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定勝さだかつてら

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定勝さだかつてら
所在地しょざいち 長野ながのけん木曽きそぐん大桑おおがむら大字だいじ須原すばる831-1
位置いち 北緯ほくい3541ふん41.2びょう 東経とうけい13741ふん19.3びょう / 北緯ほくい35.694778 東経とうけい137.688694 / 35.694778; 137.688694座標ざひょう: 北緯ほくい3541ふん41.2びょう 東経とうけい13741ふん19.3びょう / 北緯ほくい35.694778 東経とうけい137.688694 / 35.694778; 137.688694
山号さんごう きよし戒山
宗派しゅうは 臨済宗りんざいしゅう妙心寺みょうしんじ
本尊ほんぞん 釈迦如来しゃかにょらい
創建そうけんねん よしみけい年間ねんかん
開山かいさん はつ
開基かいき 木曾きそちかしゆたか
中興ちゅうこう こうはやしめぐみいわお
正式せいしきめい きよし戒山 定勝さだかつぜんてら
札所ふだしょとう 木曾きそ西国さいこくさんじゅうさん観音かんのん霊場れいじょうじゅういちばん
木曽きそ七福神しちふくじん霊場れいじょう(布袋尊ほていそん)
文化財ぶんかざい 山門さんもん本堂ほんどう庫裏くりくに指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざい
法人ほうじん番号ばんごう 5100005007612
定勝寺の位置(長野県内)
定勝寺
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定勝さだかつてら庫裏くり

定勝さだかつてら(じょうしょうじ)は、長野ながのけん木曽きそぐん大桑おおがむら須原すはらにある臨済宗りんざいしゅう妙心寺みょうしんじ寺院じいん山号さんごうきよし戒山。木曾きそ西国さいこくさんじゅうさん観音かんのん霊場れいじょうじゅういちばん木曽きそ七福神しちふくじん霊場れいじょう(布袋尊ほていそん)。

歴史れきし

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よしみけい年間ねんかん1387ねん – 1388ねん)に木曾きそちかしゆたか先祖せんぞ追善ついぜんために、須原すはらかんこころぼうあらためて、てらとして木曽川きそがわ河畔かはん創建そうけんして開基かいきはつ開山かいさんしたとされる[1]

ぶんやす5ねん(1448ねん)、七堂伽藍しちどうがらんそなえていたとされる最初さいしょ建物たてものは、木曽川きそがわ氾濫はんらんにより流失りゅうしつした。

とおるとく3ねん(1454ねん)4がつ木曾きそけん再建さいけんし、鎌倉かまくら浄智寺じょうちじこうはやしめぐみいわおが、よんせいとなって中興ちゅうこう開山かいさんした。

とおるとく4ねん(1455ねん)3がつ3にちづけ木曾きそけんからこうはやしめぐみいわおへの譲渡じょうとじょう現存げんそんしている。

えいろく4ねん(1561ねん)、だい洪水こうずいによって流失りゅうしつした。

天正てんしょう7ねん(1579ねん)、ろくせいたまりん聖賢せいけんが、上松あげまつよしゆたか上松うえまつかんとなりたまりんいん開山かいさんした。

天正てんしょう18ねん1590ねん)、木曾きそ義昌よしまさは、徳川とくがわ家康いえやす関東かんとううつりふうともない、家康いえやすから下総しもうさこく阿知あち[2]に1まんせきあたえられて木曽きそたにった。その豊臣とよとみ秀吉ひでよし重臣じゅうしんであった石川いしかわ光吉こうきち木曾きそ代官だいかんとなったが、木曾きそゆかりの定勝さだかつてらきょうぜんてら (長野ながのけん木曽きそまち)長福寺ちょうふくじ (長野ながのけん木曽きそまち)・の三箇さんがてらたいし、つぎのように保証ほしょうした。

木曾きそ谷中たになかてら信義しんぎ非分ひぶんざいあいだじきこう あいだとく其意こう とく其意こう 随分ずいぶんれい馳走ちそうこう 恐々きょうきょう謹言きんげん」 はちがつ廿にじゅうよんにち 石川いしかわ兵蔵ひょうぞう 光吉みつよし (はん) 長福寺ちょうふくじ おきぜんてら 定勝さだかつてら みち宿やどちゅう[3]

ぶんろく4ねん(1595ねん)8がつ木曽川きそがわだい洪水こうずいがあり、ふたたりゅうそんした。

慶長けいちょう3ねん1598ねん)、当時とうじ木曾きそ代官だいかんであった石川いしかわ光吉こうきちが、木曾きそよしざい居館きょかんあと現在げんざい伽藍がらん建立こんりゅうした[4]

これについて『よしこころざしりゃく』には、「寺僧じそうつたう、此寺ほん河岸かわぎしにあり、ぶんろくよんねんおつはちがつ洪水こうずいにてながれきょうす、いまは其地を寺中じちゅうとうという。其後石川いしかわ備前びぜんもり光吉みつよしこれにうつす、木曾きそよしざいかんのこ趾なり」としるされている。

江戸えど時代じだい前期ぜんきつくられた『木曾きそそう』によると、定勝さだかつてら義元よしもとかん趾とあり、寺中じちゅうとう現在げんざい村橋むらはし付近ふきん河原かわらのことである。

文化ぶんか11ねん1814ねん)に読本とくほん作者さくしゃ秋里あきさと籬島まがきじま発行はっこうした『木曽きそ名所めいしょ図会ずえ』に堂宇どうう全景ぜんけい描写びょうしゃされている。

明治めいじ13ねん1880ねん明治天皇めいじてんのう中山道なかせんどう巡幸じゅんこうときに、庫裏くり書院しょいんにて昼食ちゅうしょくをとられた。

昭和しょうわ24ねん1949ねん)5がつ28にちに、山門さんもん本堂ほんどう庫裏くりが、桃山ももやま文化ぶんか特色とくしょくがあるとのことで、くに重要じゅうよう美術びじゅつひん認定にんていされた。

昭和しょうわ27ねん1952ねん)3がつ29にちに、山門さんもん本堂ほんどう庫裏くりくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされた。

木曽きそまちきょうぜんてら長福寺ちょうふくじとともに木曽きそ三大寺さんだいじのひとつともわれている。

日本にっぽん最古さいこの「蕎麦切そばき」(一般いっぱんてきわれる「そば」)にかんする文書ぶんしょ発見はっけんされている。

また、定勝さだかつてらには戦国せんごく時代じだい木曽きそたに支配しはいした木曽きそ義昌よしまさ位牌いはい安置あんちされているほか、

昭和しょうわ40ねん(1964ねん)10がつ5にち営林署えいりんしょからはらげをけた木曽きそヒノキを使用しようして京都きょうとななじょうふつしょ橋本はしもとただしえんさくつた「定勝さだかつだるま」だい坐像ざぞう開眼かいがん供養くようおこなった。

平成へいせい5ねん1993ねん)、長野ながのけん岡谷おかや出身しゅっしん小口おぐちはじめによって枯山水かれさんすい庭園ていえんさくにわされた。

境内けいだい

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せんはちひゃくきゅうじゅうつぼ (ただし官有かんゆうだいよんしゅ)

山門さんもんをくぐって境内けいだいはいると、本堂ほんどう庫裏くりならんでいる。山門さんもんくらべると一転いってんして雄大ゆうだい豪壮ごうそうつくりでうつくしいつまかべせた庫裏くり白壁しらかべくろ木組きぐみの調和ちょうわうつくしい。

山門さんもん

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文化財ぶんかざいこう記載きさい

本堂ほんどう

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幅広はばひろ板敷いたじきは、鴬張うぐいすばになっている方丈ほうじょう形式けいしきで、中央ちゅうおう仏間ぶつましつちゅうひだり上間うえま(じょうかん)とばれる書院しょいんみぎ玄関げんかんちかほうしもあいだ(げかん)とんでいる。仏間ぶつまのみ板敷いたじきなかには四本柱しほんばしらてて仏壇ぶつだんもうけ、本尊ほんぞん釈迦如来しゃかにょらいぞう安置あんちしてある。たたみきとなっている。うえあいだには木曽きそヒノキの大木たいぼくった見事みごと達磨だるま大師だいしぞう安置あんちされ、ぜんてら雰囲気ふんいきかもしている。

庫裏くり

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入口いりくちから参拝さんぱいゆるされている。入口いりくちはいったところに土間どまひろいたおおきなってあり、うえはりから自在鉤じざいかぎ[5]がっている。天井てんじょうらずに屋根裏やねうらのままとしてあり、はりみは堂々どうどうたるものである。

庫裏くりわた廊下ろうか玄関げんかん

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東側ひがしがわ居間いまには書院しょいんもうけてある。つぎには立派りっぱちがだながあり、御座ぎょざあいだは、一間いっけんゆかゆかわきには書院しょいんがある。いれがわめんしたしろ障子しょうじ竪桟たてざんひし欄間らんまぜんてららしい風格ふうかくせている。

位牌いはいどう

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大正たいしょう末期まっきから昭和しょうわはじめにかけて、じゅうななせいものがいぶんきよしだいに、祖師そしどう開山かいさんどう開基かいきどうねてまゆみ信徒しんと位牌いはい安置あんちするために本堂ほんどううら接続せつぞくしててられたつまかわら屋根やね建物たてもので、用材ようざい伊奈川いながわ国有こくゆうりんからされたケヤキざい須弥壇しゅみだん同時どうじ建築けんちくで、その周囲しゅうい板敷いたじき鴬張うぐいすばである。

宝蔵ほうぞう

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庫裏くりうらにあった土蔵どぞう(こくぞう宝物ほうもつぞう味噌みそぞう)のなかで、昭和しょうわ5ねん(1930ねん)にこくぞう解体かいたい移転いてんかたち新築しんちくしたものである。

阿弥陀堂あみだどう

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昭和しょうわ7ねん(1932ねん)、位牌いはいどう新築しんちくざいざんざい使用しようして新築しんちくした。

鐘楼しゅろうどう

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昭和しょうわ8ねん(1933ねん)上ノ山うえのやまのヒノキのはらげをけてしゃく角柱かくちゅう頑丈がんじょうざいえた。だい梵鐘ぼんしょう人間にんげん国宝こくほう日本にっぽん芸術げいじゅついん会員かいいん香取かとり正彦まさひこさくである。(平和へいわ余韻よいんだい10ごう

きこりがつとき

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小屋こや

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十王じゅうおうどう

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冠木門かぶきもん

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文化財ぶんかざい

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  • 重要じゅうよう文化財ぶんかざいくに指定してい重文じゅうぶん指定してい年月日ねんがっぴ 昭和しょうわ27ねん1952ねん)3がつ29にち
    • 山門さんもん  万治まんじ4ねん1661ねん建立こんりゅう切妻きりづまづくりひのきがわ葺のよんきゃくもんである。
    • 本堂ほんどう  江戸えど時代じだい前期ぜんき(1615~1660ねん建立こんりゅう桁行けたゆき19.0m、梁間はりま12.2m、いちじゅう入母屋いりもやづくりどう板葺いたぶき
    • 庫裏くりわた廊下ろうか玄関げんかん  本堂ほんどうかってうけたまわおう3ねん1654ねん建立こんりゅう桁行けたゆき21.9m、梁間はりま14.0m、いちじゅう切妻きりづまづくり南面なんめんひさしづけつまいれどう板葺いたぶき

寺宝じほう

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じく

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  • 文殊もんじゅ    道子みちこふで  木曾きそちかしゆたか寄附きふ
  • 十王じゅうおう    りく信忠のぶただひつ  木曾きそちかしゆたか寄附きふ
  • 十六羅漢じゅうろくらかん  ぜんがつ大師だいしひつ 木曾きそけん寄附きふ
  • 観音かんのん    まき谿ふで   木曾きそけん寄附きふ
  • うめ     あげふで  木曾きそ義昌よしまさ寄附きふ
  • 山水さんすい    べいもとあきらふで  木曾きそ義昌よしまさ寄附きふ
  • 龍虎りゅうこ    まきけいひつ   木曾きそ義昌よしまさ寄附きふ
  • じゅうろくぜんしん  ちょう殿どのふで
  • 達磨だるま    狩野かの元信もとのぶふで
  • しゅころも達磨だるま        石川いしかわ光吉こうきち寄附きふ

木像もくぞう

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  • 本尊ほんぞんぼとけ釈迦三尊しゃかさんぞん)  室町むろまち時代じだいさくつたわる。
  • 韋駄てんぞう      鎌倉かまくら時代じだいさくおもわれる。
  • じゅうさん仏像ぶつぞう       文明ぶんめい16ねん(1484ねん)2がつ2にち木曾きそもりあに木曾きそゆたかいち周忌しゅうき法要ほうようのために寄進きしんされたことが厨子ずし背面はいめんしゅ文字もじしるされている。 
  • 十王じゅうおうふつぞう      一体いったい貞享ていきょう2ねん(1685ねん)うしねんさんがつじゅうろくにちめいがある。
  • 達磨だるま大師だいしぞう     脊面のめい元禄げんろく5ねん(1692ねん)と、ななねん菩提ぼだいのためにさとしはしら長谷川はせがわ寄進きしんとある。
  • 開山かいさんぞう       とおる年間ねんかん安置あんちされたとおもわれる。

定勝さだかつてら文書ぶんしょ

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定勝さだかつてら多数たすう中世古なかせこ文書ぶんしょ所蔵しょぞうすることで名高なだかい。ここには、康正こうせい2ねん1456ねん)の木曾きそ家定いえさだ文明ぶんめい15ねん1483ねん)の木曾きそもり延徳えんとく3ねん1491ねん)の木曾きそよしじょう天文てんもん16ねん1547ねん)の木曾きそよしざいえいろく4ねん1561ねん)の木曾きそ義康よしやすの5証文しょうもんと、ぼうとし2がつ木曾きそげんとおるぼうとし7がつ木曾きそ義昌よしまさの2しょおよび、えいろくうし1565ねん)8がつ義昌よしまさ証文しょうもんけい8つううつしがある。

末寺まつじ

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アクセス

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 大桑おおがむら 下巻げかんだいろくへん 現代げんだいあゆみ だいしょう 発展はってんする大桑おおが  教育きょういく文化ぶんか (さん)大桑おおがむら寺院じいん 1 定勝さだかつてら p756~p769 大桑おおがむら 昭和しょうわ63ねん
  • 大桑おおがむら歴史れきし民話みんわ』 だいななしょう 大桑おおがむら神社じんじゃ仏閣ぶっかく だいせつ 仏閣ぶっかく いち定勝さだかつてら p310~p312 志波しば英夫ひでお 1978ねん
  • 図説ずせつ木曽きそ歴史れきし (長野ながのけん歴史れきしシリーズ ; 19)』 定勝さだかつてら p44~p45 生駒いこまかんなな 郷土きょうど出版しゅっぱんしゃ 1982ねん
  • てら神社じんじゃ(信州しんしゅう文化ぶんかシリーズ)』 定勝さだかつてら p104 信濃しなの毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ 1981ねん
  • 探訪たんぼう信州しんしゅう古寺ふるでら だいかん <禅宗ぜんしゅう>』 定勝さだかつてら p210 郷土きょうど出版しゅっぱんしゃ 1996ねん

外部がいぶリンク

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 探訪たんぼう信州しんしゅう古寺ふるでら だいかん <禅宗ぜんしゅう>』 定勝さだかつてら p210では、えいとおる2ねん(1430ねん)の創建そうけんとしている。
  2. ^ 千葉ちばけんあさひ網戸あみど
  3. ^ 定勝さだかつてら文書ぶんしょ
  4. ^ よしこころざしりゃく
  5. ^ 囲炉裏いろりかまどなどのうえげ、それにけたなべがま・やかんとうとの距離きょり自由じゆう調節ちょうせつできるようにしたかぎ