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太刀たちこうでんみぎもん

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太刀たちこう でんみぎもん
太刀たちこうでんみぎもん絵葉書えはがき
基礎きそ情報じょうほう
四股しこめい 太刀たちこう でんみぎもん
本名ほんみょう 八田はった 政次まさじ
愛称あいしょう 相撲すもう盆栽ぼんさい
生年月日せいねんがっぴ 1897ねん3がつ29にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1952-05-15) 1952ねん5月15にち(55さいぼつ
出身しゅっしん 北海道ほっかいどう空知そらちぐんげん北海道ほっかいどう三笠みかさ
身長しんちょう 170cm
体重たいじゅう 113kg
BMI 39.10
所属しょぞく部屋へや ともつな部屋へや東関ひがしせき部屋へや高砂たかさご部屋へや
得意とくいわざ り、し、ひだりよっつ、り、げ、足癖あしくせ
成績せいせき
現在げんざい番付ばんづけ 引退いんたい
最高さいこう ひがし大関おおぜき
幕内まくうち戦歴せんれき 67しょう26はい6ふん2あずか69きゅう(16場所ばしょ
データ
はつ土俵どひょう 1913ねん1がつ場所ばしょ
入幕にゅうまく 1921ねん1がつ場所ばしょ
引退いんたい 1927ねん10がつ場所ばしょ
備考びこう
金星かなぼし1個いっこだいにしき一郎いちろう
2015ねん9がつ26にち現在げんざい

太刀たちこう でんみぎもん(たちひかり でんえもん、1897ねん3月29にち - 1952ねん5月15にち)は、北海道ほっかいどう三笠みかさ出身しゅっしん高砂たかさご部屋へや入門にゅうもんともつな部屋へや)に所属しょぞくした大相撲おおずもう力士りきし本名ほんみょう八田はった 政次まさじ(はった まさつぐ(まさじ))。最高さいこうひがし大関おおぜき

来歴らいれき

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1897ねん3月29にち北海道ほっかいどう空知そらちぐんげん北海道ほっかいどう三笠みかさ)で鉱夫こうふ二男じなんとしてまれる。1912ねんなつ太刀たちさんみねみぎもんいちぎょう札幌さっぽろ巡業じゅんぎょうさいあにわれて直接ちょくせつ弟子入でしいりを志願しがんしたが、小兵こひょうだったことで見込みこみがいと判断はんだんされ、さとされたうえことわられた。それでも政次まさじ少年しょうねん熱心ねっしん入門にゅうもん志願しがんしたため、太刀たちやまみずから「きびしい修行しゅぎょうえられるか」とい、その様子ようすはたていた代議士だいぎし口添くちぞえしてくれたため、ともつな部屋へやへの入門にゅうもん許可きょかされた[1]四股しこめいするど眼光がんこうをしていたことから「太刀たちこうでんみぎもん」と命名めいめいされた。

1913ねん1がつ場所ばしょはつ土俵どひょう[1]み、短躯たんく肥満ひまんながら非常ひじょう柔軟じゅうなんで、相手あいてはなれてんでも左右さゆうどちらかでもげをし、足癖あしくせ上手うまかった。稽古けいこ熱心ねっしんであり[1]気合きあいじゅうふんするど立合たちあ武器ぶき順調じゅんちょう番付ばんづけげ、1921ねん1がつ場所ばしょしん入幕にゅうまく[1]1922ねん5月場所ばしょ千秋楽せんしゅうらくでは太刀たちやま最後さいご取組とりくみ黒星くろぼしけただいにしき一郎いちろう勝利しょうりし、太刀たちやまなみだながってよろこんだ[1]。なお、この場所ばしょ三河そうごとう事件じけん勃発ぼっぱつしたことでだいにしきはこの一番いちばん最後さいご土俵どひょうになり、「太刀たちやま最後さいご対戦たいせん相手あいてとなっただいにしきは、太刀たちやま弟子でしである太刀たちこうとの対戦たいせん最後さいごとなる」という因縁いんねんめいた対決たいけつとなった。当初とうしょくらだけだてみぎもん太刀たちうみなみみぎもんほう出世しゅっせするとおもわれていたが、その逆境ぎゃっきょう無類むるい稽古けいこねつしんおぎない、二人ふたり平幕ひらまくわったのにたいし、1923ねん1がつ場所ばしょでは7しょう1はい1ふん1きゅう好成績こうせいせきのこして同年どうねん5がつ場所ばしょ大関おおぜき昇進しょうしんした[1]。これによって大相撲おおずもう史上しじょうはつとなる道産子どさんこ大関おおぜきとなった。

大関おおぜき昇進しょうしん優勝ゆうしょうこそないものの、出場しゅつじょうした場所ばしょではすべすなど安定あんていした成績せいせきつづいていたが、1924ねん1がつ場所ばしょ東京とうきょう相撲すもう東京とうきょうはなれて名古屋なごや仮設かせつ国技こくぎかん興業こうぎょうおこなわれたが、太刀たちこう休場きゅうじょう(ボイコットではない)[2]。さらに1926ねん5月場所ばしょ出羽でわだけ文治郎ぶんじろうせんさばけてみぎあし負傷ふしょう、その怪我けが原因げんいん満足まんぞくいく結果けっかのこせず、負傷ふしょうの4場所ばしょわずか3日間にちかんしか出場しゅつじょうできず(2しょう1はい)、1927ねん10がつ場所ばしょ西にし関脇せきわけ最後さいご現役げんえき引退いんたいした[1]

現役げんえき時代じだいやわらかなからだからのげや足技あしわざくわえ、ひだりおっつけから名人めいじんげいとまでひょうされた[1]

引退いんたい年寄としより鳴戸なると襲名しゅうめいし、新聞しんぶん相撲すもうひょういたほか、「大正たいしょう時代じだい大相撲おおずもう」をあらわした。1937ねんには師匠ししょうである太刀たちさんみねみぎもん還暦かんれき記念きねんし、上野うえの精養軒せいようけん史上しじょうはつとなる還暦かんれき土俵入どひょうい太刀持たちもつとめた。途中とちゅう前田山まえだやま高砂たかさご継承けいしょうしたことに反発はんぱつ立浪たつなみ部屋へや移籍いせきし、立浪たつなみ部屋へやきの親方おやかたとなった[3]しかし、相撲すもう協会きょうかいでの冷遇れいぐうつづいたことで憤慨ふんがいして1951ねん廃業はいぎょうして郷土きょうどもどり、小樽おたる在職ざいしょくちゅうはじめていた飲食いんしょくてん本格ほんかく経営けいえいした。よく1952ねん5月15にち死去しきょ、55さいぼつ。「太刀たちこう」の四股しこめいは、その太刀たちこう昭洋あきひろ大刀たちこうでんみぎもんがれた。

成績せいせき

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  • 通算つうさん成績せいせき:114しょう53はい71きゅう8ふん6あずか
  • 幕内まくうち在位ざいい:16場所ばしょ
  • 幕内まくうち成績せいせき:67しょう26はい6ふん2あずか69きゅう 勝率しょうりつ.720
  • 優勝ゆうしょう旗手きしゅ:1かい(1923ねん1がつ場所ばしょ
  • 金星かなぼし1個いっこだいにしき一郎いちろう

場所ばしょべつ成績せいせき

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太刀たちこうでんみぎもん
春場所はるばしょ さんがつ場所ばしょ 夏場所なつばしょ 秋場所あきばしょ
1913ねん
大正たいしょう2ねん
ぜん相撲すもう x 西にし序ノ口じょのくち40まい
3–1
1あずか
 
x
1914ねん
大正たいしょう3ねん
ひがしじょだん63まい
2–3 
x ひがしじょだん54まい
2–3 
x
1915ねん
大正たいしょう4ねん
ひがしじょだん52まい
3–2 
x 西にしじょだん15まい
3–2 
x
1916ねん
大正たいしょう5ねん
西にしさんだん63まい
3–1
1ふん
 
x 西にしさんだん32まい
3–1
1あずか
 
x
1917ねん
大正たいしょう6ねん
ひがし幕下まくした56まい
3–1
1あずか
 
x 西にし幕下まくした27まい
2–1 
x
1918ねん
大正たいしょう7ねん
西にし幕下まくした18まい
4–1 
x ひがしじゅうりょう11まい
3–1 
x
1919ねん
大正たいしょう8ねん
西にしじゅうりょう筆頭ひっとう
3–3
1あずか
 
x ひがしじゅうりょう5まい
3–2 
x
1920ねん
大正たいしょう9ねん
ひがしじゅうりょう2まい
4–3 
x ひがしじゅうりょう2まい
6–2
1ふん
 
x
1921ねん
大正たいしょう10ねん
ひがし前頭まえがしら18まい
7–2–1 
x 西前にしまえあたま6まい
4–5
1ふん
 
x
1922ねん
大正たいしょう11ねん
西前にしまえあたま8まい
7–2
1ふん
 
x ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
7–2
1ふん

x
1923ねん
大正たいしょう12ねん
西にし関脇せきわけ
7–1–1
1ふん
旗手きしゅ
 
x 東大とうだいせき
7–1–2
(1あずか)
 
x
1924ねん
大正たいしょう13ねん
東大とうだいせき
0–0–10 
x 西にし大関おおぜき
7–1
2ふん1あずか
 
x
1925ねん
大正たいしょう14ねん
西にし大関おおぜき
3–2–6 
x 東大とうだいせき
7–4 
x
1926ねん
大正たいしょう15ねん
東大とうだいせき
7–3–1 
x 西にし大関おおぜき
2–2–7 
x
1927ねん
昭和しょうわ2ねん
ひがしちょういずる大関おおぜき
0–0–11 
ひがしちょういずる大関おおぜき
2–1–8 
ひがし関脇せきわけ
0–0–11 
西にしちょういずる関脇せきわけ
引退いんたい
0–0–11
かくらん数字すうじは、「ち-け-休場きゅうじょう」をしめす。    優勝ゆうしょう 引退いんたい 休場きゅうじょう じゅうりょう 幕下まくした
さんしょう=敢闘かんとうしょうこと=殊勲賞しゅくんしょうわざ=技能ぎのうしょう     その=金星かなぼし
番付ばんづけ階級かいきゅう幕内まくうち - じゅうりょう - 幕下まくした - さんだん - じょだん - 序ノ口じょのくち
幕内まくうち序列じょれつ横綱よこづな - 大関おおぜき - 関脇せきわけ - 小結こむすび - 前頭まえがしら(「#数字すうじ」は各位かくいない序列じょれつ
  • 1921ねん1がつの1きゅう、1923ねん1がつの1きゅうはいずれも相手あいて力士りきし休場きゅうじょうによるもの。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(3) 高砂たかさご部屋へや』p17
  2. ^ 大相撲おおずもうジャーナル』2017ねん8がつごう p40
  3. ^ ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(3) 高砂たかさご部屋へや』p38

関連かんれん項目こうもく

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