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大童おおわらわしんじ太夫たゆう

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大童おおわらわ しんじ太夫たゆう(おおわら しんだゆう、1832ねん12月20にち天保てんぽう3ねん11月29にち) - 1900ねん明治めいじ33ねん10月2にち)は、幕末ばくまつ仙台せんだいはん重臣じゅうしんで、定府じょうふしろ使おおやけ使およ出入でいり勘定かんじょう奉行ぶぎょう)。維新いしん福澤ふくさわ諭吉ゆきち斡旋あっせん官吏かんりてんじた。宮城みやぎけん仙台せんだい文庫ぶんこ創設そうせつしゃ一人ひとり変名へんめい黒川くろかわつよしあんけん(やすかた)。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

だいじゅうさんだい伊達だて伊達だてけいくにつかえた仙台せんだいはん大番おおばん石高こくだかは280せき戊辰戦争ぼしんせんそうでは京都きょうとでも宮廷きゅうてい交渉こうしょうになった実力じつりょくしゃである。

大童おおわらわ幕末ばくまつ仙台せんだいはん藩政はんせい改革かいかく主導しゅどうしゃで、洋式ようしき教練きょうれん足軽あしがるさづけたり、中津なかつはん江戸えど藩邸はんていきょかまえていた幕府ばくふ翻訳ほんやくかた福沢ふくさわ諭吉ゆきちしたしく往来おうらいして外国がいこく事情じじょうまなび、福澤ふくさわ渡航とこうするさいには資金しきんめん援助えんじょするなど非常ひじょう懇意こんいとなり、福沢ふくさわ奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいのために『兵士へいし懐中かいちゅう便覧びんらん』や『かみなりじゅうみさおほう』などを仙台せんだいはん蔵版ぞうはんしてゆく。そのうちに藩士はんし横浜よこはま派遣はけんしてえいふつ学問がくもんまなばせようとおもち、高橋たかはし是清これきよ鈴木すずき六之助ろくのすけ日銀にちぎん出納すいとう局長きょくちょうとう選出せんしゅつして藩士はんしまなばせていった。

がく兵隊へいたいほしまこと太郎たろうらをつうじて、アメリカの南北戦争なんぼくせんそう資料しりょうあつめて戊辰戦争ぼしんせんそうそなえ、仙台せんだいはん主戦しゅせん代表だいひょうかくとなる。戦争せんそうはじまると、江戸えどにあって但木ただき土佐とさたすけて幕府ばくふとの交渉こうしょう戦備せんび確保かくほつとめ、いで青葉あおばじょう軍事ぐんじきょくに、遠田えんたぐん休塚やすみづか領主りょうしゅ松本まつもと要人かなめ登米とよねぐん西郡にしごおり領主りょうしゅ大内おおうち筑後ちくご柴田しばたぐん村田むらた領主りょうしゅ片平かたひらだいすすむ但木ただき奉行ぶぎょう中心ちゅうしんに、玉虫たまむしひだり太夫たゆうほしまこと太郎たろう松倉まつくらまこと会津あいづはん参謀さんぼう小野おのけんすすむ永岡ながおか敬次郎けいじろうみなみはちすすむ中沢なかざわ帯刀たてわきらとともめ、戦略せんりゃくった。

敗戦はいせん官軍かんぐんから奉行ぶぎょう和田わだ織部おりべぐん奉行ぶぎょう若生わこうぶんじゅうろうの3めいとも戦争せんそう首謀しゅぼうしゃされて責任せきにん追及ついきゅうされ、明治めいじ3ねん10がつ17にち赦免しゃめん薩長さっちょう政府せいふから斬首ざんしゅによる処刑しょけいまっていたが、福沢ふくさわ諭吉ゆきち政府せいふへの奔走ほんそうによりいのちたすけられた。

維新いしん松倉まつくらまこと熱海あたみさだなんじらととも慶應義塾けいおうぎじゅく出入でいりしながら内務省ないむしょう翻訳ほんやくかんから大蔵省おおくらしょう文部省もんぶしょう警視庁けいしちょうなどに出仕しゅっし宮城みやぎぐんぐんちょうなどを歴任れきにんした。明治めいじ26ねん1893ねん)3がつに、きゅう仙台せんだい藩士はんし松倉まつくらまこと大槻おおつき文彦ふみひこ岩淵いわぶちれん横澤よこざわきよし但木ただき良次りょうじ但木ただき土佐とさおい)・作並さくなみきよしあきらの7めい私立しりつ図書館としょかん仙台せんだい文庫ぶんこ」を創立そうりつした。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]