうした駆逐くちくかん春雨はるさめ」は的矢湾まとやわんでの避泊をはか座礁ざしょうした。付近ふきん一帯いったい住民じゅうみん救助きゅうじょ活動かつどうによって20めい救出きゅうしゅつされたが、64めい乗員じょういんちゅう大瀧おおたき児玉こだまけん三郎さぶろう大尉たいいら44めい殉職じゅんしょくした。大瀧おおたきぼつ年齢ねんれいは44さいであった[13]墓所はかしょ米沢よねざわひがしげんてら

親族しんぞく

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大瀧おおたき米沢よねざわ出身しゅっしん海軍かいぐん士官しかんで、おなじく米沢よねざわ出身しゅっしん海軍かいぐん軍人ぐんじん大瀧おおたき新蔵しんくら中佐ちゅうさ海兵かいへい24)がいるが、関係かんけいはその有無うむふく不明ふめいである。

栄典えいてん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく
  1. ^ 実際じっさい襲撃しゅうげきいたったのは駆逐くちくかん15せき水雷すいらいてい17せきである。
  2. ^ 日本海にほんかい海戦かいせん東郷とうごう授与じゅよした感状かんじょうは10まいである。
出典しゅってん
  1. ^ 国民こくみん過去かこちょう 明治めいじまき』(尚古しょうこぼう、1935ねん)p.1236
  2. ^ 明治めいじひゃくねん叢書そうしょ海軍兵学校かいぐんへいがっこう沿革えんかく』「明治めいじ23ねん7がつ17にち
  3. ^ 西海にしうみ艦隊かんたい附属ふぞく艦船かんせん乗組のりくみいん”. アジア歴史れきし資料しりょうセンターRef.C06061767500、明治めいじ27ねん海軍かいぐんかんする書類しょるい」(防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)」. 2013ねん1がつ20日はつか閲覧えつらん
  4. ^ だい2へん 旅順りょじゅんこう及ひ仁川にがわ敵艦てきかんたいたいする作戦さくせん/だい10しょう 旅順りょじゅんこうだい3かい閉塞へいそく画像がぞう22まい
  5. ^ a b だい2へん 旅順りょじゅんこう及ひ仁川にがわ敵艦てきかんたいたいする作戦さくせん/だい10しょう 旅順りょじゅんこうだい3かい閉塞へいそく画像がぞう38まい
  6. ^ にち戦争せんそう 7』59-60ぺーじ
  7. ^ a b c だい87ごう だい10ていたい司令しれい海軍かいぐん少佐しょうさ大瀧おおたき道助みちすけ提出ていしゅつせるだい10ていたい日本海にほんかい海戦かいせん戦闘せんとう報告ほうこく画像がぞう2まい
  8. ^ にち戦争せんそう 7』79-80ぺーじ
  9. ^ a b にち戦争せんそう 7』85-88ぺーじ
  10. ^ 木村きむら久邇くにのり帝国ていこく軍人ぐんじん反戦はんせん桜井さくらい忠温ただよし水野みずの広徳ひろのり朝日あさひ文庫ぶんこ、1993ねんISBN 4-02-260782-3 41-42ぺーじ
  11. ^ とお潮騒しおさい』60ぺーじ
  12. ^ だい97かい駆逐くちくかん春雨はるさめ殉難じゅんなん供養くようさい”. 鳥羽とっぱ観光かんこう協会きょうかい. 2013ねん1がつ20日はつか閲覧えつらん
  13. ^ とお潮騒しおさい』182ぺーじ
  14. ^ 官報かんぽうだい4046ごう叙任じょにん及辞れい」1896ねん12月22にち
  15. ^ 官報かんぽうだい4402ごう叙任じょにん及辞れい」1898ねん3がつ9にち

参考さんこう文献ぶんけん

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  1. だい2へん 旅順りょじゅんこう及ひ仁川にがわ敵艦てきかんたいたいする作戦さくせん/だい10しょう 旅順りょじゅんこうだい3かい閉塞へいそく」(アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C05110041500、「極秘ごくひ 明治めいじ37.8ねん海戦かいせん だい1 せん まき4」)
  2. だい87ごう だい10ていたい司令しれい海軍かいぐん少佐しょうさ大瀧おおたき道助みちすけ提出ていしゅつせるだい10ていたい日本海にほんかい海戦かいせん戦闘せんとう報告ほうこく 」(アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C05110093800、「極秘ごくひ 明治めいじ37.8ねん海戦かいせん だい2 せん まき2備考びこう文書ぶんしょだい2」)

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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