寂 照
じゃくしょう | |
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経歴
[とはいえ、
その
官 暦
[子孫
[逸話
[定基 が三河 守 として任国 に連 れて行 った女 が亡 くなった際 、悲 しみの余 り、しばらく埋葬 せずに、女 の亡骸 を抱 いて臥 していた。数日 後 、定基 が女 の口 を吸 うと、ひどい死 臭 がした。さすが定基 も耐 えられず、女 に対 して疎 ましく思 う気持 ちが起 こり、ようやく女 を埋葬 した。その後 定基 は「この世 はつらく苦 しいものだ」と、発心 を起 こしたという[16]。
出家 した寂 照 が、都 で乞食 をしていたところ、離縁 した妻 に会 い、元 妻 に「『私 を捨 てた報 いで、このように(落 ちぶれた姿 に)なれ』と思 っていたが、この通 り見届 けることができたことよ」と辱 めを受 けたが、逆 に寂 照 は「この徳 により必 ず仏心 を得 られるであろう」と手 をすりあわせて喜 んだという。[16][17]
宋 には、斎 食 を受 けるとき、飛 鉢 の法 により鉢 を飛 ばしてそれを受 ける僧 がいた。寂 照 はこれができないのを大 恥 と思 い、本朝 の神明 ・仏法 に祈 った。すると、寂 照 の鉢 は堂 内 を三 回 めぐって、斎 食 を受 け取 ったため、異国 の人 は悉 く感涙 した[4]。
登場 作品
[今昔 物語 集 - 19巻 2話 、24巻 48話 発心 集 -2巻 三河聖人寂照入唐往生の事 宇治 拾遺 物語 -4巻 三河 入道 、遁世 の事 、13巻 寂 昭 上人 、鉢 を飛 ばす事 石橋 (能 ) -能 の演目 幸田 露伴 『連環 記 』
伝記
[脚注
[- ^ a b c 『
寂 照 』 - コトバンク - ^ a b c d 『
元 亨 釈 書 』 - ^ 『
日本 紀 略 』永 祚元年 3月 3日 - ^ a b c d e f 『
続 本朝 往生 伝 』 - ^
都 から連 れて行 った女性 (『今昔 物語 集 』)、赤坂 宿 の遊女 力 寿 (『源平 盛衰 記 』七 、『三 国 伝記 』十 一 )、の2つの説 がある。『道 済 集 』に、参 川 入道 (寂 照 )が任地 に連 れてきた女性 が亡 くなった後 に、都 の姑 の所 に行 き、再 び任地 に戻 った際 に詠 んだ和歌 が記 されていることから、京 から連 れて行 った女性 の説 が正 しいと考 えられている。(竹鼻 績『今 鏡 (下 )』講談社 学術 文庫 、1984年 ) - ^ 『
続 本朝 往生 伝 』、『元 亨 釈 書 』 - ^ 『
小 記 目録 』 - ^ 『
宝積寺 』 - コトバンク - ^ 『
扶桑 略記 』
『宋 史 』「日本国 伝 」
『小 右記 』長和 2年 9月 24日 :”入唐 僧 念 救 、来 たりて、終日 、唐 の事 を談 説 す。「歴 唐 <宋 と号 す。>、十 一 年 」てへり。” - ^ 『
宋 史 』「日本国 伝 」 - ^ 『
御堂 関白 記 』寛弘 2年 12月25日 、長和 元年 9月 21日 、『権 記 』寛弘 5年 12月5日 、『日本 紀 略 』長 元 5年 12月23日 - ^ 『
御堂 関白 記 』長和 2年 9月 14日 、4年 7月 15日 - ^ 『
御堂 関白 記 』長和 4年 7月 15日 - ^ a b 『
小 右記 』天元 5年 正月 10日 、5月8日 - ^ 『
続 本朝 往生 伝 』、『元 亨 釈 書 』、『日本 紀 略 』、『扶桑 略記 』 - ^ a b 『
今昔 物語 集 』19巻 2話 - ^ 『
今 鏡 』第 9 348段
参考 文献
[摂関 期 古記 録 データベース大江匡房 『続 本朝 往生 伝 』「江 定基 」